第六章 高句麗遠征
一
西方への巡幸で吐谷渾を討った楊広は、すぐに長安の大興城へ帰還した。同じ年のうちにさらに洛陽の東都へと移る。
東都に戻ってからも、翼は張掖で目にしたものに悩まされた。
――どうして気づかなかったのか。
これまでも、宇文述と対面したときに香のかおりを感じることがあった。宇文述は香を焚かない。あれは蕭皇后の好むかおりではなかったか。
蕭皇后はお香のほか星占いを好み、翼星に詳しい。裏で糸を引いていた人物として、しっくりくる。
かつて護冬は、蕭皇后についてこう語った。
――あの物わかりの良さが気持ちわるいの。
楊広を好いているのなら嫉妬をするはずだと訝しんでいた。あのときはぴんとこなかったが、護冬が正しいのかもしれない。
蕭皇后は、楊広がほかの妃と夜を過ごしても嫌な顔をしない。むしろ歓迎するふしがある。もし、蕭皇后が楊広を憎んでいるのだとしたら同衾は苦痛だろうから、その態度も腑に落ちる。
考えれば考えるほど怪しい。
「この世の終わりといった顔をしているな」
翼の前で、楊広は三本の報告書をならべ、目をせわしく動かしていた。
官庁である三省六部九寺と、そのほか重点事案を抱える官署から毎夕にあがる報告書だ。夜のうちにすべて目を通し、翌朝には指示や意見をふして返す。楊広は、おのれの知らぬところで問題が起こることを極端に嫌がる。かといって、すべての部署の官人を呼びだすわけにもいかないので、文書で日々やり取りをしていた。
一度に一本だけでは刻がもったいないと、たいてい複数を同時に読む。さらに、この男は翼と無駄口をたたくのだ。頭の中がどうなっているのか覗いてみたくなる。
「言いたいことがあるなら言え」
うながされて、翼は逡巡する。どう婉曲に伝えても、皇后への侮辱になる。なにより、最愛の妻の裏切りを本人に伝えるのはつらい。
――せめて証拠があれば。
翼は内心、歯噛みする。
張掖から帰還して以来、翼はずっと蕭皇后の近辺に目を光らせてきた。
蕭皇后づきの女官の鈴鈴をはじめ、信頼できる女官にも動向を探ってもらっている。しかし、楊広への叛逆も、不貞の証も見つからない。
蕭皇后が扱っている香も、鈴鈴にたのんで少量を失敬してもらった。街の薬師を訪ねて成分を調べたが、毒性はみとめられなかったのである。
「いえ、その……」
――ひるむな。
翼はおのれを奮いたたせた。
「人払いをお願いできますでしょうか」
楊広は眼差しをあげ、宦官らを退出させる。外まで聞こえるのではと思うほど、心音が高鳴る。楊広の前へすすみ、声を低めて告げた。
「皇后陛下に不義の疑惑がございます」
張掖の回転宮殿の舞台から見えた光景を、こと細かに告げる。
楊広は書面に目を通しながら聴いていたが、
「くだらぬ」
と翼の話を一蹴した。
「ですが、この目で見たのです」
「万が一にも不義はない」
「ただの不貞でしたら私も引き下がりましょう。ですか、国家の存亡にかかわる話でもあるのです」
「ずいぶん大仰だな」
楊広は顔をあげ、迷惑そうに目をすがめた。
翼は今こそ、と切りだした。
「私を大興城へ呼んだ者のことにございます。陛下は宣華夫人が手引きしたとお思いでしょう。じつはそうではないかもしれないのです」
確たる証拠をつかむまでは、楊広の耳には入れまいと思っていた。
しかし高句麗への出兵も控えており、悠長にしていられない。
翼は、宣華夫人が言い残した言葉から楊広の周囲で起こる不審な死まで、順を追って楊広に説明した。それらの事実から浮き上がる疑惑、つまり隋を滅ぼすべく裏で糸をひいている者がいるかもしれないこと、その黒幕が蕭皇后であるかもしれないことを切々と説く。
すべてを打ち明けると、興奮で喉がひりついた。
楊広は、あからさまにげんなりとした顔を見せる。
「小説でもあるまいし。もっとおもしろい作り話をするのだな」
取り合うつもりはないと手で払う仕草をした。
鉛でも背負ったかのような徒労感におそわれる。落胆と同時に、ある真実に気づいた。
――そうか。
完全無欠にみえる楊広にも弱みがある。蕭皇后のこととなると、とたんに鈍くなる。
――これはやっかいだぞ。
言葉を尽くしても、楊広の考えをくつがえすのは困難に思えた。打ちひしがれる翼に、楊広はさらに気が重くなる話柄を向ける。
「それより、護秋から便りは来たのか」
翼は顔をしかめた。
「いいえ」
江都へ移った頃は、護秋から数月おきに文が来た。
加減は落ちつき、琵琶を弾いたり薬師の手伝いをしたりしてのんびりと過ごしているという。
翼からは、季節の風物、洗練された京師の装飾品など心づくしの贈り物や、声変わりを克服したことなど身近な出来事をしたためた文を、小まめに送っている。
しかしこの数月、護秋からの文が途絶えていた。
さらに翼の気を揉ませたのは、護冬の消息だ。護冬からは一度文が来たきり、一切の報せがない。護秋と落ちあえたのかどうかも、両者の報せからは分からなかった。
文はだれに見られるとも限らないので、踏み込んだ話は書けない。自由に動けぬ身がもどかしかった。
さりげなく、楊広に訊ねる。
「護秋姉さんがお側から離れて、寂しくお思いですか」
「不便ではあるな」
そっけない言いぶりが気にさわった。
「陛下は冷たいお方です」
「有能だとほめたつもりだが」
「情を交わした女人にむける言葉ではありません」
楊広は即座に「あほう」と呆れ声を漏らした。
「護秋にまで手をだすような男に見えるか」
「見えます――」
即答したとたん、妙な違和感を覚えた。首筋を触れられるような心もとなさに襲われる。
「その、身に覚えがないと?」
うろたえる翼に、楊広は断言する。
「あれはお前の母親代わりだ。お前が嫌がりそうなことを、あえてしようとは思わん」
――ばかな。
翼は、遠い記憶をさぐる。
あれは楊広が即位する前だった。人のいない使用人の小屋で、護秋の腹の子が流れた。護秋はなんと言っていたか。強要されたわけではない、だれにも話すなと翼に強く口止めをした。
たしかに、相手が楊広だとはひとことも言っていない。
「それでおれを嫌っていたのか」
楊広はあっけにとられた顔をする。
「少しはおれを信用しろ」
言い捨てて、ふたたび書面に目を通し始めた。
――なんてことだ。
翼はこれまでの宮中の日々を思い返す。
出会ったときから、翼は楊広を憎んでいた。
許せなかったのは、護秋に堕胎させた楊広の軽率さだ。
それがまったくの誤解だとしたら、根本から間違えていたことになる。天地がひっくり返るほどの衝撃に、翼はしばし惚ける。
楊広が咳払いをする。翼はわれにかえった。
「来月には江都へ向かう。街で護秋とゆっくりすごせばよい」
「江都へ?」
「高句麗へ出兵する前に、江都の周辺を整えておきたい」
江都を格上げして、北の京師とおなじ扱いとするという。江都を拠点とした交通網を整備し、より栄えた水の都とする目論みらしい。
心に一条の光が射す。江都へ行けば、自分の足で護秋や護冬の消息を探れる。
翼にとって、四年ぶりの故郷だった。
二
「ごめん、急いでいるんだ」
ふりむいて、翼は身体をぶつけた男に謝る。前を向き、また女人とぶつかりそうになる。身体をそらして事なきを得、江都の往来を急いだ。
江都についた翼は、京師の土産を背負い、すぐさま自宅へ向かった。
――ずいぶん、人が多いな。
路上も水上も人の声が行きかい、活気がある。街にも勢いというものがあるらしい。楊広が江都に宮殿を置いたことで、街が成長を続けていた。
自分が育った頃とは大きく変貌した街並みを、翼は駆け抜ける。
――どうか、無事でいてくれ。
護秋や護冬と会えるかもしれないという期待と、ふたりが不慮に見舞われたのではという不安で、胸がめまぐるしい。
しかし、懐かしい我が家で翼を待っていたのは、家の世話を頼んでいた隣人だった。
「もう一年はだれも住んでおりません」
隣人は、はっきりと翼に告げる。
護秋は江都につくなり、しばらくしてべつの場所へ移り住んだという。そんな話は聞いていない。江都で暮らしていると思いこんでいた翼にとって、あまりにも不意だった。
「転居先について、護秋姉さんは話しておりましたか?」
「そこまでは」
「護冬はどうしました? 一度こちらに来ているでしょう?」
「数日、家で過ごしてすぐにいなくなりましたね」
「どちらへ」
隣人はかぶりを振る。すぐに「ああ」と思い出したように続けた。
「ただ、男と一緒でした」
「男?」
「夫でしょう。夫婦のように見えましたが」
「そんなはずは……」
ない、と言い切れず、翼は言葉を濁す。
護冬は今年で二十一だ。子の一人や二人はいてもおかしくない歳になっている。
護冬と見知らぬ男が寄り添う姿が目にちらつき、自分でも分かるほどうろたえた。
「あの不愛想な護冬の話ですよね? 護春や護夏ではなく?」
口にした言葉はかすれ、聞き取るのもやっとだったろう。隣人は自信たっぷりに言う。
「あの護冬とは思えぬほど笑うので、印象に残っているのです。見違えるようでしたよ」
護冬が、人妻になっている。
「そう、でしたか」
気もそぞろに礼を告げ、翼は走り出した。
船乗りや、街の商人や、護冬を知る人たちを次々と訪ねていく。護秋と護冬を見たか。彼女らはどこへ行ったのか。護冬と一緒だったという男はだれなのか。
しかし、だれも知りたいことを教えてくれない。
分かったのは、護秋が江都を離れていたこと、護冬も数日だけ滞在して、すぐに男と江都を去ったということだった。
護冬は陳出身の楽人たちと旅していたから、男というのはその仲間かもしれない。
――それでもいい。
護冬が幸せなのであれば、ほかの男と一緒になっていてもいい。ただ無事でいるという確証だけは、ほしかった。
――どこにいるんだ、護冬。
翼は戸籍や通行証や関係しそうな役所の記録を、執念ぶかく当たっていった。それでも足どりは辿れない。
「こんなことがあるのか……」
護秋と護冬というふたりの女人が、この世からすっかり姿を消したようになっていた。
(つづく)