最初から読む

 

 

「朝廷も慌ただしいだろ。高官が何人も更迭されたと聞いたぞ」

「よくご存じですね」

 更迭された高官の筆頭は、宇文述だ。

 高句麗遠征の際、遼河にかけた橋の長さが足りず隋軍は出ばなをくじかれたが、あらためて橋を架け直し、高句麗の西部にある遼東城を包囲した。しかし敵の激しい抵抗にあい、数月経っても遼東城を攻略できずにいた。それで、楊広は軍を分けて宇文述を総大将とし、さらに東にある高句麗の国都平壌へ向かわせたのである。

 しかし歴戦の猛者の宇文述も、高句麗の名将の策にはまって勝機を逃した。寄せられた期待が大きい分、処罰は厳しいものとなったのである。官位をすべて削られ、身分を庶民に落とされた。

「そりゃな」と沈光は呆れ声で言う。

「これだけ大負けすれば、いやでも耳に入ってくる」

 翼は歩みを止め、沈光に迫った。

「今日、お伺いしたのは他でもありません。今、陛下は真に実力のある勇士を求めております」

 大軍で失敗をした楊広は、意のままに動く機敏な部隊を欲している。年が明けてすぐに、天下に勇士を求めたのである。

 すっと黒ずんだ手が翼に向いた。肉飛仙はてのひらの皮が厚いのだな、と妙な気づきを得る。

「断る」

「肝心の話はこれからですが」

「お上の考えることなんざ、言われなくても分かる」

「ぜひ、お力を貸していただきたいのです」

 翼と柳貴では力が足りない。ならば、楊広が最も欲している戦力を引き入れればいい。そう考えたのだった。

 お力だってよ、と壁沿いに控えていた男たちが茶化して笑う。沈光もからかうように言った。

「おれは高いぞ」

 沈光は金では動かない。権威をかさに着ればさらに頑なになるのは分かっている。翼は靴のかかとで床をたたいた。こんと骨に響くような音がする。

「ここ、床が抜けたらまずいことになりますね」

 急に耳が聞こえなくなったのかと思うほど、場が静まりかえった。

「これは参った」

 沈光が静寂をやぶり、舌打ちをする。

「ばれてやがる」

「楽人なので、耳はいいんです」

 以前、訪問したときに、かすかな流水音が聞こえた。その上、歩くたびに床下から反響するような音がする。おそらく床下は広い空洞になっていて、水路になっているはずだ。

「そちらの女人が服の下に隠し持っている武器は、でしょうか。小弩よりさらに小さく見えますね。国の規格とだいぶ違う」

 隋の政府は、民間の武器の所有を禁止している。治安のため、そして叛乱の防止のためだ。

 つまり、この地下には禁じられた私造の武器がある。

「よく見てんな」

 感心したというより、なかば呆れた顔をする。

「ある方に教えていただいて、目測が癖になっていましてね」

「目測?」

「沈殿の身の丈は五尺四寸、体重は三きんほど、右利きで左右の腕の長さが違っている。以前お会いしたときよりも、身の丈も体重も増えておられますね」

「当たってる」

 肩をすくめ、取り巻きたちと顔を見合わせた。

「で? この件、天子さまはご存じで?」

「いいえ。柳貴とふたり、新年の散策でこちらに立ちよった次第です」

「言ってねえのかよ」

 沈光は、愉快そうに拳で机の天板を小突く。

「じゃあ、いなくなっても分からねえってわけだ」

 右目がすうとほそくなった。

「勘違いすんじゃねえぞ。前んときは、一国の天子が護衛もつけずに出向いて来たってんで、こちらも敬意を払って生きて返してやった」

 先ほどまで翼をあざ笑っていた者たちも、口を閉ざして翼をにらんでいる。

「だがお前らはただの楽人だ。おれたちとは対等ですらない。明日の朝には洛水か漕渠に浮かんでおわりだ」

 片目で凄まれ、頬の皮膚がひりひりする。翼も柳貴も丸腰で今襲われたら一たまりもない。しかし恐怖を上回る昂揚を覚えた。

 ――この男を説き伏せる。

「おれは地下に隠された武器について役所に訴える気はありません。願いはひとつ。どうかお力を貸していただきたい」

 かつて、楊広と共に見た夜明けの光景が目にちらつく。

 暁の光の中、人里にうごめく今と未来の命――。

 沈光も楊広から志を聞いたはずだ。あのとき、沈光の心が揺れたように感じた。

「高句麗に勝てば、この隋に千年にわたる泰平が訪れましょう。十年、百年、千年先の民の命があなたの手の内にある」

「主従で同じことを言ってやがる」

 沈光はつま先で床を細かく叩き始めた。

「だが、あれだけの大敗をしてまた戦をするなんて正気じゃねえ」

「正気も正気。陛下は大真面目です」

 口とはうらはらに、沈光の心が揺れているように感じる。

 ――もう一押しだ。

 語りかける舌があつく漲った。

「陛下は、先代からの国土計画を大胆に発展されました。運河を造り、南北を真の意味で統一されたのです。さらに外憂を断つため、晋王であられた際に南の陳を討ち、即位されてからは北の突厥とつけつ、西の谷渾よくこんを牽制された。のこすは東の高句麗です」

 高句麗を討てば、楊広の計画のおおよそが達成する。要のときだというのに、楊広の身辺にはいくつもの懸念が取り巻いている。強力な手勢――まさに沈光が欲しかった。

「沈殿は、私造した武器を集めては横流しされているのでしょう? おそらく、地下水の流れを使って市場の貧民に運ばせている。武器を欲しがっているのは各地の義賊かな」

 沈光の右目がちらりと翼を見た。それだけで圧を感じる。踏んできた場数が違うと肌で分かった。

「それって楽ですよね。楽だから退屈なんですよ」

 煽るように沈光を見つめた。

「おめえになにが分かる」

「よく分かります。あなたは楽な方へ流れて、力を持て余しているんだ。ほんとうは跳びたいくせに」

「なんだと?」

 急に、沈光の周囲だけ空気がぴんと尖ったように感じた。義眼までこちらをにらんでいる気がする。

「肉体を持った仙人のように自由自在に跳びまわる。そう謳われたあなたがこんな狭い地下室で閉じこもっているなんて。陛下のもとなら存分に跳べるのに」

「勝手なことを言うんじゃねえ」

 沈光が腰の刀に手をやったのが合図だった。手下たちが、一斉に武器を構える。

「脅されても、首を縦に振っていただけるまで帰りません」

「言ったな」

 立ちあがり、沈光が刀を抜いたときだった。

「おやめなさい」

 声に振りかえると、白々とした光を背に小さな影が戸口に佇んでいる。目が光になれてきて、外で座っていたあの老婆だと気づいた。足が悪いのか、身体をかたむけてゆっくりと階段を下りてくる。

「母上」

 沈光が刀を納めると、手下たちもそれに倣った。

「私は自分の始末くらいできます。楽人のお若い方、どうぞ光をお連れ下さい」

 翼は沈光と老婆を見比べる。

「御母堂?」

 年が離れている気がするが、遅くにできた子なのだろう。この老婆は沈光の母親だったのだ。

 階段の近くにいた柳貴が駆け寄り、沈光の母を支える。

「私は骨がもろくなる奇病なのです。人より老いるのも早く、医者にも匙を投げられて。この子が心配してそばにいてくれております」

「おれが好きでやっていることです」

 階段を下りただけで、沈光の母は顔を歪ませた。柳貴が抱きかかえるようにして、階段下の椅子に座らせる。かたわらに、沈光が跪いた。

「無理をして下りてくるからです」

 老婆の肩を支えていた柳貴が尋ねる。

「痛みはどちらに?」

「日向だと楽なのですけれど」と言って、膝をさすった。

「差し支えなければ、針を施してもよろしいでしょうか」

 柳貴は腰にさげた袋から小箱を取り出す。

「余計なことをするな」

 するどい眼光で睨まれても、柳貴は涼しい顔で針を手にした。

「婦人の足には触れません。てのひらをお借りします」

 老婆の手は暑さでしおれた葉のように弱弱しい。そのしんなりとした手をとり、柳貴は針をほどこしていく。隣で固唾をのんで見守る沈光は、先ほどまで凄んでいた無頼の男とは別人のようだった。

 あれほど力にみちていた翼の舌が、ちりりと冷たく震える。

 ――間違えた。

 沈光は跳ばないのではない。跳びたくても跳べないのだ。

「沈殿。私が浅はかでした」

 詫びたところで、一度発した言葉はなかったことにできない。事情も知らず、余計なことを口にしてしまった。

 ところが、沈光の母が毅然と翼を見据えた。

「引き下がるのですか。その程度の熱意だったとは残念です。息子にはそれだけの価値しかないということでしょうか」

「そうではありません」

 あわてて、振りかぶる。

「そうではないのです。ただ、私の……。個人的な事情で、ご子息の心中が察せられて。私は今、育て親の行方がしれません。大切な家族が自分から離れたところにいるというのは、思いのほか心身にこたえるものです」

「行方不明?」

 沈光が顔をあげる。

「故郷の江都へ帰ったきり、行方が分かりません。そんなときにこの戦です。骸となった家族の姿を夢にみて飛び起きることも」

 気にしても仕方ないと思っても、うなされて起きる。家族思いの沈光に、病の母のもとを離れろとはとても言えなかった。

「肉飛仙、どうかお許しを。この件はご放念ください」

 沈光は拍子抜けした顔をする。

「帰るのか」

「散策のついでに立ち寄っただけですので」

 行くぞ、と柳貴を促す。ひととおり針を施した柳貴は、道具を布袋にしまった。

「ご婦人、手首の外側を冷やさぬように。時おり揉んでください」

 そう言い置いて、階段に足を掛ける。

 ふたりで外へ出ると、まだ日が高い。

 振り返ると、柳貴がどこか納得していないような顔をしていた。母親を抱きこんででも、沈光を仲間にすべきだとでも思っているのだろう。

「私にはお前の考えが理解できない。親にそこまでの思い入れがないからな」

 母子ともに身分を落とされたとき、母親は自分のことで手一杯で柳貴への心配りまでは出来なかったらしい。

 吹きすさぶ風に身体をすぼめ、翼は細い路地を歩みだす。

「おれにとって、護秋姉さんはこの世界をくれた人なんだ」

 何の縁もない自分を拾って生かしてくれた。

「陛下との出会いも、陛下の福神になるという志も、すべて護秋姉さんがくれた」

 冷たい風が襟足から背まで入り込み、身震いをする。

「さあ、温かい小豆の粥でも食って帰ろう」

 

 

 翼が沈光のもとを訪ねた翌々月の三月、再びたく郡に天下の兵が集結した。

 楊広は全軍に号令し、高句麗への親征を開始する。

 翼と柳貴は、近衛兵とは別の特別な軍に入った。どの将の権限にも属さない、いわば楊広の親衛隊である。

 その実動部隊の名を、

 ――ぎよう

 という。全国から集まった勇士や楊広の世話に当たる身分の低い者の中から、楊広が特に実力を認めた者を選抜した。

「沈光がいればな」

 翼と馬首を並べる柳貴の嘆息が風にまぎれる。そう柳貴が嘆きたくなるのも分かる。出自を問わぬ分、驍果は結束がもろい。

「お姫さま方はそろそろ、尻が痛いんじゃないか」

 前を進む驍果の兵から、翼と柳貴を揶揄する声が聞えてくる。

「あの派手な服は、踊りでも披露してくれるのか」

 翼たちは、天子の近侍として派手な軍装を纏っていた。

 翼は迦陵頻伽の羽を模した赤を基調とした軍装を、柳貴は刀から靴まで全身を白で統一し、披風はおりに金の刺繍を施すという絢爛な出で立ちである。見栄えを気にする楊広の好みだった。

 隋の将軍たちは翼と柳貴が皇帝の近侍だと理解しているので、本音はどうであれ表だって侮蔑してくるようなことはない。

 しかし、驍果は違う。朝廷と無縁だった荒くれ者ばかりで、自分の力で親衛隊としての地位を得たという自負がある。彼らの目には、翼たちが容姿だけで驍果に籍を置いている軟弱者に見えるのだろう。自分たちより皇帝に近いところにいる翼たちが気に入らないのだ。

 向かい風にあおられながら、翼も心中でぼやく。

 ――この者たちのどれほどが楊広の志を知っているのだろう。

 親衛隊に求められるのは、楊広を裏切らないという信頼だ。楊広のために身を投げうつ勇気、志を同じくする熱。しかし出世を餌に集まった彼らに、どこまで期待できるものか。

 ――何が起きても、楊広だけは守らなくては。

 ふりかえると、馬に引かれた車箱が日射を浴びて、豪奢な光を振りまいていた。中は執務室になっていて、楊広が各所からの報告書に目を通しているのである。

 近くで群生しているのか、熟した桃の香りが鼻をかすめる。日射しが暖かく、進軍中とは思えないほど長閑のどかだった。

 斥候からの報せが入ったのは、馬を休ませるための休憩に入ったときだった。

「女子どもだと?」

 報告を受けた楊広の顔が険しくなる。

 近隣の女たちが、飢えて痩せた子どもらと手を取り合って並び、道を塞いでいるという。立てた柱に子の亡骸を縛りつけ、戦を止めるよう訴えているという話だった。

「隋の民ではないな」

 楊広はあっさりと言う。

 おそらく、高句麗の間者が隋軍の戦意を削ぐために工作したものだろう。

 翼の胸に、暗い不安がよぎる。

 ――よくないな。

 女と幼子を殺せば、楊広はだれのために戦うのかという大義を失う。ただでさえ、女を労役に駆り出した暴君として、楊広の悪名は天下に響いている。女を使うのはありきたりな工作だが、兵士の士気への影響は大きい。

 しかし楊広はためらわず命じた。

「構わぬ、轢き殺せ」

 ――いけない。

 とっさに、楊広の前へ身を投じていた。跪いて揖の礼をする。

「陛下、お待ちください」

 将校らの視線を、痛いほど背に感じた。側仕えの歌い手が軍議で発言するのは不相応だ。分かってはいるが、敵とまみえる前から士気を下げるわけにはいかない。

「この件、私にお任せいただけませんか。決して隋軍の不利にはいたしません」

 将校らが嘆息する。楽人風情になにができる、調子に乗るなという心の声が聞えてくるようだった。

「長くは待てぬぞ」

 楊広は釘をさし、軍牌ぐんぱいを投げてよこした。

「仰せのままに」

 翼は柳貴を連れて、騒動のもとへ急ぐ。

 

 

(つづく)