「宿坊を検めよ! 相手は小童ひとりだ」
追手がすぐそこまで迫っていた。このまま隠れているべきか。それともこの場から逃げたほうがいいのか。
「お前の事情は分かった」
男は、腰に下げた袋から布紐を取り出し、土塀を見上げる。紐の先には鉤爪の金具がついていた。
「だめだ。外にも追手がいるかも――」
伸ばした翼の手が、男の顔をかする。眼帯が取れて顔があらわになった。
「えっ」
翼は思わず声を上げていた。さぞ品のない顔だろうと思っていたのに、目を瞠るほどの美男だった。男は眼帯を着け直し、唇に人差し指を当てる。
「静かに」
宿坊から、荒々しい物音が聞こえた。
「がきを隠したのではなかろうな」
咎める声を聞き、翼は即座に穴をのぞく。自分のせいで尼が殴られている。頭に血がのぼり、大声で叫んでいた。
「おれはここだ! 宿坊の裏にいるぞ!」
「ばかめ」
眼帯の男が翼の口を押さえたが、もう遅い。
「いたぞ!」
宿坊の裏へ人が集まってくる。弓矢を携えた警固兵の姿に、翼は目を剥いた。
――殺す気だ。
振り返ると、男が鉤爪を土塀の瓦屋根に掛け、塀を登ろうとしている。翼へ手を伸ばし、叫んだ。
「ついてこい!」
翼は男の手を取り、持前の身軽さで壁をよじ登る。
次々と矢が射かけられ、耳もとで風がうなった。男は右手で布紐につかまったまま、左手で刀を抜いて矢を防ぐ。兵たちが植え込みをかき分けて、迫ってくる。
視界の端に、法衣を羽織った尼の姿が見えた。目を潤ませ、なにか言いたげにこちらを見ている。その姿を横目に、翼は土塀の瓦屋根にまたがる。眼下に水路があった。
「頭を抱えろ」
男は翼をふところに抱きこみ、水路へ飛びこむ。
臭い。冷たさよりも、臭いのほうが不快だった。水路の幅は広い。泳いで向こう岸へ向かうのかと思いきや、男は上流の橋へ向かっていく。
水面から顔を上げると、今度は複数の馬蹄の音が聞こえた。
「息を吸え」
男に命じられ、翼は肺いっぱいに空気を吸い込む。男は翼を抱えて水底へ沈んでいく。橋の下のあたりに揺れるものがある。それが何か分かったとたん、背すじがぞっとした。
腐乱した死体が、橋の脚に引っ掛かっている。
――冗談じゃない。
慌てて引き返そうとするが、男は強い力で翼を引きずりこむ。水流で揺れる死体の陰にふたりで潜んだ。翼は声を上げて泣きたかった。なにが悲しくて、腐った死体の下で好色漢と抱き合わねばならないのか。
水面から槍が刺しこまれ、水中に白い泡を立てている。
次第に、白い泡が橋のほうへ近づいてくる。人影が腐乱死体だと分かったのか、槍の攻撃が止んだ。
男の手が翼の背を叩く。水路から出るという合図だ。
男は水面に顔を出すと、先にあがるよう翼を促した。人がいないのを確かめてから、翼は陸へ上がる。
「助かった」
ずっと息を止めていたせいか、陸へ立った途端に目がまわった。視界がかすみ、全身から力がぬける。
翼の意識は、真っ白な世界にとけた。
自分の腹の音で、翼は目覚めた。
「起きたか」
眼帯をつけた男の顔が、翼を見おろしている。翼は男の腕の中にいて、馬に揺られていた。腹がきううと切ない悲鳴を上げる。
「ひどい臭いだ。よくも巻き込んでくれたな」
翼も男も、服が濡れていた。
「同臭相救うっていうだろ」
臭い者同士助け合う。たしかそんな意味だ。
「それをいうなら同舟相救うだ。呉越同舟くらい覚えておけ」
濡れた身体に、容赦なく風が吹きつける。冷たさに骨の髄までしびれた。
「お前のせいで散々な目に遭ったわ」
男は嫌味を言ったが、助けてもらったことには違いない。
「わるかったよ。礼をいう」
翼が素直に謝ると、男は眼帯を取った。江都であまり見ない彫りの深い顔だ。
――のぞき魔のくせに。
男ぶりが良く、往来にいれば目を引くだろう。眼帯を着けていたのは、目がわるいのではなく、顔を隠すためのようだった。
「お前も悪事に手を染めるときは顔くらい隠しておくのだな。あれは皇族にゆかりのある寺だ」
寺の警固が厳重だった理由が、ようやく分かる。
「悪事じゃねえし。お前こそ、のぞきなんてするなよな。女の身体は見世物じゃないんだから」
眼裏に、法衣を羽織った尼の姿がよぎる。こちらを案じるような潤んだ瞳を思い返し、翼は急に胸が苦しくなった。
「どうしよう。あの尼さん、出家しているのにおれのこと好きになっちゃったら」
翼がつぶやくと、男は惚けたように口を開け、急に真顔になった。
「お前、騙されやすいようだから気をつけたほうがよいぞ」
翼は口を曲げる。
「騙されやすいのは姉さんたちのほうだ」
故郷にかえれば、楽団の姉たちは騙されたのだと嗤われる。翼は孤児だ。育ててくれた姉たちに恥をかかせることになると思うとつらい。
「おかしな話だと思わぬか」
「なにがだよ」
「皇太子の使者を名乗った者は、何の目的でお前たちを呼んだのだろうな」
言われてみればそうだ。
いたずらにしては手がこんでいるし、事前に渡された支度金も決して安くはない。
「行き違いか、途中で事情が変わったということもありえる」
思案する男の顔に影がさす。日が大きく西へ傾いていた。急に不安になり、翼は男に訊く。
「なあ、どこへ行くんだ」
「姉たちが宿で待っているのだろう」
それにな、と男は付け加えた。
「おれも皇太子につてがないわけではない」
翼は身を乗り出す。勢いあまって、男の顎を頭で突いてしまった。
「お前」
男は顎を押さえ渋い顔をしている。
「それって、ほんとうか」
「繋いでやらんこともない」
男の肩背は熟れた杏の色に染まり、その顔はさらに翳って見える。
翼は両拳をにぎった。
――この男を信用していいのだろうか。
これまで散々、人に騙されてきた。
翼は姉の言葉を、頭の奥で反芻する。
ついて行ってはいけないもの。知らない人、馬のしっぽ、杏色の夕陽。
あたりは夕闇にしずみ、男の輪郭が赤黒い影に溶けていく。翼は口を開いた。
「おれは――」
甲高い百舌鳥の鳴き声が、あたりに響いていた。
二
我の強い子だ、とよくいわれた。
あの子は孤児だから、親の愛情を知らないから、ということらしい。
でも、翼はいやなのだ。いきなり手を握られたり、知らない人に身体を触られたりするのは気持ちがわるい。
たいていあいつらは、はじめだけ下手に出る。ねこ撫で声で近寄ってきて、思いどおりに翼が従わないと分かるや、とつぜん怒りだす。声を荒らげ、拳を振り下ろすのだ。
そのうえ、翼から声を掛けてきたと言いだしたり、物を盗んだの壊しただのと、やってもいない罪を言い立てたりする。
一度なら、翼だって言いかえせる。でも二度三度と続くと、じぶんが悪者のような気がしてくる。
そんなとき、楯になって翼を守ってくれたのは、母親がわりの護秋だった。身内の大人が現れたと分かるや、あいつらは何かきたない言葉を吐き捨てて去っていく。子どもの翼にはその言葉の意味は分からなかったけれど、あいつらの顔は醜くゆがんでいた。対する護秋は毅然としてうつくしく、勝敗は子どもの目にもあきらかだった。
正義はこっちにある。だから、ぜったいに言いなりになるものかと思っていた。
あの男が現れるまでは。
「護秋はえらいですね」
その男は、身なりの良い人だった。物腰もやわらかく表情も穏やかで、翼にもていねいな言葉をつかう。
ほかの姉たちが客に楽器を聴かせられるようになり、楽団として江都のお屋敷に招かれるようになったころだった。その男はさる家の公子で、屋敷の外でひとり遊んでいた翼に話しかけてきたのである。
「護秋がえらいって、琵琶がうまいから?」
護秋は薬師で、医業で稼いだ銭を元手にすきな琵琶を弾いて生計を立てていた。薬師としての腕は確かで、医業から離れたあとも訪ねてくる患者は絶えなかったが、琵琶の名手としても名を知られていた。
「嫁ぎもせず、孤児を四人も世話しているからですよ」
翼には、護秋のほか、血のつながらない姉が三人いる。五つ年上になる双子の護春と護夏、そして三つ年上の護冬だ。翼をふくむ四人は孤児で、薬師時代に護秋が引き取って育ててくれた。まだ意味が分からずにいる翼に、男はさとした。
「おんなであれば、よい男と一緒になって子を産むのが幸せというものでしょうに」
――そういうものなのか。
そのとき翼はまだ六つで、世の中のことなど少しも分かっていなかった。
「もし翼がいやでなければ、私が世話することもできるのですよ」
護秋だけではなく、姉たちや翼の面倒もまとめて見てくれるという。
「じつは」男は照れた様子で打ち明けた。
「護秋とはこころを通わせた仲なのです」
この男は、護秋を妻に迎えたいのだ。それが分かって、翼の心は躍った。
男は謙虚で誠実で、これ以上よい話はないように思えた。男はたった六つの童子に「養子になってくれませんか」と深々と拝礼をして、翼を感動させた。
それから翼は、護秋や姉たちには内緒で、新居を構える手伝いをした。男は、街から離れた静かなところに居を構えたいと言い、古い屋敷を買いとって建てかえたのである。
護秋を喜ばせるために、翼は男に言われるまま、あたらしい家具や調度を選んだ。庭に樹木や花を植えると、貴族の別荘のようになった。新居が完成し、まずはふたりで祝いをしようと、男は翼をさそった。
甘く煮付けた魚や果物など、翼の好きなものばかり男は支度してくれた。何も疑わず、翼は飲み食いをし、そのうちに眠りに落ちていた。
起きたとき、目に入ったのは刃物を手にした護秋の姿だった。
「おぞましいことを」
そう護秋は男を罵った。
護秋は、その男を知らなかった。恋仲どころか、顔や名前すら知らなかったのだ。ふたりは翼をめぐってもみ合いになる。白刃がひらめき、血が散った。男が倒れた隙に、護秋は翼の手を取って屋敷から逃げ出した。
後から教えられたところによると、男は位の低い役人の家の末っ子で、高官の娘との婚約が決まっていたという。新居を構えるために、婚家から金を借り、役所で横領の罪まで犯していた。
そこまでして男はなにをしたかったのか。
――想いをとげさせてくれ。
もみ合いになったとき、男は護秋にそう哀願した。なにを望んでいるのかはっきりと分からなかったが、男が翼の気をひくために嘘をついたことは理解できた。
つまり、男の標的は翼だった。
(つづく)