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 大天幕での宴席のあと、楊広はさらに北上し、啓民けいみんがんの本拠地を訪れた。

 日暮れ前、翼は隋の陣へすべりこむ。草がまばらにはえる大地に、ひとりの男の姿を見つけた。

「先生」

 声を掛けると、豊かなひげが振りかえる。翼の師匠だったひげ先生こと、楊玄感だ。

「まだ私を師と仰いでくれるのですか」

 微笑んだ顔が、やつれている。

 ――お痩せになられた。

 父の楊素が亡くなってから、楊玄感の存在は朝廷で軽んじられる一方だった。

 楊玄感は翼が来た方角を見やる。

「陛下のご用事で外出を?」

「いえ、突厥とつけつの歌い手たちと稽古をして戻ったところです」

 これまでと同じ鍛錬法を繰りかえしても、現状は打開できない。

 それで、べつの角度から切り口を探ることにしたのである。楊広にたのみ、突厥の楽人たちと交流する時間をつくってもらった。

「さすが努力家ですね。で、稽古はいかがでしたか」

 翼は、息を弾ませた。

「まるで別の世界です」

 南方そだちの翼にとって、遊牧の民とのふれあいはすべてが新鮮だった。

 遊牧の民の歌は力づよい。質実で、音調の緩急もたくみだ。南方の歌が多色で情感があるのとまったく違う。

 違うものと触れ合うことで、じぶんの輪郭が見えてくる。決定打となるものはまだ見えないが、あと少しで何かがつかめるような気がしている。

「先生はこちらで何を?」

 ふたりの間を、乾いた風が流れていく。

「この巡幸で失われた命を、胸のうちで弔っていました」

 翼はさりげなく、周囲をうかがった。

 人の耳を気にするような繊細な話だ。幸い人が隠れられるような物陰もなく、だれかに話を聞かれる心配はない。

 楊広はこの北方への旅に伴い、大天幕の建設や街道の整備のために民を徴発した。その数は百万を超える。

 楊玄感が非難しているのは、その過重な労役だ。

「あの大天幕を短期間でつくるために、民は不眠不休で働きました。徴発された民の半数以上が生きて故郷に帰れなかった。せめて心の中で供養をと」

「民を酷使したというご自覚は陛下もおありのようです。ですが、街道の整備は急務でしたし、突厥へのけん制は国益にかないますから」

 つい、なだめるような口調になる。

「以前、あなたは私にこう言いましたね。陛下にとって、自分が目立つことが第一で、民のためになるかどうかは二の次だと」

 それは、楊広の志を知る前の話だ。

 翼は楊玄感のとなりにならび、白茶けた大地を眺めた。

「あのとき先生は教えてくださいました。陛下は、南と北で分断されている物や人の流れをつなごうとされている。陛下が派手好みなのも、隋の威光をひろく示すためなのだと。今になってやっと、先生の言葉の意味を理解できた気がします」

 楊玄感は自慢のひげを撫で、相好をくずす。

「あなたと私とで、考えが入れ替わってしまったようですね。たしかに陛下は非凡な天子であられます。ですが、怖い」

 先月、高官らが誅殺された事件が、翼の頭をよぎった。

 性急な国土計画や過重な民の負担、楊広の派手好みを、文帝の時代からの高官らが批判した。楊広はかれらを逆臣として抹殺したのである。

 翼は楊玄感のほうへ向き直った。

「万が一のときは、私が先生をお守りします」

 楊玄感は力の抜けた表情をし、それから大きく破顔した。

「八歳だった子が、こんな頼もしいことを言うようになったとは」

 咳払いをし、辺りを窺うようにして耳打ちする。

「いつだったか、先生のほうが天子に向いていると言ってくれたのを覚えていますか。笑えない冗談でしたが、すこし嬉しかったのです」

 翼は胸を張って言う。

「今でもそう思っておりますよ」

 楊玄感は人格者で、楊広よりずっと尊敬できる。

「ところで」

 楊玄感は肩をひらき、天幕のほうを指した。

「会わせたいひとがいます。ちょっとだけ寄っていきませんか」

 楊玄感が翼を招いたのは、小さな天幕だった。

 寝支度を済ませた兵がふたり、寝台に横たわっていた。そのうちのひとりを、楊玄感は呼び立てる。初老の痩せた兵だった。

「翼に歌をきかせてやってくれますか」

 老兵は抱拳ほうけんの礼で応じる。身体をゆらして拍子をとり、歌い始めた。

 下手なわけではない。しかしとくべつうまいというわけでもない。楊玄感がなぜこの男に歌わせたのかふしぎに思った。

 歌い終えると、楊玄感は事情を明かす。

「この兵は言葉が話せません。息子を目の前で殺されて、それ以来、言葉が出ないのです」

「ですが今、歌っておりましたが……」

 翼、と楊玄感は言い含める。

「ひとは言葉が話せなくても歌がうたえるのです。幼児をごらんなさい。あなたも言葉を話すより先に歌をうたった。それで歌の才能を見いだされたのでしょう?」

 翼は胸を穿たれたようになった。

 かつて護秋は、翼に打ち明けてくれた。

 ――二歳にして歌唱の才がずば抜けて素晴らしいことが分かりましたから。

 まだ二語、三語しか話せぬうちから、翼は歌がうたえた。

「大天幕の宴席で、あなたが歌えていないように見えたものですから。余計な助言でしたらご寛恕ください」

 目が冴える思いがした。歌うという行いの根本を見失っていたのかもしれない。

 翼はすぐさま後ずさり、楊玄感に拱手の礼をする。

「先生、ありがとうございます」

 

 

 

 六〇七(大業三)年、楊広は大業律令を頒布した。

 律は刑法に、令は政や経済についてさだめた行政法にあたる。

 一から規定をつくるのではなく、父の文帝がさだめた開皇律令を改訂したのである。

 開皇律令は、南北に乱れた国々の様々な価値観を踏まえた優良な法規だったが、生真面目な文帝の性格のあらわれか、厳格にすぎて運用に支障をきたしていた。それで楊広は、刑罰の軽減を試みたのである。

 こうしてつくられた隋の律令は、周辺各国が手本とする法典となった。参考とした数々の国のうちのひとつが倭(日本)である。

 大業律令頒布の翌年、倭の推古天皇が派遣した小野妹子らは、東京とうけい洛陽にて楊広に謁見した。

 その際にもたらされた国書は、

「日出ずる処の天子、書をぼつする処の天子に致す。つつがなきや」

 という一文で始まっていた。

 楊広は呆れ「このような無礼な書き方をする蛮夷の書面があれば、二度と自分の耳に入れぬように」と命じた。中華の皇帝は諸国を従える存在であり、隋の皇帝と倭の王を対等とする書きぶりは看過できない。

 しかし楊広は、帰国する遣隋使に、使者を同行させた。

 なぜなら隋と倭とのあいだには高句麗、百済くだら新羅しらぎの三国があり、うち高句麗は隋への入朝を拒んでいた。

 楊広はすでに高句麗を討つための運河(永済渠えいさいきよ)の開削をはじめており、高句麗と結託せぬように、倭を丁重にあつかう必要があったのである。

 高句麗への進攻準備だけではなく、楊広は国内外の政策を精力的に進めていた。疲れしらずの楊広だったが、今小さな躓きに直面している。

「休んでいただけるまで、動きませんからね」

 翼は、楊広の寝台の前で立ちはだかった。

 昨夜遅くに、楊広が高熱を出した。大事をとって一日の予定をすべて取りやめる手続きをしたのに、この男は翼の目を盗んで二度も寝室から抜け出したのだ。熊の宇文述にみつかり、寝室に連れ戻されたところだった。

「これくらいの熱でくたばるものか」

 赤い顔をした楊広は寝台であぐらを掻き、子どものようにふてくされている。

「熱が下がるまではご公務を休んでいただきます。蕭皇后からもきつく言いつけられておりますから」

 官人の面会も一切禁じている。顔をあわせればすぐに公務の話になるからだ。

「おれと、お前たちとでは身体のつくりが違う。動いているうちに熱は下がる」

 こうやって話しているときすら惜しいとでもいうように、楊広は歯噛みしている。

「働きすぎなんです。北方へ何度も出向いたと思えば、細かな規定までご自身で手掛けられる。異国とのやり取りだって神経をつかいましょう」

 超人の肉体も、さすがに音をあげたのだ。

 翼は寝台のそばに腰を落とし、低い声で囁く。

楽平公主らくへいこうしゆにまた哀しい思いをさせるおつもりですか」

 これには楊広も黙った。

 楊広の姉の楽平公主こと楊麗華は、最愛の孫の静訓せいくんをうしなった。

 翼を慕って、ままごと遊びに興じたあの幼いひめである。山西の避暑地で病を得て、たった九つで急逝した。

 随行した侍医が手を尽くしたが、どれも功を奏さなかった。もし護秋がいればと、思わずはいられない。四人の子を育てた護秋は子どもの病にも通じているし、薬師として宮廷の医師とはちがった手が打てたはずだ。

 しかし、その護秋も体調を崩して宮中を去っている。今は、東京を離れ、故郷の江都で療養していた。

「諦めてくださいませ。熱が下がれば公務にもどっていただきますから」

 人に任せられない性分というのは厄介だ。

 楊広が倒れたことで、楊広ひとりでどれだけの働きをしていたのかを思い知らされた。あらゆる分野の決裁権が皇帝にあり、楊広が一日でも欠けると政がまわらない。

「前から申しあげておりますが、頼ることを覚えてくださいませ。数日程度なら、陛下がおらずとも政事がすすむ仕組みをつくっておくべきです」

「おれをじじい扱いか」

 恨みがましい顔で、楊広は翼をにらむ。

「そうではありません。もしもの備えです」

 ふと馴染みのある清涼な香りが、鼻をかすめる。

「翼の話はもっともです」

 ふりかえると、水差しを手にした蕭皇后の姿があった。

「あなたも今年で不惑でございましょう? もう少し落ちつきをもっていただきませんと」

 背後には三人の女官を従えている。その中に護冬の姿をみつけ、手にしていた手巾を落としそうになった。

「私たちが見張っておりますから、翼は休んでいらっしゃい」

「いえ、私もこちらでお手伝いを」

 同じ場にいれば、護冬と言葉を交わせるかもしれない。

 しかし蕭皇后は有無を言わせぬ語調で言った。

「あなたは昨夜から寝ておりません。翼まで倒れたら困ります」

 蕭皇后の言葉のとおりで、翼が楊広と共倒れになると、さらに関係各所との連携が滞る。ここは従うべきだろう。翼はふかくゆうの礼をした。

「ではお言葉に甘えて失礼を。奥さまに感謝いたします」

 後ろ髪をひかれる思いで、翼は楊広の寝室を去る。

 もう一年は護冬と話せていない。

 身のまわりに不安はないか、それだけでも訊きたかったが、やむを得ない。

 暗澹たる思いで、ひとけのない回廊を渡る。風に巻き込まれた枯れ葉が、くるぶしに触れて流れていった。物寂しい秋の気配が、より心に沁みる。

 隋の宮廷楽人は九つの楽部(隊)に分かれ、居室としてそれぞれの舞台に大部屋が与えられている。ただし、翼と柳貴だけは個室を与えられていた。

 戸を開けて足を踏み入れる。だれもいないはずの私室に、人の姿を見つけて仰天した。

 窓辺に柳貴が佇んでいる。自分がへやを間違えたのだと思い、慌てて外へ出た。しかし、翼の私室はふたつ並んだ右側だ。間違えてはいない。

 恐る恐るへやへ入り、柳貴に尋ねた。

「何か用か?」

 柳貴がへやを間違えるとも思えない。私室を行き来するような仲でもないから、喫緊の用があるのだと察した。

せいじようの御様子は?」

 柳貴から話しかけてきたことに、新鮮な驚きを覚えた。音楽以外のことで、まともに会話をしたのは何年ぶりだろうか。

 ――なるほど。

 楽人は皇帝から呼ばれぬかぎりは、そばに上がれない。翼が看病で楊広に付きっきりのあいだ、柳貴は一日、気を揉んで過ごしたのだろう。

「案ずるな、あの方は常人とはちがう。明日の朝には快復されているさ」

「私には聖上しかいないから」

 しおらしい声に、翼はうろたえる。

 ――おれもどうかしているな。

 色白というだけで、護冬を連想する。自室へ戻れともいえず、柳貴に椅子をすすめた。思えば、こうして柳貴と並んで卓につくのも初めてかもしれない。

「私は罪人の子だ。はじめからがつだったわけではない」

 座ったとたん、急に語りだすから面食らう。ふだんは翼など相手にしないくせに、楊広が倒れてよほど参っているらしい。日ごろの非礼は水に流し、翼はあいづちを打った。

「うん」

 楽戸とは、音楽を専門にする公的な奴隷のこと。罪を得た官人の娘などがかんとして楽戸に入ることが多い。

「もとは北周の官人の家だったんだろ?」

 柳貴は力なくうなずく。

 北周が滅んだのち、柳貴の父は隋の官人となったが、横領の罪で捕らえられた。母とともに楽戸となり、琴の腕で楊広に引きたてられたのである。皇帝のそばに置くには、父の罪状に差し支えがあると、一度他家の養子となってから宮中の楽人となった。

 柳貴は北朝の音楽の流れを汲み、翼の歌は南朝由来のものだ。ふたりを組ませることで、楊広は音楽でも南北の融合を図ったらしい。

 柳貴は、机上で指を組む。琴弾きは爪や指の肌が荒れるものだが、さすがによく手入れされていた。

「父が捕らえられる前、私には幼馴染の姉弟がいてな。とても仲が良かった。将来は家族になるだろうという予感もあった」

 そこまで言って、一度口を閉ざす。ふたたび開いた唇が震えた。

「聖上のお供で狩りに出たことがあってな。偶然姉弟に会ったのだ。なつかしさに感極まって弟に話しかけると、血相を変えて姉が遮った。話してはいけませんと弟を守るように引き離した」

 柳貴は、整えられた指先に、冷ややかな目を向ける。

 もし文官となれば、この指はもっぱら筆を握っていたのだろう。そう思うと胸が苦しくなる。

「家柄も父の官位も、私のほうが上だった。それがどうして違ってしまったのか」

 真実かどうかは分からないが、柳貴の父は冤罪だったと聞いたことがある。

 運命の悪神が指さしたのが、たまたま柳貴だった。そういうことなのかもしれない。

 掛ける言葉も思いつかない。求められていないと思いつつ、慰めを口にする。

「でもおれは、お前の琴が好きだ。お前の居場所は楽団にあるだろ」

 白皙はくせきの顔が鼻で嗤った。

「最初は、楽戸同士であれば打ち解けられると思っていた。とんでもないことだった」

 顎をあげ、すうと目をほそめる。

「この顔は私を人ではなく物にする。男の言うきれいは、自分の物にならないなら殺すという意味だ」

「ん」と翼はくぐもった声でうなずく。

 宮中には、柳貴や翼を天子の寵童と呼んで、蔑む者たちが少なくない。楊広の女好きを知る者であれば笑いとばすような話だが、尾ひれがついて、広がるほどに噂はもっともらしくなっていく。噂を信じ、隙さえあれば力でねじ伏せてわが物にしようとする者が後を絶たず、翼も辟易していた。

 

 

(つづく)