三
楊広の私室に足を踏み入れた翼は、眉をひそめた。
広間の床で、頭から血みどろになった柳貴が倒れている。顔は腫れて紫色になっており、氷の貴公子とうたわれた美貌は影もない。
そばには杖を手にした宇文述が立ちはだかり、この熊が柳貴を打ったのだと分かった。
広間の奥にある椅子に、楊広が腰かけている。ひじをつき、鷹揚な風情で柳貴を見おろしていた。以前の優等生ぜんとした面ざしはどこへやら、むしろ暴君の風格がある。そのまがまがしい瞳が、翼をちらりと見た。
「そこのがきは、おれの翼星だ。たとえ歌えなくなったとしても手放さぬ」
暴行の件が、楊広の耳に入ったのだ。翼は今や楊広がもっとも重用する歌い手で、痛めつけられているところを見た誰かが、皇帝に報せたのだろう。
柳貴が顔をあげ、天子に訴える。
「ですが、私は聖上のためを思い──」
柳貴の背に、杖が打ちつけられる。柳貴のほそい身体が潰れたかのように見えた。
壇上の皇帝は、冷淡な目を柳貴に向ける。
「かりに翼が儺神となっておれに刃向いたとして、このおれがそのがきに負けるとおもうか」
このおれが、と、楊広は声を強めて繰りかえす。
「おれは南北に分裂していた時代の無能な皇帝たちとは違う。おれは、おれの意志にもとづき、おれの考えで国を栄えさせる。いかなる障害があっても、妨げられることはない」
翼は楊広の前にひざまずいた。
「陛下、私たちは戯れていただけにございます。どうか柳貴をお許しくださいませ」
しゃがれた声に、楊広は目をすがめた。
「その声……」
楊広は立ちあがる。腰に佩いていた刀を抜いた。
「お待ちください。私の不養生で喉を嗄らしただけで、けして柳貴のせいでは──」
しかし、楊広はまっすぐに柳貴のもとへ進む。翼は柳貴の前に身を投げだしていた。腹の底から、言葉がほとばしる。
「柳貴をお斬りになるのでしたら、私は陛下のもとを離れます」
楊広はまばたきをし、われにかえったような顔をする。不快げに舌打ちをした。
「勘違いをするな。お前のために柳貴を折檻したわけではない」
楊広は席へ戻り、柳貴に下がるよう命じる。
「柳貴よ、おれはお前の琴は気に入っている。失望させるな」
すれ違いざま、柳貴の強いまなざしに気づく。立ちのぼるような嫉妬が翼へ向けられていた。翼は楊広に好かれたいわけでもない。望んで仕えているわけでもない。
──なぜなんだ。
なぜ、楊広が自分を特別扱いするのかが分からない。
「翼もさがってよいぞ」
もう我慢がならなかった。翼は全身でさけんでいた。
「なぜ陛下はおれを殺さぬのです」
宇文述の咎める声がしたが、翼はかまわずに続けた。
「おれは、陛下を陥れようとしたんですよ」
楊広は翼を罰しなかった。宣華夫人のことも殺さず、自分の後宮へいれている。
「お前の知ったことではない」
楊広がつまらなそうに答える。宇文述が宦官らを下がらせる。へやには楊広と宇文述、翼の三人だけになった。
人がいなくなるや、口が悪態をついていた。
「気持ちが悪いんだよ。生かされているほうの気にもなってみろ」
「それほど死にたいのか。護秋が泣くぞ」
意味を含ませて言う。それが余計に翼を苛立たせた。
「はやく、去れ。今、おれは機嫌が悪い」
宇文述が翼の隣にたち、見おろして言った。
「あまり陛下を刺激するな。ずっと簫妃が口を聞いてくださらぬゆえ、虫のいどころがわるいのだ」
「それはだれかさんが悪いだろ」
翼は率直にいった。品性をうたがう、というのが正直な思いだった。
言葉遣いを咎められるかと思いきや、宇文述は「まったくだ」と翼に同調する。
「陛下におかれては、その軟弱さをなんとかしていただきたいものですな」
「熊までおれを愚弄するか。仮にも天子ぞ」
宇文述の大きな目が、楊広をにらみかえす。
「友人としての忠告です。一国の天子になられたのですから、分別をお持ちいただきたい」
楊広は文帝が亡くなった日のうちに、宣華夫人に言いよった。あの混乱の中でどうやって用意したのか、情愛をつたえる同心結を宣華夫人に贈ったという。
楊広には寛容な簫妃も、これには呆れた。
好色うんぬんといった次元をこえて、常識を逸脱している。仁寿宮から大興城へもどった今もなお、簫妃は「気色がわるい」といって楊広を避けている。
「だれもおれを理解せぬ。天子とは孤独なものだな」
とはいえ、翼もうすうすは感じている。楊広は宣華夫人を死なせたくなかったのだ。
臣の間では、楊広が宣華夫人を烝したと噂になっている。
「烝」とは、自分より立場が上の女性と関係をもつこと。とはいえあの日の夜、楊広は宣華夫人と床をともにするどころか、へやにすら入れなかった。文帝の崩御を知った宣華夫人は錯乱し、あばれて頭を柱で打ったからだ。翼が心を鎮めるための薬を飲ませて、ようやく眠りについた。
あなたの命は奪わない──。同心結を贈ることで、そう宣華夫人に伝えたかったのではないか。
とはいえ、楊広がなぜそこまで宣華夫人に気を遣うのかは、翼にも分からない。興味もなかった。
楊広はひとつ欠伸をすると、宇文述に命じた。
「熊よ。図面を持ってこい。工人を集めよ」
「うまく行かなかった寸法の件ですか。まだだれも対応案は思いついておらぬと思いますが」
「もう二日も経った。なんの案も用意できぬ工人など無用だ。首を刎ねてしまえ」
新しい宮殿か、建築物の話らしい。翼などここにいないかのように、楊広は宇文述と話しこむ。
──またか。
怒り出したかと思えば、唐突に公務の話を始めたりする。楊広の頭の中は、すでに建築の案件でいっぱいだろう。こうなると元の話に戻すのは困難だ。そのめまぐるしさに付き合う宇文述に、翼は心から同情する。
足音をたてぬよう、翼はそっとへやを後にした。
*
宮中の厨を通りがかると、翼を呼ぶ声がする。
「翼、そのひどい格好どうしたの?」
しらない女官だった。気安く腹のあたりに触れてくるから、はじめて話すわけではないらしい。乱れた髪をひとつにくくり、服についた土も払ったが、暴行の痕はごまかせない。翼は言葉をにごした。
「転んだんだ。ところで護冬がどこにいるか知ってる?」
この娘と護冬が一緒に茶を煮ているところを見たような気もする。護冬に用があるわけではないが、姉をだしにあしらうしかない。女官は顔に不満をあらわにする。
「いつも護冬護冬って。いまは私と話しているんでしょう」
「そりゃ護冬は姉だもの」
そう告げたとき、視界の端を見なれた背が過ぎていった。翼は女官の手をほどく。
「護冬だ。急ぐからごめんね」
と言い置いて逃げ去る。
「護冬、待って」
翼は、護冬の背を追った。宣華夫人の茶でも取りにきたのだろう。じっさい護冬と話がしたかった。しかし、細い背は振り返らない。足どりに怒りがにじんでいるように見えた。
「なんか怒ってる?」
護冬が振りかえる。冴え冴えとした目つきで言い放った。
「目立つところで声を掛けないで」
「なぜ」
「女官たちにいじめられるのよ。それに宣華夫人もいい顔をなさらないから」
護冬は以前とかわらず、宣華夫人のもとで仕えている。宣華夫人は、目論みを仕損じて以来、身体の具合がよくないらしい。
ふたりは黄色に染まった桂の木陰に身を寄せた。
「今の状況がつらいなら辞めたっていいんだ。なんどもそう言ったろ」
先帝崩御の事件があってから、翼は宮中を出るよう護冬に勧めた。護冬も罪を免れたが、いつ蒸し返されるか分からない。
「でも、宣華夫人とのつなぎは必要でしょう」
「正直にいえばありがたい。でも護冬のほうが大事だ」
護冬のひとみが一度きれいな瞬きをした。護冬のうごきは、どれも人形のように精緻にみえる。
「ひどい声ね。楽人にやられたの?」
護冬は翼の乱れた服のしわを伸ばしてくれた。護冬に隠し事はむずかしい。翼は否定しなかった。
「宮廷の楽人って、陰湿なのね」
「おれが特別扱いされているのは確かだから」
「知ってる? 陳の宮廷の歌い手だった男性が亡くなったって」
「うん、青真さんだろ。騒ぎになっていたから」
隋の宮廷の楽部(隊)は、北周や陳の宮廷楽人を吸収している。中華を統一した隋は、音楽の面でも南北の融合を図った。
「おれ、ご挨拶にいくところだったから、ほんとうに驚いた」
声変わりの始まった翼は、同じ南方出身の歌い手である青真の指導を受けることになっていた。しかし直前になって命を落とした。朝起きたら動かなくなっていたという。
「翼があんなふうにならないといいんだけど」
淡泊な口調ながら、護冬が心から案じているのが伝わってくる。
亡くなった青真は見目がよく、嫉妬した同僚に殺されたという噂だった。
──お前にすこし似ていた。
ほかの楽人らはそう冗談めかして翼をからかった。じっさい、青真が亡くなって、いびる対象が翼に替わったらしい。
「宮中も怖いところだよな」
「宣華夫人がね」と護冬が声を落とす。
「最近、うなされながら、寝言をおっしゃるの。そういうことだったのか、私は騙されたって」
庭の枝葉がさわりと音を立てた。
翼は息を呑む。周囲に人がいないことを確かめてから、声を低めて訊いた。
「それは、宣華夫人のほかに糸を引いた者がいるってこと?」
「たぶん」と護冬は小さくうなずく。
「宣華夫人は、なにかに脅えていらっしゃるみたい」
「それはおれも感じている」
翼はこれまでの様子を思い返す。
楊広の即位以来、宣華夫人は翼との接触を拒んでいる。人の目を気にしているのはあきらかだ。
つめたい風が首筋を撫で、落ちつかなくなる。
「だとしたら、だれがおれを京師へ呼んだんだ」
相手は翼にとって味方なのか、敵なのか。だれかの手の上で踊らされているような気がして、胸がわるい。
護冬が首をかたむけた。
「護秋姉さんに相談する?」
「それはやめておこう。護秋姉さんに話せば楊広の耳に入る。あいつは味方というわけじゃない」
「私は、護秋姉さんが好きなら、楊広もそんなに悪くないって思うようになったけど。もう皇帝になってしまったんだし」
翼は間髪をいれずに言った。
「おれは楊広を認めない」
「でも、護秋姉さんをいつまでも私たちの母親役にさせておくのは良くないわ」
「でも楊広はだめだ」
翼の語調がつよくなる。護冬の眼が周囲を気にするようにうごいた。
「翼、声をおさえて──」
「おれだって、護秋姉さんには好きに生きてほしい。でも楊広に心を寄せても、ろくなことにはならない」
翼は護冬の両肩をつかむ。
「護冬なら分かってくれるだろ。おれは護秋姉さんの望みどおり、よい天子のもとで福神として仕えたい。でもそれは楊広じゃない」
「儺神になって、隋をほろぼすつもり?」
ちがう、と翼は低くする。
「幸い、楊広の長男は人格者だ。おれは三代目に仕えたい」
長男の楊昭は、父と母の美貌をうけつぎ、気性は父に似ずおだやかだ。
翼の熱弁に、護冬は冷めた目をおくる。
「楊広が死んだら、護秋姉さんが悲しむわ。どんなくずだって、すきなひとのそばにいるのが幸せだもの」
ふいと目をそらしてつぶやく。
「翼にはきっと分からないわね」
四
いつもとちがう波の音で、男はめざめた。
しかし身体が重く、まぶたすら動かせない。頭の奥で怒鳴り声がひびいた。
──等間隔に植えろといっただろう。
頭ごなしにどなられ、そのとき男は言い返した。
──遠くから見たら二、三本離れていたって分かりません。
川べりの御道沿いに、柳を植えるように命じられていた。しかし暑さで人が次々と倒れ、歯がぬけたように間が空いてしまった。とはいえ、数か月にわたる労役で身体はいうことをきかない。
爪の剥がれた指を掲げ、男は訴えた。
──この手で柳を植えろと?
しかし返ってきたのは、鞭の一撃だった。
柳の労役を終えた者は、一年の税が免除されるという。しかし、この労役で知った顔が何人死んでいっただろう。いくら税を免じられても死んでは意味がない。
この自分も、柳を植えて力尽きた。川べりに横たわったままで、差しのべられる手もない。家族も友もみんな亡くなったからだ。日射しが容赦なく照りつけ、このままではおのれの命もあやうい。
遠くから男たちの掛け声が聞こえる。
オオイ、オオイ。
感情の抜け落ちた低い声は、黄泉の国から迎えにきた者たちの呼びかけのようだった。
やはりおれは死ぬのか──。男は死を覚悟した。
ところが、近づいてきた声は男のそばを素通りしていく。
オオイ、オオイ、オオイ、エイ。
黒い影があたりを覆う。男は薄くまぶたをあけた。
「あ……」
目にうつったのは、巨大な龍だ。
生気に満ちた大きな瞳、大きくしなる艶やかなひげ。天に届くかという高さで、龍が頭をもたげ男を見おろしている。
「龍神さま──」
力尽きたかと思った身体が、跳ね起きる。
龍の身体から幾本もの紐が伸び、腰まで川につかった人夫たちが掛け声とともに、その先端を引いていた。
人が龍を捕獲したかのような光景に、男は目をこする。
ちがった。人夫たちが引いているのは船で、龍はその船首だ。頭で理解はしたものの、男は船の壮大さに言葉を失う。
──こんな大きな船があるわけがない。
男は、龍神が目の前を過ぎていくのを、目を見開いてながめていた。
*
「こんなところにいたの」
翼が顔をあげると、厨の入り口で護冬がこちらを覗いていた。煮炊きの熱がこもらぬように出入り口には戸を立てず、布が掛けてある。
水上から風が吹き、護冬の肩上で布がなびいた。
「陛下がお探しよ」
「飲みものを出せと騒いでおいて、今度はべつの用かよ」
翼は、すももをつぶしていた手をとめる。
「護冬、これ代わりにたのんでいいか」
状況をすぐに察したらしく、護冬は厨にはいって擂粉木をにぎる。その黒い瞳がちらりと翼へ向いた。
「また声が低くなったわね」
「そうかな。自分ではそれほど感じないけど」
翼は十三歳になった。前のように歌えないわけではないが、高音はどうしても息苦しさが出る。
「ならいいんだけど」
護冬は翼に代わって、すももをつぶし始める。
翼が外へ出ると、川の風が全身をさらった。風にあおられながら、階段をあがっていく。
「おれは京師に残りたかったのにな」
翼が乗っているのは、前代未聞の大型船だ。
船首には龍の頭を模した巨大な飾りがつき、船の幅は五十尺(約十五m)、長さは二百丈(約六百m)におよぶ。
四階建ての造りで、最上階には正殿や朝堂が、二階、三階には百を超える煌びやかな船室がある。一階には厨や貯蔵庫が完備され、宦官が控えている。
さながら水上を移動する宮殿だった。
皇帝のためにつくられたこの船を、
──龍舟。
という。
この豪華絢爛な船で、皇帝みずから運河をつかって江都へと向かっていた。
階段を上る翼の足どりが重い。南方の出だから船には慣れているし、そもそも大きい船だからさほど揺れない。気分が乗らないのは、船上にいるからではない。
楊広の得意満面の顔を見たくないからだ。
この船や運河を造るための労役で、どれだけの人命が奪われ、どれだけの民が苦しめられたか。翼は宮中にいるので実際に市井の様子を見たわけではないが、街は民の怨嗟の声であふれていると聞く。
──昏君め。
翼には、楊広がこの世の贅を尽くすために皇帝になったとしか思えなかった。
(つづく)