二
「口があいたままだよ」
突如、となりで声がする。まだらに日焼けした顔に、高く細い鼻。風のそよぐ草原で、蜂の尻を思わせる顔が翼を見おろしていた。
「宇文さま」
建築の天才、高官の宇文愷だ。
翼は額の汗をぬぐう。暑いからではない。いまは初秋、その上ここは北の地でむしろ涼しい。
「圧倒されておりました」
翼の目の前にそびえるのは、巨大な天幕だ。楼閣でいえば、五階建てを越える高さがあり、そして左右の幅は途方にくれるほど大きい。京師の宮殿が、丸々ひとつ入ってしまうだろう。
「人はどれほど入るのです?」
「身体の大きな将兵ですと、ゆったりと座って三千人。ちいさな子どもやご婦人を三割含めて押し詰めれば三千五百といったところかな」
宇文愷はよどみなく答える。この男がいうのだから、数字は確かだろう。
「以前おっしゃっていた、造りものとはこの天幕のことでしたか」
東京の書斎で、楊広と宇文愷はいくども建築物の談義を重ねていた。
こんな途方もない建物を設計する宇文愷も、造れと命じる楊広も非凡としか言いようがない。
「ほかにもあるんだけどね」
宇文愷は得意げに高い鼻を指先で掻いた。
「私はすっかり度肝を抜かれました。そもそもこれは、天幕と呼んでいいのでしょうか」
南方育ちの翼は、遊牧民の天幕そのものに馴染みがない。
「京師から北へ出るのは?」
「この旅がはじめてです」
楊広は北方への巡幸に乗り出した。蕭皇后や文官武官を伴っての大移動である。
「毎日、驚いてばかりです。食べる物から違いますから」
干した肉や燻製、羊の乳をつかった保存食など火を使わずに食べられるものが多い。蒸し暑い南の地域は、すぐ食べ物がいたむから火を通して食べるのが基本だ。
「緊張しているのかい」
腰に手をあて、宇文愷は大天幕を見上げる。
万里の長城を越え、楡林の地にこの大天幕をつくった。北の突厥の君主である可汗やその妃、重臣らをまねき、楊広みずからもてなすという趣向だ。
これから翼は大天幕の舞台に立つ。何千という賓客の前で、歌をうたうのだ。
「どういったおもてなしなのか、陛下ははっきりおっしゃらないので、どう歌うか迷っています」
宇文愷は腕を組み、ちらりと翼に視線をおくる。
「隋の国力を喧伝するため、かな。隋と突厥の事情は知っている?」
「私は異国の事情に不案内なものですから」
恥じる翼に、宇文愷は微笑む。この建築家は教えたがりな性分だ。子に諭すように、ていねいな口調で語りだす。
「突厥という国はね、かつての強国だ。兵が強くてね。北朝の国は、恐れて貢物をしていたほどだった。隋の先代の文帝は、皇族のひめを嫁がせて姻戚関係を結んだり、突厥内で東と西に分裂させるように仕向けたりとしたたかに駆け引きをされた。東突厥の今の王さまの啓民可汗は、文帝のご支援のおかげでその地位についたんだ。ゆえに隋に恩があって頭が上がらなかった」
「でも、その文帝も崩御されております。代替わりをしたので、あいさつに伺うということでしょうか」
宇文愷はふかくうなずく。
「まさに。啓民可汗にとって恩があるのはあくまで先代の文帝だ。がらの悪い言い方をすると、あらためてどちらが上の立場なのかを分からせにいくってことかな」
啓民可汗は楊広が即位すると隋の宮城を訪れ、表面上は従順の姿勢をみせた。しかし、楊広はみずから啓民可汗のもとへ出向く形にこだわった。突厥の上層部だけではなく、北の民に隋の威光を見せつけたいのだろう。
「私の役割は、隋の天子の歌い手として、隋の音楽の雅やかさを知らしめるということですね」
技巧を駆使し、いかに相手を圧倒させるかに意味がある。
「気負わずに。今は変声期で苦しいだろうけど、翼と柳貴、隋の宮廷一の美男が拝めるだけで喜ばれるから」
「でも私は歌い手です」
この隋の翼星でもある。翼は短く息をついた。
「朝起きると、じぶんの身体がけがらわしく感じるのです」
また声が低くなっているのではないかと、おびえて目覚める。
宇文愷は肉がだぶつくほど顎を引いて唸った。
「たしかに、迦陵頻伽の声はすばらしかったけれど。焦らないで。きみが完璧な大人の鳥となったとき、その声は迦陵頻伽を超えるだろう」
「そんなことありえるんでしょうか」
「なるほど」
ひらめいたように、宇文愷は手をうった。
「女人を遠ざけても、意味はないよ」
翼は脇腹をつつかれたようになった。
「どうして――」
「言っただろ。私は、目測を間違えない。とげが刺さっている場所もお見通しだ」
ふふんと得意げに鼻を鳴らす。
「潔癖であろうとそうでなかろうと、きみの背は勝手に伸びるし声は変わる。なぜなら、成長はしぜんなことだから」
宇文愷のいうとおりだと、頭では分かっている。
「咽喉神のご加護がありますように」
咽喉神とは楽人の崇拝する神のこと。足どり軽く去っていく宇文愷の背を眺め、翼はぼやいた。
「どうせなら解決する手立てまで教えてほしいよな」
昨日から、また喉の調子が変わっている。
最初に声変わりをしてから、大きく三度声が低くなった。またあれが来るのかと思うと心がふさぐ。
声変わりが始まってから、何人も男性の歌い手の助言を受けた。しかし、分かったのは、変声期が終わるまでは大した手を打てないという現実だけだった。
なんの糸口も得られぬまま、翼は支度に入る。化粧をして、歌を披露する順番を待った。
楽屋の天幕まで、大天幕の歓声が聞こえてくる。楊広が北の客人たちに用意したのは、西方や南方のめずらしい動物を使った雑技や、舞踏団による華やかな踊り、武人たちの演武だった。北の草原では見られないようなお楽しみが繰り広げられている。
翼は背後をふりかえり、出番を待つ柳貴に声を掛けた。
「おれたちも観に行きたいよな」
柳貴はまるで翼などいないかのように七絃琴の手入れをしている。ひろい楽屋にふたりきりで、反応はないと分かっていてもつい話しかけたくなる。
柳貴は寡黙になったことで、さらに芸に奥行が生じた。抑制がきいて、音色に匂い立つような品がある。
――それにくらべておれは。
きびしい稽古ならいくらでも耐えられる。しかし、鍛えようとすればするほど、喉を傷めてしまう。そうなると打つ手がない。
「おふたりとも、おいでください」
宦官が出番を告げる。
どうやってあかりを取っているのか、天幕の中央に設けられた舞台にはひと筋の光が射していた。
柳貴とともに舞台へ近づくにつれ、観客のざわめきが鎮まっていく。
柳貴が琴の前にすわった。発光しているかのように全身がしろいひかりに包まれている。つめたさを感じるほど落ちついた面立ちが護冬を思わせた。蕭皇后の侍従として、護冬もこの会場のどこかで翼を見ているかもしれない。
翼が舞台の中ほどに立つと、柳貴が琴の弦をかき鳴らした。
台風起こりて雲飛揚す
手始めに、漢の武帝の歌を披露する。天下をとり、故郷に帰還した際につくったという絶頂時にある天子の歌だ。
声量はもんだいない。音程も安定している。
威は海内に加わりて故郷に帰る
安くんぞ猛士を得て四方を守らしめん
宇文愷の話を聞いて、楊広がこの歌をえらんだ理由が分かった。
楊広は、遊牧民族の匈奴を制圧した漢の武帝に自身をなぞらえている。突厥の可汗を自らもてなし、自分を武帝以上にみせる工夫をしていた。
ゆえに翼は、武帝の歌で突厥の観衆を圧倒しなければならない。
使命を意識したとたん、声がうわずった。
すぐに柳貴が琴の音でごまかす。
焦るほど、音程がとれない。柳貴の足を引っ張っているのが、じぶんでもわかった。
歌い終えると、客席が歓声に沸く。称賛はすべて柳貴にむけられていた。
観衆の声に、柳貴はたちあがって揖の礼で応える。怜悧な顔つきが、一瞬とろけるような笑みに変わった。いつの間に、こんな芸当を身に着けていたのか。翼は柳貴とならび、啓民可汗の座席へ両手をそろえて深く礼をする。熱狂する歓声の中で、翼の耳はちいさなつぶやきを拾った。
「耳が穢れる」
顔をあげると、柳貴が花の笑顔を客席へ向けていた。
――このままではいけない。
楽屋へもどった翼は、化粧台の前で拳を握りしめる。
宇文愷はなぐさめてくれたが、身体の変化が憎い。
北周の翼星だった楊麗華のことばが、呪いのように翼の耳に残っている。
天子が暴君となると、翼星は思うように音を奏でられなくなり儺神と化す。儺神となれば、国がほろぶ流れは止められない。
楊広は有能な天子だ。しかし、暴君ではないと言い切れない。断行した工事などで、犠牲にした民の数が多すぎる。
楊麗華から打ち明けられて以来、翼は楊広の書斎を借りて、星官(星座)にかんする書物を読み漁った。今主流となっている学問だけではなく、石申夫や巫咸など古の星官の教えも学んだ。
わかったのは、翼星が天子の音楽を司るという考えが普遍であること、福神儺神の考えは南北朝の時代から起こったここ数十年の流行りだということだった。
しかしいかにすれば、儺神にならずに済むのかはどの書物も教えてくれない。
隋は楊広の代になって勢いをまし、今のところ衰退の兆しはない。しかし、楊広の周辺で起こる不審な死が翼のこころに影を落としていた。
「翼」
掛け声にふりかえると、ひとりの女官がしのび足で近寄ってくる。
「鈴鈴」
蕭皇后づきの女官だ。
「皇后の天幕の見回りを仰せつかってね、すこし抜けてきちゃった」
表情がくるくると変わる陽気な娘である。
「柳貴はいないのね」
「賓客に引き留められているから。陛下のおそばで雑技を観るんだって」
調子がわるいと思われたのか、翼には声はかからなかった。鈴鈴は手を両頬にあて、夢見るような表情を浮かべた。
「歌、とてもよかったわ」
「いいよ。音を外したのはじぶんでも分かっているから」
「そういうことじゃないの。人って歳をとるでしょう? そのときにしか出せない音があるんだって思ったの」
「あのひどい声が?」
我ながら、言葉に棘がある。鈴鈴は気にした様子もなく、弟でも見るような目を翼にむけた。
「一生懸命歌おうとしている姿に、なんだか感動しちゃった」
それでは、子どもの出し物だ。翼は完璧な声で人を魅了したいのであって、応援されたいわけではない。鈴鈴の励ましに、さらに落ち込んだ。
「それより、護冬は元気にやっている?」
護秋を見舞って以来、護冬は翼を避けている。顔をあわせることがあっても、口を利いてくれない。
「急に涼しいところに来たから、風邪気味みたい。でもたいしたことはないと思うわ」
「くれぐれも護冬がひとりにならないようにして。頼んだよ」
護冬は変わらず蕭皇后のもとで仕えている。暗躍する黒幕は蕭皇后かもしれず、護冬の身が案じられた。
それで、信頼できる女官を三人慎重に選びぬき、護冬が危ない目にあわぬよう見張りを頼んだのだ。むろん護冬には内密の依頼で、鈴鈴には三人を取りまとめる役割をお願いしている。
鈴鈴は翼の瞳をのぞいた。
「ねえ、今ならだれもいない。一度だけでいいから、抱きしめてくれない?」
「それは――」
翼は言いよどむ。鈴鈴はくすくすと笑みをころがした。
「冗談よ。わたしたち三人、言葉を交わす以上のことは翼に求めないって約束をしているの。こまった顔をみたかっただけ」
「鈴鈴、せめて報酬を――」
「お金なんてもらったら面白くないもの」
三人の女官たちは、見かえりを求めずに動いてくれている。金品を渡そうとしてもかたくなに受けとらない。
「わたしたちは翼がご機嫌でいてくれたらそれでいいの。またね」
片目をとじて見せ、突風のように去っていった。
「女人を遠ざけても意味はない、か」
遠ざけられているのは自分のほうだ。護冬と話せないのが、これほどつらいとは思わなかった。
翼は椅子に腰かけ、うなだれる。
「どうしてあんなことを言ったんだか」
護冬がいなくても大丈夫だと告げたことを、心底後悔していた。すこしも大丈夫ではなかった。そんなことがあるはずがないのに、夜に風の音を聞けば、護冬が訪ねてきたのではと期待する自分がいる。これほど心が乱されたのは初めてだ。
風が天幕の出入り口の幕をゆらす。
「護冬?」
垣間見えた人影が護冬に見えた。翼は慌てて外へとびだす。
豊かな黒髪に白いうなじ。幻覚ではない。ほんものの護冬だ。
「待って」
翼の声にきづき、護冬は近くの天幕へ隠れてしまった。中へ踏み込めば、また逃げられる。今はみな大天幕で宴に列席しているはずだから、天幕内にほかの人はいないはずだ。告げるなら、今しかない。
「護冬、話を聞いてほしい」
天幕の出入り口に掛かった布越しに、翼は早口で語った。
「少しだけでいいから聞いて。おれにとって護冬は何者にもかえられない大切なひとだ。護冬がいなくても大丈夫だって伝えたのは、用なしだって意味じゃない」
胸が熱をましていく。今ここで護冬に伝えておきたかった。
「おれ、まだ声が安定しない。もしおれが儺神になってしまったら? 宮中で続いた不審な死がほんとうにおれのせいだったら? その不運が護冬に及んだら? 考えるだけで耐えられないよ。護冬をうとましく思っているわけでもない、軽んじているわけでもない。おれは護冬のことが――」
言いつのったところで、布に映る影の大きさに気づく。
「護冬?」
翼は揺れる戸口の布を手でよけた。
目の前に立ちふさがったのは、熊のごとき巨体。楊広の側近の宇文述だった。
翼の口は顎が外れたようにひらき、言葉をうしなった。一度、息をのみこんでから、巨漢を見上げる。
「なぜここにいらっしゃるんですか」
天幕の中は寝床が何台か作られ、出入り口が複数つくられていた。宇文述は仮眠を取っていたのだ。楊広が無理な行程で動くから、宴の最中に休みを取っていたのだろう。護冬はべつの出口から去ったあとだった。
ここは休息のための天幕らしい。お香のかおりがするのは、蕭皇后が将兵の疲れがとれるように手配したのだろう。
宇文述はすれ違いざま、「軽薄者が」と唾棄するように言って、天幕を出て行った。翼はその場にしゃがみ込む。
「もう、何なんだ」
音程を外し柳貴にさげすまれ、護冬には逃げられ、宇文述にも嫌味を投げられる。散々な一日だった。
その日の夜、翼は寝支度をすませた楊広のもとへ寝酒を運んだ。
「失礼いたします」
卓上に、温めた羊乳の酒と酒器を整えていく。
「先に読みものをされますか」
楊広は翼に背を向け、生返事をする。ひるまの翼の失態を怒っているのかもしれない。
「申し訳ありませんでした」
天子の歌い手として、北の民を圧倒する。その使命を翼は果たせなかった。
「かならず、うつくしい音を奏でられるようになります」
この男の福神になると、決めたのだ。
楊広は「うむ」と吐息を漏らし、つぶやくように続けた。
「弾こうとは思っているんだがな」
翼は一瞬、楊広がなにを話しているのかが分からなかった。
よくみると、楊広の手前の机上に琴が置かれている。楊広は、翼が琴の話をしていると思ったらしい。
勘違いに気づいたか、楊広がきまり悪い顔で振り返る。
「声なら気にするな。十四にもなって童子の声のままというほうがおかしい」
「陛下、わたくしは十五でございますよ」
「十五」と楊広は大仰に目をひらいた。
「おれが蓮の花を妻に迎えた歳だ」
「そうでした。蕭皇后は陛下よりふたつ年上であられましたね」
「いいぞ、年上の女は」
間髪いれず「ええ」と賛同し、翼は失言に気づく。
「聞き捨てならんな」
「はやくお休みになられませんと」
「惚れた女は年上か。いいだろう。酒の肴に聴いてやる」
卓につくと、尊大な顔で翼をうながす。
「つつしんでご辞退申し上げます」
「四六時中、おれに仕えているというのにお前も抜け目がない。膝枕くらいはしてもらったか」
「ですから、そういう話ではないんですって」
揶揄う楊広の背後に、七絃琴が見える。いつか楊麗華が楊広にねだった言葉が耳に蘇る。
――いつか、翼の歌にあわせて琴を弾いてくださいな。
楊広はいまだ琴に触れようとしない。翼も声をうしなったままだった。
しつこく絡んでくる楊広に、翼は「陛下」と語を強める。
「お願いがございます。外出のお許しをいただけますでしょうか」
(つづく)