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 次の瞬間、桶をひっくり返したような、大量の水を浴びていた。これまでの好ましい光景とは打って変わって、ひどく臭い。汚水に浸されたような不快さに眉を顰める。

 まばたきをすると、のぞき込むふたつの顔が見えた。ひとりは義眼、もうひとりは色白。沈光と柳貴だ。

「気づいたか?」

 沈光が翼の口に碗の水を注ごうとする。柳貴の手がそれを止めた。

「いきなりたくさん飲ませるのは良くない」

「しかしひどい腹の音だ」

 水を与えられ、飢えが遠慮のない主張を始めていた。柳貴が白面をしかめて言う。

「それより身体の垢や膿を落としてやらないと」

 沈光も鼻をひくりとさせる。

「たしかに臭くてかなわんな」

 どうやら沈光が柱の上から下ろしてくれたらしい。兵が運んできた粥を、柳貴が持たせてくれる。匙でひと口含んだだけで、脳の奥が痺れた。あさましいほどの勢いで掻き込み、瞬く間に三杯を食らった。

 人心地がつくと、周囲の様子が目に入ってくる。頭上には黒煙がたちこめ、見回せばあちこちに叛徒たちの遺体が横たわっていた。煙が目に沁み、建物や人の焦げた臭いが鼻を刺激する。

「陛下は?」

 翼の問いに、沈光が苦笑する。

「敵の心配をしたほうがいいくらいだ」

 楊玄感を捕らえ、すでに叛乱軍を制圧したという。

「もうですか?」

「自分の目で確かめればいい」

 沈光は肩越しに、黒煙をあごで指した。翼は柳貴の援けを借りて、立ちあがる。燃えた布きれと烏が舞う中、兵を従える男の姿が黒煙にちらつく。現れたのは楊広だった。

「生きていたか」

 髪も服もひどく乱れていたが、尊大さは変わらない。楊広が生きている。志はまだ断たれていない。感極まって、泣き崩れてしまいそうだった。軍から離脱した罪を詫びようとしたが、思うように声が出ずせき込んだ。

「無理はするな」

 そう言って楊広は去ろうとする。しかしどうしても今、訊いておきたいことがある。喉の奥から声がほとばしった。

「琴を、弾かれましたか」

 楊広は目を見開く。

「なぜ分かった」

 隋軍が到着したと分かるや、宮殿の者たちは炎から守るため、宝物を城外へ運びだしたらしい。楊広は命がけで宝物の楽器を守った臣を称え、苦労に報いるべく天子自ら七絃琴を弾いた。琴が音を奏でたとたん、黒煙が風で流れ、陣の東方で縛りつけられている翼の姿に兵が気づいたのだという。

「驚いたか」

 得意げに言う楊広の顔を見て、腹に落ちた。後宮に籠って翼や柳貴を外出させたがると思ったら、この見栄張りは隠れて琴の練習をしていたのだ。

「しかしなぜ陛下が……自ら武器を取るようなことに?」

「おれが行くのが一番早いからに決まっている」

「そのなんでも自分でやろうとする癖を――」

 言いかけて翼は口をつぐむ。

 違う。責はこの自分にある。ひざまずき、額を地に着けた。

「申し訳ございません。すべてはこの私の不徳のいたすところ――」

 楊広が言葉をかぶせて言い張った。

「お前のせいなどであるものか」

「いえ、責はこの私にございます」

 翼は、おのれの身の上に起こったことを訥々と明かす。自分が京師へ呼ばれた経緯、楊玄感の謀叛の流れ、すべての黒幕が護秋であったこと――。

 翼がいなければ、楊玄感の叛乱もなかった。今ごろ、隋は高句麗を下し、勝利の凱旋をしているはずだった。

「陛下を討つ儺神だと誹られても、返す言葉もございません」

 ひとしきり聞いた楊広は、「くだらぬ」と一蹴した。

「同じ話を何度もいわせるな。おれはこれまでの無能な皇帝どもとは違う。おれは、おれの意志にもとづき、おれの考えで国を栄えさせる。いかなる障害があっても、妨げられることはない」

 大きく息を吐き、悔しそうに歯噛みした。

「にもかかわらず、隋を憎んでいると知っていて護秋を見逃した。どうかしていたとしか思えん」

 え、と翼の口から声が漏れる。

「なぜ護秋姉さんの話を?」

「叛乱軍の経路を辿ってきたからな。亡くなったことも把握している」

 護秋が亡くなったあの堂の付近も通ってきたという。護秋の骸を見て、楊玄感との繋がりに思い至ったらしい。近隣の民に金品を与え、護秋の遺体を弔うよう命じておいたという。

「見逃したって……。陛下は護秋姉さんの思惑に気づいておられたのですか」

「宣華夫人が亡くなったあたりでな」

 顔に冷や水を掛けられたようだった。言われてみればそうだ。翼を京師に呼んだ黒幕を、楊広が分からぬままにしておくはずがない。

「護秋は死病を患っておったしな。そのままでも害はないと思っていた。おれが見誤ったのだ」

「であればっ」

 怒りで声がほとばしる。

「なぜ私に教えて下さらなかったのですか」

 護秋が黒幕だと分かっていれば、こんな大事には至らなかったかもしれない。護秋の動きに目を光らせていれば、楊玄感との関係にも気づけたかもしれない。

「だからおれの落ち度だと言っている」

 これは重大な話で、検証を必要とする案件だ。なのに楊広の歯切れが悪い。これ以上踏み込ませまいとする言いぶりが解せない。

 柳貴が息をつき、苦言する。

「私は以前から申し上げておりました。聖上は、ことに翼のこととなるとご判断が鈍くなられます。そこを改めていただきませんと」

 何の話か分からず首を傾げる翼に、柳貴はちらりと視線をやる。

「自分で気づかなかったのか」

「いったい何の話なんだ?」

 ふたりの楽人の間で、楊広は憤然とした顔をする。

「もういいだろう。今後は直すようにする。この話は終わりだ」

 きまり悪げな様子に、はたと気づく。楊広は翼に言わなかったのではない。言えなかったのだ。翼に対する気遣いゆえにほかならない。

 ――なんて余計なことを。

 これほど腹立たしいことがあるだろうか。足枷になったことが悔しいやら、心遣いがもどかしいやら、様々な感情がめまぐるしく湧いてくる。

 黒煙の向こうから、弘農宮の被害を上官に報告する兵の声が聞こえた。

 楊広は威儀を正した。

「仕切り直しだ」

 息を吐き、四方を睨む。

「終わったことは覆らん。くだらぬことに悩んでときを浪費するな。手を動かせ、足を動かせ。やらねばならぬことは山積みだ。失ったものはあまりに大きい」

「はっ」と臣下は拱手の礼で応じる。自然な流れで、翼もみなに倣った。楊広をはじめ、だれも翼を責めようとしない。まだこの場所にいていいのだと実感し、胸の奥が熱く火照った。

 見回せば、柳貴も沈光も顔から手まで煤だらけになっている。翼を臭いと罵ったふたりもかなり臭い。互いに、身体に沁みついた焦げ臭さはしばらく取れないだろう。実際、顔に近づけた袖は脳が痺れるほど臭かった。

 

 それから三日をかけ、隋軍は弘農宮の火災を鎮めた。

 楊広の動きは迅速で、高句麗戦撤退の損害を最小に抑えながら、楊玄感の乱をたった二月で鎮圧した。過去の王朝と比べても、その決断力と行動力は驚異といっていい。

 楊玄感を仕留めたあと、楊広はその遺骸を東都の市場で曝してから八つ裂きにした。楊玄感と関係の深い者もくるまざきなど厳しい刑に処し、叛乱軍から恩を受けた民は生き埋めにした。殺された民の数は三万に及ぶ。世の人はその厳しい処罰を非難し、楊広を指して残虐な悪鬼のごとく語ったという。

 

 

第八章 福神

 

 

 

「お歳、じゃないのかな」

 翼は、行く手をさえぎる壁を眺めた。

 北方の遊牧民族を牽制する長城である。

 もとは春秋戦国時代の諸国が築き、秦の始皇帝が匈奴の進攻を防ぐために構築したものらしい。漢の武帝の時代に増築し、南北朝の時代にも大掛かりな修築や増築が行われた。

 隋となってから、楊広もこの長城を修築して遊牧の民の侵略に備えている。その気になれば容易に突破できるような代物だが、近づくとそれなりに威圧感があった。

「私は聖上のご判断を疑ったことはない。だが聖上のお加減が快復されるまでは、根気よく献言をしていくつもりだ。その腹積もりでいてほしい」

 話がある、と翼を幕舎の外へ呼びだしたのは柳貴だった。長城の見える野原でふたりきりになると話を切りだした。

 昨年から、楊広の様子がおかしい。特にここ数月は、楊広とは思えぬような判断ばかりした。よく眠れぬらしく、臣下の話も耳に入っていない。

 翼は、昨年来の出来事を思い返す。

「やはり、高句麗の戦がすっきりせずに終わったからだろうか」

 昨年、楊広は三度目の高句麗遠征を断行した。

 異民族を従えてこそ中華の皇帝であり、敗北のまま事を済ませるわけにはいかない。高句麗王を降伏させ、隋が勝利したという体裁を整えたのである。しかしその後、高句麗国王が隋に入朝することはなく、真の勝利とはいえぬ結果となった。楊広の心身の不調はそのころから始まった。

 柳貴は沈痛な面持ちで言う。

「無関係とは言えぬだろうな」

 一度目の遠征で大敗した時点で、国内では戦を忌避する声が高まっていた。

 それでも、勝つ見込みがあったからこそ、楊広は二度目の出兵を決行した。東の外憂を抑えれば、楊広の国家戦略がひと段落する。遠征が成功していれば、今ごろ隋の民は、これまで楊広がつくり上げてきたものの恩恵にあずかっているはずだった。

 翼は唇を噛みしめる。

 ――楊玄感のせいだ。

 楊玄感の叛乱がすべてを台無しにした。

 隋は、民間の武器の所有を禁じていたが、楊玄感が兵を挙げたことで、官有の武器が民間へと流れた。さらに、楊玄感という高官の謀叛は、各地にくすぶっていた勢力を刺激したのである。叛乱は各地に飛び火し、どれかひとつを潰せば済むという事態ではなくなっていた。

 そこへ、北の突厥問題だ。

 翼は、長城の向こうの空を見やる。

「それに北がきな臭いのも、大きなご心労となっていると思う」

 北方では、かつて楊広を迎え入れるために自ら草刈りまでした東突厥の啓民けいみんがんが亡くなり、息子のひつ可汗が後を継いでいた。始畢可汗と隋は、表面上は友好を保っているものの、関係は悪化している。

 東突厥の力を弱めるため、隋の官人らは始畢可汗とその弟の離間を試みた。しかし、その策が露呈し、大きなしこりを作ってしまったのである。

 この不安定な関係を解消すべく、楊広は北方へ巡幸に乗り出した。

「巡幸から帰還されたのちは、御所で腰を据えられるようお勧めするつもりだ。聖上には休養が必要だと思う」

 柳貴は思いつめたような声で言った。

 ――休養で解決するものなのだろうか。

 高句麗遠征の失敗も、突厥の離反も、民衆の反感も、どれも楊広の不調に直結している気がしない。なぜなら楊広という男は、事態が思うようにいかぬときこそ、生き生きとする性分だからだ。

「やっぱりお歳なんだよ。若々しくお見えになっても、今年で四十七になられるんだから」

 冗談めかして言ったものの、翼の気掛かりは別にあった。

 ――思った以上に効きが遅い。

 護秋はそう翼に言った。護秋はなにか遅効性の毒を盛ったのではないか。もし、その毒が効き始めているのだとしたら、手の打ちようがない。

「おい」

 柳貴の声でわれに返る。隋軍の幕舎の方角から細い狼煙が上がっていた。敵襲を報せる合図である。宿営とは一里も離れておらず、騒がしい物音が野原まで聞こえていた。

 敵は群盗か、それとも東突厥か――。

「行くぞ」

 ふたりは馬へ飛び乗った。

 

「食糧が二十日しか持ちませぬ」

 将校らを政堂に集めた楊広は、矢継ぎ早に届く報告に耳を傾けていた。

 額には汗が浮き、座っているのもやっとという様子である。補佐をするために、蕭皇后がそばに付き添っていた。

 ことの次第はこうだ。

 楊広の陣営に、東突厥の軍が向かっているという報せが飛びこんできた。しかし楊広を迎えに来たのではない。始畢可汗みずから武装しており、隋の皇帝の首を取らんと襲撃してきたのである。その数およそ数十万。

 楊広率いる隋の一団は、すみやかに近くの雁門城へ移り、難を逃れた。しかし突厥の兵に城を包囲され、身動きが取れなくなっている。

 驚くべきことに、雁門郡にある他の城塞はすでに突厥の手に落ちていた。応援は見込めず、雁門城は皇帝の一団を受け入れたことで食糧が不足する事態に陥ったのである。

「我ら精鋭で突破いたしましょう」

 宇文述が語気を荒くして言う。しかし、たった数万の兵で、数十万の兵を出し抜くのは困難だ。

 以前の楊広であれば、相手の意表を突くやり方を考え、実行できたかもしれない。しかし、今の楊広の体調では難しい。楊広は、将校らの中で顔をしかめている。こういった談義に出ることすら苦痛そうだった。

「お待ちなさい」

 やわらかな声が座に響く。声をあげたのは蕭皇后だった。

「闇雲に戦っても得るものはありません」

 将校たちの安堵の息が聞こえる。楊広が使いものにならない今、将校たちの頼みの綱はこの小柄な皇后だけだった。

「突厥では、可賀かがとん(可汗の妻)も軍議に参じると聞いております」

 東突厥の可賀敦に、隋の宗室の娘である義城公主がいる。もともと啓民可汗に嫁いでいたが、今は子の始畢可汗の妻となっていた。夫の死後は、その子の妻となる遊牧民族のならいである。今回、事前に東突厥の襲撃を知ることができたのも、義城公主が内々に隋へ報せてくれたおかげだった。

「義城公主に、工作を頼みましょう。〈突厥で内乱の兆しあり〉と偽りの報せを始畢可汗あてに送ってもらうのです」

 さすれば、始畢可汗は撤退する。現状を打開する最も有効な手立てと思えた。

「畏れながら」と翼は一歩前へ進んだ。

「陛下みずから破格の褒美を約束して兵の士気を高めてくださいませ。それで味方の兵が駆けつけるまでをしのぐのです」

 続けて柳貴も声を上げる。

「私と沈光で、他郡へ救援を求めにまいりましょう」

 みずから危険な役を買って出た。驍果のうち、沈光と柳貴の隊が近隣の郡まで応援を呼びに行くことになった。

 いざ戦が始まると、楊広はみずから末端の兵のもとを訪れ、激励してまわった。報奨を約束された兵はよく戦い、突厥の猛攻を防いだ。味方の兵が現れたのは、籠城して数日経った頃だ。

 城壁の上から見やると、包囲する敵陣の先に隋の旗があった。その旗の色を見て、楊広が首をひねる。

「一番乗りは雲定興うんていこうか。意外だな」

 遠い大地の向こうから、土埃が見える。兵数は、目算で三万はいるように見えた。

 近づくにつれ、先駆けの隊の姿が明らかになる。思ったよりも、兵の数が少ない。一万もいないように見えた。

 翼は目を凝らす。

「あれは……木片でしょうか」

 人馬が、筒状の塊を引きずって走っている。その塊で土埃を起こし、さらに旗をたなびかせることで、兵の数を多く見せているらしい。馬は耳当てと目隠しを着けている。音と視界を遮断することで、ひたすら前へ進むよう馬を促しているのだろう。

 猛進する隋軍の中で、ひとり目立つ動きをする男がいる。まだ若い。二十歳にもならない少年だ。戦場だというのに、馬に鎧甲を着けていない。散策にでも来たような身軽さだった。

「あやつ、馬鹿か」

 あまりの軽装に、楊広は呆れ声をもらす。しかしその分、速さは群を抜いていた。魔術のように、少年の手もとから火が熾る。筒状の塊に火をつけ、敵陣に投げ込んだ。

 城まで届くほどの破裂音が起こる。驚いた馬が前脚立ちになって嘶いた。馬は兵を振り落として四方へ逃げて行く。

「爆竹か」

 翼はようやく、少年がなにをしたのかを理解した。竹の節に火をつけて、敵へ投げ込んだのだ。突厥の攻撃が、少年ひとりに集中する。次々と飛来する矢を少年は見事な馬さばきで躱していく。

 楊広と翼は同時にじよしようから身を乗り出した。馬上から少年の姿が消えたのだ。落馬したように見えたが、「いや」と楊広が否定する。

「あれは生きている」

 角度が変わり、地面すれすれまで身体を傾けて騎乗している姿があらわになった。なんという身軽さか。翼は人馬一体の動きに感心する。

「あのがき」

 楊広は鼻で笑うと、「城内で休んでいる」と身をひるがえした。

「陛下?」

 呼び止める翼に、楊広は肩越しに手を振った。

「運の強いがきが来た。もう問題ない」

 翼が敵陣を見やると、東突厥の軍が城の前を離れていく光景が見えた。応援の軍と同時に、義城公主の報せが敵の軍へ届いたらしい。隋の将兵や民が歓喜に沸く。その日のうちにすべての東突厥兵が撤退し、翌朝には雁門城の包囲が解けた。

 雁門城から東都へ帰還するという段になり、翼が帰還の支度で庁舎を駆けまわっているときだった。

「あれ」

 あの爆竹の少年が、厩のほうから翼のいる回廊へ向かってくる。翼は自ら進み、拱手の礼をした。

「ご活躍に感服いたしました」

 間近で見ると、利発な顔立ちをしている。翼より、五つか六つ年下に見えた。後で兵から聞いたところによると、兵数を多く見せる策はこの少年が上官に進言したらしい。末恐ろしい少年である。

「爆竹のこと? おれとしてはさ、始畢可汗に当てたかったんだよな」

 くだけた口調で言ってから、観察をするように翼を眺める。

「へえ」

 好奇の目を向けられて少々苛立つ。

「なにか?」

「寵童ってやつだ」

「誤解があるようです」

 すると、少年はあたりを窺うようにして声をひそめる。

「だよな、陛下は真正の女好きだもの。皇后さまは輝くばかりの清楚さでいらっしゃるのに、まったく釣り合わない」

 歯に衣を着せぬ物言いに、翼は笑った。

「まさに。私はただの歌い手です」

「じゃあ今度、歌ってよ」

 気安く言ってから、「いっけね」と肩をすくめる。翼が振りかえると、楊広がこちらへ向かって来る姿が見えた。

「あんまり調子に乗ると、母上にお叱りを受ける」

「母上?」

 この少年は雲定興の麾下だが、どういった立場なのだろう。

 雲定興は、楊広の兄の楊勇が寵愛した雲妃の父だ。楊勇が廃太子となったため、出世の道が閉ざされた。以来、うだつが上がらぬ男という印象がある。

「またな!」

 詳細を問おうとした翼を置いて、少年は風のように去っていった。

「陛下、あの少年をご存じですか」

 回廊を進んできた楊広に、翼は問う。

 楊広は「ああ」と呻き声で応じた。また頭痛が収まらないらしい。

「悪たれなところが、昔のお前に似ておるな」

 とぎれとぎれに答えるので委細は分からなかったが、楊広の遠い身内にあたるという。

 あまりに加減が悪く見え、それ以上は訊けなかった。

 東都に帰還してからも、楊広の容態は悪化する一方で、側仕えの者が負担をかけぬように手を尽くした。翼も弱り切った身に厳しいことは言うまいと思っていた。

 しかしこればかりは、と見過ごせぬ案件が起こる。

 雁門城の戦いでの死闘をすっかり忘れたかのように、楊広は兵たちとの約束を反故にした。約したとおりの報奨を与えなかったのである。

 諫言しようとする翼に、側近らは「ご病気だから」と楊広を庇った。

 しかし、病であっても許されぬことがある。

「みてろよ」

 

 

(つづく)