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第四章 東京とうけい

 

 

「様子がおかしいとは思っていたが」

 楊広は信じられぬといった顔でつぶやいた。

 虫よけのしやや香草が掛けられた窓から、南方特有の湿った風がへやを抜けていく。横長の椅子に、楊広と蕭皇后はならんで座していた。

 へやには皇帝と皇后、翼の三人しかおらず、宦官もみな人払いしている。

 死の直前に宣華夫人と対話をしたのは翼であり、どんなやりとりをしたのかをふたりに報せたところだった。

 慣れぬ宮殿で迷った宣華夫人が翼を頼ってきた。もっともらしく訴えた翼の話を、楊広も蕭皇后も信じた。宣華夫人と翼が話し込んでいた場に居合わせた宇文述は、不貞の疑惑を胸におさめたらしい。宣華夫人が亡くなっており、今さら騒ぎ立てたところでだれにとっても良い話にはならない。

「江都を見せてやりたかったな」

 楊広が重い口調で言う。蕭皇后が慰めるように、手を重ねた。

「ふるさとに近いところまで来られたのですから、夫人にとってもよかったと思います」

 本来、宣華夫人は東都へ残すはずだったらしい。死期がちかいと悟り、楊広が内々に船に同乗させたという。

「夫人は病だったのですか」

 楊広の代わりに蕭皇后が口をひらいた。

「胸が苦しいと度々訴えておりました」

 後宮内の一切は蕭皇后の管理下にある。宣華夫人の世話も蕭皇后が手配していた。

 楊広が長い息を吐く。

「兄が亡くなったばかりというのに、憐れなことだ」

 宣華夫人の兄、陳の最後の皇帝は昨年末に亡くなっている。変わった人で、その無能さゆえに殺されずに生き永らえた。恥という感覚が欠落しているのか、おのれの国が滅んだのち、連行された京師みやこで文帝が催した宴会にも列席していたと聞く。

 無能の皇帝に、楊広は煬帝ようていおくりなした。

「宣華を悼むをつくる。兄の近くで弔ってやろう」

 その十日後、旅団は目的地の江都へ着く。翼にとって、五年ぶりの故郷だった。

 

 

「なぜもっとはやく言わなかったのです」

 薄暗い楼船の中で、護秋は翼をとがめた。

「悪かったって。心配をかけたくなかったんだ」

 叱られて懐かしさを感じるのは、ここが故郷の江都だからだろうか。

 護秋と護冬、翼の三人は楼船にのって、川を進んでいる。五年前に江都を離れて以来、そのままになっている住まいを確かめにいくところだった。護秋いわく隣人にときおり風をいれるよう頼んでおいたが、人が住まなくなった家はどうしても荒れるらしい。

 護秋は困惑半分、呆れ半分といった様子で額に手を当てた。

「これほど重大なことを黙っているなんて」

「護秋姉さんを煩わせたくなかったんだ。でも、逃げろなんてふつうじゃないから」

 翼と護冬は、翼の身の上に起きたことを楼船の上で護秋にうちあけた。

 自分たちを京師へ招いたのが宣華夫人だったこと、宣華夫人のほかに手を引いたものがいるかもしれないこと、宣華夫人が翼に「はやく逃げろ」と言い残したこと――。

 翼と護冬が楊広を陥れようとした話だけは省き、おおよその出来事を伝えた。

 三人が沈黙すると、船をこぐ音や川の水音に交じって、街の喧騒が聞こえてくる。川は血脈のように街に張りめぐらされて、往来の声や物音がすぐそばにあった。

 翼はふたりを交互に見る。

「今、分かっていることを整理しよう。まず、宣華夫人は陛下を憎んでいた。一方で隋に対しては恩を感じていて、国を滅ぼしたいという考えはなかった」

 護秋と護冬がちいさくうなずく。

 ここまでは三人とも共通の認識を持っている。

「宣華夫人は、陛下が翼星を欲しているのを知っていた。江都に翼の痣のある歌い手の少年がいると聞きつけ、皇太子楊勇の名をかたって大興城へ呼びだした。目的は、翼星を欲しがっていた陛下への嫌がらせだ。それで、兄の楊勇のもとへ翼星を送り込んだ」

 風が舞い込み、窓を覆っていた布が揺れる。

「でも」と護秋が口をはさむ。

「楊勇は廃太子となり、翼は陛下のもとへと渡った?」

 翼はあいづちを打つ。

「そのとおりだ。ちなみに、おれが陛下のもとへ引きとられた流れに、第三者の手は絡んでいない。おれが陛下と出会ったのはほんとうに偶然だった」

 大興城に来たばかりの頃、翼が悪党に追われる羽目になったのも、楊広のいる寺に逃げ込んだのも、その場の勢いだ。他の者の思惑が入る余地はない。

 船頭に話が聞こえぬよう、翼は声をおさえて続ける。

「翼星が陛下のもとへ渡ったと知った宣華夫人は、皇太子となった陛下の即位を阻もうとした。陛下から乱暴を受けたと、先代の皇帝に訴えようとしたんだ。このくだりは護秋も噂で知ってるだろ。でも、先代は崩御された」

 宣華夫人の企みに翼と護冬が絡んでいたことは、護秋の耳には入れていない。

 真相を知るのは病床にいた皇帝に近しい者のみで、かれらも口外を禁じられている。ただしあの日、皇帝崩御を知った宣華夫人は、錯乱して楊広への恨みを吐き散らした。騒ぎになったから、こればかりは皆の知るところとなった。

「おそらく陛下が即位されて以降、宣華夫人はだれかの監視を受けるようになった。宣華夫人についていた侍女が監視役だったんだと思う」

 しかし、護秋も護冬も釈然としない顔をしている。

「それは陛下が加減を心配されて、夫人のために置いた侍女ではないのですか?」

 首をかしげる護秋に、護冬も同意する。

「私も侍女は見張りではないと思う。宣華夫人のお世話をしていた私が言うんだから間違いないわ」

「でも宣華夫人はおれに言ったんだ。侍女の目を盗んで来たんだって」

 護冬が思いついたふうに言う。

「宣華夫人はこころが不安定だったから、万が一のことがないように侍女が目を光らせていたの。それをおっしゃっていたんじゃない?」

 言われてみれば、そういう気もする。しかし翼は宣華夫人がもっと深刻な、行動を制限されているかのような印象をうけた。

「ともかく、宣華夫人はなにかをきっかけに、自分がだれかに利用されたのかもしれないと思うようになった」

 護冬はふっくらとした下唇をかんだ。

「気持ち悪いわね。黒幕はなにが目的なのかしら」

「それで、相談なんだけど」

 翼は一度言いさし、それから一息に告げた。

「護秋と護冬はこのまま江都に残らないか」

「なぜ?」

 間髪をいれずに問う護冬の声に、なぜか険がある。

「ふたりにもしものことがあったらいけない。ほら、護秋姉さんは琵琶を、護冬はまた琴をはじめたっていいし」

 翼は護冬の琴がすきだった。

 なのに、江都を離れてからというもの、まったく琴に触れていない。

「柳貴の琴を聴いたらやる気が失せたのよ」

 言葉とはうらはらに、護冬の口ぶりには未練が滲んでいた。

 護秋がやさしくさとす。

「柳貴の琴は別格です。比べて落ち込むことはありません」

 翼は腕を組み、護秋に尋ねる。

「たしか、黒琴団こくきんだんだっけ?」

 黒琴団は、琴の流派だ。

 本拠地と呼べる場所はなく、集団で各地を渡り歩いているという。その流儀は門外不出で、食事から排泄まで暮らしをきびしく管理する。琴弾きを育てるのに、短くて一年、長くて数十年におよぶ厳しい修業をすると聞く。

「女人の身では黒琴団の修業に耐えられません。三人にひとりが死ぬという過酷な修業だそうです」

 その常軌を逸した修業を乗り越え、芸を修めた柳貴の技巧は、並の者が真似してできるものではない。護冬が打ちのめされたのも分かる。

「琴はともかく、護春たちみたいに大興城で家庭を持ってもいいんだ。楊広に頼めば、手配してくれる」

 三つ年上の姉は、冷ややかな目を翼に向けた。

「そういうの、興味がないから」

「ごめん」

 翼は首をすくめ、素直にあやまった。護冬は、人の妻となり母となることに嫌悪すら抱いている節がある。

「私も離れませんよ」

 だれと、とは訊けなかった。

 翼と離れないという意味だと思いたいが、楊広を指しているような気もした。

「宮中にいるなら、無理はしないと約束してほしい。危険を感じたら、すぐにおれに知らせること」

「翼こそ、これからどうするつもりなのです?」

 護秋が案ずるような顔で訊く。

「どうするって、おれは翼星だから宮中にいるさ。たとえ歌えなくなっても陛下はそばに置いてくださると仰ったし。もちろん、護秋の夢を忘れてはいない」

「それでいいの?」

 護冬が外へ顔を向け、ぼそりと訊く。

 船の中がしずまり、外の音が遠くに感じた。翼は静寂を破るように、手を打つ。

「いいに決まってる。さあ、おれたちの家へ帰ろう。なつかしい我が家へ。今日はおれが飯をつくるよ。せっかく江都に帰ってきたんだからうまい魚を食わなくちゃ」

 翼は明るくいって、護秋と護冬に食べたいものをたずねる。

「魚を甘酢で煮たやつなんてどうかな? 護秋姉さんがよく作ってくれた」

「それは翼の好物でしょう。作っておいた魚の甘酢煮を翼がひとりでぜんぶ食べてしまったことがありましたね」

「そうだったっけ?」

「細いくせによく食べて。男の子を育てるのはこれほど大変なのかと驚きました」

「おれ、遠慮してたつもりなんだけど」

 翼は場が明るくなるよう、くだけた口調で言う。

「ふたりとも、会いたい人がいるだろ。おれは家にいるから、行ってきたらいい」

 護秋は首をかしげる。

「翼こそ街に出たいでしょう?」

「おれは友だちいないから」

 江都にいたころの自分は、我ながら嫌なやつだった。

 孤児だという劣等感から、「実は家を買えるだけの財産がある」などと近所の子たちに見え透いた嘘をついたりもした。そんな翼でも護秋たちの存在があったから、まっとうな人生を歩んでこられた。もし護秋と出会っていなかったらと思うとぞっとする。

 ひさしぶりに帰った家は、おもいのほか整っていた。

 管理をまかせていた隣人への挨拶と礼をすませ、三人は掃除にとりかかる。家中の埃をたたき、家に風を入れた。寝具やらを洗濯して、ひさしぶりに竈に火を入れると、ようやく人心地がつく。

 夕餉をとったあとは、護秋を先に休ませ、翼と護冬で厨の片づけをした。

 就寝前、翼は星空の下で庭に片足で立つ。重心を落として、ほそく長く息を吐く。呼吸法の鍛錬のひとつだ。

 家も庭の樹木も、すべてが小さく感じる。前にこの庭を出たとき、翼は八歳だった。故郷が小さくなったのではない。翼が大きくなったのだ。

「声の調子はどう?」

 護冬が厨の戸口に立っていた。ほつれた髪が夜風に揺れている。

「まずまずかな。低くなった声に慣れてきたなと思うと、また声が変わったりするんだもんな。完全に声が変わるまで、落ちつかないや」

 龍舟で歌ったとき、これ以上ないとおもえるほどきれいな高音が出た。しかし、りようびんの声で歌えたのはあれが最後だ。

「歌い手はたいへんね。成長期の声変わりが終わっても、歳を重ねていくたびにまた少しずつ声は変わっていくんだろうし」

「おれは、この生身が楽器だからな」

 両足を揃えて立った翼へ、護冬が大きな碗を差し出す。

「はい、夜食。身体をつくらないとね」

 星あかりを帯びて、碗の中がつやりと光る。てんぐさで作ったところてんと芋団子の甘味だった。

「これはありがたいや。夜になると、腹がへっちゃって」

 護冬は庭の飾り岩に腰かける。翼もその隣にすわり、さっそく甘味をかきこんだ。

「ほんとうに、このまま楊広のもとで仕えるつもり?」

 芋団子を噛みしめながら、翼は答える。

「まあ、しばらくは」

「翼はそれでいいのね?」

「いやだよ。おれ、あいつ嫌いだもん。でも、護秋姉さんが喜んでくれているから」

 翼は、ところてんと甘い汁を一気に吸い込む。江都にいた頃から護冬は料理がうまかった。

「でも船で歌ったとき、自分の身体が変わった気がしたんだ。天子の翼星なんて正直、迷信だと思っていたけど、ちゃんと身体で感じた。そしたらさ、同じ広間にいた護秋姉さんがおれをみて泣いていた。姉さんが喜んでくれるなら、おれの気持ちなんて小さいもんだ」

 それでも楊広はきらいだけど、と繰り返す翼に、護冬は唇をかすかに動かした。笑ったのだ。

 不本意ながらも、楊広のそばで生きていく。それが翼の人生なのかもしれない。

「でも、絶対に譲れないこともある」

「譲れないこと?」

 翼は姉に視線をおくった。

「家族だよ。護冬に護秋、それから京師で暮らしている護夏と護春。おれの家族のしあわせを壊そうとするやつはゆるさない。だから、おれを京師へ呼んだ者の正体を突き止めるまでは安心できない」

「私たちふたりで探るしかないわね」

 ぽそりと告げる護冬に、翼は「ああ」と応じる。

「護秋姉さんを巻き込んじゃいけない」

 私ね、と護冬は声をひそめた。

「宣華夫人が恐れていた人物に心当たりがあるの。宣華夫人は病死じゃなくて、その人に殺されたんじゃないかと思ってる」

「えっ」

 瞠目する翼の耳もとに、護冬が口をよせた。

「蕭皇后よ」

 翼は、言葉を詰まらせる。

「それは、つまり、蕭皇后が楊広を皇帝にするために、おれを江都から呼んだってこと? もしそうだとすれば、楊広もたくらみを承知しているはずだ。でもあいつは本当に分かっていないようだった」

「楊広には内密で動いているとしたら?」

「夫を陰で支えるといえば、蕭皇后らしい気はするけど」

 しかし、「そうじゃない」と護冬は翼の言葉をさえぎった。

「私が言いたいのは、あんなに完璧な妻ってありえるのかってこと。楊広の妻として申し分ないでしょう。清楚で優等生で」

「表向きはな」

 あの菩薩のような笑みに、翼も騙された。

「楊広の女癖にも寛容で、ほかの妃たちにもやさしい。でもほんとうに楊広を好きだったら、嫉妬のひとつやふたつするものよ。あの物わかりの良さが気持ちわるいの」

「そういうもんかな」

 翼には、どうもぴんと来ない。

「楊広の母のどつ孤伽羅こからは、夫が皇帝となっても一妻一夫の誓いを守らせたでしょう。極端だけど、そのほうがまだ理解できる」

「護冬は、蕭皇后がなにをたくらんでいると思ってるんだ?」

「蕭皇后は、りようのひめだったわけでしょう。隋を恨んでいるってことはない?」

 一瞬、護冬がなにを言っているのか分からなかった。それくらい突拍子のない話だ。

「ありえないよ。蕭皇后は故国に良い想い出がないようだし、あれで夫婦仲はいいんだ」

「どうかしら。蕭皇后は、とてもへんな感じがするの」

 護冬はうつむき、思慮にしずむ。

 話は突飛に思えるが、護冬はながく後宮にいるし頭がいい。翼には見えないものを感じているのかもしれない。

「護冬がそう思うのなら、警戒したほうがいい。蕭皇后にはなるべく近づかないように」

 翼が念を押すと、護冬は意外そうな顔をする。

「どうして。逆に、私を蕭皇后のおそばでお仕えできるように、楊広にたのんでほしいのだけど」

 翼は頭を抱える。

「気乗りがしないな」

「私、もう少しでなにかつかめるような気がするの」

 護冬は頑固だ。いいだしたら聞かない。

「無理はしないと約束してくれるなら」

 しぶしぶ翼は了承した。

 

 

(つづく)