三
離宮の一室で、護冬は楊広に拝謁した。
外から、川のせせらぎが聞こえてくる。涼をとるために、川辺に建てられた離宮だった。
拝謁にあたり、護冬は皇帝に人払いをもとめた。座に楊広と翼と三人だけになると、明朗な声で切りだす。
「桟橋で演奏していれば、お目に留まると思っておりました」
「朕を待っていたということか」
壇上で椅子に座る楊広が、興奮冷めやらぬ様子で問う。
「さようにございます。一刻もはやく奏上せねばならぬ議がございますゆえ」
翼は護冬の背後に控え、ふたりのやり取りを聴いている。
相手は天子だというのに、護冬の声は淡々としていた。桟橋で見せた明るさは、あくまで楊広の目を引くためのものだったらしい。
これまでどこで何をしていたのか、なぜ再び琴を手にしたのか、訊きたいことは山ほどあるが、すべて腹におさめて耳を傾ける。
「奏上せねばならぬ議とは?」
「陛下の御病気は琴の音に由来するものです。私が宮中で仕えていた頃、陛下は毎夜、柳貴に琴を演奏させておられました。今も続けているのでしたら、即刻お止めくださいませ」
――なんてことだ。
翼は心中で、驚きの声をあげた。
護冬はひとりで、答えに行きついたらしい。しかしどのような経緯で知ったのか。
楊広が身を乗り出して問う。
「なぜそう思う。柳貴の琴に害があるとすれば、同席していた者にも症状が出るはずだ」
翼もそれが気になっていた。
幻聴や耳鳴りの症状が出たのは楊広のみで、どうやって楊広ひとりを害したのか、その理屈が分からない。翼は護冬の言葉を待つ。
護冬は拱手の礼で応じ、申し述べる。
「お答えいたします。じつは琴の音だけでは心身に影響はございません。香と組み合わせることで、脳に害をなすのです」
「組み合わせ……」
よほど意外だったか、楊広は言葉を失っている。
皇帝の寝室で焚かれていたかぐわしい白檀の香りが、翼の鼻孔によみがえる。蕭皇后が南国風に調合した特別な香りだ。
「お香と琴の旋律と、どちらかのみであればなんの影響もございません。ですが、長期にわたって、香りを鼻から摂取し、琴の音を耳に入れることによって、脳に深刻な影響が出るという仕組みです。本来はもっと早く症状が出るところですが、陛下の心身のお力が勝っていたのでしょう」
琴だけであれば、演奏する柳貴はもちろん、世話をする宦官や妃が耳にする。同じお香が焚かれたへやで、蕭皇后や妃が眠ることもある。
しかし、両方を長期にわたって摂取してきたのは楊広だけだ。
「なるほど」
顎をさすり、楊広は目を細める。
翼は背がざわつくのを感じた。
本人にその意図はなかったとしても、蕭皇后や柳貴の関与は間違いない。翼以外の者を御前から下がらせるように、護冬が求めた理由がやっと分かった。
「して、お前はなぜそれに思い至った」
「私はかつて、宣華夫人にお仕えしておりました。ですが、夫人はこの離宮で亡くなられました。早朝、寝床で息を引き取っているお姿を見つけたのは、この私にございます」
護冬の声が真剣さを増していく。
「宣華夫人だけではなく、陛下の周囲で不審な死が続きました。私は何者かが特別な手を使っているのではないかと疑ったのです。それで、育て親で故郷で療養中の護秋に相談すべく江都を訪ねました。しかし、護秋はすでに自宅から姿を消していたのです」
護秋から翼への文が途絶えたのもその頃だ。その後、護冬の行方も知れなくなった。
護冬の身になにがあったのか――。
翼は息を呑んで、耳を傾ける。
「私が江都の家に滞在していたとき、護秋の荷物を運びだす者がおりました。おそらく私が在宅としらずに、荷物を取りに来たのだと思います。私はその男の後をつけました。男の向かった場所は江都の北、黎陽の地でした」
黎陽は、楊玄感が挙兵した地だ。
護秋はそこで楊玄感と連絡を取っていたのだろう。
「護秋は黎陽の地でひっそりと暮らしていました。その住まいが楊玄感の所有らしいというのは、人に訊いてすぐに分かりました。ただふたりの関係が分からず、どう声を掛けようかと屋敷の裏で悩んでいたところ、一か所だけやわらかくなっていた地面に足をとられたのです。そこに埋められていたものを見つけ、絶句しました」
護冬は言いさして、ひと呼吸おく。
「私の足もとにあったもの、それは陛下を呪詛する人形でした」
皇帝への呪詛は、どの罪よりも重い刑が科される大罪だ。
呪詛の人形を目にしたときの護冬の衝撃は、大きかっただろう。
「私は一目散に逃げました。走りながら、気づいたのです。口封じに宣華夫人を殺した者は護秋なのだと。護秋は薬師として宣華夫人の治療に当たっていて、毒殺も容易でした。気づいてみれば簡単なことでしたが、護秋は私の育て親ゆえにまったく疑いの対象から外れていたのです」
翼には、護冬の気持ちがよく分かる。
愛情をもって育ててくれた護秋が、まさか自分たちを欺いてまで皇帝を殺そうとしているとは思わない。
「おそれ多いことに、陛下を弑し奉ることが、護秋の究極の目標なのだと悟りました。ですが陛下は身体を毒に慣らしていらっしゃる。宣華夫人のように殺すことは叶いません。もし護秋が陛下の暗殺を狙うとしたら、どんな手を使うのか。私は考えました」
護冬は思考を整理するように、ゆっくりと語る。
「ところで、私が女の身で旅ができたのは、京師から帰郷する楽人が夫のふりをして同行してくれたからでした。彼は琴弾きで、音楽で心の病を癒すことを得意としていたのです。ふと気になって、逆の作用をもたらすことはできるのかと訊いてみました。答えはできる――と。しかしその楽人も方法までは知りませんでした。ですが黒琴団ならば分かるだろうと示してくれたのです」
黒琴団は、柳貴が修業をした琴の流派だ。修業には短くて一年、長くて数十年かかる。
護冬が長年姿を消した経緯が見えてきた。
「柳貴を疑うわけではないのですが、とても嫌な予感がしました。同行の琴弾きは、もとは陳の宮廷楽人で、黒琴団につてがあった。私は琴の演奏に答えがある気がして、黒琴団への繋ぎを頼んだのです」
それまで黙って話を聞いていた楊広が、口を挟んだ。
「黒琴団は閉鎖的な流派で、常に移動し、所在も明らかにしないと聞く。妻になれば案内してやるとでも言われて応じたか?」
護冬はうなずく。翼は、剣で胸を突かれたようになった。
「無事に退団できたら本当に妻になってもよいと取引をしたのです。結局、琴弾きは修業に耐えられず、一年も経たぬうちに命を落としましたが」
添えられた一言に、耳が敏感に反応する。
護冬は人妻になったわけではなかったのだ。安堵で身体がゆるんだ。
「琴の音で人を害する方法、その治療法については、黒琴団に入らなければ分かりません。私も琴弾きでしたから、黒琴団に入る決意をしたのです。ですが一度入団すれば数年は出てこられない。それで、すぐに翼に宛てて文を送りました。護秋姉さんと楊玄感の関係、琴の音で人を狂わせる術があること諸々を綴ったのです」
翼は驚きの声をあげた。
「私のもとにそんな文は……」
「ええ、そうです」
無念のにじんだ顔が一瞬、翼のほうへ向いた。
「入団してから知りました。私が送ったはずの文は、琴弾きの男が破棄していたのです。ほかの男に私信を送ったのが気に入らなかったのでしょう。黒琴団の規律は厳しく、すでに外界との連絡が取れなくなっていました」
「修業に、何年かかった?」
問う楊広の口調が重い。
女人の身では黒琴団の修業に耐えられない。三人にひとりが死ぬ。それほど過酷な修業だと柳貴は話していた。
「琴の演奏だけであれば五年で修め、外界へ出ることができました。ですが、人を害する秘伝の術、それを治療する術の会得にはさらに三年を要したのです。その三年の修業のおかげで、私は一連の案件の真実にたどりつくことができました」
楊広の片方の眉が跳ねた。
「真実?」
「秘伝の曲を学んだ私は驚きました。柳貴が毎晩、陛下にお聞かせしていた曲だったからです。それは護秋が柳貴に教えた楽譜。陛下が就寝の際に焚かれるお香も、薬師として護秋が蕭皇后に勧めたものでした」
どこか哀しい物言いに、翼は察した。
護秋が楊広に殺意を抱いていることだけではなく、翼を京師へ招いた黒幕でもあることにも、護冬は気づいたのだろう。
護冬は女官として後宮で仕えていたから、翼よりも見えるものが多い。護秋が蕭皇后に香を勧めていたことまで知っていた。
「術を会得した私は、退団してすぐに宮中の翼へ宛てて文を送りました。しかし、陛下が江都へ向かっていると耳にして、あの桟橋でお待ちしていたのです」
護冬が語り終えると、楊広は沈黙した。
長い静寂のあと、楊広が掛けた言葉は思いのほか優しいものだった。
「皇后を席から外すよう進言した配慮に感謝する。今後も皇后の耳には入れぬように。翼、柳貴にはお前から話しておけ」
琴も香も、愛妻と忠臣が楊広のためを思って施したものだ。真面目な蕭皇后が耳にすれば、自分を責めて気を病むのが見えている。
「なにより長年を費やし、琴の術を学んでくれたことに礼を言おう」
護冬は恐縮したふうに、目を伏した。
「私は陛下に仕える身。当然のことにございます」
「護冬と言ったな。覚えておるぞ。たしか書物が好きだったはずだ」
護冬を見る楊広の目が穏やかだ。妙な胸騒ぎを覚える。
「私は、治療の楽譜を学んでまいりました。長い年月をかけて施された術ですから、完治までに刻を要するかもしれません。ですが必ずや、私が治療いたします」
はっきりと告げた姿に、楊広は目をほそめる。
「三夫人に取り立て、江都の図書室を与えよう。江都には、王子だったころに交友した文人たちもいる」
「陛下、お待ちください」
翼は声をあげていた。三夫人は皇后に次ぐ妃の位だ。護冬が妃の位を望むとは思えない。なにより翼が受け入れられない。
ところが、護冬は辞退するそぶりも見せない。
「頭が痛む。すぐに弾いてくれるか」
「ただちに」
護冬は、琴をおのれの前に置く。楊広は壇上からおりて、護冬の近くへ向かってくる。護冬からは見えぬよう、下がれと手で翼に命じた。
翼は言葉を呑み、引き下がる。
――これは楊広の治療に必要なことだ。妃の位については、追って訴えればいい。
そうおのれに言い聞かせて、皇帝の御前を辞した。
四
「また、ですか」
肩を落とした翼に、宦官が声を低める。
「そう落胆されずとも、大家もすぐに飽きましょう」
下卑た物言いに苛立ち、翼は宦官をにらんだ。
龍舟が江都に到着し、楊広が江都宮に入ったのが一月前のこと。楊広は療養をしながら、すこしずつ公務を増やしている。
翼が護冬の扱いについて持ちかけようとすると、楊広は巧妙に話をそらした。護冬に会わせろと繰り返し訴える翼に辟易したのか、最近は顔を見るや翼を避けるようになった。
政堂から後宮までの車の行き来は、翼たち給使が担っているにもかかわらず、今日も楊広は給使に声を掛けずに後宮へ戻ってしまった。
――仕方ないじゃないか。
翼は唇を噛んだ。
「八年も会っていなかったんだから」
――こうなったら。
結局、翼は蕭皇后を頼ることにした。楊広に直談判する機会を作ってもらったのである。蕭皇后が整えてくれた宮中の一室で、翼は楊広を待った。
江都の春は早く、蕾が開くのが近いらしい。春めいた青い月明かりが庭を照らしていた。
しかし楊広はなかなか現れない。同じ月の下、楊広のそばに護冬がいるのかと思うと、胸が苦しい。
考えに沈むうち、影の位置が大きく変わっていた。燭台の火は消え、たよりは月明かりだけになっている。顔をあげると、戸口に人影があった。
楊広――ではない。護冬だ。翼は弾かれるように立つ。
「陛下にお招きいただいたのだけれど?」
「陛下が……?」
自分では断りにくいと思ったか、護冬本人に話をさせるつもりらしい。であれば、むしろ翼には都合がいい。
窓辺の長椅子に、護冬を招く。月明かりでうなじが白く浮き立っていた。
「話がある」
まだ再会の喜びすら伝えていない。翼は護冬のかたわらに座る。
「黒琴団の修業のこと、すまなかった。おれはいったいどう護冬に報いたらいいのか分からない」
「見返りがほしくてやったわけじゃないから」
そっけない言いぶりが、懐かしい。
桟橋で琴を弾いていた、人好きのする姿はどこにも見えない。目の前で月明かりを帯びているのは、翼の知っている護冬だった。穴が空くかと思うほど見つめる翼に、護冬は怪訝な顔をする。
「なに?」
「桟橋で見た姿とあんまり違うから」
「私が目立つのが苦手なのは知っているでしょう。ぜんぶ演技よ。笑ったほうがいいって皆が言うものだから。実際、それでうまく行くことが多かった」
「おれの前では無理しなくていい」
護冬がわずかに目を細める。笑ったのだ。
「ほんとう、無理をしてきたわ。琴が好きだからやってこられたけれど」
「いくら好きでも、八年の修業なんて中々できることじゃない」
「そう?」と護冬は小さく首をかしげた。
「最後に宮中の洗い場で翼と会って話したのが、昨日のことのよう。すぐに翼と会えると思っていたのに、八年も話せなくなるなんてね」
護冬はきゅっと唇に力をこめた。
「でも、その八年で大切なことを学べたわ。翼にも気をつけてほしいことがあるの。陛下はしばらく音や光に脅えたり――」
「今は陛下の話をしないでほしい」
つい語勢が強くなる。護冬の瞳が大きく開く。
「ごめん、それは後でぜんぶ聞くから」
翼は護冬と向きあった。
「護冬、本当に護冬なのか」
護冬はちいさくうなずく。
「翼は? 元気だった?」
「うん、風邪ひとつ引かない。でもずっと苦しかった」
「楊広の側仕えは大変だものね」
護冬は皇帝を諱で呼んだ。楊広の即位を阻もうと奔走していた頃へ、急にときが戻ったようだった。
「違うよ。護冬がいないからだ」
翼が見つめると、護冬はどこか居心地が悪そうにする。
「楊広の妃になるのか」
肯定とも否定ともわからない。今にも泣きそうな顔をした。
「おれは皇帝に許しを乞うつもりだ。護冬を妻にしたい」
「妻……」
護冬は放心し、言葉を失っているようだった。
思い出したように懐を探り、赤い飾りのついた紙を取り出す。
「陛下がこれを」
護冬が見せたのは、同心結だった。かつて楊広が宣華夫人へ渡した、情愛を伝える贈物である。
翼は心臓を素手でつかまれたようになった。
――遅かったか。
八年も掛けて自分を助けようとした女人に、楊広が心動かされぬはずがない。
呆然としていると、護冬は同心結を差し出す。
「これを翼にって」
「おれに?」
怪訝に思いながら、翼は同心結を開く。中には一枚の紙が入っていた。
紙には楊広の字で、
――年上の女はよいぞ。
と書かれている。
楊広の得意顔が目にちらつく。身体の力が抜け、遅れて苦笑が漏れた。
護冬に会わせろと執拗に迫ったことは認める。しかし楊広も、翼をやきもきさせようとわざと避けていたのだ。
「陛下は、驍果の兵たちに、宮女とお見合いをさせるのですって」
翼が驍果の不遇を訴えたのを覚えていたらしい。あの男はすべきことに、やっと着手したのだ。
護冬が椅子に手をつき、翼を見上げた。
「よかった。翼が無事で」
黒いまつげが翼に向く。
「退団して、高句麗の戦があったって初めて知ったの。翼にもしものことがあったら、黒琴団に八年もいたことを後悔するところだった」
まなじりに光るものがある。
その光を唇で吸いあげたくなった。
「抱きしめても?」
翼が問うと、護冬はうなずいた。翼の胸にやわらかな重みが加わる。
この感覚に覚えがある。
――抱いてもらってうれしかったもの。
いつぞや護冬はそう言った。
言われたときには何の話か分からなかったが、今ようやく腑に落ちた。
あれは先代の文帝が危篤の際、仁寿宮で宣華夫人と共謀して、楊広を陥れようとしたときのことだ。
護冬は、楊広の内密な書きつけを文帝の病床へ届けると言いだした。いつ手打ちにされてもおかしくない。ふたりとも命懸けで、無事を確かめ合うように身を寄せた。
あのときと同じ温もりが、今、翼の腕の中にある。
簪が音を立てて落ちた。額をつけるとひんやりとして、まつ毛の先が触れただけで胸がうずく。鼻先のなめらかな感触に背筋がしびれ、唇をかさねると眩暈がした。
――生きている。
そう、護冬も自分も生きている。護冬の息遣いを感じるたび、身体の内で歓びが増していく。
春の夜はしずかで、遠く水の音だけが聞こえてくる。
月明かりがそそぎ、流れるような護冬の黒髪に銀の光を添えていた。命のありかを確かめるように、翼はその光を掻き抱いた。
(つづく)