「お待ちしておりました」
五人の男女が現れる。非番になっている給使の兵たちが、ひそかに支度していたのである。披風の下に小弩を隠し持つ紅一点は沈光の妻だった。
楊広は朝露よけの着物を羽織って、農夫に身をやつす。
「行くぞ。ここからが難関だ」
城門を抜け、北上して仲間と落ちあうことになっている。
すぐさま、一行は馬に乗って駆け出した。
すでに異変が伝わっているのか、街中に不穏な空気が漂っている。城門の近くにつくと、沈光の妻が検問所の兵に腰牌を見せた。
「朝採りの筍をお届けする御用です」
馬に着けた荷には筍が積まれている。朝採った筍はえぐみが少ないので、早朝に他州へ運ぶ。むろん通行証も用意してあった。
兵は品定めするように女を見た。
「朝採りの筍ねえ」
含みのある言い方をする。やはり、城門にも叛徒の手が及んでいたのだ。兵の手が女の肩へ伸びる。
「少し事情を聞かせてもらおうか」
とたんに、兵がうめき声をあげた。沈光の妻が矢を打ち込んだのだ。
一瞬にして場が騒然となる。
「行くぞ!」
楊広が馬腹を蹴って、駆け出す。警固兵の間をすり抜け、門道へ入った。
門道は長く、出口の光は行く手で揺らめいている。薄闇の中で耳障りな金物の音が響いた。門道の中ほどにある門扉が少しずつ横へ動き、光を小さくしている。
楊広が声を上げた。
「急げ!」
しかし目が薄闇に慣れ、はっきりと見えた光景に驚愕する。
味方の給使が閉じかけた門扉を押し戻そうとしていた。門の警固の者たちと揉み合いになり、中には刀で斬りつけられても門扉から離れない者もいる。
「なぜ逃げぬ……」
手綱を引いた楊広が目を見開く。給使がひとりふたりと骸となって倒れていく。門がまさに閉じようとしていた。
「引き返しますか」
給使のひとりが楊広に訊く。
しかし、ある男の姿を見つけ、翼は手綱を握り直した。
「いえ、行きましょう!」
率先して馬で駆ける。
その男はあごまで顔を赤く染めていた。琴のために整えられた指は、獣のような力強さで扉を押しこんでいる。この男には憎まれていたし、殺されかけもした。それでもこの男ならという信頼があった。
門扉が動き、翼たちを導くように光が射しこむ。すれちがいざま、翼は叫んだ。
「柳貴!」
翼をにらんだ柳貴の唇が、ゆっくりと動いて見える。まるでふたりの間だけ、刻が止まったかのようだった。
――任せた。
陛下を死なせたら許さぬ。そう託してくる。翼は強くうなずいてみせた。とたんに、景色が濁流のように過ぎて行く。
一行は塊のようになって、門扉を駆け抜けた。
背後から矢が降り注ぐ。一本、翼の右腕をかすった。しかし矢を払う余裕もなく、ただひたすら疾駆する。しばらく進むと、街道の前方から馬蹄の音が聞こえてきた。
――味方ではない。
近づいてくる敵の隊の顔ぶれに、みな馬を止める。乾いた土埃にまかれながら、楊広が舌打ちをした。
「挟まれたか」
街道の左右は、竹林に覆われている。楊広が声を上げて命じた。
「馬を捨てよ!」
六人ともすぐに下馬し、竹林へ駆けこむ。しかしなぜか、敵が追ってこない。
振り返ると、街道が土煙で覆われていた。なぜか街道で行きあった追撃の隊同士で、刃を交えている。
「なにごとだ」
楊広が目をすがめる。よく見れば、前方から襲撃したのは驍果の将で、背後から追いかけて来たのが味方の給使らしい。
救援の兵を率いるのは、沈光だった。
「翼」
楊広が翼の胸倉をつかむ。低い声で凄んだ。
「なぜ、柳貴のみならず、沈光までおれの救援に当たっている。お前たちには、蓮の花の護衛を言いつけたはずだ」
「申し訳ございません。蕭皇后は宮中に残られました」
「なんだと」
楊広の指が襟に食い込み、きりきりと鳴る。
「蕭皇后ご自身の意志です」
楊広の瞳に、動揺が走った。
「蕭皇后はこうおっしゃいました。楊広が楊広でありさえすれば、国と民にとって最善の政をする。陛下を生かすことが最優先。私も同じ考えです」
「駄目だ。この策は取りやめだ」
楊広は翼の身体を突き放し、街道へ戻ろうとする。
「この分からずや!」
翼は皇帝の腕を引き寄せた。額がぶつかるかと思うほど顔が近い。
「夢を放って逃げるおつもりですか! 甘美な夢を見せておいて、おれたちを置き去りにする気ですか!」
血走った目が翼をにらんでいる。
「今、給使が護衛しているのは命令だからとでも? 逃亡する皇帝に命をかけて、どんな利益があるとお思いですか? 彼らが必死なのは、知ってしまったからだ」
肩で息をし、言い放つ。
「夢を――」
翼の訴えに、楊広は顔を歪ませた。
「蕭皇后は今、ご令孫を隋の三代目の皇帝にし、その後ろ盾になるよう、賊どもと交渉をなさっておられます。隋の血脈を繋ぐため、なにより選択肢を提示することで陛下が逃げるときを稼ごうとされておられる。そこへ陛下がお戻りになれば、さぞ落胆されましょう」
そこまで言っても、楊広は口を固く閉ざしている。
街道から、竹林へ分け入ってくる者が見えた。その右目がやけに黒い。沈光だ。
「沈光、お前。役目を放棄したか!」
振り返った楊広が、頭ごなしに怒鳴りつける。同時に沈光が叫んだ。
「早く行け! 敵はおれが殺す!」
激昂した顔は、赤を通り越してどす黒い。その姿に、翼は目を剥いた。
「沈殿、その腕……」
沈光の右の袖が泳ぎ、鮮血のにおいを放っている。
「あ?」と沈光は今気づいたように、右袖を見た。
「どっかに置いて来ちまったみたいだ」
ぞんざいに言って、血の唾を吐く。駆ける際、やけに左右に揺れていたのは、重心がうまく定まらないからだろう。残った左手で、楊広らを追い払う仕草をした。
「ほら、来なさったぜ」
ひと際大きな喊声が、街道から響いた。皇帝が竹林にいると気づいたらしい。兵が竹林へなだれ込んでくる。
「さあ、迎え撃つぞ!」
給使を鼓舞する巻き舌が、嬉々としている。この状況に興奮しているのだ。翼だけではなく楊広や給使のみなが揃って苦笑した。
「てめえら、腰がひけてんじゃねえぞ!」
そばの竹を二本足で駆けあがり、上空から敵を迎え撃つ。
「陛下、参りましょう!」
もはや楊広本人の意向など聞いていられない。立ち尽くす楊広の腕をとり、翼は駆ける。
茂る竹の合間から、瞬く光が見えてくる。竹林の先にあるのは川だった。
「岸に舟があれば追手を撒けます!」
翼は一足先に、河原へ抜ける。
――舟は。
広い岸を見渡し、肩を落とした。舟はある。ただし、遠い向こう岸だ。泳いで渡るには岸が遠い。これでは敵に追い込まれる。
翼は、みなに叫んだ。
「しばし持ちこたえてください。おれが、舟を取ってきます」
腰刀を抜き、竹の根本へ思いきり叩きつける。カンと鋭い音が腕に響いた。竹を二本切り出し、一本を川へ浮かべる。
流れに揺れる竹は、いかにも頼りない。
「なにをする気だ」
楊広は、気は確かかとでもいうように翼に問う。
「おれは江都の生まれですよ」
翼は笑んで見せ、水面の竹の上へ飛び乗った。もう一本の竹を櫓にして、すいと向こう岸へ漕ぎだす。
「なんと」
給使らが感嘆の声をあげる。
幼いころ、奥地の出身の船乗りから教わった技だ。なんでもその船乗りの出身地では、みな竹一本で川を移動できるらしい。久しぶりで不安はあったが、身体が覚えていた。
竹一本で川を渡る姿は、水面を滑るように見える。敵も腰を抜かしたらしく、
「水蜘蛛のようだ」
「水上を歩いているのか」
と、驚きの声をあげた。
川を渡りきると、すぐに舟へ乗りかえる。舟はちいさく、二人乗るのがやっとである。それでも楊広を乗せるには充分だ。急ぎ、向こう岸へ切りかえす。
川辺は、混戦になっていた。宮殿を囲んでいた軍が皇帝の不在に気づいて、追手を放ったのだろう。
みずから刀をふるって敵を防ぐ、楊広の姿が目に入る。
「陛下、こちらへ!」
岸に近づき、その背へ手を差し伸べる。楊広を舟に引き上げ、すぐさま櫓をこぎだした。
「くるぞっ!」
突如、楊広が船底にあった板を掲げる。
とたんに矢が降り注ぎ、舟のまわりに水しぶきが上がった。
板のおかげで事なきを得たが、楊広の動きが一瞬でも遅れたら危なかった。矢が届かぬ距離まで岸を離れると、楊広は不自然な姿勢で腰を下ろす。
「なんとかしのげたな」
「陛下、お怪我をなさっておられますね?」
強がって左脇を隠しているが、深手を負っているのは明らかだった。
楊広はふんと笑い飛ばす。
「お前こそ、血だらけではないか」
駆けまわったせいか、上腕の矢傷の血が止まらない。
「皮一枚切っただけです。ちゃんと動きますよ。踊ってみせましょうか」
翼が肩をゆすってみせると、楊広がむきになって言う。
「それをいうなら、おれだって」
立ちあがろうとして、舟が揺れる。ふたりは慌ててしゃがんだ。
狭い船の中は血のにおいで満ちている。ほかの仲間と落ち合う地点は言い合わせてあるが、今の楊広の身体ではとてもたどり着けない。
まず手当をする必要がある。
「向こう岸に見える森は、私が幼いころの遊び場です。森の先にある集落へご案内します。この騒動に巻き込まれた住民を装って、集落の民に助けを求めましょう」
岸につくなり、ふたりは舟を乗り捨てた。
「陛下、こちらへ」
森の中へ、楊広を手引きする。
まもなく夏を迎える森は、葉がうっそうと茂っていた。大気はひんやりとして、湿った土と緑のにおいで満ちている。
しかしその光景も、二、三歩歩くと二重にかすんで見えた。流血のせいだ。しかし、失血は楊広のほうがひどいように思えた。実際、楊広の顔は紙のように白くなっている。
――急がねば命にかかわる。
二刻ほど進むと、複数の男たちが農具で森の枝葉を掻きわけている姿が目に入った。山菜を採りに来た村人らしい。
――これはついている。
翼は大きく手を振った。
「もし――」
声を掛けようとしたとたん、後ろから襟を強い力で引き込まれる。気づけば、翼の身体は楊広とともに茂みの中にあった。楊広の手が翼の口を覆っている。
だまれ、とでもいうように、楊広が顔をしかめていた。
「こんなところにいるもんかね」
山菜採りの声が聞えてくる。不穏な空気を察知して、翼も身構えた。
「さあなあ。相手は天子様だ。見つかっても面倒だよな」
山菜採りではない。明らかに楊広を探している。翼は耳を澄ませた。
「気の病だかなんだか知らんが、徘徊する天子とは」
要するに、こういうことらしい。
江都宮を囲んだ驍果の幹部は、皇帝の逃亡に気づいた。皇帝が心の病のため失踪したと偽り、民に動員を掛けている。
つまりここで見つかれば、命はない。心臓が激しく波打つ。
「皇后が、皇帝の行方を話してくれればいいんだがな。口を割らんというじゃないか」
すぐそばで、楊広の喉が鳴る。村人たちはたわいない話をしていたが、やがて去っていった。声が聞こえなくなったのを確かめ、楊広と翼は茂みから抜け出す。
「急ぎましょう」
そう楊広を促したときだった。
鈍い音がして、翼の身体が足首から持っていかれたようになる。悲鳴を上げる間もなく、肩から地面に叩きつけられていた。獣を獲る罠に、足をとられたらしい。
「待て、引き抜くと足を痛める」
楊広が鉄の罠を外そうとする。翼は手で払った。
「私には構わず、逃げてください!」
罠につなげられた周辺の木が揺れている。案の定、先ほどの村人が駆け戻ってきた。
「いたぞ! 人を集めろ!」
翼は楊広を突き飛ばす。
「私に構わず。早く逃げて!」
しかし、楊広は座り込んで、罠の金具を外そうとする。突き上げるような焦りに、大声で叫んでいた。
「早く行けって!」
それでも楊広は動かない。迫りくる相手は五人。
翼は腰の弓を取った。敵をぎりぎりまで引きつけ、矢を放つ。二人の脚に命中。残りは三人。さらに矢をつがえたときだった。金属の音がして、足が急に軽くなる。
「外れたぞ!」
楊広が声をあげ、翼を立ちあがらせる。
「下がってください」
翼は腰の刀を抜く。踏み出した足に違和感を覚えたが、走れないほどではない。せまる敵を気合とともにひとり斬る。手加減する余裕はない。返す刀でもうひとりを屠った。
「足は大事ないか」
「問題ありません」
嘘だ。打ちつけるような痛みが足首にある。
「逃げましょう」
楊広を逃がす――。その気力だけで立っているような状態で、痛みを悟られないように早足で進んだ。
しかし安堵をしたのもつかの間、大気を裂くような笛の音が鳴る。矢を足に食らった敵が、応援を呼んだのだ。
「陛下、こちらへ!」
顔や肩に枝がぶつかるのにも構わず、楊広の手を引いて走る。
――死なせるものか。
この男を生かしたい。夢を終わらせたくない。
――もうこの手しかない。
「陛下、私から離れぬよう、ついてきてください」
それは翼にとって、最後の望みだった。
森の中をさらに西へ進む。開けた場所に出ると、楊広が目を見開いた。
「翼、この先は崖だぞ」
「ええ、崖こそ陛下の活路となります」
崖のへりへ楊広を手招く。下を覗くと川が見える。豪風が吹き上げ、翼と楊広の髪を巻き上げていった。
「幼いころ、茸を採りにこの崖を下りたことがあります。命綱が切れて落ちたんですが、強風のおかげで命は助かった。次に風が吹いたら、飛び降ります」
十丈(三十m)を超える崖だが、下から吹き上げる風のおかげで助かった。以来、翼は高いところを恐れなくなったのだ。
楊広を抱えて崖から跳ぶ。風の力を借りて落ちる速度を落とし、さらに翼の身体を下敷きにすれば衝撃を緩衝できる。
敵もまさかこの高さの崖を下りるとは思うまい。崖を下りて川沿いに進めば、追手をまけるはずだ。
「なるほどな」
楊広は腹を決めたふうに崖のへりに座る。
翼は腹ばいになって、風が来るのを待った。
問わず語りに、楊広が口を開いた。
「考えたことがある。もし、玉座に縁のない生まれだったらと」
こっちにはおらぬぞ、という敵の兵の声が森から聴こえてくる。
「百姓か商人か、生業は変わっても、蓮の花との縁だけは変わらない気がする。子や孫が生まれ、共白髪でおだやかに暮らす。そんな平穏がおれにもあり得たのかもしれない」
緊張を和らげるためか、楊広は語りつづける。
「そこまで考えて我に返った。果たして、それはおれなのだろうかと」
翼は顔をあげて、楊広を見る。
「天子以外のお姿など、想像がつきませんね」
楊広の呼吸は落ちついている。左脇の傷は痛むだろうが、表情に余裕があった。
一方、翼の上腕は熱を持ったように熱く、左の足首は石でも括りつけられたかのように重い。飛び降りるときだけでいい。どうか持ってくれと、心中で祈る。
楊広はしずかな口調で翼に告げた。
「今だから言えるがな。あのとき、おれは迷っていた」
「あのとき?」
「お前と初めて会ったときだ。大興城の寺の茂みで、このまま去っていいものか、実の兄を陥れていいものかと悩んでいた。そこへ追手を引きつれたお前が飛びこんできた。もう後に引けなくなった」
「そう……なのですか?」
思わず、上半身を起こした。
「いや、うそでしょう?」
あの寺で、楊広は虎視眈々と兄を陥れる工作をしていたのだ。
神仏も恐れぬ自信家が、迷っていたなど信じられない。
「うそではない。お前がおれの運命を決めた」
「私が――?」
複雑な思いに胸が揺さぶられる。
「ですが陛下は姉上の、楽平公主との約束で万能の天子を志されたのでしょう?」
楊広は「そうだ」とうなずく。
「たしかにおれは、万能の天子になると姉上に約束をした。実際、成しとげられるだろうという自信もあった。しかし、やるかどうかは別の話だ。それは迷うさ。蓮の花も道づれにする話だからな。そして、民に多くの犠牲を強いることも分かっていた。生半可な覚悟ではできん」
だがな、と楊広は嘆息する。
「お前が飛びこんできたのだ。おまけに、姉のために天子の翼星になると言う。おれは胸を穿たれたようになった。なんだ、おれと同じじゃないかと」
あのとき、何を話したのか。十八年も前の話で、翼の記憶はおぼろげだ。しかし、楊広は一言一句覚えているかのように語る。
「お前があのとき、おれの懐へ飛びこんでこなければ、皇太子の座を奪う謀略を思い直したかもしれない。蓮の花にこれほど心労を掛けることもなく、皇帝の弟として気ままに生きたかもしれない」
しかし、と楊広は顔を曇らせる。
「繰り返しになるが、それはおれという感じがしない。命の危機に面した今ですら、これが本来のおれの道だと思える」
翼にも、楊広の話が少し分かる気がした。
壮大な夢を見せられた今、楊広と出会わなかった人生というものが想像できない。
「おれは迷信など信じぬ。だがお前はやはり福神だったのだと思う」
ふたたび翼は崖を見下ろした。
「福神だというところを、見せてやりますよ」
しかし、風が弱い。
運にまかせ、勝負に出るか――。
楊広が腕を組み、神妙な顔で訊いてきた。
「で、年上の女はどうだった」
思わず呆れてうなだれた。この喫緊の最中に艶談を振るなど、どうかしているとしか思えない。
(つづく)