三
「隋を倒せ、楊広を殺せ――」
籠の中で、鸚鵡が同じ言葉を繰りかえしている。
翼は指で額を押さえ、木製の椅子に凭れていた。狭い天幕の中、朝から晩までこの鸚鵡の声を聞いていると、頭の中が毒に冒されていく心地がする。
「なにも口にしないのは身体に悪いですよ」
夜更けに天幕を訪れたのは、楊玄感だった。
「獣臭くてここではとても」
身体を起こすと、手足を拘束する金具がじゃらりと音を立てる。一介の歌い手を拘束するにしては、あまりに仰々しい。儺神を手放すまいとする楊玄感の強い意向を感じる。
「いつになったら、護秋姉さんに会わせてもらえるんです?」
囚われの身になって数日。いまだ護秋の姿を目にしていない。
「本当は、護秋姉さんはいないのでは?」
楊玄感は答えず、翼の前に卓を運ばせる。酒器を支度させ、翼の対面に座った。
「酒でごまかそうとしたって、そうはいきませんよ。私は酒を飲みませんからね」
しかし楊玄感は、天幕の端に控えていた兵に目配せをする。兵は提げ盆から皿を取りだし、卓の上に配膳した。立ちのぼる湯気から香ばしい匂いがする。
魚の甘酢煮だった。
「これは?」
「翼のために作らせました。冷めないうちにどうぞ」
見た目は、護秋がよく作ってくれた甘酢煮と変わらない。たっぷりとした汁に浸した白身魚を口へ運ぶと、酸味の効いた甘みが舌を刺激する。
とたんに、江都の自宅の光景が眼裏に広がった。
護春と護夏の双子が口喧嘩をして、卓が今にもひっくり返りそうなほど揺れている。騒がしい食卓で護冬が黙々と炙った海苔を取り分け、翼の碗には少し多く盛ってくれていた。そこへ護秋が厨から駆けこんできて「これも食べなさい」と、翼の好物の魚料理を運んでくる――。
故郷を離れて、もう十三年になる。懐かしい家庭の味に、匙を持つ手が震える。
「信じてくれましたか」
楊玄感の声に、我にかえる。
「陣中にいるなら、なぜ会わせてくださらないのです」
「そのうち会わせましょう」
楊玄感は笑みを浮かべ、杯に酒をそそぐ。翼には、温めた花梨の漿を勧めた。喉に良いからと、よく護秋が作ってくれた飲み物だ。
一口ふくむと甘い香りがして、なつかしさで目がうるむ。
相手のほうが上手だ。しかしここまでいいようにされて、引き下がるわけにはいかない。高句麗遠征の戦況は気になるが、楊広が生きている限り望みはある。かならず護秋を助けだし、共に楊広のもとへ戻る。
まずは現状の把握をすべきだ。それからこの拘束具を外す算段を考えなくてはならない。
翼は、楊玄感の顔を見据えた。
「戦況が思わしくないから、会わせてくださらないんですか」
楊玄感は答えず、ただ酒杯を傾けている。
「進攻する先を、東都ではなく大興城へ変えたのでしょう?」
黎陽から北上した楊玄感の手勢は、大興城のある長安に向けて西進している。
考えてみれば、これはおかしい。北上してきた経路を踏まえれば東都を狙っていたのは明らかで、それをなさずに西へ向かうのは効率が悪い。
「先生は東都を落とさなかったんじゃない。落とせなかった。そうですね?」
東都は運河により運ばれた食糧が貯蓄され、防御の堀がめぐらされている。攻城戦には不向きで、攻めあぐねて狙いを長安の京師へと変えたのではないか。
楊玄感は長息する。
「戦況が苦しいのはたしかです。しかしそれで暴君に屈しては大義を失う」
思ったとおりだ。
十万を超える兵を前に圧倒されたが、集まったのは戦に慣れぬ烏合の衆。戦力となる兵は少ないのだろう。翼は皮肉を込めて言う。
「ですがこのまま西に向かっても、叛乱軍を迎え撃つべく隋軍が待ち構えています。引き返そうにも、背後の東都では隋軍が睨みを利かせている。叛乱軍は八方ふさがりですね」
楊広が打った初手がさっそく功を奏している。想像よりずっと、隋に有利に戦況が進んでいた。力を得て、翼はさらに続ける。
「窮地に追い込まれたとき、先生は翼星を楯に逃げるおつもりなのでしょう。だから護秋姉さんと接触させて、おれが逃亡するのを恐れている」
「恐れている」と鸚鵡が翼の口真似をする。再び「隋を倒せ、楊広を殺せ」とけたたましい声をあげた。
「先生は大義と仰いましたね。ですが、先生は謀叛を起こした隋の将軍を討つと偽ってこれだけの義士を集めた。兵が参集してから、狙いが皇帝だったと明かしたのでは詐欺ではありませんか」
心苦しそうな顔をして楊玄感は言った。
「仕方がなかったのです。民を圧政から救うためには兵が必要ですから。ですが、どの兵も納得してくれていますよ」
そんなはずはない。民は従わなければ罰せられるから、命じられるままに動く。いまだに自分たちが何のために進軍しているのか分かっていない者もいるだろう。
「先生は私の大切な家族を、翼星をおびき出す道具にしました。これも大義のためですか」
「私は護秋を大切にしていますよ」
「でも、一度堕胎させていますね?」
一瞬、楊玄感の目が泳ぐのを見逃さなかった。
「やはり先生でしたか」
翼が声変わりに苦しんでいたとき、楊玄感は「言葉を話すより先に歌をうたった」と翼の過去について語った。しかし、翼が歌い手になった経緯を知るのは、当事者の護秋と翼のみである。
楊玄感は護秋を騙して妾にしていたのだろう。そう思えば、堕胎を見とがめられたときの護秋の慌てようも、長期にわたって行方が知れなかったこれまでの流れもしっくりくる。
しかし楊玄感はそしらぬふりでうそぶいた。
「さあ、相手は楊広ではありませんか?」
この期に及んで言い逃れをする。怒りのせいで目が霞む。拘束されていなければ殴っていた。
「それより」
楊玄感は強引に話柄を変える。
「着物がよく似合っています」
翼に用意されたのは、銀の刺繍の施された青の袍だった。髻には蝶の飾りを下げた歩揺、舞台もないのに化粧までさせられている。
「そうでしょうか」
正直なところ、似合っているとは思えない。
これまで自分に合う衣装を与えられていたから、余計にそう感じる。楊広はただの派手好みではなかったのだと改めて気づかされる。
それに、楊広が着飾るよう命じるのは、必要があるときに限られていた。ところがこの男ときたらどうだ。この緊迫した事態に、意味もなく着飾らせる。翼のほかにも捕虜にした数百人の少女を従軍させているらしく、その化粧代の捻出に参謀が頭を悩ませていると兵たちが噂していた。
「傾国といわれるのも頷けますね」
楊玄感は含みのある物言いをする。
「それはどうも」
こちらも探りを入れるような口ぶりになる。楊玄感は男色ではない。それは目を見れば分かる。しかし翼を利用しようとしているのは明確だった。
「もてなしをお願いしたいのです」
「どなたを?」
「各地の有力者たちです」
宴で歓待し、自陣に引き込むつもりなのだろう。隋を滅ぼす儺神を、叛乱の士気高揚に利用する目論みらしい。
「何の歌を?」
「歌わなくても構いません」
翼は、籠の中の鸚鵡に目をやる。
「おれは愛玩動物ではありませんよ」
しかし、楊玄感は何のことだか分からないという表情をしている。
その顔をみて、翼は金具で額を殴られたようになった。
楊玄感は翼を寵童だと信じて疑っていない。おどけているのではなく、本当に籠で飼われている鸚鵡程度の存在としか見ていないのだ。
楊玄感を師であり、兄のような人だと思っていた。誠実で、心から親身になってくれる数少ない大人だと思っていた。目の前の男は、それが幻想だったという現実を突きつけてくる。
翼はゆっくりと、手もとにある碗に視線を落とした。やけに視界が霞むと思っていたが、もしやこの男は漿に薬を盛ったのではないか。
――こんな男を慕っていたとは。
腹の底から自嘲がこみ上げてくる。声をあげて笑いだした翼の前で、楊玄感はいぶかしむような顔をしていた。
――眠るものか。
髻から歩揺を抜き、卓の下で蝶の飾りを握りしめる。固い銀の細工が掌に食い込んだ。
「先生は陛下とは違うな。足もとにも及ばない」
翼のぼやきに、楊玄感は即座に反応する。
「私のほうが天子にふさわしいと言ったのはあなたですよ。あなただけではない。みながそう言っています」
――そうか。
翼は聖人然とした姿を眺める。この男には自分が優れているという矜持がある。しかし実態はかけ離れており、自分の想像を超える偉業をなし続ける楊広が恐ろしいのだろう。
であれば、と翼は楊玄感の顔を見据えた。
「先生のような人格者が天子となるべきだという想いは今でも変わりません。足もとにも及ばないと言ったのは楊広のことですよ」
あからさまなおだて文句に、楊玄感は気をよくしたらしい。見込んだとおりだ。この男の根幹には、楊広に対する畏怖と劣等感がある。
「一献、どうぞ。少しは休んでいただきませんと」
楊玄感に酒を勧めた。さらに酒を運ばせ、自尊心をくすぐるような言葉を吹き込みつづける。楊玄感はことあるごとに漿を勧めてきたが、うまく躱した。
酒甕をひとつ空けたところで、翼は天幕内の護衛を見やる。
「どうも気になりますね。宮中にいたときはもっと寛げたのにな」
ねだるように言うと、楊玄感は拍子抜けするほど素直に護衛を下がらせた。ふたりだけになったのを見計らって、さらに鎖で繋がれた両手首を掲げる。
「これも外してくれませんか。楊広はおれをもっと自由にしてくれましたよ」
楊広を引き合いに出すと、むきになったように拘束具を外す。あまりに容易くて泣きたくなった。
楊玄感がいかに優れた人物かと力説する一方で、手は腰の袋から三つの薬玉を取り出していた。護冬がくれたあの薬玉である。
まだ湯気の昇る碗を手もとに引き寄せた。左の袖で碗を隠し、右手で薬の玉を液体の中へ落とす。水の跳ねる音がして心臓が跳ねた。しかし楊玄感は気づいたそぶりもない。胸をなでおろして、話を続ける。
「大体、楊広はひどくけちなんです」
袖で口もとを隠し、碗をあおるふりをした。碗の中の液体が固まったのを確かめ、右の袖の中へそっと落とす。右腕に、固まりが落ちる感触があった。
空になった碗を卓に戻すと、楊玄感がさりげなく中をのぞき込む。翼が飲み切ったことを確かめているのが分かった。
これから、翼をこの地の顔役にでも献上するつもりなのだろう。
――そうはさせるか。
拘束された足で卓をどけるふりをして、床へ横倒しにした。これだけ大きな音を立てても、外で控える兵は乗り込んでこない。酔って卓を倒したとでも思っているのだろう。
卓をもとに戻しながら楊玄感に尋ねる。
「ところで私はどなたをもてなせば?」
「潼関の王氏。南の幕舎にいる」
聞いたこともない名だ。おそらく無頼の徒だろう。
「ではこの後に幕舎へお邪魔いたしましょう」
翼は酒を注いだ碗を楊玄感に手渡す。楊玄感は碗をつかみ損ねて落とした。酔いが回ってきたらしい。そろそろ頃合いだろう。
「お疲れでしょうから、先生はお休みになっては?」
翼は、ゆっくりと楊玄感の背後にまわる。
心臓が口から飛びだしてしまいそうなくらい、激しく波打っていた。
拘束具の鎖の両端を手で握る。瞬時に楊玄感の首にすばやく巻きつけた。酔っているとはいえ、腕力では楊玄感に敵わない。身体を背負うようにして首を締め上げる。背で呻き声がして、鎖は冷たい刃のように手に食い込んだ。どれくらいの間そうしていただろう。やたらと長く感じたが、実際は百を数えるほどもなかったはずだ。命が絶えた感覚が腕に伝わり、翼は脱力する。腰からその場に崩れた。
息をつき額の汗をぬぐう。顔をあげると、籠の中の鸚鵡と目があった。鸚鵡は、事情は分かっているとでも言いたげな顔をしている。無言の鳥に見守られながら、楊玄感の身体を寝台に横たえ、寝具で覆った。
天幕の外へ出ると、数名の護衛が控えていた。
「先生はお休みになりました。私は南の幕舎でおもてなしをするよう仰せつかっております」
裾の乱れを直してみせると、護衛たちは心得たふうにうなずく。
「お疲れのようですから、静かにして差しあげてくださいね」
そっと言い添え、割り当てられていた天幕から離れる。護衛が後をつけていないことを確かめ、足を速めた。しばらく走ってから、立ち並ぶ天幕の中で大声をあげる。普段の声とは似つかない、だみ声である。
「翼星が逃げたぞ! 人質を守れ!」
叫んでから、すばやく天幕の陰に身をひそめた。
あちこちから兵が現れ、みな同じ方向へ駆けていく。その流れを陰から窺い、密かに後を追った。
夜空は清んで星が瞬いている。長い間一緒にいたせいか、耳の奥で「殺せ、殺せ」と繰り返す鸚鵡の声が鳴り響いていた。
四
護秋の居場所は、天幕ではなかった。
もとは寺の建物か、叛乱軍が近隣の村から接収した堂だった。
堂の前にはいっとき兵が集まったが、翼の姿が見当たらないと分かるやそれぞれ天幕や持ち場へ戻っていった。今、堂の前を警固している兵は五人。堂は切り立った崖の上に立ち、崖側は転落しないようにするためか、樹木が植えられていた。
それで翼は、崖下から登って堂に近づくことにしたのである。
護秋を堂から連れ出し、崖をくだって逃げる。崖の下には、陣営が馬を放つ草原があり、そこで馬を奪って逃げるという算段だった。
岩壁の隙間に生えた草はしっとりとして、頬にふれると冷たい。いくら身軽とはいえ、月星の明かりだけをたよりに崖を登るのは難儀した。
ひとりで崖を登っていると、とりとめのない考えが頭をめぐる。
護秋はずっと狭い室内に閉じ込められてきたのだろうか。食事はとれているのか。眠れているのか。護冬は一緒ではないのだろうか。楊玄感は護冬を認識していなかった。であれば、護冬はどこにいるのだろう。考えに沈むうち、岩壁の出張りをつかむ手がすべる。
――集中しなくては。
崖上にちかづくにつれ、「翼星はどこだ」「探せ」という声が聞こえてくる。見つかれば、そこまでだ。音を立てぬよう、慎重に登っていく。
崖上にたどりつき、樹木の隙間へ身体を滑り込ませる。枝葉が大きく揺れるたび、激しく動悸がした。窓に掛けられた簾から、明かりがほのかに漏れている。
人の話し声が聴こえた。
「……ので……ありませんか」
護秋の声だった。虫の声、葉擦れの音、兵たちの喧騒。雑音の中で、耳が護秋の声だけを拾う。護秋がたしかに生きているという実感がこみ上げ、安堵で身体の力が抜けた。
窓に近づき、中の様子を窺う。声と足音から、堂内に三人いるのが分かる。
天候や朝餉の話など他愛もない会話が続いたが、「夜が明けるまで休みます」という護秋の声がしてふたりの足音が遠のいていく。護秋ひとりになったのだ。
これ以上ない好機に胸が躍る。窓の木枠を二回叩くと、少し間を置いて簾がするすると上がった。
ぼんやりとした赤い灯火が、女人の輪郭をふちどっている。逆光で影になった顔に、懐かしい泣きぼくろを見つけた。
「翼、あなたなの?」
護秋は両手で口元を押さえている。翼は声を抑えるように手ぶりで示し、窓枠から堂内へ忍び込んだ。案の定、堂内に見張りはいない。護秋の手に飛びつく。
「よかった。生きていて」
その手に触れて、腹がひやりとした。指が枯れ枝を持ったように軽い。灯火に照らされた顔はひどくやつれていた。
「護秋姉さん、まだ身体の加減が?」
文には、病から快復したと書かれていた。しかしそれは偽りだったと顔の陰影が物語っている。その風貌は、楊広の姉、楊麗華の亡くなる直前の様子に酷似していて、心臓をつかまれたようになった。
護秋の身体を支え、寝台のへりに座らせる。
「あなたが来てくれるのを、命をつないで待っていました」
ごめん、という唇が震えた。
「もっと早く来るべきだったのに、こんなに遅くなってごめん」
そう謝った口の中に、まだ魚の甘酢煮の余韻が残っている。
「こんな身体で厨に立ってくれたの?」
楊玄感が無理に命じたに違いない。今は護秋の前だと、頭に血が上るのをこらえた。
「もう作ってあげるのも最後になるかもしれないと思って」
「ごめん、護秋。おれはもう護秋に食べさせてあげる歳になっているのに」
口がごめんごめんと謝罪ばかりを繰り返す。護秋は「いいのです」とほほ笑む。
「あなたは私のもとへ来てくれました。楊広ではなく、私のもとへ。それだけで充分です」
「おれが馬鹿だった。もっと早く来るべきだった。楊玄感の野心に気づけなかった。あいつ、護秋姉さんを利用するなんて」
護秋は弱弱しく首を横にふる。
「違いますよ。私は自分から楊玄感のもとへ来たのです」
その言葉に、横腹をつつかれたようになった。護秋が自分の意思で楊玄感のもとへ身を寄せたという考えが、すっかり頭から抜けていた。
――流されたわけでもないし、自分で決めたこと。
腹の子が流れたとき、たしかに護秋はそう言った。護秋は自らの選択でここにいる。言われてみれば、そのほうがずっと護秋らしかった。
しかし護秋は、さらに思いもしないことを言う。
「叛乱を起こすよう、楊玄感を唆したのは私ですから」
その告白はあまりにも不意で、翼と護秋の間だけ一瞬、時が止まったかのように感じられた。うまく受け止められず、まだ目の前で護秋が発した言葉が漂っている気がする。
「それ、いったい何の話?」
細い手が翼の頬にふれた。
「あなたは昔からだれよりもきれいで、太陽みたいに輝いていて、自慢の子でした。病の身となった今は、立派なその肩も高い背もうらやましい。その壮健な力で楊広を倒したかった」
つい声を荒らげていた。
「楊広を倒す? 護秋はおれを天子の翼星にしたかったんだろ?」
間を置かず、堂の戸を叩く音がする。いぶかしむような声が、戸越しに投げかけられた。
(つづく)