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 将校が集まると軍議になった。

 楊広を中心に、宇文述や主だった将校が意見を交わしている。翼たち驍果の主力は、護衛として楊広のそばに控えていた。

 次々と報せが舞い込み、詳しい状況が見えてくる。

 楊玄感は挙兵した際、隋の将軍らい護児ごじが謀叛を起こしたと偽りの情報を流し、その追討を名目に兵を集めたのだという。

 兵が集まると、楊広の暴政から民を救うと宣言した。呼応した民は十万に膨れ上がり、今は黎陽から東都へ北進している。

「高句麗に事が知れるのも、時間の問題ですな」

 宇文述が忌々しげに言う。翼も歯噛みした。

 ――あと少しだったのに。

 一日あれば、隋軍は遼東城を落とせていた。勝利はすぐ目前にあったのだ。

 楊広が落ちついた声で言う。

「長安の警固に当てている軍を仕向ける」

 楊広の下した決断はこうだった。

 初動を見るかぎり、楊玄感は遠征軍の背後を突くつもりがない。東都洛陽か、大興城長安を攻略すると見込んだ。

 東都と大興城とで陥落したときの痛手を比較すると、大興城のほうが大きい。諸々を勘案し、長安の警固に当たっている軍を叛乱軍鎮圧に差し向ける。

 そして、自身は高句麗との戦の早期終結を図る――。

「攻城の手を緩めるな。敵に弱みを見せたが最後、猛攻を食らう」

 各将に釘を刺し、散会となった。

 天幕の外へ出ると、すでに日が暮れていた。夜空は深みのある紺色で、忍びよる秋の気配がある。

「柳貴?」

 木陰で、柳貴が膝に手をついて屈んでいる姿が見えた。ただでさえ白い柳貴の顔が、蒼白になっている。

「大丈夫か」

 駆けつけた翼に、柳貴はかぶりを振る。

「何でもない」

「思いつめるのはお前の悪いくせだ。先に休め」

 驍果は複数名で組を作り、交替で休息をする体制を取っている。翼と柳貴はふたりで一組、かならずどちらかが楊広のそばにいるようにしていた。

「とても眠れない。胸騒ぎがする」

「おい」

 そばに寄り、柳貴の口をてのひらで押さえる。

「縁起でもないことを言うな。おれたちは堂々としていればいいんだ。黙っているだけでさまになるこの顔を活かさなくちゃな」

 冗談めかして、白い頬を叩く。しかし柳貴は口をかたく閉ざしている。

 ――こりゃ駄目だ。

 思いつめると碌なことをしない。

 周囲を見回すと、じっとりとした闇の中に天幕が沈んでいた。集まった将校は持ち場へ戻っており、周囲には数名の護衛しかいない。木陰は篝火から遠く、護衛たちからは翼たちの姿も見えないだろう。

 柳貴の肩に腕をまわし、声を低めた。

「真面目な話をするぞ。最悪の場合、陛下だけは生かす。あの方さえ生きておられれば、あとはどうとでもなる」

 楊広が持つ国家の展望は、唯一無二でだれも思いつかない。代わりなどいない。

「余計なことは考えず、陛下をお守りすることだけ考えるんだ。おれたちは陛下をお支えする両輪だろ」

 余裕を見せて言ったものの、自分も今になって虫の音が耳に入ってくるという体たらくである。汗ばんだ額をぬぐい、柳貴は顔をあげた。

「少し頭を冷やしてくる」

 軽く頭を振って、虫の声の響く茂みへ入っていく。

「おれが陛下のそばにいるから、ゆっくりしてこい」

 楊広はこれから眠らずに今後の予測を立てるだろう。少しでも休めるように支度をしておく必要がある。天幕へ足を向けたときだった。

 いつからそこにいたのか、近くに人影がある。驍果の者らしい。まるで翼がひとりになるのを待ち構えていたかのように、すっと暗がりに入ってきた。

 見慣れない顔だ。男はそっと文を翼の手に握らせる。

「これを。おひとりでお読みください」

 男は、周囲を気にするように瞳を左右に動かす。今ここで読め、ということらしい。

 急ぎ封を切って文を開いた。手もとは暗い。なのに、一字一字がくっきりと見える。

 

 ――護秋の身柄を預かっている。ひとりで来られたし。

 

 差出人は楊玄感だった。文字の意味は理解できる。しかし、なにが自分の身に起きたのかが分からなかった。

「これはいったい?」

 救いを求めるように、震える手で文を差し出す。

 冗談だと言ってほしかった。護秋が楊玄感に囚われている。そして自分は今、育て親を楯に脅されているのだ。

 ――おれが翼星だからか。

 天子を滅ぼす儺神として、叛乱軍の象徴にするつもりなのだろう。

 ――なんてことだ。

 痺れる頭で懸命に考える。護秋と連絡が取れなくなったのはいつ頃だったか。ハッとして顔をあげた。

「まさか、護冬も一緒なのか?」

 男は答えない。無言で翼を見つめている。

 護秋と護冬を楯に取られたら逆らえない。男は返事を促してくる。

「来るのですか、来ないのですか」

 それは、護秋を見捨てるのか否か、という問いだった。頭に白いもやが掛かったようになった。

 ――いったい、どうしたら。

 楊玄感は人道を重んじる。護秋に無体はしないはずだ。しかし楊広を置いては行けない。

 どれだけのときが過ぎたか。茂みから人が近づいてくる気配がある。柳貴が戻ってきたのかもしれない。

「残念です。命は諦めていただきましょう」

 男が踵をかえす。その腕をつかんでいた。心臓がどくどくと波打ち、指先の血管まで痛い。意思を固めるより先に、足が踏み出していた。天幕の方向でもなく、柳貴のいる茂みの方向でもない。人けのない闇の中へ男とともに進む。

「翼、どこだ」

 背後で、自分の名を呼ぶ柳貴の声が聞えた気がした。

 

 

「ずいぶん人望がおありですね」

 翼は吐き捨てるように言った。

 蒸し暑い天幕の中、椅子に身体を縛りつけられている。目の前には豊かな髭、向かい合って座るのはかつての師・楊玄感だ。

 隋の幕舎を抜けた翼は、使者の男とともに西へ進んだ。東都の南にある叛乱軍の野営地を訪ね、その場で囚われたのである。

 楊玄感は静かに口を開く。

「いかに民が苦難に耐えてきたか。目に見えて分かったでしょう?」

 楊玄感に呼応した兵は十万を超えると聞いた。実際に陣営へ入って、その数字が偽りではないことを知った。

 楊玄感の家系は、漢の時代から続く名門だ。父の死に伴って一時期職を失い、宇文述の権勢に押されたこともあったが、今は復職して爵位も得ている。

 その地位も財もすべて捨てて、天下の民のために兵を挙げた。その義侠心が、民の熱狂を生んだらしい。

 翼は前屈みになって、師を見つめる。

「ご立派なお志です。私の育て親を人質にした卑劣さを除けば」

 楊玄感は心苦しそうに、眉をしかめる。

「申し訳ないことをしたと思っています」

「護秋姉さんはどこに?」

「安心なさい。丁重に扱っています」

 ひどい扱いを受けているわけではないようである。その言い分は信じてもよさそうだった。

「いつからなんです? 護秋姉さんを軟禁したのは」

「私の父が亡くなって、少しした頃でしたか」

 護秋が姿を消した頃と一致している。七年もの間、この男は護秋の自由を奪った。その間、自分も不安で眠れぬ夜を過ごしてきた。頭に血がのぼり、目の奥が赤く染まる。飛び掛かりたくなる衝動を、必死に抑えた。

「玉座を狙っていたなんて、気づきませんでした。まさか、人格者の先生が権力を欲しがるなんて」

 嫌味に、楊玄感は誠実な佇まいで応える。

「楊広の暴政は、過去に例を見ません。運河や船の造設で過重な負担を民に強いた。ふたりにひとりは帰らないという過酷な労役に、女人まで駆り出しました」

「陛下は、先を見通して動いていらっしゃるのです」

 今度は悪童を諭すような目を向けてくる。

「豪華な遊覧船にあなたも乗ったでしょう? 船を引くのは人力です。遊興のために、どれだけの辛苦を民に強いたことか」

 こればかりは言い返せない。悔しいが、楊玄感が正しい。楊広の志は大きいが、民に強いた負担は尋常ではない。

「楊広を討つと胸に決めておりました。一度、わずかな仲間と御所を襲ったこともありましたが、寡兵でうまくいきませんでした。しかし、こたびの叛乱は違います。主体はもはや私ではありません」

 楊玄感は語調を強めて言う。

「民です。天意といってもいい」

 自分は民の声に応えただけだと言いたいらしい。しかし、気になったのはそこではない。

「御所を襲ったって。いつの話です?」

 側仕えの翼でも、そんな事件は聞いたことがない。楊玄感は眉をひそめ、意外そうな顔をする。

「あなたは知らなかったのですね。楊広が谷渾よくこんを討って、ちようえきに滞在していたときのことです」

 張掖は、楊広の姉、楊麗華が亡くなった土地だ。

 西方の民族を集めた回転宮殿で催しが行われ、翼は楊広に願い出て歌を披露した。あの張掖で、御所を襲撃したという。やはり知らない話だった。

「楊広は、即位前から身辺の警固に細心の注意を払っていました。それが、なぜかあのときから、警固を蕭皇后に一任した。隙をつくなら今だと思ったのです。残念ながら宇文述に阻まれましたが」

「警固を? 蕭皇后に?」

 ありえない、と思った。ただでさえ蕭皇后は後宮の統率で多忙を極めていて、皇帝の護衛など畑違いなうえ負担も大きい。

 ふと、ある考えが頭でひらめく。

「まさか……」

 拘束されているのを忘れて立ちあがる。転びかけたところへ楊玄感がとっさに手を差しのべた。

「大丈夫ですか」

 よろめく翼を支えようとする。しかしその声が耳に入らない。

 人に任せることを覚えろと、これまで何度も進言してきた。楊広はその訴えを聞き入れてくれたのではないか。

「そういうことだったのか……」

 ひとつ分かると、急に視界が開けたようになる。回転宮殿の舞台から蕭皇后と宇文述の姿を見かけたときは、男女の揉め事だと直感した。しかしあれは、蕭皇后が御所襲撃の犯人を逃した宇文述を叱責していたのではないか。

「そんなことだったなんて」

 頭を固い物にぶつけてやりたくなった。誤った推測をして、楊玄感の叛逆に気づけなかった。自分に対する怒りをどうすることもできず、あごが砕けるかと思うほど歯ぎしりをする。

 地団駄を踏む翼に、楊玄感は慰めるようなまなざしを向ける。

「あなたを苦しめるつもりはありません。ただ、私のそばにいてくれればいいのです」

 腹の底から叫んでいた。

「先生は正しい。でもおれは正しいことをしたいわけじゃない!」

 楊広のもとへ戻りたい。一国の皇帝が、一介の歌い手の献言を聞き入れてくれた。おのれの欠点と向きあってくれたのだ。ならば、臣としていっそう尽くしたい。一刻たりとも、こんなところに留まっていたくない。

「護秋姉さんを返せ!」

 飛び掛かろうとした翼を、控えていた兵たちが背後から押さえ込む。それでも食らいつく勢いで訴え続けた。

「護冬は? 護冬も拘束したのか」

 楊玄感は眉をひそめる。

「嫁いだというあなたの楽団仲間でしょうか。大興城で暮らしているのでは?」

 護冬が何者なのかすら分かっていないようだった。嘘をついているようには見えない。

 強い力で押さえ込まれ、肩の骨がきしんだ。痛みに耐え、さらに問い詰める。

「昔、おれを京師みやこへ呼んだのも先生なのか」

 黒幕は楊玄感だったのだろうか。しかし、楊玄感は事情が分からぬといった顔をしている。おそらくこの男ではない。しかし今それはさして重要ではない。まずは護秋の無事だ。護秋さえ助けだせれば、楊広のもとへ戻れる。

 警固兵はさらに強い力で押さえつけてきた。熱した刃でも挿しこまれたかのような痛みが肩に走る。つばを垂らしながら、声を振り絞った。

「護秋を解放してください。おれの家族なんです」

「翼」

 楊玄感が一歩近づく。腰を落とし、翼の上半身を起き上がらせる。

「ならば、従ってくれますね」

 おだやかな声で見つめてくる。空気が沼のようにじっとりと身体にのしかかる。顔が歪むのが自分でも分かった。

「ついて来なさい。立っているだけで構いません。発言はしないように」

 楊玄感は足の拘束を解くよう兵に命じ、立ちあがった翼を天幕の外へと連れだした。外で控えていた幹部らしき武将を伴って、立ち並ぶ天幕の間を進んでいく。

 見あげると、澄み切った空にぽつんとはぐれ雲が浮かんでいた。

 ――帰りたい。

 楊玄感のかたわらにいる自分に、激しい違和感を覚える。

 いつぞや、楊玄感を天子にふさわしい人だと思ったことがある。しかし、もしそうなったとしたら、つまらないだろうとも思っていた。もし、純粋に幕僚として誘われたとしても応じなかっただろう。ここでは、楊広の側にいるときのような昂揚は得られない。

 いくつかの天幕を通りすぎ、楊玄感の一行は広い草原に出た。

「これは――」

 目に飛び込んできた光景に、足がすくんだ。見渡す限りの草原を、叛乱軍の兵が埋め尽くしている。その人いきれに圧倒された。

「来なさい」

 楊玄感は壇上へ翼を促し、隣に立たせる。

 強い日射をうけ、一面に整列する兵たちの目がぎらりと光って見えた。太鼓が打ち鳴らされ、十万の兵の双眸が一斉に壇上に向く。統率された動きに、ひとつの意思をもつ巨大な怪物と対峙しているかのような気持ちになった。

 楊玄感が声を張り上げる。

「朗報がある」

 言葉は書記官によって書き留められ、伝達の兵によって送られる。隅々まで、楊玄感の声を届ける仕組みらしい。

「隋のへい部侍ぶじ ろうが高句麗に寝返ったそうだ。暴君楊広の元から高官が次々と去っている」

「えっ」と思わず声をあげていた。

 兵部侍郎は軍務を司る兵部の次官に当たる。しかも、楊広が特に信を置いている人物だ。その背信は翼の心を動揺させるに十分だった。

「もうひとつ良い知らせがある」

 楊玄感は腕を伸ばし、翼を指し示す。心臓がどくりと波打った。

「隋の翼星が、我らのもとへ駆けつけてくれた。儺神となって暴君を滅ぼす、我らの守り神となってくれるだろう」

 違う。自分は福神だ。楊広を滅ぼすつもりはない――。

 心の叫びとはうらはらに、草原は熱狂に沸いた。連打される太鼓に合わせ、「大義は我らにあり!」と叫ぶ声が洪水のように迫ってくる。

 声をあげたところで、もうだれの耳にも届かないだろう。

 ――なぜこんなことに。

 翼の背信は、天下に明らかとなった。

 

 

(つづく)