序章
白く煙ったと思ったのは、星が一斉に瞬いたからだった。
星が光を放つたび、鈴をおもわせる涼しげな音が聞こえるようである。
――星群は吉兆か。
夜空を眺めていた皇帝は、室内を振りかえった。
天子の私的な場である内廷で、妃らはくつろいでいる。
座の中央で、ひとりの童子があどけない顔を天子に向けていた。薄く化粧をほどこした頬は紅潮し、目をしばたたかせると髻にさした歩揺が光を放つ。
「妖童め」
星座を司る天文官が、低い声でうなった。
「陛下、この童子を近づけてはなりませぬ。かならずや禍を起こしましょう」
訴える天文官の額には汗が浮いている。
童子の隣で平伏する男が、しずかに口をひらいた。
「いいえ、この子は翼星にございます」
男は、大きな眼帯で顔半分を覆っていた。眼帯というより覆面に近い。意匠がめずらしく、右目のあたりに黒光りする石を縫い込んであった。
「星が明るければ、天子の徳はますます深まり、周囲に賢者が集まります。四方の異民族は進んで従いましょう」
「つまり天下泰平のためにこの子を朕の側におけと?」
眼帯の男は、宮廷の楽人として童子を取り立てるよう皇帝へ求めている。
しかし、相手は十にも満たない幼子だ。
「ご明察。ですがこの子が福神となるか、儺神となるかは主上次第」
福神とは字のごとく福をもたらす神、儺神とは邪鬼をはらう神をいう。
「この五十年の間にも、北周に梁、陳と数々の王朝が滅んでいったのを主上はご存じでございましょう。その後主(王朝最後の皇帝)のそばには楽府の星があり、いずれも愚かな天子を滅する儺神となりました」
「朕が名君であれば福神となり、暴君となれば儺神となるというか」
となれば、この子は国の吉凶を映す鏡ということになる。
眼帯の男は、左目をすがめた。
「お信じになりませぬか」
「主上、惑わされてはなりませぬ」
天文官も譲らない。唾をとばして眼帯の男に詰め寄った。
「翼星は、体に翼の形の痣があると聞く。この童子のどこに痣があるのだ」
「ご覧に入れるには憚られるところに」
眼帯の男は、おのれの太ももを手でさした。
「わたくしは」と艶のある声がして、張りつめた空気がやわらいだ。背後をみやると、皇后が目をほころばせている。
「よろしいと思いますわ」
「なにゆえだ」
「このようなうつくしい楽人をみたことがございません」
皇帝は童子と眼帯の男を見くらべた。童子は自分が今どこにいるのかも分かっていない顔をしている。眼帯の男は、礼をわきまえたふうではあるが、腹が読めない。
うさんくさい。妃らがどこか落ち着かぬ様子でいるのも気に入らなかった。
皇帝は眼帯の男に問う。
「して、この子はなにを奏でる」
楽人を名乗るわりに、童子は楽器を持っていない。
「この子自身が楽器にございますれば」
歌い手だという。
その声を聴いてみたい。しかし、ひとたび耳にすれば、もとの自分に戻れなくなるのではないか。恐れを胸にいだき、皇帝は再び庭を振りあおいだ。火を灯さずとも、月星のおかげで充分に明るい。
「翼の星か」
皇帝はふかく目を閉じた。
第一章 翼星
一
青空に、柿の実が散った。
「そのがきっ、捕まえてくれ」
「だれが捕まるもんか」
藁の上で干してあった柿を、翼は次々と追手へぶちまける。
怒号を背に、雑踏の中を駆け抜けた。
この人出なら、追手などたやすく撒ける。その考えが甘かった。往来の人々は、追われる翼を避けた。翼の進もうとするところ、人の群れが動くので、目立って仕方がない。
京師の人はかくもつめたい。
八つの子がごろつき然とした男たちに追われているというのに、だれも助けようとしない。故郷の江都(現在の江蘇省揚州市)であれば、船頭や漁師が子どもの味方をしてくれるというのに。
土地勘がないのも翼に不利だった。どこへ進んでも整然とした道があるばかりで、同じ街並みに見える。今、自分が城内のどのあたりにいるのかもわからなかった。
とにかくだだっ広い。
追われる身ながら、翼は感嘆する。
「さすが京師だ」
隋の首都、大興城(長安。現在の陝西省西安市)。
東西南北に大通りが走り、あちこちから新しいにおいがする。区画をつくる土塀は整然として、植えられた街路樹もわかい。天子がこの地に都を置いて約十年。初々しさが街のあちこちから感じられた。
「この悪がきめ」
声が近い。振り返る。すぐそこに敵の手がある。翼は身を翻し、三人の男の腕をかいくぐった。
「可愛い顔のわりにやるではないか」
「小僧、ただで済むと思うなよ」
ちょびひげ、歯抜け、やせっぽち、三人とも冴えない容姿で、ごろつきの中でも下っ端にしか見えない。つい相手をあなどった。
「へんだ。三人でおれの腰でも揉んでくれるのか」
尻を振っておどけてみせると、男たちの目がすうと細まる。その凄みに、翼の顔から笑みが落ちた。
「死にたいらしいな」
親分格の男が刀を抜く。刃が白銀の光を放ち、女の悲鳴があがった。往来で刃物を抜いたというのに、役人らしき男が目を背けている。どうやら翼は、逆らってはいけない部類の者たちを怒らせてしまったらしい。
道端へ追い詰められ、翼は街路樹を見上げた。
――こうなったら。
翼は男たちに、にっこりと笑んでみせる。瞬時に身をひるがえし、街路樹の幹を登りあがった。「猫か」と感嘆の声が聞こえる。翼がひらりと土塀を越えると、街路で人の沸く声が聞こえた。
「だれが悪がきだ。騙されたのはこっちだっての」
着地と同時に、翼は毒づく。
皇太子の使者を名乗る男が、翼の属する楽団を訪ねてきたのは半年前のこと。
江都に素晴らしい歌い手の少年がいると聞きつけ、皇太子が楽団を京師へ招聘するよう命じたという。
たしかに翼は、江都では名の知られた歌い手だ。
その名声が京師まで届いたと知って、楽団の姉たちは喜んだ。大興城までの通行証と充分な路銀まで与えられて、のぼせあがったのである。
「探せ! まだ敷地内からは出ておらぬ」
城壁の外だけではなく、敷地内からも追手の声がする。詐欺師たちが、翼の侵入を敷地に主に伝えたらしい。侵入者を探す警固兵の姿が建物の先に見え、翼は慌てて木陰に隠れた。
――この騒ぎはなんだ。
仏堂や塔が見えるから、この地が寺だと分かる。寺であれば、警固の僧兵がいてもおかしくない。しかし、童子が忍び込んだくらいでこの騒ぎはおかしい。
ともあれ警固兵をやりすごし、翼は木陰から出る。
どちらへ進むか迷い、翼は裏手へ向かった。ところがすぐに行き止まりにつき当たる。
――引き返すべきか。
よく見れば、堂と土塀のあいだに猫一匹通れるかという隙間がある。つま先立ちになって、翼は横歩きで進んでいく。
「なんでおれがこんな目に」
だから、胡散臭いと言ったのだ。
田舎の楽人に皇太子が興味を示すなど、話ができすぎている。
いずれは私たちも京師へ――。
それが団長の口癖だったから、うまく相手に乗せられたのだ。しかし警戒したのは翼だけで、だれにも聞き入れてもらえなかった。
楽団は、翼を含めぜんぶで五人。翼は唯一の男で、舞い上がっている姉たちに強く言えなかった。
使者が帰ってから一月後、支度を済ませ、友人知人に見送られて楽団は故郷を出た。しかし、京師についた楽団は、皇太子の屋敷で門前払いにあった。
――そんな話は聞いておらん。しつこいと役人を呼ぶぞ。
困り果てたところへ皇太子に繋いでくれるという者が現れ、姉たちは紹介料として高い金を払った。
だがそれも詐欺だったのだ。
幸運にも、翼は街の酒屋で酔っている詐欺師をみつけた。背後から近づき、みごと荷から金子を取り返したのである。
――そこでさっさと逃げておけばよかったんだよな。
自分でもばかだと思うが、考えついてしまったものは仕方ない。詐欺師がよそ見をした隙に、小便を入れた酒瓶を机に置いた。その余計なひと手間のせいで、翼は今、追われる身となっている。
「そっちへ行ったぞ」
「裏手へ」
追手の掛け声が、あちこちから聞こえてくる。
どぎまぎと翼の心臓は波打ち、手の指まで汗で濡れていた。
堂の裏から這い出ると長屋造りの宿坊が見えた。
「十にもならぬ小僧だ。逃がすなよ」
苦労して狭い隙間を通り抜けたのに、追手と鉢合わせしかける。急ぎ、堂への昇り階段に隠れてやり過ごした。
目が、宿坊の裏の植え込みにとまる。
低木の緑葉が、土塀と堂の間を埋めるように植わっていた。景色の中で、その茂みだけがいやに明るい。土塀の外には川があるらしく、ふるさとの水郷を思わせる水音まで聞こえ、とても好ましく感じた。
――あそこに隠れられそうだ。
引き寄せられるかのように、翼は密集した低木へ飛びこんだ。
「えっ」
なにかとぶつかる。声を上げたときには、翼は男の腕に囚われていた。四肢をがっちりと押さえられ、身動きが取れない。もがくたびに茂みが揺れる。
「落ち着け」
低い声だった。先客がいたのだ。男は翼の唇に小さな塊をねじ込み、てのひらで口をふさぐ。毒かと警戒する間もなく、甘い杏泥が舌の上で溶ける。杏の砂糖漬けで、貪るように腹に収めてしまった。すると、思い出したように身体が空腹を訴え、腹がきゅうと痛くなる。思えば、昨日から何も食べていなかった。
「おれはお前の敵ではない。それは分かるな」
男の言葉に翼はうなずく。
「なぜ追われている」
男の手を払いのけ、翼は答えた。
「悪いやつらに騙されたんだ」
嘘は言っていない。翼は悪くない。
「そっちこそ、ここで何をしてんだ」
男は、顔を覆うほどの大きな眼帯をつけていた。変わった意匠で、右目のあたりに黒光りする石をあしらっている。
ふと翼の頭に、寺を警固していた僧兵たちの姿が蘇る。やけに多い僧兵、そして童子が入りこんだだけでこの騒ぎ。
――この男、間諜か。
寺には、財宝か国の機密でも隠されていて、男はそれを探りに来たのだろうか。それとも、人質に取られた家族を助けに来たのか。さまざまな考えが翼の頭を駆けめぐる。
宿坊の中から水の跳ねる音がした。
土塀の外から聞こえる川の流れとは別の水音である。よく見れば、壁に小指の爪ほどの裂け目がある。男が開けたものらしい。
翼は枝葉をよけ、壁に近づいていく。この先に、男が探っているものがある――。息をこらして穴をのぞいた。
椅子に掛けられた法衣が見える。暗がりに、白い肌が浮かんだ。尼が身体を拭いている。
翼は呆れて、あいた口がふさがらなかった。
――のぞきかよ。
素性が分からぬように顔まで隠して、尼の裸をのぞいていたらしい。しかし、ただの好色と分かって警戒がとけた。幸い、土塀の外の流水音が声を消してくれている。翼は男に事情を打ち明けた。
「おれ、皇太子に呼ばれて都にきたんだ」
かいつまんで、自分の窮地を伝える。もはや自分ひとりでは助からない。この男の力を借りるしかない。
男は黙って聴いていたが、
「面妖な」
と顔を曇らせた。なにか言いかけたが、近づいてくる足音に口を閉ざす。
(つづく)