三
「ちょっと付き合え」
気安い楊広の声に、翼は振り返った。
楽譜の整理をしていた翼のもとへ、秋めいた風が流れ込んでくる。
「陛下、そのお召し物は……」
楊広のいでたちを見て、翼はあっけにとられた。動きやすい胡服に、顔半分を大きな眼帯で覆っている。忘れもしない。大興城ではじめて会ったときに着けていた奇抜な眼帯だった。
「まさか、街へ出られるのですか」
「辛気臭くてかなわぬ」
皇太子の楊昭が亡くなった。
今、宮中全体が哀しみに沈んでいる。
「御用でしたら、私がひとりで参りますが。今、蕭皇后をおひとりにするのはご不安でしょう?」
楊昭は病もなく、壮健な青年だった。それがなんの前触れもなく、不調を訴えて息を引き取った。
父母に似て容姿端麗、頭脳明晰。若いながらも、臣下に対しても心遣いがこまやかで、人望も厚かった。愛息を喪った蕭皇后の憔悴ははげしく、それでも動揺する宮中を落ちつかせようと、気丈にふるまっている。
「おれが行かねばならんのでな」
「まさか、お供はわたしひとりというわけではありませんよね」
「お前、ひげから体術を習ったのだろう?」
翼は絶句する。護衛もつけず、お忍びで宮中を抜けだすつもりらしい。
「安心しろ、宦官や侍従どもに根回しはしてある」
「ですが、今は控えていただいたほうが」
「腕に自信がないのか。ひげの楊玄感も大したことがないな」
「そういう問題では」
翼は言葉をにごす。
ひげ先生こと楊玄感は、しばらく前に翼の師から外された。
高官だった父の楊素が亡くなり、楊家の勢力は翳りが見えている。
楊素が亡くなったのは、皇太子楊昭が亡くなった翌日だった。死の直前、ふたりはおなじ宴席に参加しており、皇帝が楊素の毒殺をもくろみ、皇太子があやまって同じ酒を飲んだという噂がまことしやかに流れた。
重臣毒殺の疑惑をむけられる中で、変装して街へ繰りだそうとしているのだから呆れる。そもそも今は息子の喪中だ。
しかし、当の本人は待ちきれぬ様子で「お前が黙っておれば分からんのではないか」などとうそぶいている。
翼はなげやりに言った。
「あとで叱られても知りませんよ」
そもそも眼帯をつけたくらいで変装になるものかと思ったが、厩へ向かう間にすれ違った者たちは相手が天子だと気づかない。目立つ眼帯をつけると、人はそちらに意識がむいて風貌は印象に残らないらしい。そもそも、息子の喪中に皇帝が変装をしてまで街へ遊びに出るなど、だれも思わない。
自分で裁可した通行証で、楊広はすんなりと宮中から抜け出した。
「外でおれの名は出すなよ。旦那さまと呼べ」
「では、旦那さま」
楊広と馬首を並べ、道中を進みながら翼は切々と説く。
「かつて、旦那さまはお父上が亡くなられたその日に、義母に当たる宣華夫人に同心結を贈られたことがございましたね。そんな旦那さまのふるまいを、奥さまは気色が悪いとおっしゃってしばらく口を利いてくださいませんでした。あのときのことを覚えていらっしゃいますか」
「そんなことがあったかな」
「今回は冗談では済みません。奥さまから離縁を申し渡されても私は知りませんよ」
愛息をうしなって、妻が哀しみに打ちひしがれている。そんなときでも、この男は遊びたくて仕方がないのだ。
「まったく不謹慎が服を着て歩いているみたいだな」
翼は皮肉をこめてぼやく。楊広は素知らぬ顔で街並みを眺めていた。
東京は、今年一月にできたばかりの都だ。官人や富豪、洛陽の民などを移住させたばかりで、今もなお塀や橋など内部は建設が続いている。
長安の大興城も先代の文帝が一から造った都だが、東京は大興城とまったく赴きが異なる。まず、東西に流れる洛水を城内にとりこみ、その北と南に街が広がっている。洛水だけではなく、縦横さまざまな河川を内包しており、それぞれが水量の調整や御所の防衛などを担っていた。
翼はこの街を知っている。かつて楊広の屋敷で目にした模型の街並みだ。
「たまには堅苦しい場所から離れるのもよかろう。身体がなまって仕方がない」
「あれだけ駆けまわっていてよく仰いますよ」
長男を喪ってから、楊広は気落ちするどころか、さらに精力的にはたらいた。常人がおなじ動きをすれば一日で倒れている。翼もあれこれ振り回され、慌ただしい日々を過ごしていた。
水のにおいが鼻をかすめる。
江都そだちの翼にとっては馴染みのあるかおりだ。南へ進んでいくと、行く手にきらめく水面が見える。
「陛……旦那さま。ご覧ください。あんなに大きな船が」
向こう岸が霞むほどの大きな川が目の前にあらわれる。
街中を東西に流れる運河で、漕渠と呼ばれる。
楊広は東京と江都を水運でつなぐと、南方からの物資を東京の中へ運びこむために、運河を城内に引いた。
大型船だけではなく小ぶりの舟もある。見渡すかぎり岸辺に船がとまり、翼はその風景に圧倒された。
「見ろ、あれは双胴船だ。より多くの荷が詰める」
胴の部分が二つになっている船で、江都出身の翼のほうが見慣れている。川岸には船乗りのための食事処や屋台が並び、威勢のよい声が飛び交っていた。
「喉が渇いたな」
「果物でも買って参りましょう。槐の木の下でお待ちください」
翼は自分の馬を樹木につなぎ、肆のほうへ進んでいく。
焼いた胡餅の匂いがする。これは北方特有のにおいだ。魚介や香辛料を煮込んだ南方独自の羹のにおいも漂ってくる。城内まで運河が通ったおかげで、南方の産物が手に入るようになったのだ。さすがに茘枝など腐りやすい生ものは見当たらないが、幼いころから親しんできた南方の豆や茸などが目につく。
船乗りの掛け声が聞こえ、南方の食べ物が肆にならんでいるところを見ると、故郷の江都にいるような心持ちになる。
「そうか」
翼は今になってきづく。楊広は、この洛陽の地に、江都を造りたかったのだ。水の流れを血管のようにめぐらせ、北では手に入らなかった南の産物を運び込んだ。
この東京は、江都好みの楊広が作った都だった。
「お兄さん、蒸し菓子を食べていかない?」
あちこちの店頭で女が引き留めてくる。彼女たちの腕をかわし、翼は柿をふたつ買って槐の木へ戻った。楊広のまわりを三人の女が囲んでいる。
「気が利かぬな。ふたつしか買ってこなかったのか」
楊広は三人のうちふたりに柿を手渡す。
「今日の記念に」
一番年長の女人には、腰に帯びていた玉をあたえた。女人たちは、驚いたような顔で楊広と翼を見比べている。玉を手にした女人が夢をみるような顔で問う。
「またお会いできますか」
「運がよければ、またこの木の下で」
なごりを惜しみ、楊広は翼を連れてその場を去る。
「何人だ」
「なにがです?」
馬を引き並んで歩いていると、楊広が唐突に訊いてきた。
「柿を買ううちに、何人の女に声を掛けられた」
自分は三人もの女人に言い寄られたのだと自慢したいらしい。くだらなくて翼は泣きたくなった。
「三人ですが」
「なんだ同じか」
「さらに男ふたりにも袖を引かれましたが」
「男は数に入らん」
「旦那さま、すこしお歳をお考えになってはいかがですか」
風貌など、三十代の男が気にすることではない。楊広はつまらなそうな顔をして前をむく。
「姉上も静訓もみな翼、翼とお前の話ばかりする」
年甲斐もなく、翼を意識しているらしい。
「それをおっしゃるのでしたら、旦那さまは私の鼻をへし折ったじゃありませんか」
楊広はうつむき、首をひねった。覚えていないのだと思うと、より腹が立つ。
「幼少のころ、私はあちこちで可愛い可愛いと愛でていただいていたんです。なのに、大興城に来てみれば、女人が夢中になっているのは旦那さまでした」
「なんの話だ」
「はじめてお会いした寺でのことです。尼さんがいたでしょう」
楊広は呆れて言う。
「お前、あのときまだ八つだったよな」
尼の件だけではない。楊広は、護秋の心を奪った。母親に見捨てられたような痛みはまだ胸にある。
遠巻きに、翼たちを指さす者がいる。すれ違うたびに振りかえる者もあった。
「すこし目立ちすぎたようだ」
楊広は馬首の向きを変える。雑踏から離れ、漕渠に架けられた橋をわたった。
「岸辺を散策なさらないんですか。肆の並ぶあたりは賑やかでしたよ」
「なに、この先のほうが面白い」
橋を進むにつれ、先に人の賑わいが見えてくる。
漕渠の北も活気があったが、向かう先のほうが上回る。
洛陽の城内は、坊とよばれる区画に分かれており、楊広はそのひとつへ入っていった。
門の中は市場だった。絹や乾物の商家が軒をつらね、道端では饂飩や胡餅の屋台が出ている。これが話に訊く通遠市かと翼は合点した。
「行きたいところがある」
楊広は馬にはのらず、手綱を引いて横道へ入っていく。通遠市に来るのは初めてではないらしい。慣れた足どりだった。
次第に人通りが少なくなっていく。いや、人はいるが、道端で寝転がる者や座り込む者の姿が目立つ。いわゆる貧民街だろう。翼は声をひそめた。
「旦那さま、こちらでよろしいのですか」
楊広は無言で翼の前を行く。狭い建物が密集して、人がへやに収まりきらずに溢れている。路上も暮らしの空間になっているようだった。
道端で縫い物をしている老婆の前で、楊広は立ち止まる。
「武陵桃源の酒が飲めると聞いたのだが」
酒を飲まない翼は、武陵桃源の酒がどういったものなのかが分からない。酒の給仕に関わることもなく、ふだんから知る機会がなかった。
「こっちにきな」
老婆は干からびた声で言った。
宮中でも手に入らない希少な酒のありかでも突きとめたのだろうか。楊広は酒を好むが、産地や銘柄にはさほどのこだわりを見せない。その楊広がわざわざ酒のために街中まで足を運ぶのは意外だった。
老婆の手引きで門の中へ足を踏み入れると、すれ違うのもやっとの細い通路になっている。日射しが遮られてうす暗い。突き当たりまで進むと、老婆は右手の壁の入り口へ身を沈めた。腰の高さしかない入り口の先は、地下へすすむ階段になっている。
中は意外なほど明るい。半地下の広間は天井の高い吹きぬけになっていた。談笑していた十名ほどの男たちがいっせいに楊広を見上げた。
床に下りた老婆は、中央の机でひとりだけ椅子に座っている男に耳打ちする。
翼より二つか三つ年上か、まだ二十歳にも満たない若い男である。
「武陵桃源の酒だって?」
前髪で隠れた男の左目が見えて、翼の背がこわばる。動かぬ黒い瞳は義眼だった。
ここは酒肆ではない。盗賊の巣窟といったほうがしっくりくる。気づくと背後の戸口にひとりの男が立っていた。
油断していた。出口を押さえられていた。
「あいにく今日は武陵桃源の酒はない。お引き取り願おう。帰れるものならな」
「では酒が手に入るまで、少し話をさせてもらいたい」
楊広は、義眼の男と話をつけに来たのだ。
――言ってくれれば心づもりをしてきたものを。
楊広も翼も、腰に刀を一本佩いているだけである。そもそもなぜ腕のたつ者を連れてこなかったのか。歓迎されぬ気配のなか、楊広は卓につき、義眼と差し向ってすわる。翼はすぐに動けるよう、楊広の背後に立った。
「名を名乗れ」
「楊広という」
とたんに、空気が一変した。
ある者は仲間と顔を見合わせ、壁に寄り掛かっていた者は背すじを伸ばす。
翼も耳を疑った。第一、名で呼ぶなと翼に命じたのは楊広だ。楊広の名乗りが許されるのは皇帝本人のみ。楊広は顔につけていた眼帯を取った。
義眼の男の右のまぶたが痙攣する。右の目もすこし不自由らしい。
「要件は?」
「東京の役人たちを殺さんでもらいたい。とくに麦や米を蓄える穀倉建設の指揮にあたる官人を狙い撃ちしているだろう。あれでは士気が上がらん。了承するまでおれは帰らぬ」
「なぜひとりで来なかった」
「安心しろ、連れてきたのはこのがきひとりだ。上にはだれも待機させておらん」
「なぜがきを?」
義眼は、ほかの部隊を警戒しているようだった。
「おれひとりでは、天子だと分かるまい。このがきは隋の翼星だ。歌わせてもいいが、声がわり中でな。まあこの乳くさい顔で分かるだろう」
義眼はちらりと翼の顔を見た。翼は義眼にむけて拱手の礼をする。
仲間うちで座っているのは義眼だけで、この男が盗賊の長らしい。翼から見て右手の壁には胡服の男がたち、そばに鋤や竿など農具が数本立てかけられている。
隋は民間人に武器の所有を禁じているから、武器の代わりに置いているのだろう。柄が長く、楊広まで充分刃が届く間合いだ。
厄介なのは正面にいる柿色の袍を着た女だ。最初は男だと思ったが、肩が丸く、喉ぼとけがない。羽織った披風で、腰に武器を隠している。おそらく小弩だろう。この距離で矢を放たれたら一発で死ぬ。階段を上がった出口に立つ男も、見るからに屈強だ。出口と対角にもうひとつ戸口があり、その先にも複数名がひそんでいる気配があった。
同時に仕掛けられたら、翼ひとりでは楊広を守り切れない。
義眼は細い舌で上唇を舐めた。
「噂の翼星か。坊間で娘を誘惑して、宮中へさらっているというじゃないか。皇帝に献上して、用済みになった娘の血をすすっている。だから永遠に少年のままなのだと聞いた」
楊広は興味深そうな声でいう。
「おもしろい話だ。東京に移って、人さらいが増えたのは事実だがな」
「混乱を恨むものたちが言い立てているのさ」
自分がうわさ話のたねになっているとは知らなかった。自分に向けられる怨嗟の声も、今知った。そんなつもりはなかったが、すっかり自分が宮廷の色にそまっているのだと思い知らされる。
義眼の男は「そうだ」と思いついたふうに膝を打つ。
「武陵桃源の酒はないが、いい酒がある。むさくるしい場所までおいでいただいたんだ。歓迎しよう」
女をそばへ呼び、なにやら指示を出す。女は背後の戸口にさがり、盆を持ってあらわれた。運ばれてきたのは酒杯だ。
卓の上へ、十一個の杯が並べられていく。
「酒令はかんたんだ。一杯ずつ好きな杯を交互に飲んでいく。中原から山東までの名酒が揃っている。口にあうとよいのだが」
酒令は酒を楽しむための決まりだ。
通常はくじを引いたり、詩で競争したりして、飲む者を決める。
「もてなしに感謝する」
応じた楊広に、「ただし」と義眼は右目を光らせた。
「ひとつだけ毒が入っている。おれもどれが毒の杯かは分からん。お前の運が良ければ、おれが倒れる。官人殺しも収まるだろう。だがお前の運が悪ければ、隋の天子は永遠に行方不明になるというわけだ」
「陛下、ここは私が」
翼はあいだに割り入った。ところが楊広は呆れた顔を見せる。
「がきに酒を飲ませられるか」
翼は食い下がる。
「どれに毒が入っているのか先方は知っているに決まっています。みずから命を差し出すおつもりですか」
義眼の男は指で卓をたたき、上を指さした。
「表じゃ、皇族や役人は不正をしても護られる。そういう決まりになっている。だがここは地下だ。地下の決まりに従ってもらわねば」
言葉の端々に、重い感情がたちこめている。男は鈍色の眼光で翼を射すくめた。一介の歌い手が太刀打ちできる相手ではない。
「そちらが決めたやり方で構わん。おれから飲んでよいか」
食前酒でも扱うような気軽さで、楊広は手前の杯を手に取る。義眼の男は引きつるような笑みをうかべた。
「そうこなくては」
翼が止める間もなく、楊広は杯をあおった。
「仏見笑の酒か。洛陽の地酒だな」
一杯目は毒酒ではなかったらしい。翼は胸をなでおろす。
いざとなれば、翼には護冬からもらった薬玉がある。しかし、薬玉は一杯分しか持っておらず、これだけ杯の数が多いとお手上げだ。しかも、身に着けてきた胡服は袖がぴったりとして、だれにも分からぬように薬を仕込むのは困難だ。
「生き延びたな」
義眼の男も杯をひとつ空ける。ふたたび楊広が、手前の杯を手にする。しぐさに迷いがない。
――なにか勝算があるのだろうか。
楊広は好色だが、馬鹿ではない。先に毒消しを飲んできたか、勝ち目があるのだろう。翼は成り行きを見守ることにした。
義眼の男は、杯をひとつひとつ指さし、朱雀の絵が施された杯を手にする。杯にはそれぞれ違った文様や飾りが施され、色も異なる。どの杯に毒が入っているのか、義眼の男は見分けがつくはずだ。杯の数は十一で、先に飲み始めた楊広のほうが不利だった。
「これは地黄酒だな。知っているか、地黄は韮とあわせると身体に障る」
護秋から教えてもらった知識を得意げに語る。眼帯の男も、「韮といわれると、酒の肴がほしくなってくる」などと、呑気に返してくる。
やり取りを聞いていると、じつは毒など入っておらず、先方が楊広の度胸を試しているだけではないかという気がしてきた。
冷静になると、室内の様子が目に入ってくる。水路が近いのか、微かに水の音が聞こえる。天井の高さゆえかやけに音が反響して聞こえた。
互いにあと一杯で終わりになる。あとから効いてくる毒かもしれないから、この場を離れたらすぐに毒消しを飲ませたほうがいい。侍医の手配もせねばと、宮中に戻ってからのことを考えていたときだった。
最後の杯を含んだ義眼の男が、急にむせる。
「こりゃ、毒だな」
眉をひそめて、手中の杯をみつめる。
翼は思わず目を剥いた。この男、自分でもどれが毒だか知らずに飲んでいたらしい。そんなことがあるのだろうか。だが実際、男の口の端から白い泡がふいている。
「大丈夫、なのですか?」
つい、相手の加減を伺っていた。
「身体を毒に慣らしているんでね。しんどいが、すぐに死ぬってわけじゃない」
目に涙をためて答える。楊広も動揺を露わにした。
「なぜ……」
「おれは天子さまが苦しみ悶える顔をみてみたい。だがじぶんは安全なところにいるなんて、ゆるい遊びをしたって面白くない」
震える指で、男はおのれの義眼をさした。
「どうしておれが片目になったと思う? こうして度胸だめしをしたからさ」
翼は自分の見込みの甘さを思い知る。相手にしているのは、まっとうな男ではない。いかれているほんものだった。
「お前のような男がいちばん面倒だ……」
ぼやいた楊広の顔を見て、翼は背につめたいものを当てられたようになった。額に汗が浮き、手が小刻みに震えている。
「陛下?」
たいしたことではないとでもいうように、楊広は手の甲をふる。しかし、どう見ても身体に異変が起きている。
翼は義眼の男に詰め寄った。
「お前、うそをついたな」
義眼の男の下唇がゆがんだ。そうとう苦しいらしい。
「そう、毒の杯はひとつじゃねえ。三つだ」
楊広が吐息まじりに言う。
「ひとつはすでにおれに当たったようだ」
味がおかしいと思っても、顔には出さずに堪えていたのだ。
残った杯はひとつ。つまりそれは毒酒だ。
「さあ、最後の一杯はお前のもんだ」
義眼の男は肘をついて身体を支え、愉快そうに楊広を見ている。
「お前も毒に身体を慣れさせているんだろう? もしかしたら助かるかもしれん。これを飲んだら、役人殺しはやめてやる」
机にもたれた楊広の息が、隠しきれぬほどに上がっている。
翼が卓上にある最後の一杯をのぞくと、白くにごった酒が波紋を作っていた。
(つづく)