二
「まだ宇文は来ぬのか!」
怒鳴り声と共に、書斎の戸が開く。戸の前に控えていた翼を、楊広が頭ごなしに叱りつけた。
「このおれを待たせる気か!」
「先ほどお話を終えたばかりでは?」
宇文述ならつい先刻まで書斎で一緒だったはずだ。楊広のこめかみに青筋がたつ。
「ばかめ、熊ではなく蜂のほうだ」
ふたたび落ちた雷に、翼は身をすくめた。
「すぐにお呼びします」
同じ宇文姓でも、建築家で高官の宇文愷のほうだった。熊の宇文述とは家系が異なり、体格も性分も違う。顔はまばらに日焼けし、鼻が針のようにとがっている。風貌が蜂の尻に似ているというので、「蜂」の二つ名で呼ばれていた。
江都で年を越した楊広は、春のうちに船旅から帰還した。
この正月には、従来からあった洛陽城の西にあたらしい都・東京城が完成した。楊広はこの東京に洛陽の住民を移住させ、自身も朝廷をうつしている。
真新しい木のにおいのする書斎で、楊広は順番に関係する官人を呼び、案件を片づけているところだった。
「もうよいわ。先に裴矩と話す」
「まだいらしていませんよ」
血走った目が翼をにらむ。
「書斎の前へ呼んでおけと言っただろう」
「裴さまは西方との往復でおつかれですから、お呼びするのは直前でいいとおっしゃったのは陛下ではありませんか」
裴矩は楊広の腹心だ。外国の商人たちから、西方の国際情勢を聞き取る役目を与えられている。
楊広は、書斎の前にならぶほかの高官を呼んだ。
「今いるのは、野豚か。入れ、先に話を済ませるぞ」
野豚と呼ばれた高官は数名の官人を伴って書斎へ入る。戸が閉まったとたん、中から怒鳴り声が聞こえた。
翼は小声でこぼす。
「あわただしいやら、せわしないやらだ」
裴矩を呼びに使いをだすと、庭の向こうから、複数名の工人を引き連れて官人が向かってくる姿がみえた。宇文愷だ。
「これは遅れてしまったかな」
くったくなく笑う顔は、やはり蜂の尻を思わせる。
「いいえ、宇文さまは予定よりはやくいらっしゃいました。陛下がせっかちなのです」
「陛下は一日でふつうの人が十日でやるおしごとをなさるから、並大抵の者じゃ側仕えは務まらない。翼はたいしたものだよ」
「いえ、間違えてばかりでお恥ずかしいです」
宦官や吏員では動きがのろいといって、楊広は翼を召使いとしてこき使っている。要領がよいわけではなく、たんに叱られるのに慣れただけだ。
「宇文さまこそ、いつもせわしくされていますね」
いまも書斎の前に着くなり、工人たちに図面をもたせ、なにかを書きつけながら翼と話していた。
「宇文さまは、どうしていつも的確でいらっしゃるのです」
宇文愷は頭の回転が速く、しかも間違えない。数字の計算も、時間にも正確だった。
手を動かしながら、宇文愷は翼にほほえむ。
「きみの身長は五尺三寸(約一五七cm)、股下は二尺四寸(約七一cm)、体重は六十斤(約四十kg)だね」
言い当てられて、翼は目をしばたたいた。
「ぴったりです」
宇文愷はとがった鼻を得意げにすする。
「でしょう? 私は目測を間違えないので」
手だけではなく、口までめまぐるしく動かす。
「そんなきみが、書斎を移動するのに、どれほど刻が掛かるか。きみは声楽をやっているからか体幹はしっかり、重心をかるく落として動く。役目のときは早足で進むから、殿下の書斎から宮殿まで一刻もしないうちに到着する……と、いつもこんなことを考えながら過ごしているからだよ」
翼はあっけにとられる。ただでさえ過密な公務をこなしているのに、その最中にまた別の思考を展開させているのだ。
「頭の体操というか、まあ趣味みたいなものだね」
と、あっけらかんと言う。
「あの……以前陛下が大興城にお持ちだったお屋敷に、からくりの戸があったのですが、あれも宇文さまが手がけられたのですか」
「陛下がご自身でお作りになったのでしょう。要領のよい方ですから、すこしご説明するだけですぐにこつをつかんでしまわれます。まったく、こちとら物づくりの専門だというのに、面目まるつぶれですよ」
宇文愷は筆を走らせながら、楊広の書斎をながめた。
「陛下はおそろしい方です。この書庫にある膨大な量の書物を読まれ、その中身が頭に入っておられる。学者顔負けの知識をお持ちで、つくる詩も一級品です。それに、あの美丈夫でしょう」
ちょっと腹が立ちますよね、と宇文愷は小声でつけくわえた。
「宇文さまこそ、大興城だけではなく、この東京まで設計されたのですから、常人ではありません」
おべっかを言ったわけではない。
宇文愷は超人だ。今、使いを出して呼び出している裴矩もしかり、楊広の側近はみな、三面六臂の働きをしている。
「都城造りも楽しいものでしたけれど。私ね、もっとすごいものが作れるんですよ。一応、この道の者ですからね。物づくりだけは陛下には譲れません」
宇文愷が得意顔をみせたときだった。前触れもなく、書斎の戸がひらく。楊広が戸口から姿をあらわした。
「おれは物づくりを専門で学んだわけではないからな。お前がおらぬと困る」
中で宇文愷と翼の会話を聴いていたらしい。翼はそっと宇文愷にたずねる。
「なにを作られるのです」
宇文愷もこっそりと返してくる。
「できてからのお楽しみです」
宇文愷が筆をおさめ、書斎へ入ろうとしたときだった。
今度は汗だくになった小柄な男が書斎へ向かってくる。裴矩だ。慌てて来たせいか、冠がずれている。
「裴矩はそとに待たせておけ。蜂との話はすぐにおわる」
そう言って身をひるがえした楊広の足が止まった。庭を振り返り、目をすがめる。
楊広の目は翼の背後、さらに先を見つめていた。
「いかがなさいましたか」
尋ねる翼に、楊広は言い捨てる。
「待っていろ」
到着したばかりの裴矩を置き去りにして、楊広は庭のほうへ向かっていく。
「お待ちください」
翼が楊広の背を追うと、宇文愷と裴矩もあとに続いた。楊広は植え込みをかきわけて進んでいく。急に立ち止まるから、三人いっしょに楊広の背にぶつかりそうになった。
「姉上」
先ほどの不機嫌はどこへやら、楊広がさわやかな声をあげる。
翼が楊広の背後から覗くと、回廊をわたってくる女人たちの一行が見えた。楊広は軽い足どりで回廊を進み、女人たちと落ちあう。
「これは楽平公主」
宇文愷が両手をあわせ、揖の礼をする。
楊広の姉の楊麗華だ。
楊広に似た目鼻立ちのはっきりとした顔だちで、化粧っけはなく、頬にそばかすが散っている。その手には甲を覆うほどの大きな傷があった。
「休憩でもと思って焼き菓子をつくったのですけれど、お忙しそうですね」
楊麗華の背後に、提げ重箱をもった侍女たちが控えていた。楊広は「とんでもないことです」と大仰な手ぶりで姉を引き留める。
「談義が終わり、ひまを持て余していたところなのです。そうだな?」
同意を求められた宇文愷が「ええ」と日焼けした顔にまるい笑みを浮かべた。
「今日いただくべき決裁はすべて済みましてございます」
楊広と宇文愷のやりとりを見て、裴矩が目を白黒させている。
「今日は天気もよいですから、外の東屋でお話をいたしましょう。翼、急ぎ支度を」
これで談義は夜にずれ込むなと思いながら、翼は満面の笑みで応えた。
「かしこまりました」
*
池のほとりの東屋で、ささやかな茶会が始まった。
にぎやかな場を好む楊広にはめずらしく、座の支度が済むと、すぐに翼以外の侍従を下がらせる。
「なんてことのないお菓子なのに、この子が欲しがるのです」
机の上には、胡麻をまぶした小麦の焼き菓子が並んでいる。
「私は、姉上が作ってくださるこの胡麻の焼き菓子が一番好きなのですよ。ひとついただければ、三日は不眠不休で働けます」
翼は内心げんなりとする。菓子を食わなくても、楊広は三日なら徹夜で動く。さらに働きどおしとなれば、付き添う翼のほうが倒れてしまう。
「まあ大げさですね」
楊麗華は品のある笑みをうかべる。
隋朝の楊家は、北朝最後の王朝、北周の重臣だった。
楊麗華は北周の皇太子の妃となり、のちに皇后、そして皇太后となった。隋が北周を滅ぼしたのちは、隋の宮廷にもどり公主として暮らしている。一国の皇太后だったとは思えぬほど、楊麗華の身辺はつつましい。自ら厨に立っては楊広の好物の菓子を焼いたりして、しずかに日々を過ごしていた。
「翼もあがりなさい。私たち三人しかいないのですから、かしこまらないで」
「私がいただくわけには」
「いいのよ。あなたは広の福神ですもの」
「お言葉に甘えなさい」
翼を促す楊広の表情がやわらかい。妻の蕭皇后にみせる顔とも違って見えた。
「では、失礼いたします」
楊広と楊麗華、両人に揖の礼をしてから、翼は席につく。
袖で口もとを隠し、楊麗華が取り分けてくれた菓子を口にする。宮中の楽人らしくと、蕭皇后から躾けられた作法だ。
「とても美味しいです」
歯ざわりはさっくりとして、味は素朴で飽きがこない。やさしい甘みに、頬がゆるむ。
楊麗華はにっこりと笑んだ。
「いつも静訓のおままごとにつきあってくれて、翼には感謝しております」
「私でお役に立てるのでしたら、いつでも」
李静訓――楊麗華の孫娘だ。今年で六つになる。
楊麗華には、北周の皇帝との間にもうけた娘がおり、李静訓はその子に当たる。楊麗華が宮中において育てるほどの溺愛ぶりだった。
その李静訓が翼を気に入って、ままごと遊びにまねくのだ。
「静訓ったら、将来は翼の妻になるのだといって聞かないのですよ。その表情や口ぶりがませていておかしいの」
「お前、静訓に手を出したらどうなるか、分かっておろうな」
冗談めかして言う楊広の目が笑っていない。翼は顔をしかめた。
「まだ六歳の女児ですよ」
「あと五年もすれば静訓も年頃だ。今から念を押しておかねばな」
「翼の作法は蕭皇后仕込みですから、わたくしはなんの不安もありません。それよりも、静訓がちいさいうちにたくさんきれいなものや夢をみせてあげたいのです。翼はあの子にとって貴公子なのですよ」
李静訓には北周と隋の皇族の血がながれている。血筋は尊く、楊麗華の孫だけあって顔だちも愛らしい。ふるまいにも自信がみち、これが宮中そだちのひめかと感嘆させられる。
「姉上がついていらっしゃるので、翼に不埒な真似をさせることはないと思いますが」
ふだんは官人たちに怒鳴り散らしている楊広も、姉の前ではしおらしい。
楊麗華はなにかに気づいたふうに、翼へまなざしをむけた。
「声が安定してきたようですね」
「お恥ずかしながら、まだ本調子ではないのです」
「成長とはそういうものです。じぶんが翼星だと気にしすぎるのもよくありません。政変やら起こった出来事はなんでも、自分のせいではないかと疑ってしまう。でもこう考えればいいのです」
一瞬の間をおいて、楊麗華はささやく。
「わたくしの知ったことか、と」
翼は声を立ててわらっていた。
「これは失礼をしました。そこまで達観できるようになれれば良いのですが」
「だって、ほんとうにわたくしたちに責はないのですから。だからわたくしは、自分のしあわせをたいせつにすることにしたの」
そこまで聞いて、翼は首を傾げた。
「わたくしたち、といいますと?」
「話していなかったかしら。わたくしが北周の翼星だったと」
「えっ」
驚きのあまり、指を皿に引っかけていた。
「落ちつけ」
楊広が翼をとがめ、卓上にばらまいた菓子をあつめ始める。
「失礼をいたしました」
動揺で、片づけをする手がもたつく。自分のほかに、しかもおなじ宮中に翼星がいるなど思いもしなかった。
まるで自分の不始末のように、楊広がわびた。
「姉上、申し訳ございません。翼がこぼした菓子は私がいただきますから」
「いいのですよ、まだたくさんありますから」
結局、楊広と翼でばらまいた菓子を腹におさめた。しかし楊麗華の話が気になって味が分からない。菓子を飲み下し、翼は尋ねる。
「楽平公主が翼星でいらっしゃったとは存じませんでした。楽器はなにを弾かれるのですか」
「琴です。七絃琴」
とはいえ、宮中で楊麗華が琴を手にしたところを見たことがない。いや、知りたいのは楽器云々ではない。翼はもっと本質にかかわる問いを向けた。
「公主、どうかお教えください。翼星とはなんなのでしょうか。福神になるか儺神になるかはどのように決まるのでしょう」
南朝の陳の翼星は、隋が攻めた際に、隋の将軍によって斬られた。楊麗華は、翼が目にするはじめての翼星だ。
机の下で、翼の足を蹴る者がいる。
「翼、その話はまた今度だ」
楊広が目で牽制してくる。しかし楊麗華はかるい口調でとりなした。
「わたくしは構いませんよ。教えてさしあげましょう」
楊麗華は翼のほうへ身体を向ける。翼は居ずまいをただした。心音がしだいに速まっていく。
「翼星は、翼の痣を身体に持つ楽人です。南北に分かれていた時代の王朝にも、かならず翼星が一国にひとりいたと聞きます。私は琴が得意でしたから、北周の皇帝、つまりは夫に翼星として仕えました」
「ですが今は演奏はなさっておられませんよね」
翼の問いを遮るように、楊広が咳払いをする。
「姉上、そろそろ書斎に戻ろうと思います。翼も一緒に」
「ではあなただけいってらっしゃい。翼はわたくしとお話をしているところですから」
「翼も連れていきたいのですが」
「広」と楊麗華がさとすように言った。
「あなた、翼に話をしていないのですね。わたくしの話を」
「翼は子どもです。話すのはまだ早いでしょう」
「静訓に手を出すなと釘を刺したのはだれだったかしら。翼が一人前の殿方だと認めているのでしょう」
楊麗華の返しに、楊広は鼻白む。姉のほうが一枚うわてだ。楊麗華は口もとを押さえて笑みをこらえ、ふたたび翼のほうへ向き直った。
「お話ししましょう。わたくしの拙い話でよろしければ」
袖を引いて手の甲の傷を見せる。
「わたくしは皇后として翼星として、宮廷が美しい琴の音で満ちるように努めました。ですが、怪我をして思うように琴を弾けなくなりましてね。それを機に、北周は滅亡の一途をたどったのです」
聞き覚えのある話だった。
――音楽を奏でられなくなると、翼星は儺神になる。
いつ、だれからその話を聞いたのか、翼は記憶の糸をたぐり寄せる。
相手はたしか柳貴だ。陳の翼星は琵琶を弾かなくなり儺神となったと、翼を警戒していた。あのときは、翼が憎いゆえにでたらめを言っているのだと思ったが、真実なのだろうか。
翼は礼儀も忘れ、身を乗り出す。
「翼星が音を奏でられなくなると、国が亡ぶのですか」
楊麗華に迫ったときだった。突如、楊広が拳で机を叩く。
「黙れ」
翼は唇まで凍りついたようになる。
あたりを焼き尽くしてしまうような激しい怒りが翼へ向いていた。
楊麗華が楊広の肩に触れてなだめる。
「広、おやめなさい。ごめんなさいね、翼」
「いえ、私こそ失礼を」
口の中が渇いていた。情けないほど声が擦れている。
虎の尾を踏んだかのような恐怖に、身体がすくんだ。
「国事がうまくいかないのは、わたくしの琴のせいだと夫が責めたものだから、広はいまだに腹を立てているのです」
翼は、自分が触れてはいけないものに触れたのだと理解した。かつて柳貴が折檻を受けたときと同じだ。柳貴も翼星が国を滅ぼす危険性に触れ、楊広の怒りを買った。
「わたくしは天文官からこう聞きました。天子が暴君となると、翼星は思うように音を奏でられなくなり、儺神と化す。悪鬼を滅ぼす破壊の神に」
やさしい面立ちに、哀しみの影がよぎる。
「夫は昏君そのものでした。わたくしが夫を支えようとどれだけ努力をしても、国が滅ぶ流れを止められませんでした。儺神となった翼星は昏君を滅することしかできないのです」
「姉上」と楊広が強く言い含める。
「北周が滅んだのは、単に天子が無能だったからです。姉上は関係がない」
楊麗華は過去を思い返すように遠くを見やった。
「あの人はほんとうに困った人でしたね」
楊麗華の夫、北周の宣帝は奇人だったと聞く。
楊麗華という美しく献身的な皇后がありながら、ほかに四人も皇后をたてた。後宮に妃を何人抱えたとしても、皇帝と対になる皇后はひとりというのが常識で、あまりの身勝手さに皇族だけではなく臣下まであきれたという。
しかも、即位した翌年には七歳の息子に帝位を譲り、自分は酒色にふけった。放蕩の暮らしがたたったか、さらに翌年、二十二歳のわかさで急死した。遺されたのはたった八歳の皇帝で、この子が北周の最後の皇帝となる。北周は滅ぶべくして滅んだのだ。
楊広は気を鎮めるように、短く息を吐く。
「私は、姉上にこの世のすべての幸せを楽しんでいただきたいのです。昔の話はこれくらいに」
楊麗華は北周を滅ぼした父の文帝を恨んだらしい。文帝は、楊麗華にあたらしい夫をもたせようとしたが、楊麗華はかたくなに拒んだと聞く。
楊麗華は微笑み、翼に語りかける。
「翼、ご安心なさい。広は万能の天子です。あなたが儺神となることはありません。そうですね、広?」
「むろんです」
迷いなく、楊広は答える。
――そうか。
翼はひとつの真実に行きついた気がした。
なぜ、楊広が宣華夫人にあれほど気を使ったのか。
楊広は亡国の妃やひめに厳しくできない。自分の姉と重なるからだ。
楊広自身、その心理に気づいていないように思えた。
機を見計らったように、楊麗華が切り出す。
「ねえ、広。いつか翼の歌にあわせて琴を弾いてくださいな」
「陛下が、ご自身で琴を弾かれるのですか」
驚きのあまり、声が裏返っていた。
楊広は琴を好み、毎日柳貴に琴を弾かせている。しかし、みずから弾く姿など見たこともない。
「こう見えて、名手なのよ」
「いずれ機会がありましたら。たいした腕ではありませんから」
自信家の楊広にはめずらしく謙遜する。
今日という日は、驚きの連続だ。立て続けに自分の知らないことを教えられた。ついでといった体で、翼は楊麗華に声を掛ける。
「その、楽平公主」
呼びかけてから、翼は言葉に詰まった。女人に尋ねるには、いささか失礼な問いだと思い直したからだ。
「いえなんでもございません」
「おっしゃいなさい。気になりますから」
「では」と翼は遠慮がちに問う。
「楽平公主の翼の痣はどちらにございましょう?」
楊麗華はゆっくりと腕をさしのべる。
「この傷の下に」
指で示したのは、傷で覆われた手の甲だった。
その翌月の大業二年七月、大きな不幸が隋王朝を襲った。
(つづく)