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 翼が今日の決行を迎えられたのは、護冬のおかげだ。

 当初は、後宮にいる宣華夫人と連絡を取るのに難儀した。頭を悩ませていたとき、護冬が「嫁ぐくらいなら後宮に入りたい」と言い出した。

 それで翼は、護冬だけに真実を打ち明けたのである。

 ――私があいだを取り持つ。

 しっかり者の姉は、宣華夫人との連絡役を引き受けてくれた。

 まもなく、宣華夫人は楊広に乱暴されたと皇帝に訴える。訴えの信憑性が増すよう、翼はこれまでの楊広の不貞を明かすのだ。

 不貞の訴えで楊広の廃太子まで持ち込めるか分からない。しかし、皇帝が決断できるよう、宣華夫人は皇帝の歓心を得る努力をしてきた。

 翼は椅子に座り、事の次第を待つ。しばらくして、戸を開ける音がした。現れたのは護冬だった。

「護冬、どうした」

 護冬は戸を閉め、小走りでへやを横ぎって窓も閉めた。ふたりきりになると、懐から折りたたまれた紙を取り出す。

「これを見て。楊広から楊素への文よ」

 城内には、ひげ先生こと楊玄感やその父の楊素も控えている。文は、楊素からの問いに、楊広が答えたものだという。

「楊広が宣華夫人のへやへ入ったときに落としたの。ふたりが話している間にこっそり拾ったわ。皇帝が亡くなったあとの国土計画が書かれている」

「ずいぶん勇み足な文だな」

 病床にある皇帝は、民を安ませることを治世の第一としている。

 南北朝の皇帝らは権力闘争と戦にあけくれ、民が疲弊しているからだ。皇帝は民の労役を減らし、穀物を蓄えることに苦心していた。

「楊広は帝位についたらすぐに水運の大工事に取り掛かるつもりみたい」

 工事となれば、民に重い労役を課し、国の貯蓄を浪費する。文に書かれた内容は、父の想いを真っ向から否定するものだった。

「この文が陛下の目に触れれば――」

 皇帝もだれが皇太子にふさわしいのか、思い直すだろう。

 楊広がようやく見せた隙だった。

「私が届ける相手を間違えたふりをして、陛下のもとへ届けるわ」

「いいや、おれがやる」

 ――神仏が背を押してくれている。

 翼はいそぎ、楊広の机へ向かう。文に紙を巻き、封泥をつけ印を押した。

 今、宮殿の警固には楊素が当たっている。温厚な楊玄感の父とは思えない冷酷な男で、企みを知ったら翼たちを血祭りにあげるだろう。そんな危険に護冬を晒すわけにはいかない。

 しかし護冬もゆずらない。

「私が適しているの。女官がお届けの相手を間違えたというのが、それらしいでしょう」

「でも護冬に万が一のことがあったら、おれが困る」

「私も楊広はきらいなのよ」

 そっけない口ぶりに、翼を守ろうとする気概が見え隠れする。翼は急に胸が苦しくなって、護冬を抱きしめた。

「大丈夫。おれがこの文を届ける」

 翼の腕の中で、護冬は身を竦ませた。

「護冬は宣華夫人のもとへ行ってくれ。楊広が乱暴したって騒ぎ立てる役目があるだろう? 失敗しても、おれがぜんぶ責任をとるから」

「ばかね、私が姉なんだから。罰をうけるときは一緒」

 そういって身を離した護冬の顔は淡々としている。

 翼も腹がすわった。へやの前で護冬とわかれ、皇帝の寝室へ向かう。

「急ぎの御用です」

 翼は取り次ぎの宦官に告げた。宦官も、翼が楊広のお気に入りだと知っているから、すぐに中へ通した。

 寝室には、宦官が数人、病床の皇帝のそばには簫妃がいた。ちょうど服薬の時間だったらしく、幸い皇帝は起きている。厨で薬湯づくりの片づけをしているのか、護秋はおらず翼にとって都合がよかった。

「翼、なにがあったのです?」

 簫妃は、手にしていた薬湯の椀を卓に置く。

 翼は簫妃に礼をし、封をしたばかりの文を皇帝へ掲げた。

「殿下から陛下へ。いそぎの文にございます」

 まだ封が乾いていない。中の文をみて、皇帝は首をかしげた。

「これは楊素へ送ったもののようだが……」

 目をはしらせるうち、皇帝の表情が変わっていく。書かれているのは皇帝が亡くなったあとの施策だ。死んだあとの算段など、不敬にもほどがある。しかもその方針は、父の民への想いを否定するものなのだ。

 皇帝は文を手にしたまま動かない。

 にわかに西のほうが騒がしくなった。

「なにごとだ」

 皇帝は眉をひそめる。事情を聴きに行っていた宦官が、皇帝のそばで耳打ちをした。

「まさか、広にかぎって……」

 皇帝は半信半疑の顔をしている。そこへ、動転した様子の女官が駆け込んできた。

「護冬、ここは陛下の寝室です。お許しもなく入り込むとは無礼ですよ」

 蕭妃が咎めたが、皇帝は「よい」と手で制した。

「護冬、いかがした」

 護冬の頬は涙でぬれ、肩で息をしている。ふだん感情を外に出さない分、ただならぬ様子が見てとれた。

 護冬は声を震わせて告げる。

「陛下、お助けください。皇太子殿下が宣華夫人に乱暴を――」

「まさか」皇帝は身を乗り出す。

「今しがた入った宦官の報告はまことなのか」

 簫妃が首を横にふってつぶやく。

「そんなことはありえません。だって殿下は……」

 簫妃の悲痛な声を、翼は「じつは」と大声でさえぎる。充分に皇帝の目を引いてから、簫妃に向かって告白する。

「私は、殿下が隠れて、その、不貞を働かれるのをお手伝いしてきました。まさか、こんなことになるなんて」

「翼、あなたまでなにを言いだすの」

 簫妃はまだ信じられないという顔でいる。

 皇帝はしばし考えるふうにしていたが、

「息子をここに」

 と宦官に言いつけた。

 とはいえ、「息子」がだれを指すのかが分からない。

 事情の分からぬ宦官はおずおずと「皇太子殿下でしょうか」と訊いた。

「広ではない。勇だ」

 皇帝のこめかみのあたりで怒りが脈打つ。

「長男の勇を朕のもとへ呼べ!」

 周囲の宦官が駆け出し、急に室内があわただしくなる。

 ――勝った。これであいつに一泡ふかせてやれる。

 翼は心の中で喝采をさけんだ。

 

 

第三章 運河

 

 

「広です。お呼びでしょうか」

 楊広は、仁寿宮の西の宮殿へ招かれた。

 宮殿の主は父が寵愛する宣華夫人である。

 皇帝の最期が近づいているのを察し、昨夜は、楊広や妃たちで寝ずの看病をした。夜があけて、それぞれ自室にもどってやすんでいる。

 侍女の手引きで、楊広は宣華夫人のへやへ入る。国一番の寵妃は少し仮眠を取ったらしく、くつろいだ衣服で椅子に背をもたれていた。

「お休みになれませんか」

 衝立が複数置かれ、外の明かりをさえぎっている。へやはほのかに甘いかおりがした。祈祷につかう香とはちがう、変わった香が焚かれている。

 勧められるままに、楊広は宣華夫人のそばの椅子に座った。

「わたくし、不安なのです。これからどうなってしまうのかと」

 宣華夫人は、黒々とした瞳を伏せる。

 この妃は、隋がほろぼした陳のだ。皇帝が死ねば後ろ盾もない。楊広は、励ますように言った。

「夫人にはこれまで目を掛けていただきました。この広、その御恩を忘れてはおりません」

 父の心の動きをさぐるため、楊広は宣華夫人に近づいた。つけ届けをして、機嫌をとってきたのである。

 黒い瞳が楊広をさしのぞいた。膝の上にあった楊広の手に、女人の手が重なる。

 ふしぎだ、と楊広は思った。南の女の肌は、見ためは温かそうなのにふれると冷たい。北の女の肌が、その雪のしろさにもかかわらず、温かいのと逆だった。

 女の手が楊広の手をとり、おのれの左頬へと導いた。喉元へすべらせ、喉ぼとけのあたりで止める。

 宣華夫人は楊広に命の緒をゆだねた。生かすも殺すもこちら次第、思うようにしていいということらしい。義理の母、といっても、自分より八つわかい。楊広をみつめる黒い瞳の奥で、いたずらっぽく光が躍った。

 ――そういうことか。

 いつの間にか、侍女たちが姿を消している。

 楊広はなにもいわず、宣華夫人の瞳を見つめ返した。

 無言の間に、宣華夫人のほうがじれたらしい。楊広の手首を両手でいだき、唇にあたった楊広の薬指を口にふくむ。温かい、とは思わなかった。やはりどこかひんやりとする。こそばゆく、つい口から笑いがもれた。

「夫人、殺気が隠しきれておりませんよ」

 宣華夫人のうごきがとまる。楊広は冷静にもちかけた。

「腹をわって話しましょうか」

 音が聞こえるかと思うほど、宣華夫人の顔からすうと表情が抜け落ちていく。色仕掛けが通用しないと分かったか、宣華夫人は楊広の手をはなした。

「お話とはなんでしょう」

「兄楊勇の名を騙ったのはあなたですね」

 楊広の指摘に、宣華夫人はまなざしを鋭くする。

「翼を京師へ呼んだのはあなたなのでしょう? 今もずいぶん仲が良いようですが」

 血相をかえて、宣華夫人がたちあがった。

「だれか……」

 急に駆け出すから、スカートのすそを踏んで転倒した。

「お気をつけて」

 さしのべた楊広の手を宣華夫人は、強く払った。足をくじいて、うごけないらしい。

 楊広は義理の母を抱き上げ、机の上へ座らせる。

「人を呼びますよ」

 声を荒らげる宣華夫人に、楊広は床をゆびさした。

「暴れると、落ちます」

 たびをぬがせると、やはり足首が腫れていた。女のしたの腰ひもを抜き、水差しの水にひたす。水をしぼって足首に当ててやった。

「とんでもない悪童を寄こしてくれましたね。おかげで兄を廃太子にできましたが。あれはどういった童子なのです」

「知っているのだろう? だからお前は張貴妃にこだわった」

 女は胸をそらし前屈みになる。憎しみを湛えた目で、楊広をみおろした。

「陳を滅ぼした隋軍の総大将はお前だった。お前が兄の寵妃を探したのは、あれが翼星だと知っていたからだ」

 楊広は、張貴妃を捕らえるよう将らに命じていた。ところが先に宮殿を落とした将が斬ってしまった。

「たしかに私は張貴妃を探しておりました。見聞のとおり、張貴妃に翼の形のあざがあるのかを確かめたかったのです」

 楊広は張貴妃の遺体をしらべ、首にあざをみつけた。しかし、できれば本人から話を聴きたかった。

 楊広は女のひざを割り、見あげる。

「あの少年は何者ですか。なぜ京師へ呼んだのです」

 隠すのは困難とおもったか、宣華夫人は開き直って打ち明けた。

「いかにも、楽団を京師へ呼んだのはわたくしだ。江都に評判の歌い手がいると聞いて、ぴんときた。調べてみれば、翼のあざがあるという。楊勇のもとに翼星がくれば、さぞお前ががっかりするだろうとおもった」

「私に対するいやがらせですか。隋を滅ぼしたいのではなく?」

「今となっては、隋にたいしてそこまでの憎しみはない。亡くなったどく皇后も、私にはやさしくしてくださった。奪われたのと同じ分だけ恩もある。しかし楊広、お前は違う。お前は陳の都けんこうをことごとく破壊した」

 楊広は、宣華夫人の右の膝を押さえた。

「ひとつお伺いしたい。張貴妃は琵琶の名手と耳にしましたが、宮中で弾いたことは?」

 宣華夫人は眉根をよせた。

「名人だという話は聞いたことがある。だが兄の寵愛を受けるようになってからは、琵琶を手にしたところは見たことがない」

「ありがとうございます。知りたいことは、ほぼ分かりました」

 まつげの長いまなこがすっと細まる。

「張貴妃は傾国の美女だった。お人よしの兄は惑わされたのだ」

 目の当たりにした凶事を思い出したふうに、宣華夫人は身震いをする。市井でうわさになるほど、陳の皇帝は張貴妃におぼれ、結果、隋の進攻をゆるして国を滅ぼした。

 陳国最後の皇帝の妹は、口のはしに妖艶な笑みをうかべて楊広を見おろす。

「あの妖童も、儺神となってお前を滅ぼすだろう」

 楊広は宣華夫人の膝に額をあてる。うつむき、笑いをこらえた。張貴妃とあの悪童をくらべておかしくなったのだ。気を取り直し、楊広は顔をあげる。

「私は、あなたの兄とはちがいます。人の良さなど治世には意味がない。あなたの兄はただの無能で、儺神がおらずとも陳をほろぼしたでしょう。そして、この私は儺神がいても国を栄えさせる」

 宣華夫人の唇がふるえる。

「無能だと? 兄を愚弄するか」

 影が、楊広に覆いかぶさる。宣華夫人のしろい腕が、楊広の首につかみかかった。楊広は床で背を打つ。喉におんなの指が食い込んだ。

「お前が焼いたのだろう。わたくしの国を」

 楊広は宣華夫人の手首をつかむ。起きあがり、女の身体を床にねじふせた。蹴ろうとする足をつかむと、宣華夫人の顔が苦痛にゆがむ。

「腫れが痛むでしょうに」

 足首からふくらはぎへと指を這わせ、ひざの裏に手をかける。さらに太ももにふれたとき、指が歓びにふるえた。はなめらかで、爪の先から溶けてしまいそうなほどあまい。

 ――これが父を惑わせたものか。

 父は、亡き妻に対して誠実であろうとした。偏屈といえるほど固い父の意思を、この甘美な柔肌がくずした。宣華夫人の髪はみだれ、まつげが濡れている。楊広は、父がみたものとおなじ景色をながめた。艶のあるくちびるが、誘うように告げる。

「こわいのか。臆病者め」

 求めてきた女に、求められたものを与えるのが楊広の好みだ。たしかに宣華夫人は楊広を求めている。しかしそれはくらい憎しみからくるもので、もっと純度のたかい熱がほしかった。

 楊広は、うずめた指を離した。

「いまは遠慮いたしましょう」

 立ちあがったとき、へやの外から慌ただしい足音が聞こえてきた。

「殿下、いらっしゃいますか」

「手が離せぬ。あとにしろ」

「陛下のもとに、例の文書が――」

 戸越しに聞こえる声は、女官がどうのと要領をえない。

「なにごとだ」

 戸を開けると、宦官が口角にしろい泡を吹いていた。動転してなんども言葉を噛む。

「陛下の死後について示し合わせた文書が、なぜか陛下のお手に。陛下は激怒なさり、廃太子を呼べと。皇太子を戻すとお命じになりました――」

「しかしあれはここに」

 楊広は胸もとに手をやる。ふところにあったはずの文書がない。自分としたことが、どこかで落としたらしい。

 仁寿宮で使う女官は、宣華夫人の侍女もふくめ、みな手なずけていたはずだ。それぞれの顔を思い浮かべ、ひとりだけ身元が特殊な少女がいたことに気づく。翼の姉だ。

「翼め」

 背後で、宣華夫人が哄笑している。楊広は額に手をあてて調息した。

「あのがき、謀ったな」

 

 

「廃太子の勇を朕のもとへ呼べ」

 皇帝は宦官に命じ、楊勇を再び皇太子とするちよくを発した。

 ――これで楊広の即位はなくなった。

 翼は万感の思いで、目の前のやり取りを眺める。皇帝は楊広への怒りが収まらないらしく、指示をだしては、その合間に息子を罵倒した。病室はひっきりなしに宦官が行き来している。

「護冬、もう大丈夫だ」

 へやの端で、護冬が身体をすくませている。翼はその背を撫でてやった。

「なんてこと……」

 柱の向こうから、女のうろたえる声がする。簫妃が色をうしなっていた。

 夫の不貞を知り、皇后となる未来まで失われようとしている。目の前で起きている事態を受け止めきれないのだろう。身をひるがえし、簫妃は病室を去っていく。

「お待ちください」

 翼は護冬をのこし、簫妃の後を追った。

 病室を出て、簫妃が向かった方向へ走る。楊広は憎いが、簫妃に恨みはない。衝動で首を吊られでもしたらやりきれない。

 回廊の先に、人が集まっている光景が見える。簫妃が宦官らに何やら話をしていた。

「簫妃。どうか、心をおたしかに」

 翼が簫妃の背に声を掛けると、簫妃と宦官らがいっせいにこちらを向いた。

 簫妃が手にしているものを見て、翼は瞠目する。

 今しがた、皇帝が宦官に託した勅が簫妃の手中にある。翼はさらに目を大きく見開く。簫妃のほそい指が、勅をちりぢりに破いている。

「簫妃、なにを――」

「翼、ごめんなさいね」

 簫妃は菩薩の笑みを浮かべた。

「あなたがおいたをしないように見張るのもわたくしの役目なのです」

 ――そんな馬鹿な。

 想像だにしない事態に、翼は言葉を失った。

 簫妃は最後の一枚を破り、おだやかな声で明かす。

「あなたがあの人を陥れようとしていたことも、ごめんなさいね、知っておりました」

 申し訳なさそうに、眉宇を寄せた。

「あなたを罰したりはしないから安心なさい。翼はやさしい子ですもの。あの人がしている悪いことを、わたくしに内緒にしていてくれたでしょう。あんまりいじらしいから、気づかないふりをしておりました」

「ご存知、だったのですか」

 簫妃は、なにもしらない無垢な子、といわんばかりの顔を翼に向ける。翼は分かっていなかった。楊広のような男を愛す女もいる。

「蝶が競ってとまりたがる天下一の花。それが楊広です。あの人が夫であることが、わたくしの誇りなのですよ」

 翼はふるえる指で、簫妃の足もとに散った紙きれをさした。

「天子の勅を破るなんて、ただでは済みませんよ」

 簫妃は首を横にふる。

「勅が仮に大興城へとどいても、楊勇のもとにはぶんじゆつがおります」

 楊広は、腹心の宇文述をここ仁寿宮ではなく、大興城の留守に置いた。楊勇の動きを押さえるためだったのだ。簫妃は幼子をさとすように言った。

「夫の即位はすでに整っていて、あとは陛下の死を待つだけです。あなたがなにをしようと変わりません」

 簫妃の言うとおりなのだろう。どう転んでも、楊広は即位する。

 たくらみは失敗した。いかに宣華夫人が楊広の不法を訴え、皇帝が激怒したとしても、楊広の即位は止められない。

「護冬……」

 姉を皇帝の御前に置いてきてしまった。護冬を逃さなくては――。ふりかえった翼は、驚きのあまり跳びあがった。

 すぐ背後に、楊広が立っていた。

「お前、よくもあの文を父上の目に入れたな。なにも知らぬまま死なせてやりたかったものを。これほど腹立たしいのは、船を壊されて以来だ」

 楊広は翼に近づき、頭にげんこつを食らわせる。しかし頭に痛みは感じない。動揺で、心音が全身に響いていた。

 楊広は簫妃とならび、そばに寄り添う。

「おれの妃は、皇后になる女ぞ。ただうつくしいだけの女ではないわ」

 簫妃は、清楚な笑みを夫に注いでいる。楊広の手が肌のすべらかさをたしかめるように、妻の額を撫でた。

「皇后になっても、母上のようなつまらぬ女にはならないでくれな」

 誤算だ。これまで翼は従順を装い、楊広と簫妃の機嫌を取っていた。しかし、企みは筒抜けで、逆に翼は見張られていたのだ。

 呆然としていると、皇帝の病室のほうが騒がしくなる。宦官らを引きつれ、ふたりの官人がやってきた。ともに立派なひげをたくわえた親子、楊素と楊玄感である。

「殿下、変事にございます」

 父親の楊素が腹に響くような重い声で言った。いやな予感が翼のむねをよぎる。楊広は妻の肩に手を置き、楊素に問うた。

「なにがあった」

 楊玄感も宦官もみな、口をつぐんでいる。その顔はどれも蒼白だった。

「陛下が、床で激昂され――」

 息をのみ、楊素は告げた。

「崩御されました」

 

(つづく)