家に帰ると、護秋は安堵から涙をこぼした。護秋の服は相手と自分の血で赤くそまり、その上、もみ合いになったときに肩を脱臼したらしい。だらんと揺れる護秋の左腕を見て、翼は驚きのあまり泣きわめいた。
「護秋姉さん、ごめん」
力の加減がわるければ、二度と琵琶を弾けなくなっていた。ふだんからいたずらばかりしている翼も、さすがにこれは応えた。金輪際、護秋を泣かさないと心に誓った。
「ぼくは、護秋姉さんのいやがることはしない。してほしいことだけをする」
「まあ」
護秋の茶色の髪が揺れ、同じ色の瞳が笑った。
「それは、けがの功名でした」
涙に濡れた左目の泣きぼくろが愛おしい。相手が男でも、護秋は武器を手に翼を助けだしてくれた。だれよりもやさしく、うつくしい護秋。
血のつながりはない。でも護秋こそが自分の家族だ。
それからしばらく、翼は夜になると風の音に脅えて泣いた。そのたびに護秋は、あかぎれの手で翼の背を撫でてくれた。
「私と翼だけのひみつですよ」
翼を寝かしつけながら、護秋は特別な話をしてくれた。
「私は、かつて陳に仕えていたのです」
陳という国の名前は翼も知っている。まだ翼が生まれる前、隋によってほろぼされた南の国だ。
護秋はその宮廷で楽人として仕えていた。陳が滅んだ後、隋の宮廷に入るのをよしとせず、江都に留まったという。
「陳の天子のそばには翼星がいましてね。国いちばんの美人で、琵琶が上手な妃でした。首もとに、あなたとおなじ翼の形のあざがあったのです」
「あざ……」
その妃にあこがれ、自分も琵琶を弾くようになったと護秋は言う。
「薬師のお宅の前に捨てられているあなたを私が見つけた話は教えましたね。あなたの太ももにあざを見つけて、この子を楽師にしなくてはいけないと思いました」
薬師のほうが見入りはいいだろうに、なぜ音楽の道へ戻ったのか。なぜ護秋が翼を宮中に入れることにこだわるのか。ずっとふしぎに思っていた疑問が解けていく。
「でも楽器をあなたに仕込む必要はありませんでした。言葉を話すよりも先に、歌を完璧にうたった。二歳にして歌唱の才がずば抜けて素晴らしいことが分かりましたから」
血痕の残る手で、護秋は翼の脚にふれた。
「あなたはまちがいなく天子の翼星です。音楽の才だけじゃない。察しが良くて、ほかの子よりも格段にさとい。だからあなたを翼と名づけました。私の望みは、あなたが天子のそばでお仕えすることです」
護秋は翼に、声楽の才と天子に仕える楽人としての器量を見ていた。ひみつを打ち明けたそのときから、護秋は本格的に翼に稽古をつけ始めたのである。翼も、護秋の想いによく応えた。
二年後、八歳になった翼はくだんの公子と街で再会した。
官位をうしない、家族からも冷遇され、もとの爽やかさは微塵もかんじられない。落ちぶれた姿を見て、翼はさとった。
出世も名誉もすべてをふいにさせるほどの価値が、自分にはある。
容姿が秀でていると、自分でも気づき始めたころだった。絹のような肌、清らかな瞳、愛らしい頬、神に愛された子だと称賛をあびた。周囲の人々は、翼の気を引くために手をつくした。
「ふたりきりで話さない?」
まるで大人が話すように、翼は男をさそった。
「おれの言うことを聞いてくれるよね」
翼のことばに、男はすなおにうなずいた。服をすべて脱ぐように命じると、嬉々としてしたがった。
こいつのせいで、護秋は怪我を負った。場合によっては、琵琶を弾けなくなっていたかもしれないのだ。自分をたぶらかそうとしたことよりも、護秋を傷つけた恨みが大きかった。
「約束だよ。おれが呼びに来るまで、ここで座っていて」
待つように言いつけた場所は山奥で、虎が出ることで知られていた。
翼はひとり江都の街へもどる。
後日、身内が行方しれずになった男を探しているという話が耳に入った。男の服だけがみつかり、捜索は一日で打ち切られたという。
三
「あっ」
口を開けたまま、翼は硬直する。
左右の手にもった船の模型のへさきが、ひしゃげた。船と船を戦わせただけで、船頭が壊れたのである。
「しょせん北の船だもんな。ずいぶんもろいや」
船といえば、やはり南にかぎる。
へやには船の模型が五艘あった。船に楼閣が建てられていたり、船頭に龍の飾りがほどこされていたりと、見た目こそ荘厳だが造りがあまい。
「やっぱり船は、強くなくちゃ」
一艘目は空飛ぶ船のつもりで投げ、壁にぶつけて壊した。二艘目は上にまたがって遊ぶうちに潰し、三艘目は持って走り回っているうちに落として割った。
そして残った二艘はたった今、戦いごっこで壊した。
棚に飾られていた船はすべて、元の形を留めていない。遊びが荒々しいのは、翼なりに言い分がある。
「いつまで待たせる気だ」
この離れで待っているようにと、護秋から言いつけられていた。待つこと一時(約二時間)。大人しくしているのも、そろそろ限界だった。
昨日出会った眼帯の男は、楽団を自分の屋敷へ招いてくれた。
充分な夕餉と暖かな寝床を、翼たちに与えてくれたのである。金を巻き上げられた楽団は、食費を切り詰めていたから、正直なところ食事はとてもありがたかった。
屋敷はひろく、男が裕福であることが窺い知れる。
――あいつ、いったい何者なんだろう。
素性を問うと、眼帯の男は「宮廷につてのある者」とだけ言った。
翼はへやの戸を叩く。
「すこしだけ外の空気を吸いたいんだけど」
戸を開けて外をのぞくと、庭で見張っていた男がぎろりと翼をにらんだ。
「無理だ」
無視されるかと思いきや、話はしてくれるらしい。
「じゃあ、おじさんとおしゃべりをしたいな。こんなに立派な風体の男、江都じゃ見ないもん」
どちらかといえば貧相な風貌だが、見張りの男はまんざらでもない顔をする。
「おじさん、つよいでしょ? お国の兵なの?」
「さあ、どうだろうな」
「眼帯をつけた人に雇われているんだよね。あの人も身分のある人なんだろうな。すごいなあ」
今度はなんとも返してこない。
「この鎧、触ってもいい?」
返事がくるまえに、翼は見張りの防具にふれる。
「もしかして、あの眼帯の人って宮中に出入りするくらいえらいのかな。おじさんは強そうだから、お供したことがあるんでしょ。天子さまの宮殿って広い?」
「ばかもの、お前のようながきに教えられるわけがなかろう」
宮中へ入ったことがないとは言わない。見栄かもしれないが、おそらくほんとうに入ったことがあるのだろう。その証拠に、翼に語りたくてしかたないような顔をしている。
おそらく、眼帯の男は、そこそこの地位にある官人だ。皇太子にまったくつてがないわけではない。翼をだしに皇太子に近づくつもりなのだろう。
――逆に、こっちが利用してやる。
翼は心の中で決意する。顔さえつないでくれれば、歌で皇太子の歓心を得る自信があった。
「まだお話は終わらないのかな」
眼帯の男と護秋は、母屋で話し合いをしている。翼も同席したかったが、護秋がみとめなかった。
「すこしお庭を歩いてみたいんだけど」
上目づかいで見張りの顔をうかがうと、「迷子になりたいならな」とあっさり却下された。
この屋敷は変わっている。母屋は質素で、離れのほうが凝った造りになっている。離れの場所は分かりづらく、一度出たら最後、自分ひとりでは戻れない。
「おじさんを困らせるようなことはしないよ。おとなしくしてます」
翼はふたたび、へやにこもった。
――眼帯の男の素性が分かるようなものはないだろうか。
すでにひととおり室内を探したが、あらためて棚や物置を探ってみる。床に落ちた船につまずき、棚にひじが当たった。
「おっと」
押さえようと伸ばした左手が、垂れた紐に引っ掛かる。
突如、棚の脇の壁が音を立てて動きだした。
翼の身体は船を手にしたまま、硬直する。壁の向こうに人がいて、壁を動かしたと思ったのだ。しかし奥にはだれもいない。
「からくり?」
紐を引くと、壁が動く仕掛けになっているらしい。ひみつのへやを探り当てたようで、胸が高鳴る。翼は腕をくんで「ふむ」と熟考するそぶりをする。
「へやから出るなとは言われたけど、奥へ入るなとは言われてないもんな」
――ちょっとだけ。
幸い、見張りには気づかれていないようだった。壁の向こう側へそっと足を踏み入れる。
思ったよりも中は広い。中央に大きな机があり、上の面が淡いひかりを発しているように見えた。
それは模型だった。山河や街を模した大きなおもちゃで、ひかって見えたのは、ところどころに水が張ってあるからだ。
「こりゃすごいや」
翼は手にしていた船を机の上に置く。そのはずみで模型に備えつけられていた龍の口の形をした水差しが傾いた。池を模した窪みに水が満ち、一本の太い溝へ流れていく。
「おお」
翼はつま先立ちになって、のぞき込む。川は模型の平野へ注ぎ、勢いを増したところで三本に分かれる。
「水流を分けて、溢れないようにしてるんだ」
三本の川はまた合流し、また別の川が流れこむ。流れを変える弁があることに気づいたが、間に合わない。水流がぶつかって、水が平地にあふれた。
平野には、ちいさな家が並んで、集落が広がっている。街中には川が張り巡らされ、それぞれ流れを調整する弁がついていた。弁をうまく使わないと水があふれるという仕組みらしい。
「おもしろいな、これ!」
こんな仕掛けは見たことがない。弁の向きをかえて、さらに水を流そうとしたときだった。へやが急に暗くなる。戸口をみて、翼は跳びあがった。
大きな影が立ち塞がっている。腰を抜かした翼のもとへ、大男が足音を立てて近づいてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
口が壊れたようにくりかえす。恐ろしさに許しを請わずにいられない。
「小僧、なにをしでかしたか分かっておろうな」
大男はひょいと翼の首根っこをつかんだ。
「ここは、がきが入ってはいかんところだ」
「でも」
蚊のようにほそい声が、喉の奥から漏れる。
「悪いことはしてないです」
「よく言うわ」
大男は翼を担ぎ上げ、もと来たほうへ引きかえす。
戻ったへやは、船の破片が散乱していた。猫にするように、大男は翼を床へ放る。
「痛ってえ」
顔面から落ち、翼は鼻を押さえた。
「翼、あなたなんてこと」
顔をあげると、見慣れた泣きぼくろの女――護秋が顔を青くしていた。
「護秋姉さん!」
翼は足をすべらせながら、護秋にすがる。しかし、護秋は翼の身体の向きをくるりと変え、大男のほうへ押しかえした。
「すこし懲らしめていただいたほうがいいですわ。公子、なんとお詫び申し上げたらよいのか」
申し訳なさそうにする護秋の視線の先には、眼帯の男がいる。
男は、へさきの壊れた船を両手に肩を震わせていた。眼帯を着けていないほうの目が、翼をにらむ。
「おれの船を壊したな」
男は立ちあがり、大男に命じた。
「おい、熊。壊した船の数だけ、げんこつをくれてやれ」
眼帯の男は、大男を熊と呼んだ。あまりにそのままで、翼はぷっとふき出す。とたんに、重い拳が翼の頭上へおちた。
「痛った! おれちゃんと謝っただろ」
逃げ出そうとするも、熊の太い腕にがっちりと押さえ込まれる。高く持ち上げられて、足が床につかない。二発目の拳を頭に食らい、目に火花が散った。
「このがき、ほんとうに大丈夫なんだろうな」
眼帯の男が、にがにがしい顔を護秋に向ける。
「舞台に立てばおとなしくなります」
五つ目のげんこつを食らった翼は、涙目になって訊く。
「いったい、なんの話だ」
頭を押さえる翼の前に、護秋がひざまずいた。
「明日、皇太子殿下に拝謁します」
皇太子と聞いて、翼の心臓が波打つ。夢みていたその機が訪れたのだ。いっぽうで、警戒心がむくりと頭をもたげる。
翼は男につめより、胸倉をつかむ。翼の身長がたりず、背伸びする形になった。
「信じていいんだろうな。もし護秋を騙したら――」
眼帯の男の片眉が上がる。
「騙したら?」
翼はありったけの力でにらむ。
「ただじゃ済まさない」
「安心しろ。まちがいなく、皇太子と会わせてやる。おれにも利益になる話だからな」
野心に満ちた目だった。思ったとおりだ。翼を利用する気でいるのだろう。だが、それはお互いさまだ。
「奇跡の美声とやら、期待しているぞ」
明日、翼は未来の天子の御前で歌う。強い鼓動の音が、翼の全身をかけめぐった。
(つづく)