報告のとおり、子を連れた女たちが十名ほど並んで、壁をつくっていた。
――あれは生きている子ではないのか。
高くそびえる柱に五歳ほどの男児が括りつけられている。亡骸と聞いたが、血色がいい。生きている子を亡骸だと偽って磔にしているのだろう。
道の左右に集まった農夫たちが、「あわれなこと」「なんてことだ」と嘆いていた。
――おかしい。
農夫のほとんどが成人の男で、徴兵されているはずの年齢なのである。さらに遠くで、休憩の手伝いに駆り出されていた近隣の住民たちが、何が起きているのかと様子を窺っていた。
翼は女たちの前へ進み、立ち止まる。場にいる皆に聞こえるように、大音声を上げた。
「この戦は隋の民を守るためのもの。ご婦人方はすみやかにこの場を離れなさい。さすれば咎めはいたしません」
すると農夫のひとりが、翼を指さした。
「寵童め」
侮蔑をこめて翼をののしる。
「噂の寵童だ。皇帝を惑わす傾国ぞ」
眉の薄い男で、言葉にはわずかに訛りがある。翼は宮中で東夷の歌を学んでいるから知っている。間違いなく高句麗語の音調だった。
――間者か。
農夫に扮した間者らは、庇うように女たちの前に立ち塞がる。
「さあ、おれたちを殺してみろ。女子どもを守るためならば、命は惜しまん」
翼の肩に石が当たった。間者のひとりが石を投げたのだ。別の者が、翼の隣にいた柳貴に近づき、握っていた馬糞を白い軍装に投げつけた。近くにいた隋の兵にまで馬糞が散る。
――準備のいいことだ。
隋軍を挑発するために、わざわざ馬糞まで用意していたらしい。
「お前ら……」
巻き込まれて馬糞を食らった隋軍の兵がいきり立つ。
「手を出してはいけません」
翼は鼻息を荒くする兵たちを押しとどめてから、身を翻して間者のほうへ向かっていく。身構えた間者たちの脇を素通りし、さらに女たちの間をすり抜ける。柱の前に立ち、磔にされた子を見上げた。
「可哀そうに。高いところに括りつけられて身体が痛いだろう」
真下から見上げると、男児の顔がよく見えた。瞼がぴくりと動く。やはりこの子は生きている。子の死骸の準備ができず、生きた子を縛り付けたのだろう。
翼は腰に提げた袋から桃を取りだす。休みに入ったときに、採ったものだ。
「今、おろしてやる。そうしたらこの桃をやろう。大丈夫だ。死んだふりがばれても、だれも叱らない。お前たちのような子をまもるために、我々は戦に行くのだから」
翼が柱に手をかけたときだった。
「おい、やめろ!」
声に振りかえると、隋軍から男児に向けて矢が飛んだ。空気を裂くような矢鳴りを立て、男児目がけて飛来する。思わず身構えたが、幸い矢は外れた。しかし、離れて様子を窺っていた地元の民の間にどよめきが起こった。
「なんてことだ。子が生きていると知っていて、隋の兵が矢を放ったぞ」
間諜が声高に叫ぶ。隋軍のせいで子が死んだ、という展開にしたいのだろう。矢を放ったのはおそらく隋の兵ではない。隋軍に紛れ込んだ、高句麗の間諜だ。
――いけない。
翼は、楊広から預かった軍牌を掲げて命じる。
「矢を放った者を前に!」
しかし、隋兵のだれひとりとして従おうとしない。
仮にも皇帝から権を与えられた立場にある。矢を射た者が高句麗の間者だと気づいている者もいるはずだ。それでも、おかざりの寵童に手柄を与えたくないらしい。
――味方も頼りにできないのか。
柳貴が矢を射た者を探そうとしているが、兵の数が多く当たりもつけられずにいる。
頭上で、ふつりと音がした。子どもを括りつけている紐が切れたのだ。手だけ繋がれた状態でぶら下がり、子が泣き出す。
「待っていろ!」
登って助けだそうと、柱に手を掛けたときだった。
横殴りの風を受けたような衝撃を身に受ける。身構える隙もなく、駆け込んできた勢いにあおられて二、三歩よろめいた。柱が音を立てて軋んでいる。手をかざして見上げると、ちらちらと揺れる光の中で、黒い影が躍動していた。
「肉飛仙……?」
沈光だ。抜いた短刀で残った紐を切り、子を腕に抱いて二本足で柱を駆け下りてくる。隋の兵はもちろん、間者たちまで呆然としていた。
口を開けたままでいる翼の前で、沈光は一回転してふわりと地に降り立つ。
肉体の重みを感じさせない、人間離れした動きを目の当たりにして、だれもが言葉を失っていた。
静まり返る中、沈光はおうおうと慣れた手つきで男児をあやす。男児は義眼を怖がらず、ふしぎそうに助けてくれた謎の男を眺めている。
沈光は、翼にぼやいてみせた。
「遅れてすまなかった。壮行会で飲みすぎちまって」
「あの……母御は?」
「死人扱いするなと、こってり叱られた。そのなんだ、好きなことをやってもらったほうが親孝行なんだと。まあ、おれの母は行方知れずなわけではないからな」
きまり悪そうに言う。近づいてきた柳貴をあごで指した。
「そっちの兄ちゃんが度々針療治に来てくれたおかげで、痛みも楽になったらしい。なんだ、つぎはいつ訪ねてきてくれるのかと、そわそわして急に化粧なんてするようになってな」
嬉しそうに苦笑いをする。
「柳貴が?」
御所を抜けだしていたなど知らなかった。翼が問いただすような目を向けても、柳貴はまつげ一本動かさない。素知らぬ顔でいる柳貴をはさみ、翼と沈光は肩をゆらした。
「よく来てくださいました」
湿った顔を隠さず、翼は沈光の硬い手に飛びつく。子を抱えたまま沈光は笑う。
「おいおい、危ないだろ」
駆けつけた男があの肉飛仙だと伝わったらしく、隋の兵が色めき立つ。
「あの……あなたが肉飛仙ですか」
恐る恐るといった風情で、驍果の隊長が近づいてくる。沈光は胡散臭そうな顔をして翼に訊いた。
「こいつだれだ?」
「私は――」
名乗ろうとする隊長を、沈光はぎろりとにらんだ。
「おれは翼の命しか聞くつもりはねえ」
つっけんどんな物言いに、隊長は鼻白む。しかし何かに気づいた表情をして、そそくさと道を開けた。
潮が引くように、兵の群れが左右に分かれていく。護衛を引き連れて現れたのは楊広だった。信じられないといった様子で近づいてくる。
「沈光、なのか」
名を呼ばれた義眼は衆目を集めながら、皇帝の前へ進む。子を立たせると、かしこまって抱拳の礼をした。
「この沈光、京師より参上つかまつりました」
「なぜ今?」
「翼に誘われましたんで」
右目をちらりと翼に向ける。楊広はすべてを察したふうに笑った。
「翼、始末を任せる。沈光を使え」
「はっ」
驍果の隊長ではなく、翼に命じた。正直これはやりにくい。ますます特別扱いをしたと、隊長たちの僻みを買うだろう。翼の心中もしらずに、楊広は馬車へと戻っていく。その背が見えなくなると、沈光は翼の足もとにひざまずいた。
「何なりと」
いつの間に集まっていたのか、そばに沈光の手下たちが控えていた。
圧巻の眺めにたじろぐ。沈光は民に人気があり、従えた者たちの面構えはどれも手練れのそれだった。隋兵たちが翼に向ける目が、先ほどと変わっている。こそばゆくて仕方ない。
「沈殿、そういうのはやめてください」
慌てて沈光を立ち上がらせる。「そうか?」と沈光は首をかしげた。
「じゃあ、どいつをぶっ殺せばいい」
「言い方の問題じゃなくて。私はおかざりですから、次からはちゃんと驍果の隊長に従ってくださいね」
同じ驍果の中で、争いの種は作りたくない。
「おれを呼んだのはあんたなのに?」
沈光はめんどくさそうな顔をする。ここで、悶着していても仕方ない。息をつき、声を高らかに命じた。
「では、高句麗の間者を捕らえてください。女人たちを囲んでいる農夫姿の男たちです。隋軍の中にいる間諜もあぶり出さなくてはなりません」
沈光は両手を組み、指の骨を鳴らしながら言う。
「まかせとけ」
「沈殿」と、翼は踵を返した男の背を呼び止めた。
「驍果へようこそ」
驍果とは危険を恐れぬ強さ、優れた決断力をいう。
沈光は「ああ」と背で返事をした。
第七章 七絃琴
一
「よい戦いぶりだった」
楊広は驍果の主力を幕舎に召しだし、手放しで讃えた。
隋軍はすみやかに遼河を渡り、遼東城を攻めた。前回と違い、目だった失態もない。隋軍の優勢で戦は進んでいる。
蒸し暑い天幕の中に、数十人の兵が控えていた。翼は顎から垂れる汗をぬぐう。暑さは不快極まりないが、みな顔が明るい。
楊広が声を弾ませて言う。
「とくに沈光の働きは目を瞠るものがあったな」
「身に余る栄誉」
沈光が拱手の礼で応えた。
楊広は肉飛仙が行軍に参じたという事実にいたく感動したようだった。
並外れた身体能力を持ち、一度仕えると決めたら忠誠に厚い。人に頼ることが苦手な楊広にとって、沈光は理想の臣だった。
浮かれている楊広に、翼は釘を刺す。
「陛下、悠長なことを仰っている場合ではありません。今日、城門が破れなかったのは隋軍にとって大きな痛手です」
攻城戦になって、二十日を超えている。地の利は敵にあり、戦が長引くのは避けたい。
「案ずるな。明日、決着をつける」
楊広は、すでに勝利が決まっているかのように言う。
昨年の大敗の原因は、楊広本人の資質のほか、兵站にもあった。
膨大な数の隊に、兵糧がうまく行きわたらず、戦が長引くことで不足した。特に遼東城を落としていないのに、さらに東にある平壌の城へ手を伸ばしたのも悪手だった。補給線が長くなり、本陣から分かれた大軍がうまく機動しなかったのである。
これらの対策を取った上で、楊広はこの戦に臨んだ。
つまり、短期間でかたをつけるつもりでいる。
「それがよろしゅうございます。私どもも、そのつもりで支度してきました」
翼は翼で、内々に蕭皇后と宇文述の裏切りに備えた。
蕭皇后はこの戦の基地であるたく郡におり、庶民の身分に落とされていた宇文述はすでに許されて戦の前線に出ている。
それぞれの側仕えに信頼できる者を忍び込ませた。さらに、沈光に事情を打ち明け、手勢を割いてそれぞれの元へ差し向けている。異変が起きた際、速やかに翼のもとへ報せが届くよう態勢を整えていた。
すべて楊広には内密に、打てる手はすべて打ったつもりである。
「お前たちを寵童だと思わせておいたのも良かったな」
上機嫌でいう楊広に、翼はうなずく。
「侮ってもらったほうが、こちらもやりやすいのです」
楊広好みの軍装は、敵を油断させるのに一役買った。驍果はならず者の寄せ集め、戦も分からぬ寵童までいる。敵は驍果の実力を小さく見積もった。
だが驍果は、獅子奮迅の働きをした。なにより敵を圧倒したのは、沈光だ。
ひとりで十数人の敵を仕留め、十丈(三十m)に及ぶ城壁から落ちても竹竿を駆使して瞬く間に駆け登る。その離れ業に、敵味方が驚嘆した。
楊広は、急につまらなそうな顔をする。
「しかし、おれもとんでもない荒淫と思われているようだ。それほどいい思いをしているわけでもないのにな」
翼は、言葉に棘を含ませて言う。
「荒唐無稽な話ばかりですが、あながちすべてが間違っている、というわけでもありませんからね」
「何が言いたい」
眉をひそめる楊広に、翼はたっぷり皮肉を向けた。
「陛下は、二人掛けの椅子を据えた球体をお作りになったことがありましたね。私はあれで、この上ない経験をさせていただきました」
楊広はうんざりといった顔を見せる。
「またその話か」
大きな球体で、中に椅子が設置されているからくりだった。球体には透かし彫りが施され、中から外の景色が眺められる。球体を転がしても、中に据えられた椅子は常に水平で、移動しながら野の景色を楽しめるという代物だった。
「おれは、夫婦水入らずで景色を楽しみたかっただけだ」
楊広は、蕭皇后とこのからくりの椅子に乗りたかったらしい。しかし、当の皇后は、あまりに危ないと言って妃や女官にも同乗を禁止した。
それでやむなく翼が乗ったのである。
「あんな危険な乗り物、男だってごめんですよ」
楊広と翼を乗せた球体を、宦官らが野原で転がした。
確かに球体の中にありながら、ずっと水平に座っていられるのは面白かった。しかし、地面が軽い傾斜になっていることに気づかず、球体は宦官らの手から離れ勢いを増して転がった。内側から球体を制御する術はない。どうすることもできず、馬で駆けつけた近衛兵のおかげで何とか事なきを得たのだった。
「好奇心が旺盛でいらっしゃるのは陛下の美点にございます。ですがその探求心は、家事に向けず、ご公務にむけてくださいませ」
驍果の兵たちはそろって顔を背け、肩をゆらしていた。
「お前らは笑うが、おればかり好色と言われては――」
楊広が不満を漏らしたそのときだった。
入り口の垂れ幕が大きな音とともに撥ねた。現れたのは、楊広付きの伝達係だ。目の周りが蒼白で、ただならぬ様子が見てとれた。
「陛下、急ぎのお報せが」
伝達係は躓きながら、皇帝の御前に進む。
「なにがあった」
問いただす楊広に、伝達係は耳打ちする。
謀叛だ、と直感した。
――どっちだ。
謀叛人は蕭皇后か、宇文述か、それとも両方か。すぐに動けるよう身構える。
話を聞いた楊広は、伝達係を下がらせる。低い声で言った。
「裏切り者が出た」
それはだれか――。
鼓動が速さを増していく。
「あれには兵站を任せている。やっかいなことになったな」
兵站となると、宇文述ではない。宇文述はこの遼東攻めの前線で主力を担っている。冷静な楊広の様子から、蕭皇后でもなさそうだった。
補給の要は黎陽だ。かの地を任されている者はだれだったか――。
その名に思い至り、すうと汗が冷えた。
「先生……」
楊広がうなずく。
「楊玄感だ」
まさか、という言葉が声にならない。
「熊を呼べ」
楊広は宇文述を呼びに行かせる。椅子に身を沈め、ひじをついて熟考を始めた。
「隋軍の背後を突くつもりか、それとも長安を取るつもりか」
楊広の腹のうちで、激しい怒りが沸いているはずだ。前回の大敗を挽回するために、念入りに対策を取ってきた。今度負ければ、国の根幹がゆらぐ。その局面で、楊玄感は牙を剥いた。
だが楊広は冷静だった。動揺を見せず、最善の手立てを考えている。
「翼」
楊広は翼を呼びたてる。その目は宙の一点を見つめ、同時に複数の対処法を検討しているといった顔つきだった。
「ここに」
翼が控えると、楊広は一瞥もせずに言う。
「お前はこの国の翼星だ。動揺を見せるな」
「はっ」と拱手をして応える。
翼星は国の盛衰の象徴でもある。情けない姿を見せれば、士気にかかわる。
「驍果はおれのそばに。いざというときに備えよ」
重い使命を言い渡され、驍果の兵はみな真剣な面持ちになった。
(つづく)