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「しかし私には、琴という武器がある。あのいかれた楽団に二年も送り込まれたからな」

黒琴団こくきんだん……か」

 二年という期間が、琴の芸を修めるのに長いのか短いのか、翼には分からない。しかし、隋で一番と称えられる腕が身に着いたのだから、短く済んだといえるだろう。

「死んだ方がましと思えるような修業だったが、今は感謝している。私の琴をお聴きになって、聖上は泣いてくださった。あのとき、私は誇りを取り戻したのだ」

 どれだけ多忙であっても、楊広は柳貴の琴を毎日欠かさず聴く。何でも琴の響きには、身体の疲れをほぐす効果があるという。日々の儀式のようで、同席する翼まで深遠な心持ちになる。

「あの方は隋の天子にして、私のそんだ。聖上にもしものことがあれば、私も生き永らえようとはおもわない」

 その張りつめた顔をみて、

 ――よくないな。

 と思った。

 柳貴の心情は痛いほど分かるが、視野が狭すぎる。

「あんまり思い詰めるなって」

 なるべく空気が重くならないように、おどけて見せる。

 柳貴は一瞥もせず、まぶたを閉じた。静寂をまとった白面に、ふたたび護冬の面影がちらつく。会いたい、と思いに沈んだときだった。

 獲物を狙う蛇のように、柳貴の目が見開く。

「だから、死んでくれ」

 光がきらめく。針だと気づいたときには遅かった。耳のあたりでふつりと音がして、腕がだらりとする。

 退こうとしたが、右半身がうごかず、椅子から転げ落ちる。仰向けに倒れた翼の左肩を、柳貴の踵が踏みつけた。喉、左肩、と翼の身体を針で突いていく。

 叫ぼうとしても声が出ない。服のうえから腰の付け根を刺されると、足も動かせなくなった。

 かたわらに、柳貴が腰を落とす。

「あがいても無駄だ」

 なぜだ、という叫びが声にならない。

「お前が来てから、不吉なことばかり続く。たった九才の姫御まで亡くなった。いつ陛下におなじ禍が降りかからぬとも限らない」

 細い身体のどこにそんな力があるのか、柳貴は翼を抱き上げた。

「お前が儺神となる前に、殺しておく」

 ――ちがう、柳貴。

 翼星を殺しても意味がない。

 すでに星官の史料と過去の例をしらべて分かっている。

 南北朝の国々には、音曲を奏でられなくなったあとに命を落とした翼星もいた。しかし、それで国が立ち直ったという例はない。

 国が傾くきっかけは、やはり天子が暴君であるか否かに尽きるのだろう。

「なぜ私が沈黙を貫いていたと思う?」

 寝台に翼の身体を横たえた柳貴は、ささやくように言う。

「話せばぼろがでるからな。ずっと証拠が残らない殺し方を探っていた。かんの身体で試して、ようやく針のこつがつかめてきた」

 逃げ出そうにも、指一本動かせない。翼の私室はほかの楽人たちの居室と離れているから、人が通りかかることもない。懸命に考えを巡らせ、助かる道をさぐった。

「すこしの水でも、人は溺れると知っているか」

 柳貴の手には針ではなく、水さしがある。

「仰向けになって少し水をながしこむ。胃ではなく肺へ誘導するこつがあってね。苦しいだろうけど、毒殺よりもしぜんな死に見せかけられる」

 柳貴の切れ長の目から、ひとすじ涙がこぼれた。

「ここで死ぬことになるとはな」

 耳をうたがった。自分で手に掛けようとしてよく言う。罵倒してやりたくとも、身体は微動だにしない。柳貴のほそい手が翼の顔へ伸びる。

 ――ここまでか。

 覚悟を決めたときだった。

「柳貴殿?」

 戸口から人の声がする。

 宦官だ。宮中で影のように動く宦官は、足音を立てない。近づいてきたことに気づけず、静寂の中から急に声が聞こえたように感じた。

 柳貴は水差しを寝台のそばの卓に置き、振り返る。

「御用でしょうか」

大家だんなさまがお呼びです。琴の支度をお願いいたします」

 声からして中年の宦官らしい。戸口からこちらを窺う気配がある。

「翼殿はどうされました?」

「疲れて身体が動かぬようです。針で治療を試みておりました」

 柳貴は翼の耳もと、肩、腰とさきほどと同じ箇所に針を打っていく。

「これで楽になっただろう?」

 柳貴はしれっと言う。

 つかみかかってやりたいが、身体が痺れてすぐに動けない。柳貴は身を翻し、へやを出て行った。

 ゆっくりと身体を起こし、胸の前で痺れの残る指を動かしてみる。

 怪訝そうに、宦官が寝台に近づいてきた。

「お身体の具合が?」

「疲れて休んでいただけです」

 柳貴が翼を嫌っていることは宮中では周知の事実で、その柳貴が針で翼を治療するとは、ふつうなら考えられない。宦官の眼にも異様に映ったのだろう。乱れた室内を眺め、ぼそりとこぼした。

「ほんとうに命を狙われるとは」

 言葉にして、すぐにしまったという顔をする。痺れる手で宦官の腕をつかんでいた。

「それ、どういうことです?」

 

 

 

「あの宦官、話してしまったのね」

 茜色の夕焼けを浴びて、護冬はつぶやいた。

 宮中の洗い場で、護冬は楊広の身体を拭った布巾を洗っていた。宦官を伴ってあらわれた翼をみて、護冬はなにがあったか察したらしい。宦官が去って、ふたりきりになると白状した。

「そうよ。敵は翼を狙うと踏んで、宦官に見張りをお願いしていたの」

 翼が護冬を守ろうとしたように、護冬も翼を案じてくれていたのだ。

 護冬は淡々と、布巾を樽にはった水ですすいでいる。

「宦官の見かえりは?」

 なんの報酬もなしに宦官が動くとは思えない。護冬はそっけなく言う。

「蕭皇后への口利き」

 無理を要求されたわけではないと知って安堵する。宮中でつかえる宦官にとって、皇帝と皇后の覚えをめでたくすることは肝要で、ゆえに側仕えの女官に取り入ろうとする。

「翼を京師みやこへ呼んだ者が隋を滅ぼそうとしていると仮定して、翼が儺神にならず福神になったら、危害を加えて歌えないようにするだろうと思ったの」

 言われて気づく。翼は護冬の身ばかり案じていたが、自分が標的になることもありえるのだ。

「柳貴は別口みたいだけれど、助かって良かったわ」

 柳貴が動いたのは、楊広を思うあまりの軽挙だ。

 翼を隋の王朝へ呼んだ黒幕とは性質がちがう。それに翼星にかんする柳貴の知識は偏っていて、やはり独自の犯行だろう。

 護冬は周囲を窺い、翼に身を寄せた。聞こえるかどうかというほどの小声で話す。

「やはり私は蕭皇后が怪しいとおもう」

 翼は洗い終えた布巾を重ね、手伝うふりをする。

「なぜ」

「勘としか言いようがないのだけど。蕭皇后はお香が好きでしょう。昔、護秋姉さんからお香で人を殺す方法があるって聞いたことがあるの」

 護冬の声が風にまぎれる。翼も極限まで声を落とした。

「殺す動機が分からない。宣華夫人は口封じで殺されたとしても、皇太子は蕭皇后のむすこだ。腹を痛めた子を殺すもんか」

「楊広を憎んでいたら、子に愛情がもてないかもしれないでしょう」

「でも、お香なんてその場にいる皆がにおいをかぐだろ。香りで人を殺すなんて無理だ」

「楊広は、毒殺を警戒して口に入れるものには敏感になってる。だから服毒以外に何かがある気がして」

 国の最高峰の薬師が、楊広や皇族の食事に目を光らせている。楊広自身、毒に耐性をつけて万が一に備えているほどだ。

 布巾をしぼり、護冬は顔をあげた。

「私、江都へ行く。お香で毒殺ができるのか、もしできるのだとしたら解毒方法があるのか、護秋姉さんに相談してくる」

「まさかひとりで?」

 護冬は首を横にふった。

「陳出身の楽人たちが帰郷するから交ぜてもらうの」

 気になったらすぐに行動に出るところが護冬らしい。頑固だから、止めたところで聞きはしないだろう。

 護冬は濡れた手を布巾で拭いた。

「翼に渡しておきたいものがあるの」

 腰にさげていた小さな巾着を翼に持たせる。それから、洗濯糊を入れる小さな碗をひとつ手に取ると、中に湯を注いだ。

 右手で碗を寄せ、左の袖で口もとを隠して飲む。袖を払い、空になった碗を翼に見せた。

「全部飲んだように見えたでしょう? でも私、ひと口も飲んでいないの」

「えっ」

 手品のようだった。湯はどこへ消えたのか。地面に流したわけでもなく、袖も濡れていない。

「答えは、巾着の中にあるわ」

 翼が巾着をひらくと、中には灰褐色の粉を固めた玉が三つ入っていた。

 護冬は右袖を揺らし、ぼってりとした塊を取り出す。

「飲む前に薬玉を入れて飲み物を固めてしまうの。固めてこっそり袖に落とせば、飲み切ったように見えるから。もし、湯に毒が入っているかもしれないと思ったときはその薬玉を使って。碗一杯に三個すべて入れるの」

 なんでも、水分を吸収する鉱物、てんぐさや小麦粉で作った玉だという。

「よくこんなものを……」

「事前に毒消しが飲めないときもあるでしょう。少しでも備えになるものをと思って、ずっと考えていたの。冷たい飲み物だと固まりにくいのが難点だけど」

 眉をよせて言うと、何事もなかったかのように汚れた布巾を洗い出す。

 翼が護冬の身を案じていた以上に、護冬は翼のことを考えてくれていた。思いがけない事実に、心が打ち震える。

 深く息を吐き、気を鎮めた。伝えるなら今だ。

「おれは護冬がすきだ」

 護冬の手が止まる。すぐにあたらしい布巾をすすぎ始めた。

「そう」

「いなくても平気ではなかったよ」

 樽の水に手を浸したまま、護冬は翼をみつめた。

「じゃあ、このまま私と一緒に江都へ帰ってくれる?」

 まるで「そこの桶を取ってくれる?」とでも頼むような軽い口ぶりだった。喉笛をつかまれたようになり、言葉に詰まった。

「ね? あなたは楊広を放っておけないのよ」

 諭すように言って、護冬はしぼった布巾を桶にまとめる。

「身辺に気をつけて。楊広にたのんで、護衛をつけてもらいなさい」

「護冬、まだ話は――」

 翼は護冬の肩に手を伸ばす。しかし護冬は翼の手をよけるように、桶を持ち上げた。

「行かなくちゃ」

 そっけなく言って、洗い場を去っていく。

 遠のく護冬の後ろ姿をながめ、翼はてのひらで顔の汗をぬぐう。

 伝えたい言葉の十分の一も言えなかった。

 おまけに護冬が翼に向けるまなざしは、まるで手のかかる弟を見るようだった。

 人けのない洗い場は夕闇に沈んでいく。護冬が立っていたところだけ、夕陽が濃い。たしかに護冬がいたという痕跡を、目が記憶にとどめておこうとしているようだった。

 

 

 

 雪混じりの風が吹きすさぶ中を、翼は駆けた。

「数日前まであれほど元気でいらしたのに」

 すれ違った女官たちの囁きが耳をかすめる。

 大興城(長安)よりはるか西、ちようえきの地で、楊広の姉の楊麗華が病に倒れた。

 悪天候の中、唇を真っ青にした女官が天幕の前に控えている。白い息を吐きながら、翼は伺いを立てた。

「楽平公主はお目覚めでしょうか」

 女官は目配せで応え、翼を天幕の中へ迎え入れる。

 踏み入れた足が一瞬とまった。病床の楊麗華のそばに、柳貴が控えている。翼の殺害が未遂に終わったあとも、柳貴は以前と変わらず翼を無視している。楊広を思うがゆえと、翼も事件を表沙汰にはしなかった。

 翼のすがたを認めるなり、楊麗華は身体を起こす。

 青白いこめかみに、しっとりとしたほつれ髪がついている。頬はこけて、あきらかな衰弱が見てとれた。

 ――これは命にかかわる。

 狼狽を悟られぬよう、翼は努めて笑顔をつくる。

「公主、どうかそのままで。陛下も追っていらっしゃるそうです」

 楊麗華は眉をひそめて、小言をこぼす。

「広の耳には入れないでといったのに。今は親征中なのですから」

 北方で突厥をけん制した楊広は、西方へ乗り出した。

 楊広の狙いは、遊牧民族の谷渾よくこんだ。

 隋から西方へ向かう場合、三つの交通路がある。吐谷渾は、そのうちふたつの交通路と隣接し、西方との交易を脅かす存在となっていた。

 もともと吐谷渾と隋は良好な関係を築いていた。しかし隋はべつの部族をけしかけて吐谷渾を攻撃させ、その弱体化を図ったのである。吐谷渾も隋への不信を募らせ、決戦は避けられぬ状況となっていた。

 そしてこの夏、楊広は吐谷渾に向けて出陣した。東京からとうと名称が変わった洛陽の都城を出立し、黄河を渡ったのである。

「親征と言いましても、隋はすでに勝利を収めております。それにどんなときであっても、楽平公主は陛下にとって最愛の姉ぎみでいらっしゃるのですから」

 遠征ともなれば、将軍に全権をゆだね、天子は京師で勝利の報せを待つ。しかし、楊広は親征する皇帝だ。しかも妃ら皇族をともない公務を続けながら進軍する、血気さかんな天子である。

 対吐谷渾の戦略も将軍任せにはせず、演習もみずから指揮をとった。

 演習を終えて意気揚々と進軍する隋軍に、吐谷渾の隊が奇襲を仕掛ける。しかし隋の斥候がその動きを察知しており、隋軍は四方から敵を包囲した。

 結果は隋の圧勝で、吐谷渾の可汗は命からがら敗走したのである。隋軍はさらに進み、この張掖の地で西域諸外国の王、使者、商人などの歓迎を受けたところだった。

「お祝い事ですから、水をさしたくないのです」

 今、隋は勝利に酔いしれ、得意の絶頂にある。

「陛下がいらっしゃるまで、すこしお休みになりますか」

 柳貴が問うと、楊麗華は柳貴と翼を交互にみた。

「いいえ。ふたりに話しておきたいことがあるのです」

 重々しくならぬよう、楊麗華が気を遣っているのが分かる。だが、自分に残されたときをふまえて、翼と柳貴を呼んだのは明白だった。

 

 

(つづく)