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「護秋どの、なにかありましたか」

 強張った翼の腕を、護秋の手が押さえた。護秋はなにげないふうを装い、兵に答える。

「大事ありません。つまずいて声をあげてしまいました」

 お気をつけてと返事があって、堂の中に静寂が戻った。

 翼は安堵し、護秋のそばに身を寄せる。声をひそめて問いただした。

「護秋姉さん、ちゃんと話を聞かせて」

「あなたは知りたいでしょうね。私はね、楊広を殺したかったのです」

「なぜ? 楊広はそれほど悪い皇帝じゃない」

「天子としての器量の問題ではありません。私は生涯、楊広を許しません」

「それは楊広が陳をほろぼしたから?」

 陳が滅んだ直後、護秋は頑なに隋の楽人となることを拒んだと聞いている。思えば、隋に思うところがあったからではないのか。

 そして陳を滅ぼした隋軍の総大将は、皇子時代の楊広だった。

 護秋はどこか曖昧な答え方をした。

「まあ、そんなところです」

「まさか、楊広を討つためにおれを育てたってこと?」

 身分の低い楽人では、隋の宮廷に入ったとしてもそう簡単には皇帝に近づけない。よりそばに近づくために翼星を育てた――。話の流れから言えば、そういうことになる。しかし否定してほしくて訊いた。

 しかし返ってきたのは、さらりとした声だった。

「隋が陳をほろぼしたとき、楊広は翼星を欲しがっていました。だから翼星を育てれば、必ず楊広の懐へ入り込めるという確信があったのです」

 はっきり告げられてもなお信じがたい。だれかに言わされているのではないか。しかし護秋は淡々と続ける。

「けれど、楊広は用心深い性格だと聞いていましたから、近づく際には、私の狙いを悟られないよう別の者を間に置く必要がありました」

「それが宣華夫人?」

 翼が言い当てたことが意外だったか、護秋はかるく目を見開いた。

「ええ、宣華夫人は楊広を憎んでいましたから」

 宣華夫人は陳の皇帝の妹で、護秋は陳の宮廷楽人だ。翼の前ではそんなそぶりも見せなかったが、ふたりの間に繋がりがあったとしてもおかしくない。

「でも、あの人は隋を滅ぼすという考えはなかっただろ」

「隋を滅ぼすという私の目的は、彼女には伏せていたのです」

 宣華夫人は、差し迫った様子で翼に「逃げろ」と言った。

 最後の最後になって護秋の思惑に気づいたのだ。しかし真実を打ち明ければ、幼い翼が傷つく。それで明かすことをためらったのではないだろうか。

「もしかして、おれには言わないように宣華夫人に口止めしてた?」

「事情を知って、あなたが私に不信感を抱くようになっては困りますから」

 淡々とした答えに、胸に鈍器を挿しこまれたようになった。

 それでも頭は冷静で、護秋が明かした事実と過去の出来事の突き合わせを始めていた。

 例えば、楊広の屋敷に来たばかりのとき、翼の枕元に仕込まれていた宣華夫人からの文だ。だれが置いたのかとふしぎに思っていたが、護秋であれば容易に手配できる。

「宣華夫人はかわいらしい人でした。楊広への嫌がらせをしたくて、当時皇太子だった楊勇の名を騙って、私たちを京師へ呼んでくれたというわけです」

「でもおれが楊広と会ったのは偶然だ」

「そうでしたね。楊勇のもとへ翼星が招かれたとなれば、必ずや楊広は奪おうとする。それは兄弟間の諍いの種となり、隋朝楊家の弱体にもつながる。それが本来の狙いでしたが、謀らずともあなたは楊広のもとへ導かれました」

 理路整然と言われても、まだ心が納得しない。「でも」と反論の声を上げていた。

「どうやって宣華夫人とやりとりを? 地方にいる楽人が、後宮にいる宣華夫人と連絡を取るなんて不可能だ」

 これにも護秋は完璧な返しを寄こす。

「隋の宮廷楽人に、陳の楽人仲間がいたのです。宣華夫人に文を取り次いでくれました」

「それって……青真せいしんさん?」

 陳の宮廷にいたという男の歌い手だ。挨拶に伺う約束になっていたのに、その直前になって不審な死を遂げた。

「まさか青真さんが死んだのって?」

「楊広の懐へ入ってしまえば、青真は用済みでした。私と宣華夫人の繋がりを知っている者がいるのは厄介でしたし、極力、翼と接触させたくなかったのです」

 邪魔な庭の枝を切りましたとでもいうような軽い口調だった。

 目の前にいるのは間違いなく自分の育て親だ。しかし、これまで完全に隠匿されていた側面を見せられているようで、これまでの人生が底からひっくり返されたような心地がする。

 しかし一点、明確に分かったことがある。

 護秋は本気だ。身ひとつで隋という国を滅ぼそうとしている。

「おれが隋を滅ぼす儺神になると思って、京師へ連れてきたのか?」

 護秋は薬師だが、呪術めいたことは好まない。もし本当に楊広に殺意を抱いているのだとしたら、福神儺神といった不確かなものには頼らない気がした。案の定、護秋は極めて理知的な答えを寄こす。

「まさか。あなたは私が楊広の懐へ入るための道具に過ぎません。私は楊広を毒殺するつもりでした。そのために身につけた医術です」

 その言葉を聞いて、またひとつ腹に落ちる。

 いつぞや、楊広と護秋が親密にしているところへ踏み込んだことがある。楊広が護秋を口説いているのだと思って腹を立てたものだが、あれは護秋のほうから接近を図ったのではなかったか。

「でも楊広は身体を毒に慣らしていただろ?」

 護秋の眉根が寄る。

「そのとおりです。もう効果が出てもおかしくないのに、あの男はまだ健在でいます。思った以上に効きが遅い。それで楊玄感を誘惑して挙兵させました。なかなか踏ん切りがつかないようでしたが、楊広を倒せば翼星が手に入ると唆したらその気になったようです。人格者らしく見えるよう入れ知恵をしたりして、とても苦労をしましたよ」

 翼が声変わりで苦しんでいたときに楊玄感から受けた助言も、護秋の仕込みがあったのだろう。あれほど的確な助言は、護秋でなければ不可能だ。確かめるまでもない。

 翼は、やせ衰えてもなお毅然と語る護秋の姿を眺める。この人は目的のためにどれだけの人を陥れ、その命を奪ってきたのだろう。

「宣華夫人を殺したのも護秋姉さんなの?」

「私の本当の目的に気づいてしまったので仕方なく。彼女に私の目的をばらしてしまった者がいるのです。ぼんくらの煬帝。あの昏君も私の仲間でした」

 思いがけぬ名にめんくらう。

「煬帝って、陳の最後の皇帝?」

 護秋は小さくうなずいた。

 ちんしゆくほう――。

 自国の滅亡を招いた暗君として、楊広によって「煬帝」と諡された。

「あの昏君は、自分の国を滅ぼした隋を恨んでいましたから」

 煬帝の人となりについては、隋の楽人たちからよく聞かされた。

 憎めない人物で、亡国の皇帝にもかかわらず隋の宴会によろこんで列席していたという。宣華夫人が亡くなる前年に天寿をまっとうした。

「隋が攻め込んできたとき、井戸から這いずり出てきた煬帝は、陳の滅亡を悟りました。そんな彼の前に、颯爽と現れたのは隋の若き皇子、総大将の楊広です。そう、あのときの楊広は今のあなたと同じ二十一歳。自信に満ちた美少年わかものでした」

 まるで煬帝が乗り移ったかのように、護秋の瞳が爛とかがやく。

「楊広を地獄へ陥れると誓った私に、煬帝は支援を惜しみませんでした。道化を演じて、資金を集めてくれたのです」

 護秋は、亡国の皇帝まで手の上で転がしていたのだ。ましてやこの自分など、護秋にとっては道具以外の何物でもない。ほかの解釈を許してくれない。

「黒幕は護秋姉さんだったんだね?」

 翼が問うと、泣きぼくろの目もとが伏せる。

「そのとおりです」

 まっさらな雪の上へ薄い花びらを添えるような、ひそやかな声だった。

 自分は利用されていただけだった。しかしなぜだろう、ここまで言われても護秋を憎めない。純粋な感慨が胸から漏れる。

「そんなに楊広が憎かったなんて」

 護秋の乾いたまぶたがゆっくりと開く。

「楊広は、私の息子を殺しましたから」

「子どもが……いたの?」

 はじめて聞く話だった。

「ええ、楊広の軍は建康の都を破壊し、私からまだ三つだった息子を奪いました」

 口を固くむすび、泣き顔にも微笑んだようにも見える複雑な表情をする。

「また子を産めばとも思いましたが、あの子が帰ってくるわけではありません。それに戦の後遺症で子を授かっても産めない身体になっていたのです」

 かつて、護秋が子をおろしている場面に鉢合わせたことがあった。護秋の言葉どおりとすれば、あれは自然に流れたのだろう。

 護秋に息子がいた。その事実は、これまで翼の心の中で不明瞭だったものの輪郭をはっきりとさせる。

「そうか。母さんと呼ばせてくれなかったのは、それでだったんだね」

 幼いころ、ほかの家の子のように、護秋を母さんと呼んでしまうことが度々あった。しかし護秋姉さんと呼ぶように毎回躾られる。なぜ、育ててくれたひとを母さんと呼んではいけないのか、子ども心に疑問に思っていた。

「そうです。あなたは楊広に近づくための手段にすぎない。そう思うようにしていたのに」

 言葉を詰まらせ、心に湧いた感情をいつくしむように胸に手を当てた。

「私にとって、あなたは息子以上に息子でした。助けにきてくれたことが、これほど嬉しいなんて」

「そりゃそうだよ。護秋姉さんはおれの育て親なんだから」

 むきになって、子どもじみた口調になる。

 すると、護秋はすこし意地の悪い笑みを見せた。

「でもあなたは楊広に心を奪われているのでしょう?」

「それは、護秋姉さんが望んでいると思ったから」

 天子の翼星になろうと思ったのは、護秋の期待に応えるためだった。しかし今は、この心が楊広に惹かれている。砂を噛むような後ろめたさが口中に満ちた。

 護秋は満足そうにうなずく。

「それでいいのです」

 細い手を自身の胸もとに沿わせる。

「子は親の思いどおりにはならないもの。本音はどうあれ、翼が私より楊広を選べば胸が苦しい。楊広ではなく私を選べば嬉しい。この感情は、あなたを育てなければ知ることもありませんでした。楊広に奪われた、なかったはずのもうひとつの人生を、あなたのおかげで味わえたのです」

 もう感情を抑えるのも難しい。声を詰まらせながら訴えた。

「だって護秋姉さんは、おれにこの世界をくれた人なんだから。捨て子なんて見ないふりだってできたのに、みんなそうするのに。手を差し伸べてくれた護秋姉さんを、見捨てるなんてできるわけないじゃないか」

 護秋の細い手を取った。

「おれは護秋姉さんを死なせない。楊広を憎んでいたっていい。隋の宮廷へ連れ帰って病を治してみせる」

「いいのです。薬師ですから、自分で寿命は分かります」

 何と言われようが、翼には承服できない。護秋は空を見上げ、悩ましげに吐息をつく。

「楊広に施した毒はいまだ兆候を表さないようです。それだけが無念ですが、叛乱は各地に広がり、もはや隋の力では抑えられません。衆怒は犯し難し。民衆の怒りは、どんな毒よりもあの暴君を苦しめるでしょう」

「護秋姉さん、じつは楊玄感は死んだんだ。おれが殺した」

 泣きぼくろの瞳が二度まばたきをする。

 だからこの叛乱は収束する、そう伝えようとしたときだった。

 弾くような音を立てて、堂の戸が開く。内臓をすべて持っていかれるような衝撃が、翼の身体を突き抜けた。

「どうして」

 現れた男は、楊玄感だった。

 地獄から舞いもどったかのように、昏いものを背にまとっている。豊かなひげを下げた鈍色の顔が、首を鳴らしながら近づいてきた。

 動転して、翼の口から声にならない音が漏れる。

 楊玄感は死んだ。この手で殺した。しかし目の前にいるのは間違いなく楊玄感だった。死んだふりをしていたのか。それとも蘇生したのか。それを考える余裕もない。自分に向けられた殺気を臓腑で感じる。

「護秋姉さん、下がっていて」

 勝負は一回。そう直感した。

 視界の端に、枕頭の刀が見えた瞬間、身体が動いた。刀を手にし、疾駆する。抜刀したときには、楊玄感のひげに触れる間合いにあった。楊玄感は大きく目を見開き、刀を薙ぐ。

 翼は飛びのきながら、刀を振り下ろす。楊玄感の額から血が噴き出す。だが、皮を切っただけだ。致命傷には至らない。翼はふたたび構えた。

「翼!」

 護秋が悲鳴を上げる。翼の足もとに泉のごとく血だまりが湧いた。右のすねに薙いだ一太刀を食らったのだ。身体を支えきれず、膝から崩れる。

 大きな影が、目の前に立ちふさがった。

「ただの失神を死んだと勘違いするとは、所詮はただの歌い手よ」

 もはや口調を取り繕おうともしない。下に見ていた歌い手に殺されかけ、腸が煮えくりかえっているのだろう。

「楽人ごときが、よくも私をたばかったな」

 翼は鼻でわらった。

「そっちこそ、護秋姉さんに会わせてくれる約束だったろ」

 いつか、柳貴が話した言葉が今になって効いてくる。

 ――きれいだということは、自分の物にならないなら殺すという意味だ。

 もはやどう取り繕っても命は助からない。相手は腐っても猛将楊素の息子で、翼にとっては武術の師でもある。力の差は歴然だった。

 ならば刺し違えてでも、と楊玄感の顔を見据えた。

「お前など、結局、ただのならず者じゃないか。この戦だって、民のための挙兵でもない。かつて、お前は官人の粛清や兵士の死に憤ってみせた。だがそれも偽物だ。すべては陛下に対する劣等感から出たものだろう?」

 痛いところを突かれたか、楊玄感は燃えだしたかのように顔を赤くする。刀の切っ先を翼に向けた。

 ――さあ来い。

 首の動脈、心臓……と一発で仕留められる急所を目で確かめた。楊玄感の手もとで銀の光が閃く。斜め上からの叩き斬り。翼が太刀筋を逸らす体勢に入ったときだった。

 ぱっと目の前に影が広がった。骨を断つ鈍い音がして、影が倒れこんでくる。抱き留めた人の姿に、翼は瞠目した。

「護秋姉さん!」

 護秋の口が、熟れた果実のように開いている。楊玄感の放った一撃が正確に心臓を裂いていた。

「なぜだ。なぜ護秋姉さんがおれを――」

 翼は取り乱し、震える手で血の溢れる傷を押さえこもうとする。

「私に逆らうからだ」

 振り返ると、悦に入った楊玄感の顔が見えた。その歪んだ口が目に入ったとたん、頭の中で赤い色が弾けたようになる。動くはずのない足が、血のぬめりを撥ね上げた。咆哮をあげ、頭から突進する。顔面に拳を繰りだした。鼻の先に届かんとしたところで、急に足をつかまれたようになる。顔が床の血だまりに叩きつけられた。赤く揺れる視界の先に、弩を構える兵の姿が見える。足に矢を打ち込まれたらしい。

「舌を噛まぬよう轡を噛ませろ」

 背後から、兵に身体を押さえ込まれる。楊玄感は翼の髪をつかみ、強い力で引き上げた。聖人の面影は微塵もない。唾を飛ばしながら、吐き捨てた。

「そう簡単に死ねると思うなよ」

 総身をがんじがらめにされながら、翼は「殺せ」と声にならない声をあげた。それは籠に囚われた鸚鵡の叫びに似ていた。

 

 

 西の空が赤々として、視界に茫と滲んだ。

 唸る風に身を揉まれながら、翼は括りつけられた柱の上から戦場を見やる。

 叛乱軍は、西へ進攻する最中、隋の離宮・弘農宮を襲った。

 弘農宮には官民から取り立てた財宝があり、それを隋の圧政でくるしむ民へ解放すると、土地の顔役に約束したのである。要は人気取りだ。

 楊玄感の打つ手はどれも的を射ていない。今、叛乱軍がすべきは、一刻もはやく長安の大興城を落とすことだ。なのに、あの男は目先の攻城戦に躍起になっている。

 地上から煽る風が、肌の乾きを刺激する。

 捕らえられた翼は、足をへし折られ、意識が飛ぶほどの暴行を受けた。

 行軍の最中、食事はほとんど与えられず、水も昨日の夜に飲んだのが最後だ。意識が遠のき死を感じることもあったが、その都度、死なぬ程度のわずかな水を与えられる。少量の水が刺激となり、身体のうちで飢餓の虫が暴れた。猿轡を噛まされているから死ぬこともできない。延々と繰り返される生き地獄を味わっていた。

 攻城戦が始まるなり、楊玄感は翼を陣の東側に高く縛りつけた。隋軍の襲撃に備えてのことらしいが、翼を矢面に立たせたところで隋軍が遠慮するわけもない。

 飛んできた灰が、頬をかすめる。

 賊に財宝を奪われるくらいならと思ったか、弘農宮の者たちが城の中から火をつけたらしい。火にあおられ、叛乱軍は苦戦している。西の空に高く火が上がり、黒々とした煙が戦場へ流れていた。

 叛乱軍が負ければ、翼は野に晒されたまま死ぬ。遠い頭上を飛んでいた烏が、さきほどより近くを飛んでいる気がする。烏のほうが正確な死期を知っているのか、死体となった翼をついばむつもりで待っているようだった。

 どれだけ刻が経っただろうか。なにやら地上が騒がしい。東の方角に土煙があがり、急を報せる太鼓が鳴り響いている。

 ――隋軍か?

 東都から討伐の軍が出撃したのだろうか。しかし近づいてくる将兵の姿をみて、一気に目が覚めた。

 現れたのは、高句麗の戦に当たっていた主力だ。青い旗に大熊を模した鎧姿は、宇文述のもので間違いない。しかしありえない。ここは東都よりさらに西。高句麗遠征の前線から黄河を越えるとなると、到着にあと数十日は掛かる。

 行軍は激流のようで、どの兵もその速さに振り払われぬように必死に駆けている。磔にされた翼など目もくれず、叛乱軍の陣に向けて走り抜けていく。

 なぜあれほど必死なのか。その要因であろう男の姿が目に飛び込んできて、唖然とした。

 激流を生み出しているのは、ひとりの騎兵だった。派手な肩当ては取れかけて風になびき、戦袍せんぽうも襟が大きくはだけている。兜がとれ、乱れた髪が躍っていた。

 ――楊広。

 馬で疾駆する姿は、鉄火の玉が飛んでいくよう。兵が必死になるのもそのはず、長柄刀を片手に猛進する皇帝のそばで、のんびりとしていられるわけがない。

 影のように、楊広の背後を駆ける精鋭がいる。沈光だ。死を恐れぬ無頼漢が青ざめた顔で皇帝を追いかける光景は、喜劇の一場面のようだった。

 ――何を考えているんだ。

 ここは叛乱軍の領域で、皇帝が乗り込んでいっては恰好の標的になる。案の定、楊広を狙って矢が放たれる。しかし矢は大きく弧を描き、楊広の頭上を飛んでいった。

 干からびた翼の身体に、熱が萌した。すぐに駆けつけたい。しかし叫びは声にならず、割れた唇に猿轡が食い込んで血が滴るのみだった。

 叛乱軍もようやく敵襲に気づいたらしい。陣から撤退を指示する銅鑼と、構えの陣を敷くよう命じる太鼓が同時に鳴り響く。矛盾する指揮に、叛乱軍は大混乱に陥った。

 楊広が、叛乱軍を仕留めに掛かったのを肌で感じた。自分と違い、楊広なら確実に楊玄感の息の根を止めるだろう。安堵したとたん、どこかで見た光景が脳裡に広がった。

 自分は寺の敷地を駆けている。だれかに追われていて、そこが楊広と初めて会ったときの光景だと気づく。

 怒声が聞こえ、逃げ場もなく追い込まれる。活路を見いだそうとしたとき、植え込みが目に入った。日が射しているわけでもないのに一か所だけいやに明るく感じる。そこに楊広がいることを翼は知っている。

 人生を振りかえるかのように、懐かしい琴の音まで聞こえてくる。これは護冬の演奏だろうか? いや、柳貴でもない。聞いたこともない弾き方なのにとても懐かしい。

 ――そうか。

 幻想の中で駆けながら妙に納得する。死はつまり還っていくということなのだろう。琴の音調に誘われ、駆ける足が軽くなる。茂みまでもう少し。その明るい光の中へ飛び込んだ。

 

 

(つづく)