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 三階へあがったところで、手すりのそばでうずくまる巨体が見えた。熊のような背が痙攣している。

「宇文さま、いかがしましたか!」

 船酔いをして吐いたもので喉を詰まらせたのかもしれない。しかし、振り向いた顔をみて、翼は仰天した。

 宇文述は泣いていた。

「これは……失礼をしました」

 翼は視線をそらす。見てはいけないものを見た気がした。

「やっと叶ったと思ったら、感極まってな」

 宇文述は意に介した様子もなく、頬をぬぐう。目をすがめ、川辺の景色を見やった。

「この船旅のことでございますか」

 翼は拍子抜けする。熊の異名を持つ宇文述を泣かせたのは、このくだらない遊覧船だというのだ。

 風に巨体をさらし、宇文述は語る。

「お前はまだ生まれてなかったから知らんだろうが、隋が陳を平定した際、隋軍は初手で川を制し、勝利を決定づけた。軍の総帥だった陛下は、気運は水のながれが握ると悟られたのだ」

「それで陛下は運河と船を造られたのですか」

 というのは名目で、楊広の一番の目的は遊覧を楽しむためだろう。単に水運を造るためだけであれば、気に入った妃に一艘ずつ船をつくることも、みずから江都へ乗り出す必要もない。つい皮肉が口からもれた。

「陛下のお好きな江都との行き来も楽になりますものね」

 楊広は南朝好みだ。とくに水の都、江都を気に入っている。それで、京師から江都へ遊覧するための運河を欲したのだろう。

 宇文述は鼻でわらった。

「お前には分かるまい。天下を統一した隋にとって、南方の叛乱は脅威だ。いかに迅速に南へ兵を送り込めるかが勝敗を決める」

 翼はくびを傾げる。

「南方で挙兵などありえましょうか」

 陳はすでにほろび、最後の皇帝はその愚鈍さゆえに死を免れ、最近まで大興城で暮らしていた。たしか昨年末に天寿をまっとうしたはずだ。南に残った文官武官も、陳の再興など考えもしないのではないか。それとも、あたらしい王朝がおこる動きを警戒しているということだろうか。

 しかし、翼のつぶやきは風にかき消された。

 飛び交う鳥の影が船の上を行き来している。宇文述は空を見た。

「陛下が即位されたのはついこのあいだ、昨年の七月ぞ。たった一年あまりで、この国を貫く太い血脈をお造りになった。これがなにを意味するのか、お前には分かるまいな」

 皮肉というより、理解を得られぬ無念さをにじませて宇文述はいう。

「空前絶後。天地の開闢から今にいたるまで、これほどの偉業をとげた天子はおらぬ。陛下はこの命を捧げるに値するお方だ。おれは良いお方と出会えたと思う」

 宇文述の大きな目玉が、翼を見おろした。

「しかし、いかに傑物であっても機運に恵まれなければ奇跡は起こらぬ。おれはお前が嫌いだが、本物の福神なのかもしれんな」

 福神と言われて、翼は楊広に呼ばれていたことを思い出す。

「陛下の御用があるのでした。失礼します」

 身を翻し、最上階の正殿へ向かった。高官や宦官が囲む中央に、きらびやかな天子の冠をみつける。

「翼にございます」

「来たか」

 ふりかえった楊広の満面の笑みに、翼の頬がひきつる。

 冠には金の飾りが施され、羽織った大襦うわぎには星を抱く龍の刺繍が施されている。

 身につけるものはどれも華やかで、それがはっきりとした顔だちの楊広に似合っていた。

「飲み物をつくれとお命じになったかと思えば、今度はなんなのです」

「お前の歌を聴きたくなってな」

 楊広のそばに柳貴がいた。翼が宮中に入ったばかりの頃に宇文述からひどい折檻を受けてからというもの、柳貴は寡黙になった。氷の貴公子の名のとおり、つんとすましている。

 どうやら柳貴の琴にあわせて歌えということらしい。

 官人や宦官たちが左右へうごき、みなが囲んでいたものがあらわになる。

 床の敷物の上に、果物やら魚やら、川沿いの土地の産物がならんでいた。すべて各州県に命じて献上させたもので、あたらしい天子の歓心を得ようと、地方の役人たちが民を酷使して土地の産物をかき集めたと聞く。

 どうやら、今まで土地の産物の品評会をしていたらしい。

「ずいぶんな数ですね」

「はじめて見るものもあってな。護秋に教えてもらっている」

 敷物の端に控えていた護秋は手を重ねて小さく礼をする。南方の産物の説明をさせるために、楊広は船の中でも護秋をそばに置いた。翼が船旅に随行したくなかった理由のひとつである。

 楊広は、黒く細長い実を翼に見せる。

「これが南方のはつでな、腹がゆるいときには牛の乳とあわせるとよいそうだ」

 畢撥は辛みのある南方の香辛料で、護秋は医療にも使っている。楊広は感心した表情をする。

「護秋のおかげで、南北で運ぶべき産物が見えてきた。北の高麗人参やらなつめやら、まずは民間でも医療で使えるものから運ぶべきだろうな」

 楊広のそばにいる護秋は、生き生きとして見える。これが護秋の本来の姿で、目にするたびに胸が痛むのは、楊広への嫉妬のせいだろうか。

 楊広が手をあげ、宦官らに命じる。

「すべて開けよ」

 正殿の真向かいと左右の三面の戸が全て開け放たれた。見渡すかぎりの絶景が翼の目に迫る。水の流れがどこまでも延び、川沿いの土手は緑の色がまばゆい。

「柳が美しゅうございますね」

 川べりに柳を植えるよう、楊広が命じて植えさせた。楊広は得意顔でいう。

「柳は病に強いうえ、根が強く張るからな。土手を固めるのに適している」

「景観のためではないのですか?」

 船旅の間、自分の目を楽しませるために柳を植えさせたのだと思っていた。しかし楊広は、今はじめて思いついたかのように言う。

「たしかに眺めはよいな」

 川べりの事故を防ぐために柳を植えさせたらしい。ただの派手好みかと思えば、それなりに考えていたりするから調子が狂う。

 琴を前にした柳貴が、いっこうに奏でようとしない。翼が怪訝に思っていると、楊広が川のながれる先へ視線をおくった。

 右手に、龍舟に似た造りの大型船が現れる。

 皇后となった楊広の妃・蕭皇后のためにつくられた遊覧船だ。船首は角のない龍のみずちで、神々しい威厳を周囲に示している。続いて、朱雀、白虎、玄武と神獣にちなんで造られた遊覧船が船首をすすめ、楊広の船を追い越していく。さらにその後を、隋の各将の乗る護衛船が追った。見渡すかぎりの一面を、数々の船が覆う。

 どの船もきらびやかな装飾がほどこされ、極楽に迷いこんだかと錯覚するかのような景色だった。

「この旅団は遊覧船と護衛船、あわせて五千艘をこえる。せまい部屋に籠っていてはつまらんぞ」

「これを私に見せるために?」

 翼が問うと、楊広はなにもいわず、満足そうな顔をして前を見据えた。

 右をみれば川鳥が羽ばたき、左をみれば魚が跳ね、鱗が銀の光を放っている。翼は思わず手を掲げた。世界がまぶしい。つま先から震えが起こり、光の粒で覆われるような多幸感で全身が満ちた。

 自分は今、とてつもなく大きな翼に乗っている。

 空前絶後と宇文述は言った。命を捧げるに値するお方だと落涙していた。それに似た心情が、翼の胸に一点の染みのように生じ、隅々へ広がっていこうとしている。

 翼は慌てて胸を押さえた。

 ──だめだ。ごまかされるものか。

 大興城の京師から洛陽まで移動した千騎万乗、洛陽から江都にいたる華やかな船旅も、民の犠牲のうえに成り立っている。頭では分かっているのに、心が抗えない。

 今だけだぞ、と翼は心の中で言い訳する。護秋に免じて、今だけ翼星らしくしてやろう。

「陛下の徳が、ひろく天下に行きわたりますように」

 翼は柳貴に目配せをした。

 声が安定せず、長くは歌えない。短い歌をうたうしかない。

 

 こうたいらかにして動かず

 しゆん花満かみちてまさひらかんとす

 

 風流天子こと、楊広の作った詩だ。

 楊広は詩がうまい。口に出したことはないが、翼はこの詩が気に入っている。

 暮れの長江は泰然としてどこまでもつづき、川岸は春の花で満ちてあかるい。

 柳貴の奏でる琴の音が詩の情景をかきたてる。翼はその旋律に乗せるように、身体の奥から音を放つ。

 歌うとき、翼は自分の腹のあたりに、楽器の弦があるような気がする。その弦を震わせ、全身で音を奏でる。音は骨を伝い、皮膚の上を躍った。流れ出た音は船の欄干を越え、水上の風に乗る。

 水面の光が音を彩り、大気が黄金で香った。不安定だった高音も申し分ない。

 

 りゆうつきりて

 ちよう水星すいほしびて

 

 川のさざ波は月をとりさり、満ちあふれる潮は星を帯びて迫りくる。

 歌い終えたとき、爪の先まで身体中は満ち足りて、心がおそろしいほど静かだった。

 翼は自分の唇にふれる。さなぎが蝶に羽化するように、身体が変わった気がした。

 最後の一音をはじき、柳貴が琴から指を離すと、楊広が破顔した。

「翼はおれに玉座と栄光をもたらした。福神に感謝しよう」

 翼は柳貴とあわせ、皇帝に向けて礼をする。

「畏れ入ります」

 ──今のは、なんだったんだ。

 動揺して、おかしなことを口走ってしまいそうだった。

「お飲み物をご所望でしたね。今、お持ちいたします」

 口早に言って、翼はその場から立ち去る。胸が高鳴ってくるしい。心臓が沸きかえるようだった。階段をふみはずしそうになり、踊り場の端でうずくまる。

「声、大丈夫だったわね」

 階下から女の声がする。見下ろすと、護冬が碗の入った箱を捧げて立っていた。

「うん」

「今までで一番いい声だった」

「うん」

「とくべつな鍛錬でもしていたの?」

 翼は首を横にふる。自分でもどうやって歌ったのか、思い出せない。

 ただ、自分の中で何かが開いたような気がした。その感覚がまだ身体に残っている。波打つ心臓の鼓動が、いつまでも耳から離れなかった。

 

 

 その日の夕刻、楊広は船をおりて川辺の離宮へ入った。

 洛陽から江都にいたるまで、運河沿いに四十あまりの離宮が建てられている。

 主だった文官武官は、皇帝に伴い宮殿でやすむ。翼も宮廷楽人として、一室を与えられていた。

 ──いったいなんだったんだろう。

 昼間の興奮がさめず、身体が熱をもったようだった。実際、微熱があるらしく、あたまがくらくらする。

 護秋にいえば熱さましの薬をくれるだろうが、へやから出るのもおっくうだった。汗ばむ胸元をはだけさせ、翼は寝台であおむけになる。自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、すぐに身体をおこした。

 聞き間違いではない。戸を叩く者がいる。

「私です。入れてください」

 聞き覚えのある声に、翼はまよわず戸をあけた。女人が頭から大きな布を被っていた。

「宣華夫人──」

「しずかに」

 宣華夫人は翼の口を押さえ、後ろ手で戸を閉める。へやに翼以外の者はいないと分かるや、切実な声で告げた。

「見張りの侍女の目を盗んできました」

 ただならぬ様子に翼は息を呑む。宣華夫人が手を離すなり、事情を問うた。

「あなたは見張られていたのですか。てっきり私を避けているものとばかり……」

「ときがありません」

 宣華夫人は、翼に迫った。

「昼間、船上であなたの歌を聴きました」

 楊広は同じ船に宣華夫人を乗せた。宣華夫人のために造られた船は別にあったが、心身の加減がおちつかないので、楊広の命でそばに置いたらしい。

「あなたはほんものの翼星です。福神にもなり、儺神にもなる」

「夫人、私もお伺いしたいのです。翼星とは何なのでしょうか」

 しかし、宣華夫人は翼の問いを無視して、一方的に語り続ける。

「わたくしが憎いのは楊広ひとりでした。どつ皇后はおやさしかったし、隋には恨みもない。でもあの──」

 風の音に身をすくませ、我に返ったようになる。まじまじと翼を見つめ、なにか思い留まった様子で言い直した。

「でもあの者は、楊広だけではなく隋という国も憎んでいた」

「あの者?」

 翼は緊張で胃が引きつる思いがした。

「私もあなたも利用されたのです。なんと恐ろしい……」

 宣華夫人は興奮を抑えられぬ様子で、肩で息をしている。今にも倒れそうなその腰を、翼は腕で抱きとめた。

 差し迫った声で、宣華夫人は翼に訴える。

「今すぐ逃げなさい。一刻もはやく。わたくしはそれを伝えにきたのです」

「夫人、落ちついてください。その者が黒幕なのですね。一体だれなのですか」

 宣華夫人の瞳が激しいためらいで揺れる。

「知ればあなたとて無事では……」

「私のことでしたらご案じなさいますな。すでに足を突っ込んでおります」

 宣華夫人は目を閉じる。翼の心臓が高鳴った。

「それは──」

 宣華夫人が一息に言い切ろうとしたときだった。戸が音を立ててひらく。

「これは、失礼をいたしました」

 戸口にあらわれたのは、熊と見まがう巨漢、宇文述だった。

 宇文述も動揺しているらしい。いったん戸を閉めたが、すぐにふたたび戸を開ける。困惑顔で頬を掻いた。

「見てしまった以上、そのなんだ、見逃すわけにもいかぬ」

 かつて楊広を陥れようとした者同士の密会だ。宣華夫人も翼もただではすまない。宇文述は重い息を吐いた。

「主が主なら、侍従も侍従だ。女癖まで似るとは」

「は?」

 翼の口からまぬけな声がもれる。宣華夫人と翼は互いの顔を見合わせた。

 夫人の頬は涙にぬれ、翼は胸をはだけさせて夫人の腰を抱いている。宇文述が宮廷楽人と愛妃の不義を疑っているのだと分かり、宣華夫人と翼の身体から力が抜けた。

「宇文さま、違うのです。夫人がへやを迷われて、そのうえお加減がすぐれない様子だったので、お声掛けしただけなのです。私は十三の子どもですよ」

 とはいえ、十三という歳は難しい。女であれば妻となって子をなす歳でもある。

「あの陛下のお妃に不埒なふるまいをするなど、そら恐ろしい。私にそのような勇気はありません」

 言えばいうほどに怪しい。自分の声が上ずるのを感じた。

 宇文述は巨体をゆらす。

「そうはいうがお前、がきのくせに何人も女官を泣かせているそうじゃないか」

「だれがそんな噂を。私は陛下とちがって節操なしではありません」

 事実、翼は潔白だ。声楽の鍛錬でいそがしく、女人と話す余裕もない。

「なんたる無礼」

 言い放った宣華夫人の肩が震えている。

「私は外の風に当たろうとして、迷っただけです。慣れぬ宮殿ゆえ、当たり前でしょう」

「ごもっとも。ですが夫人、陛下の御耳にいれぬわけには」

「このわたくしが不貞に身をゆだねるとでも?」

 宣華夫人は目をつりあげ、卓上にあった盆を宇文述に投げつける。金切声で宇文述を罵り、その剣幕に翼ですら狼狽えた。

「今日はもう遅いゆえ、お休みください。それがしが、お部屋までお送りしましょう」

 ここは宇文述が引いた。委細は夜が明けてから、皇帝の御前で申し開きをすることになったのである。

 ふたりが去ったあと、ひとりになった翼は床にへたりこんだ。

「面倒なことになったな」

 ただ、宣華夫人の話を聞けば、だれがなぜ自分を京師へ呼んだのか明らかになる。

「まずは護冬と話を共有しておかなくちゃ」

 しかし、翼が宣華夫人から事情を訊くことは叶わなかった。

 翌朝、宣華夫人は寝床で息を引き取っていた。

 

 

(つづく)