四(承前)

こうよ」

 皇帝が声を上げると、ひとりの男が御前に進み出た。

「ここに」

 よくは目玉がこぼれ落ちるかと思うほど、目を見開く。眼帯をつけていたあの男が、両手を重ねてきようしゆの礼で皇帝に応えたのだ。

「晋王楊広……」

 喉から声をしぼりだした翼を、が「しっ」と咎める。

 楊家の次男。皇太子の弟。

 ――あいつ、皇族だったのか。

「今一度、お前の心持ちを聞かせてみよ」

 天子の言葉に、楊広は声をふるわせた。

「兄上が恐ろしい所業に手を染められる前に、私はなぜお止めできなかったのでしょう。父上、どうぞこの広を罰してくださいませ」

 そのすがたは、誠実で慎ましやかな青年そのものだ。横顔は涙にぬれ、見惚れてしまうほど美しい。苦しげに眉を寄せた佇まいは、心が締め付けられるような切々とした風情があった。

 尼の裸をのぞいていた好色漢の面影は一切ない。

 ――化けやがって。

 翼は開いた口がふさがらず、そのまま顎が取れてしまうような気がした。

 天子は楊広にたずねる。

「つまりゆうは、仏僧に朕への呪詛をたのみ、さらにおのれの即位に向けてあやしげな楽団を呼んだと?」

 呪詛――。

 事の大きさに翼はたじろいだ。

 呪詛は大罪で、それが皇帝に向けたものとなれば、息子であろうとも問答無用で首が飛ぶ。それくらいは、田舎の童子にも分かる。

 答えようとする楊広をさえぎり、皇太子は大音声で叫んだ。

「父上、広の話を信じてはなりません。こやつは皇太子の座がほしいばかりに、私を陥れようとしているのです」

 天子は、長く息をつく。

「しかし勇よ。皇太子に就いてからのおのれの行いを思い返してみよ。朝から晩まで遊興三昧。書も読まず、美食で身体は豚のように肥えた。どう考えても広のほうが皇太子にふさわしい。それとも、広には皇太子として不相応な点があるとでも?」

 あるよ、そいつのぞき魔だもの。

 よほど言ってやりたかったが、声を喉の奥に押しこめる。人の心配をしている場合ではない。翼にも自分たちの立ち位置がなんとなく見えてきた。皇太子の謀叛に関係していると疑われているのだ。よくない流れに、いやな汗が背を流れる。

 楊勇は答えに窮したように、口を開いたり閉じたりした。

「だっ、第一、楽団を呼んだからといってなんだというのです。この楽人らが刺客だとでも?」

「あらためて」

 楊広がしずかに告げる。

「楽団の件、私が申し上げます。この楽人らはちん朝に仕えた宮廷楽団の生き残り。その本分は天子を支えることにございました」

 場の空気がざわめく。

 翼はしゆうを見た。護秋は楊広に出自を明かしたらしい。

「詳しくは、楽団の長から説明させましょう。護秋」

 楊広に呼ばれ、護秋は前に進み出る。天子の御前で拝礼をした。

「聖上にお目に掛かれましたこと、恐悦至極にございます」

 護秋は動じた様子もなく、するすると言上する。

「私どもの楽団は、古来より天子のお側でお仕えしてまいりました。近いところでは陳の王朝に。最後は王朝を滅ぼした後主の側にもおりました。陳が滅んだ今は、細々と江都で暮らしておりましたが」

 とうしゆん、護夏の三人も、固唾をのんで様子を窺っている。

 三人とも面食らっているだろう。護秋が陳の王朝に仕えていたことを知っているのは翼のみだった。陳が滅ぼされたのは十一年前で、双子の姉妹は生まれたばかり、護冬にいたっては生まれてすらいない。

 つまり、と楊広は話をまとめる。

「兄上は、ひそかに天子に仕える楽人をご自身のもとへ招聘なさった。信じたくはありませんが、謀叛の意は明らかです」

 涙で頬を濡らす楊広に、楊勇が声を荒らげる。

「そのような芸者、知らぬといっておろう。大体、陳は滅んだのだ。そんな縁起の悪い楽人を呼ぶものか」

 畏れながら、と護秋が言葉をはさむ。

「太子は勘違いをなさっております。天子が名君であれば、星は福神となり天子をお支えいたします。ですが天子が暗君であれば、しんとなって天子を滅する。ゆえに、陳朝でも賢帝と名高い文帝のもとではよくおたすけし、暴君後主のもとでは王朝の破滅を呼んだのでございます」

 護秋の語りはよどみない。

 翼は、混乱する頭の中をけんめいに整理する。

 ――皇太子の名をかたり、おれたちを京師へ呼んだのは楊広なのか?

 しかし街で詐欺師に追われたのも、寺へ忍び込んだのもたまたまで、楊広との出会いは偶然だった。考えれば考えるほど翼のあたまは混乱する。

 ともかく、と翼は目の前の状況を見据えた。

 楊広は兄を皇太子の座から落とし、取って代わろうとしている。そして、そのために楽団を利用しようとしている。それだけは翼にも分かる。

 ――護秋はなにを考えているんだ。

 楊広の思惑に、護秋が気づかぬはずがない。しかし、護秋は青ざめる姉たちの中でひとり平然としている。

 楊勇が、震える手で護秋や楽団の者たちを指す。

「おぬしら、天子に仕える楽人なら分かろう。天命を受けた真の皇太子を引きずり落とせば、どのような天罰が下るか」

 皇太子に謀叛の意思はない。なんとなくそんな気がする。

 しかし、壇上の天子は迷っているようだった。

 玉座から下りて、皇帝は広間を進む。植物が太陽の動きに合わせて向きを変えるように、座にいるみなが天子のほうへ向き直る。翼も隠れるように姉らの背後へ回った。

 天子は、戸口に立って空を見上げる。秋のつめたい風が頬をなでた。

「父上、この者らをよくご覧ください。このようにみすぼらしい女たちが天子を輔ける星などありえましょうか」

 護秋はゆったりと笑みをこぼす。

「殿下はまだ、私どもの芸をご存じありませんので」

 泣きぼくろの目がちらりと翼を見た。翼の身体が縮み上がる。案の定、皇太子は唾を飛ばして叫ぶ。

「では、その芸とやらを聴かせてみよ!」

 護秋は深く腰を落とし、礼をする。

「仰せのままに。ですが私たちは星の護衛にすぎません。天子を輔ける星とはそこなる童子にございます。翼、おいでなさい」

 急に目の前が開ける。

 頭の中が白茶けて、足もとがおぼつかない。姉たちの手が伸び、翼を天子の御前へと押し出す。

「この子は翼と申します。天のをつかさどる翼星。私たちがずっと護ってきた童子です」

 皇帝は再び玉座につく。見定めるような目つきで、護秋を見おろした。

「ずいぶんな自信だな」

「この命を懸けましょう」

 万が一のとき、護秋は手打ちになる覚悟でいる。

 広間にいる者たちの目が、自分ひとりに向けられていた。

 ――いったい、どうすれば。

 天子の歌い手として認められれば、楊広の企てに加担することになる。そんなのはごめんだ。

 しかし、歌わなければ皇族を謀ったとして護秋が罰せられる。

 翼に選択の余地はなかった。

 天子に向けて、護秋仕込みの礼をする。息を整えると、初冬の湿った大気のにおいがした。

 

 うつくしい人は姿うるわしく

 私を街はずれで待っている

 しかしあたりはぼんやりとして彼女は見当たらず

 頭をかいてうろうろしてしまう

 

 ひとくだりを歌うと、周囲から音がきえた。

 やわらかい高音と力づよい響き。天子や妃たちが息を呑む気配がして、翼は手ごたえを感じた。

 

 現れたうつくしい人は慕わしく

 私に花を贈ってくれた

 赤い花はつややかで

 その人の美しさに喜びがとまらない

 

 頭頂から高音をとばす。旋律をなぞるたび、頭の中で光がはじける。声は大気へ、空気を孕んだ綿のごとくかろやかに、美女の黒髪を走る光のようになめらかに変化する。

 

 野原で摘んだ求愛の花を私に贈ってくれた

 ほんとうできれいで特別な花

 彼女の美しさだけではなく

 彼女の贈り物だからこそ

 

 音は多彩の光となって翼の目前でたゆんだ。まばゆい一本一本を胸もとにたぐりよせて、翼はためをつくる。凝縮した音を一気に開放した。

 最後の一音を放ったとき、翼は恍惚として、満ち足りた気分になっていた。

 だれも言葉を発せずにいる。皇帝のことばを待っているのだ。

「何ということだ」

 天子が困惑したように、言葉をもらす。護秋は明朗とした声で奏上した。

「これが私どもの翼星。りようびんにございます」

 迦陵頻伽は、上半身は翼をもつ美女、下半身が鳥のすがたをした獣だ。極楽浄土にいるという、美声の鳥である。

 天子が玉座を下りて、翼のほうへ近づいてくる。戸惑いをあらわに言った。

「この童子は天の鳥か」

 妃らしき夫人も、つづいて壇上から下りる。

げいてんの声かと思いました」

「勇よ、この童子をだまっておのれの元へ呼ぼうとしていたのだな」

 咎めるふうな天子の言葉に、皇太子はしどろもどろになっている。

 そのさまを見た天子は、顔を横にふって場にいる臣に言いわたす。

「長男の勇を廃太子とする。代わりに次男の広を皇太子に立てよ」

 とたんに役人が動き出す。楊勇は目を見開いたまま、広間から連れだされていく。役人の中でも、落胆し涙する者、歓びを顔にたたえる者、様々な人間模様がみえた。

 翼は皇帝の背後に控える護秋を見つめた。

 ――これでよかったんだろ、護秋。

 護秋は、楊広のくわだてに乗った。翼を天子のそばへ送り込むため、楊広の野心を利用した。

 それが楊広の悪事に加担することになるのも承知で、行動に出たのだ。

 護秋は笑壺に入った様子で、皇帝に献言する。

「聖上、よろしければ、この子をお側に召し抱えてくださいませ」

 天子の歌い手となる、そのときが訪れた。

 翼は息を呑み、天子のことばを待つ。

 ところが、妃が天子に耳打ちした。

「主上のお側に置くには、翼星とそれを護る娘たちは華やかすぎるかと。なにより、陳が滅んだのが不吉」

 護秋が「畏れながら」と声を上げる。

「この子が福神となるか、儺神となるかは聖上次第。隋は南北を統一し、泰平の世を迎えました。福神以外になりようがありますまい」

 護秋が取りなしたものの、妃は難渋を示しており、皇帝も妃の意に逆らう気はないようだった。おそらくこの女人が皇后なのだろう。翼は固唾を呑んでなりゆきを見守る。

「でしたら、こういった形ではいかがでしょうか」

 横から、楊広が口をはさんだ。

「この童子と楽人らは私が引き取りましょう。そこで吉凶を見極め、害をなさぬようであれば、主上に召し抱えていただくのがよいかと」

 次男の提案に、皇后は満足げに笑んだ。

「広であれば、間違えることはないでしょう」

「朕も異論はない」

 異論はない――。天子の声が翼の脳内で轟く。そのひとことは、馬蹄のように翼のこころを踏みつぶした。

 

 

 投げつけたすずり、衝立にあたって大きな音を立てる。

 すぐに女の悲鳴がして、翼は振りかえった。護春、護夏、護冬の三人の姉たちが、へやの戸口で立っていた。

「ごめん。いると思わなくて」

 ばつの悪い思いで、翼はわびた。翼だけ離れにへやを与えられたから、母屋までは聞こえないだろうとおもっていた。姉たちを怖がらせるつもりはなかったのだ。

「派手な音がしたから、様子を見に来たの」

 護春がやさしい声で言って、床におちた碗のかけらをひろう。文鎮や割れた陶器があちこちに落ちていた。壁にまかれた墨が、翼の心の荒れを物語っていた。

「すぐに宮中に入れなかったのはかわいそうだと思うけど、ここまで暴れなくても」

 護夏が呆れた顔をする。

「違うよ、護夏。おれたちは楊広にいいように使われたんだ。おれはそれが許せないんだよ」

 宮中での騒動のあと、翼たちは楊広の屋敷に帰った。ねぎらいの夕餉がふるまわれたが、翼は一切口にしなかった。まもなく日が暮れようとしているが、翼の怒りは収まりそうもない。

「でも」

 割れた碗を拾っていた護春が手をとめて言った。

「夢が叶ったわ」

 そのほおは薄い桃色にそまっている。護春が今の状況に満足しているのだと知って、翼は衝撃をうけた。皇太子となった楊広は、いずれ天子となる。たしかに、翼はいずれ天子の歌い手になれるだろう。まさにそのことが、翼をいらだたせているというのに。

「護春、なに言ってるんだよ。あんなずるがしこい男が天子だなんておかしいだろ」

「でも、廃太子はぱっとしない方だったでしょう?」

 護春は目で護夏に同意をもとめる。護夏はふかくうなずいた。

「私も新しい皇太子のほうが素敵だと思うな。眉目秀麗でいらっしゃるもの」

 翼は耳をうたがった。

「ふたりとも正気か」

「だって」と護夏が首をすくめる。

「とてもおやさしいのよ」

 夕餉には、江都の魚料理が支度された。きけば、故郷が恋しくなった頃だろうからと、楊広が命じたという。

 そんなことで騙されるなんて。いいようのない嫌悪が翼の胸に生じる。

「護春も護夏も、どうかしてるよ」

 双子は同時に妹をみる。

「護冬だってそう思うでしょう?」

「私はどっちでも……」

 翼は頭を抱えた。これでは話にならない。外へと足を踏み出した。

「翼、どこへ行くの」

 慌てて訊く護夏に、翼は刺すように言った。

「護秋のところ!」

 護秋が楊広の企みに乗ったのは、あくまで翼を今の皇帝の宮中にいれるためだ。

 あと一歩で天子に召し抱えられるというときに、楊広が邪魔をした。兄をおとしいれるような卑劣な男に仕えるなどごめんだ。翼が江都へ帰りたいといえば、護秋は従ってくれる。一度、故郷へもどってから、今後の事を考えればいい。

「護秋、入るよ」

 翼は、護秋にわりあてられたへやの戸を引いた。

 目にした光景に、翼は顔に冷や水を浴びせられたようになる。

 護秋が楊広によりそい、胸もとでスカートを押さえている。これほど護秋が男と親密にしているところを見たことがない。

 翼に気づいた護秋の目が泳いだ。

「裙の帯をひっかけてしまったの。それだけなのですよ」

 護秋は言い訳するように言って、胸のあたりで帯を結びはじめる。

 ――なんなんだ。

 京師みやこに来てから、何もかもが変だ。

 楊広は双子の姉をうまく手なずけた。こんどは、翼のいちばんたいせつな護秋に手を伸ばそうとしている。もう我慢ならなかった。

「あとすこしで天子の楽人になれたのに、邪魔をしやがって」

 翼はうなるように叫ぶ。護秋に背をむけられた楊広は、ふきげんな顔で椅子にどっかと腰かけた。

「助けてやったのが分からんのか」

 翼は眉をひそめる。こいつはなにを言っているんだ。

「おれの両親、つまり皇帝と皇后は変わっていてな。異腹の子をつくらず、一夫一妻を互いに誓っている。しかし、北の男は、南の女に弱い。母上はお前の姉たちを警戒していた。あのまま後宮へ入っていたら、お前たちは苦労しただろう」

 隋の皇后は夫への愛情がふかく、嫉妬深い人だという話は、護秋から教えられている。護秋は贔屓目を差し引いても都の妃に負けないくらいきれいだし、三人の姉たちもそれぞれに魅力がある。皇后の不安はもっともだった。

「心配せずとも、天子の楽人にはなれる。このおれのな」

「おれは福神なんかじゃないぞ」

「分かっておるわ。迷信のたぐいは好かぬ」

「信じていないなら、なんでおれを引き取ったんだよ」

「お前は兄上の謀叛の大事な証拠ゆえな」

 翼は息をのんだ。

「なあ、兄君を陥れるために、おれたちを江都から呼んだのか」

 それよ、と楊広は言葉をかえす。

「楽団を京師へ呼んだのはおれではない」

「うそだ」

「うそなものか。兄の廃太子は、呪詛の証拠でほぼ確定していた。お前たちの件は、廃太子をさらにたしかにするための念押しにすぎぬ」

 うそをついているふうには見えなかった。とすればだれが翼らを呼んだのだろう。

「仏寺でおれのもとへ飛びこんできたのはお前だ。そういう運命なのだろう」

「あんたは尼さんの裸をのぞいていただけだろ」

「そんな品のない真似をするものか」

「じゃあなぜあんな場所に――」

 自分で言いながら、引っ掛かりをおぼえた。あの寺は、皇室にゆかりのある寺だった。もし楊勇が贔屓にしている寺だったとしたら――。

 黙り込んだ翼に、楊広は意味ありげに笑んだ。

「お前、八つにしては頭がまわるようだな」

「やっぱり……」

「おれは寺で呪詛の証拠を仕込んでいた。内通していた尼となごりを惜しんでおったところへ、お前が飛びこんできたというわけだ」

 尼の案ずるような目。うるんだ瞳。あれは翼に向けられたのではない。楊広を案じていたのだ。そんなこと知りたくなかった。

「おれ、あんたの歌い手にはならない」

「もう遅い。お前はすでにおれの手中にある」

「知るか!」

「知るも知らぬもない。翼星は、おのれの意思にかかわらず天子の手に収まるという。実際、お前はおれのもとに来た。むろんおれの意思も介在していない」

 楊広は自身の手に目をおとし、それから翼を見つめた。

「おれは、この隋を史上もっとも豊かな国にする。お前はおれに従えばいい」

「いやだって言ってるだろ!」

 翼は肩で息をしている。服を直した護秋が、楊広の背後に控えていた。

「翼、言葉を改めなさい」

 とがめる護秋の声に、翼はうろたえる。

「護秋はこいつの肩をもつのか」

 人はみな翼の容姿をほめて、言うことを聞いてくれる。少なくとも護秋は、どんなときでも翼の味方をしてくれると思っていた。

 楊広は、肩越しに護秋を見上げた。

「礼儀作法も仕込まねばならんが、まずは教養だ。こいつはさといくせに教養がない。呉越同舟もしらぬのでは困る」

「おおせのとおりです」

 ふたりの親密なさまに、翼はたまらなくなった。

「おれは翼星になんてならない!」

 言い捨てて、へやを飛びだした。

 

(つづく)