馬車の中から見える景色は新鮮だった。
 視線が高いから、街の人を見おろす形になる。連れだって歩く令嬢たちや荷車を押す商売人、野菜をかつぐ農夫など、様々な人間模様を眺めることができた。
「赤が流行っているのかしらねえ」
 楽団仲間の護春がつぶやく。
 団長の護秋が最年長の二十三歳で、十三歳の双子の護春と護夏、十一歳の護冬、八歳の翼とつづく。
 通行証を持つ護秋は、車夫と車箱の外に座っている。翼はほかの姉たちと車内から外を眺めていた。
「そりゃ、服の流行りも違うだろ」
 窓から見える人々の上着は、たしかに赤が多かった。
 やわらかい日差しが注ぎ、景色に温かみを感じる。南の人は舟に乗るが、北の人は馬に乗る。だからなのか、故郷よりも袴褶はかま胡服ようふくの人が多い気がする。
「お化粧も違うわ。私たち変じゃないかしら」
 護春が不安げにしている。勝気な護夏が鼻をつんとして言った。
「隋の皇子たちは南方好みだって聞いたわ。あたしたちは今のままでいいのよ」
 遊牧民の系統をひく北の男たちは、南方の貴族文化への憧れがある。女人の好みも同じらしい。
 化粧や風俗だけではなく、南と北では気候もちがう。新しい京都は乾燥して、喉が渇く。翼はなんども咳をした。護夏が呆れたようにわらう。
「翼ったら、緊張しちゃって」
「してねえって」
 していた。とても。
 そのうち収まるだろうと思っていた鼓動の音が、朝からずっと鳴りやまない。心臓だけではなく、腹まで痛い。
「強がらないの」
 護春がおっとりとした声でいい、背をさすってくれる。護春はやさしい。雷が鳴りやまぬ夜に、ずっと翼の手をにぎってくれたこともある。
「気がまぎれるように復習でもしましょう。隋の建国までの歴史を」
「そうよ、とうぐうへ行くんだものね」
 横から護夏が、誇らしげに言った。
 護夏は姉妹の仲でもっとも負けず嫌いだ。翼がほかの男児から喧嘩を吹っ掛けられるたびに、いつも加勢してくれる。自分からよけいな喧嘩を呼ぶこともあるけれど。
「翼、三国時代は分かるわね」
 今度は、三姉妹でいちばん年下の護冬が、淡々とした口調で訊いた。翼はうなずく。三国志演義が好きだから、英雄の名前だって言える。
「魏・呉・蜀が天下を争った時代だろ」
 護秋は翼だけではなく、護冬たちにも宮廷楽人に必要な所作や教養を叩きこんだ。護冬は学問が得意だ。不愛想だけれど、頭が良くて頼りになる。
「そう。それから西せいしんが短い間統一をして、また天下は乱れた」
 翼は、学びの成果を姉たちに披露する。
「天下は乱れ、分裂した国々は、南朝と北朝に分かれた。だろ?」
 双子の姉妹が同時に感心の吐息をもらす。
「よく覚えているわね」
「あたしだって覚えられないのに」
 知識を整理していると腹の痛みがまぎれる。翼は得意になって続けた。
「北朝は西魏と東魏に分かれ、それぞれさらに国が替わって、最後は北周が北を統一した。南朝も国の入れ替わりがあって、生き残ったのは大国の陳だ」
 護冬の白肌の頬が、かすかに動く。これでもわらったのだ。表情がとぼしいから、楽団以外の者には分からない。
「ご名答。長い長い南北朝の時代を統一したのが、今の陛下ってわけ」
 統一王朝・隋。
 今の隋の皇帝は、もとは北周の将軍だった。北朝から生まれた隋が南朝の陳を滅ぼし、南北を統一したのだ。
 護夏が熱のある声で、翼をさとす。
「あなたはその隋の国の天子にお仕えするのよ」
 護春や護冬まで目の色が変わる。
 せっかく緊張が和らいだというのに、また腹が痛くなってきた。
「小便いきたい」
 翼が股間を押さえると、ぴしゃりと護夏が翼の手を叩く。
「お股を押さえる癖、絶対に東宮でやらないでよね」
 護春も眉をひそめた。
「朝から何度もかわやへいったでしょう。もうなにも出ないわよ」
 双子のいうとおりだが、どうにも落ちつかない。
 馬車が大きくかたむいて、姉たちがちいさな悲鳴をあげた。琵琶や笛、それぞれの楽器を守るように抱える。
 窓をのぞくと、大きな広場があった。
「あれ、ここって」
 人の流れを眺めるうち、広場ではなく大通りに出たのだと気づく。馬車が数台ならんでも通れるほど道の幅が広い。にぎやかにしていた姉たちも、言葉少なになる。
 行く先に荘厳な門が見えた。
 高くそびえる門楼は、細かな文様の装飾や龍や朱雀など大胆な飾りがあしらわれ、先に広がる未知の世界を翼に知らせているようだった。
 しかし馬車は門ではなく、その脇の小路へ入っていく。
 窓から見える景色は殺風景な土塀に変わった。うす暗く長い路を進むほど、衛士えじの数が増えていく。
 馬車が止まったのは、大きな厩舎だ。馬車を下りた翼は、ものものしい雰囲気に肩をすぼめる。警固兵はだれもいかめしく、厩舎の門には二重の囲いが設けられていた。
 茫然として、護春がつぶやく。
「大変なところへ来ちゃったみたい」
 翼はおそるおそる訊いた。
「もう東宮に入ったの?」
「御所よ。天子のおひざ元」
 振りかえると、琵琶を抱えた護秋がいた。
「東宮じゃなくて?」
 さらに問う翼に、護秋はただ微笑みを返す。
 いわれてみれば、たしかに護秋は宮殿へ向かうとだけ言った。勝手に翼たちが東宮だと思い込んでいたのだ。
 翼たちが護秋から教えられたことは二点だ。
 皇太子にお目通りが叶うこと、そしていつでも歌えるように支度をしておくこと。それ以外の段取りは、すべて護秋に任せきりにしていた。
「こちらへ」
 いんの案内にしたがって、楽団は庭つきの宮殿の一室へ入る。
 部屋には官服を着た男が控えていた。見張られているようで居心地がわるい。護夏が翼に耳打ちをした。
「あの官服の人、きっとかんがんだわ」
「宦官?」
 翼には宦官が何なのか分からない。護夏は思案するように視線をめぐらせ、翼にも分かる言葉で教えてくれた。
「天子の家に仕える特別なめしつかいよ。つまりあたしたち、天子の私的なお部屋にいるってこと」
 護夏とそっくりな顔を、護春は曇らせる。
「でもへんよね。皇太子殿下にお目に掛かるのなら、東宮だと思うのだけど」
「家族なんだから、皇太子が天子のお住まいにいることだってあるだろ」
 けれど、皇太子個人が楽人を呼ぶ場としてはふさわしくない。
「まあ、護秋がついてるんだから、間違いないさ」
「あと数刻でお目通りとなります」
 宦官がみなに告げる。また腹が痛くなってきた。
「おれ、小便いきたい」
 護夏が翼をにらむ。
「だめよ。席を立っている間に呼ばれたらどうするの」
「じゃあ大便」
「あのねえ」
「落ちつきなさい」
 護秋がたしなめる。さすが護秋は腹がすわっている。いっぽう翼は、いっそ殴ってほしいと思うほど腰が落ちつかない。
 ――おさらいをしよう。
 翼は椅子にすわり、目を閉じる。
 天子の居室へ向かうのであれば、皇太子だけではなく、天子や皇后、ほかの皇族と顔をあわせることもある。気を紛らわせるため、翼は皇太子の一家の情報を頭の中でそらんじた。
 皇帝の名はようけん。皇后はどつ。皇后は北周の臣の娘で、若き日に楊堅と意気投合して夫婦となった。
 長女の楊れいは北周の皇太后となっていたが、北周なき今は隋の公主ひめとなっている。
 これから拝謁する皇太子は長男のようゆうで、楊麗華の弟にあたる。優秀との誉れが高い皇子だ。
 翼はそのほかの太子たちの名を挙げていく。大丈夫だ。皇族のだれにあっても、ちゃんと区別がつく。
「よく来てくれた」
 目をあけると、眼帯の男が立っていた。とはいえ今日は眼帯をつけていない。質素だが、仕立てのよい服を着ていた。
「化粧をしているのか」
 男は翼を見おろす。
 化粧は神を下ろすための神事だ。化けることで神を宿すよりしろになる。髪には邪気払いのしん(生花の飾り)と金のかんざしを挿していた。
「そっちこそ、今日は顔を隠さないのか」
「両目で見ておきたいのでな。良いところに来てくれた。これから最後の仕上げだ」
「仕上げ?」
 翼は眉をひそめる。
「これから行く場には、陛下もご臨席なさっている」
 男の言葉に、姉たちが色めき立つ。
 ――ちゃんと歌えるだろうか。
 ふと、不興を買ったときのことが頭をよぎった。聴くに堪えぬと判断されたとき、叱責や追放だけで済むだろうか。もっと重い罰を受けることになったら?
 さしせまった緊迫が、翼を襲う。
「黙っておれば分からんぞ」
 見あげると、すぐ隣で男が腕を組んでいた。簪が光を反射して、瞳の中で金が躍って見えた。
「お前はけっこう可愛い顔をしている。話さなければ、そこそこ賢く見える」
 なぜこの男に励まされなければならないのか。急にむかっ腹がたった。翼は椅子から立ち、にこりと笑ってみせる。
「おれはしゃべっても賢いぞ」
 宦官が「お呼びです」と告げる。翼と男は、同時に足を踏みだした。
「あんたの名前を聞いてない」
「大役を果たしたらな」
 またはぐらかされる。口にするのが恥ずかしいくらい、位が低いのかもしれない。たった五人の楽団は、男を先頭にへやを出る。
 通されたのは大きな広間だった。
 足を踏みいれた瞬間、翼は圧倒された。柱の装飾も天井の造りもきらびやかだ。護夏が翼のわき腹をつつく。
「翼、視線を落として」
 護夏にしたがいつつ、翼はこっそり広間を窺う。前方には壇があり、中央の大きな椅子に男が腰かけていた。
 ――この方が天子か。
 威風があり、まなざしには慈愛の温かさがある。
 江都の孤児が京師まで来て、天子との拝謁が叶った。ここまでの旅程、それよりも長い修業の日々を思い、緊張も気おくれも、翼の心を重くしていたすべてが朝陽を浴びた霧のように消えさった。
 広間の左右には官人らが並び、皇帝の御前にはふくよかな体つきの男が平伏している。楽団はその肥満の男のとなりへすすむ。翼は、楽団の一番端に立った。
 檀上の奥にいた役人が声を高らかに言う。
「この者らが件の楽団にございます。皇太子に招聘されて、江都から参じたとのこと」
「私は一切、存じません!」
 平伏していた男が叫び、翼の身体がびくりと跳ねた。
「この楊勇、謀叛など少しも考えたことはないのです」
 ――なんだって。
 思いもよらない言葉に、翼の頭が混乱する。
 男は楊勇と名乗った。
 楊勇は隋朝楊家の長男、つまり皇太子だ。何か月もかけて旅をし、翼たちが拝謁を夢みた相手は、見苦しいほど涙や鼻水を垂らして床にはいつくばっている。
 姉たちのほうを窺うと、みな顔から血の気が引いていた。さもあらん。ここは糾弾の場だ。皇太子が謀叛を疑われている。
 ――とんでもないことになったぞ。
 天子との対面に心を打たれたのもつかの間、思いもよらない事態が起きていた。

 

(つづく)