香炉から、白檀の香りが流れている。
昔、楊広が両親に隠れて妾と逢瀬を楽しんでいたときに使っていた香だ。
それが癖になったのか、蕭皇后がさらに南国風に調合したものを閨房で使っているらしい。寝台は極彩色の覆いが下がり、さらに桃色の紗が床まで掛けられている。
「相変わらず、派手好みだな」
童子だったころもよく分からなかったが、成人した今もなお、翼には楊広の好みが理解できない。
翼は鏡の前で、髷を確かめる。額に掛かるよう髪を平らに巻き、頭頂で巻いて右耳の上で丸め込む。後宮の妃らが好んで結う女髷である。
服はゆったりとした寝間着姿で、袖で顔を隠せば一介の妃にしか見えない。むろん、近づけば即座に男だと分かるだろう。もし楊広が正常であれば、である。
翼は寝台の上で、天子を待つ。
寝室に入ってきたのは、夜具姿の楊広だ。寝台のへりに座り、女官に履をぬがせている。
宦官や女官が去ると、翼は顔を袖で隠して息をひそめた。男の手が翼の足首に触れる。気色が悪いが、耐えた。
しかしそれも一瞬のこと、楊広は悲鳴をあげて飛びのく。
「なにやつ――」
翼は大仰に舌打ちをしてみせた。
「なんだ、正気じゃないか」
思わず素の声が漏れる。翼が顔を覆っていた袖を取ると、楊広は目を剥いた。
「なぜお前が?」
よほど驚いたのか、声が裏返っている。
「蕭皇后にたのんで手引きしていただきました」
「なにゆえ……」
「陛下が手の施しようがないほど変わってしまわれたのか、確かめるためです。これで安心いたしました」
「お前は何を言っている」
楊広は怪訝そうに、眉をひそめる。
「もし近づいても男と気づかぬようであれば、手の施しようがない重症ということになりましょう。ですが、陛下はすぐに男だとお気づきになられた」
「当たり前だ。そんな硬い身体と共寝ができるか」
「さあ、独り身の私には分かりませんね。驍果の兵は身分が低いゆえ、ほとんどの者が独身ですよ」
「おれとお前たちでは立場が……」
「雁門城の危機を脱したのは、だれのおかげです?」
官位を与えられれば、家庭を持てる。食うに困らぬ暮らしができるかもしれないという期待を胸に、兵たちは懸命に戦った。
「陛下は約束を反故になさった。つぎに危機に陥ったとき、だれが陛下のために命を掛けましょうか」
翼がなにを訴えようとしているのか分かったらしい。
楊広は胡坐をかき、黙りこむ。ふたりの間を、白檀の香がやわらかな曲線を描いて流れていった。
すこしして、楊広は口を開いた。
「そうか、お前もすでに十九……」
「二十三ですよ」
翼は大きくため息をつく。
「この際、私のことはどうでもよろしい。命がけで戦った者たちに恩賞を与えてください」
「大声を出すな。頭に響く」
「功労者にしかるべき品を下賜する。それだけのことでしょう」
楊広は額を押さえ、うつむいている。
楊広は身分の如何にかかわらず、能力があるもの、よい働きをした者を評価する。それは、ほかの皇族や朝廷の高官たちと大きく異なる楊広の美点だった。
その上、低い身分の者が満足する報奨などたかが知れており、費用に対する効果も大きい。本来、楊広はこういった損得勘定が得意だ。ところが今はそれがまったくできていない。
「陛下は私に何度もおっしゃいました。いかなる障害があっても、ご自身の意志にもとづき、ご自身の考えで国を栄えさせると。あの意気込みはどこへ行ってしまったのです」
以前の楊広は、兄を陥れるための呪詛を自ら寺に仕込み、工事の邪魔をする遊侠少年がいれば、自ら直談判しにいった。
「陛下は行動する天子でした。今は別人のようです」
「おれとて、どうにかしたいと思っている」
楊広は目をつむり、苦痛に耐えるように唇をゆがめた。
「しかし昼も夜も、幻聴や耳鳴りがする。この一年、まともに眠れた日はない」
拷問の中でも、睡眠を妨げ続けるのが最も効果的だと聞いたことがある。長きに亘る不眠で、楊広の心身は限界を迎えている。
だからといってひと思いに楽にしてやるというわけにもいかない。楊広は翼に夢を見せた。空前絶後、楊広以外の者には思いつかない、果てしなく大きな夢である。
「自分の身体ではないようですって?」
翼は芝居じみた声で楊広の顔をねめつける。
「ご安心ください。陛下は床で瞬時に私が男だと察して拒否した。根っこのところは以前と変わらない。正常です」
楊広が好色であるということに、自分が救われる日が来るとは思わなかった。
「根が変わらぬままであれば、手の施しようがございます。治療に専念してくださいませ」
「そういえば、宇文述が江都で療養しろと言ってきたな」
江都への行幸の件は、翼の耳にも入っている。
各地で叛乱が頻発し、いよいよこの東都も危ないという段になっている。楊広の耳に入れれば心身にさわると思ってか、宇文述は逼迫した事情は報告せずに、ただ南方での療養を勧めたらしい。
「ぜひそうなさいませ」
翼にとっても渡りに船だ。楊広は枕頭にもたれ、息をつく。
「頼みがある。歌を聴きたい」
就寝の前に、楊広は柳貴の琴を聴く。たまには歌で眠るというのも気分転換になるかもしれない。
「仰せのとおりに」
翼は寝台をおり、心が安らぐような歌を選んでうたった。
三曲歌ったあたりで、楊広の表情が和らぎ、しずかな寝息がきこえてきた。翼は歌いながら、横たわる楊広に布団を掛けてやる。
その夜、楊広は一度も目を覚ますことなく、朝までふかく眠った。
二
地図に赤い印がついている。
江都へ向かう船の中で、翼、柳貴、沈光の三人は、机上の地図を見おろしていた。
船の二階にある側仕えに与えられた一室は、火鉢で暖められている。
戸を締め切っているのは、冬の川辺の風を避けるためではない。内密な談義をしているからだ。
黄河下流域を中心につけられた二十ほどの印は、叛乱勢力の本拠地を示している。
世は、群雄割拠の相を見せていた。
沈光が江都のすぐ南を指す。
「この三つの勢力は江都からそう遠くない。警戒が必要だろう」
江都の東南には、還俗した道士の朱燮、美男で知られる管崇、西南には五千人の猛者を集めた杜伏威といった叛徒が本拠を置いている。
「だがな」
沈光は、翼と柳貴を交互に見た。
「この三勢力はただの暴徒。一番やっかいなのは、こいつだ」
指を、江都から遠い北の地、山東へ向ける。
「竇建徳という男は、なかなかの人物らしい。敵対していた隋の役人ですら、心酔してしまうほどの人格者だとか」
翼は腕を組んで唸った。
「見せかけの楊玄感とは違うというわけですね」
印をつけたのは目立つ勢力のみで、沈光によれば、小さな郎党も含めると二百を超える勢力があるという。
「状況は、かなり厳しい。でかい反対勢力がひとつあって、それを叩けば終わりってわけにいかねえ」
「信じられぬ」
口を挟んだのは柳貴だった。
「たしかに運河の工事は民にとって大きな負担となっただろう。しかし、聖上は労役のあと一年は税を取らぬようにした。さらに今、運河の利益を享受しているのは民だ」
整った口吻に、激情が滲んでいる。柳貴には、民の心理が少しも理解できないらしく、さらに言いつのる。
「高句麗の戦で多くの死者が出たのは認める。しかし、それに抗議するといって兵をあげた者たちを見てみろ。民を苦しめる詐欺師やならず者ばかりではないか」
信仰心につけこみ民から金を巻き上げる宗教組織、皇帝の暴政に声をあげるのだといって、民から略奪を繰りかえす暴徒。怪しげな集団が、泡のように次々と湧いている。
まあな、と沈光が左の義眼をいじる。
「自分の人生に満足してるやつなんて、そうおらんからな。取り締まる国の力が弱まったのをいいことに、それ今だと暴れてんだろ」
「それに、陛下に向けられた非難がすべて見当違いというわけでもないですからね」
翼は地図に目を落とす。
「厄介なのは、首謀者が愚物であろうとも民が動くということです。大衆の怒りは、天子をかえる力がある」
見掛け倒しの楊玄感ですら、十万を超える叛徒を集めた。もし楊玄感が真っ先に長安の大興城を狙っていたらと思うとぞっとする。
「しかも、そんな状況で頼りになるのはおれたちだけってわけか」
沈光の言葉に、座が静まった。
江都へ向かうこの船旅で、宇文述が倒れた。江都に着くまでもつかどうか、猛将はその命の終わりを迎えようとしている。
宇文述が翼たちを枕元に集めたのは昨日のことだ。
――おれの死後は、息子たちが陛下の側近となるだろう。
宇文述の息子は三人いる。
三人のうち、末子の宇文士及は楊広の娘の南陽公主を妻にしている。それをいいことに、兄の宇文化及と宇文智及は幅を利かせ、軽薄公子の名をほしいままにしていた。
西の張掖へ巡幸していた頃、ふたりの放蕩ぶりに楊広が激怒したことがあった。極刑に処されるべきところ、楊広は宇文述の顔を立てて、かれらを奴隷の身分に落とすことで許したのである。
宇文述の容態悪化にともない、楊広はこのふたりの身分を回復し、将校に取り立てた。宇文述は顔を険しくして翼たちに伝えた。
――しかし、我が子ながら三兄弟は信用ならん。
皇帝の温情で生かされ、公職に復帰できたにもかかわらず、兄弟はさっそく横柄なふるまいを見せ始めていた。かれらが今後、楊広の側近として役割を担うと思うと、翼も頭が痛くなる。
――まさか、実の子より、お前たちを頼りにする日がくるとはな。
宇文述は翼の手にすがり、楊広の今後を涙ながらに託したのである。
懸念はそれだけではない。翼は下唇を噛んだ。
「その上、驍果も一枚岩じゃありません」
今回の江都行きは、驍果が警固を担っている。船旅の最中、楊広は驍果の中でも特に信用のおける者を選抜し、特別な隊を組んだ。
翼たち側仕えの者が中心になって組織されたその部隊を、
――給使
という。
世の情勢が安定せず、驍果の中でも進退に迷う者が出て来た。それで、間違いのない者たちだけで隊を組織し、指揮系統を驍果と分けたのである。
柳貴が静かに言った。
「聖上が快癒されるまでの辛抱だ。その日は決して遠くない」
「それよ」
沈光が下唇を突き出し、翼に笑みを向けた。
「悪いことばかりじゃねえ。子守歌のおかげでな」
翼は「はあ」と気の抜けた声を漏らす。
「私も歌で、お加減が変わるとは思いませんでした」
翼が妃に扮して寝室に忍んだあの日、楊広は体調を崩して以来、初めて熟睡した。理屈は分からないが、歌で幻聴や耳鳴りが和らぐらしい。それで毎夜、翼は楊広のために歌をうたうようになった。
二日に一日は眠れるようになり、今では政務を執れるまで回復している。
「おれは翼星がどうのってのは分かんねえけどよ。もっとはやく歌って差しあげればよかったんだ」
「陛下は琴を格別に気に入っておられますからね」
楊広にとって柳貴の琴は暮らしの一部となっている。北方や西方へ巡幸する際も、かならず眠る前に琴を聴く。
「へええ。陛下はいったいどんな曲をお聴きになるんだ」
「南方の曲だ」と柳貴がそっけなく答える。治療のためとはいえ、寝入りの演奏の時間を翼に奪われたのが不服らしい。ふと、胸に刺のような引っ掛かりを覚えた。
「柳貴、陛下にお聞かせしていたのは陳の宮廷の楽曲だったよな」
「後庭花だが」
「なんだそれは?」
さっぱり分からないというふうの沈光に、柳貴が答える。
「陳の煬帝が作曲した宮廷音楽だ。妃の美しさを讃える音楽で――」
翼は、柳貴の肩をつかんでいた。
「楽譜を柳貴に教えたのはだれだ?」
「陳の宮廷楽人だった青真と護秋だが」
答えてから、柳貴は大きく目を見開いた。三人の間に、重い沈黙が流れる。
「まさか」
めずらしく柳貴が動揺をあらわにする。沈光が大きく舌打ちをした。
「それが答えか」
楊広の不眠が和らいだのは、翼の歌のせいではない。柳貴の琴を聞かなくなったからだ。
――なんてことだ。
翼は唇を噛みしめる。以前、護冬が服毒以外に人を殺す方法があるのではないかと話してくれたことがあった。護冬は香を疑っていたようだが、琴は盲点だった。
なぜ、気づかなかったのか……。
静まりかえったへやに、鈴の音が響いた。三人は、同時に戸のほうを向く。翼が戸を開けると、宦官が控えていた。
「なにか異変がありましたか」
寝室で休んでいる楊広が動いたときには、鈴を鳴らして室内に知らせるよう頼んでおいたのである。
「大家が下の階へ降りておられます」
「下へ?」
「なんでも、岸に気になるものがあるとかで」
三人は顔を見合わせ、すぐにへやを出た。
階段を駆け下り、甲板へおりる。等間隔に柳が植えられた川岸に、人だかりが見えた。
冷たい風が音を立てて吹いているのに、景色に温かみを感じるのは、人の熱気のせいだろうか。
「この岸辺は……」
眼前に広がった光景を見て、翼は郷愁にも似た想いにかられる。ここは陳の煬帝の妹、宣華夫人が亡くなった宮殿のあるほとりだ。
「なんだありゃ、琴か」
沈光のつぶやきが風に流れる。
水音にまぎれて聞こえてきたのは、琴の音だった。岸辺の人の群れを背景に、ひとりの女人が大きな桟橋のへりで琴を弾いている。
その後ろ姿が目に飛び込んできたとき、虚を突かれたようになった。
冬の光を浴び、うなじが匂い立つように白い。風で服が身体にまとわりつき、蜂腰がきれいな曲線をなしていた。女は岸辺の聴衆に向けて琴を引いていたが、船に気づいた様子で振り返る。
白く丸い額、黒く艶のあるまつげ、ふっくらとした唇。
輝く水面の光を受けて笑むさまは、南国の太陽を思わせる。桟橋が揺れ、女は大胆に琴を構え直す。船のほうへ向けて、琴を奏で始めた。その指は浅瀬で泳ぐ魚のようにまばゆい光をふりまき、繊細に跳ねる。弦を掻き鳴らすたびに音の花が弾けて、こちらまで香ってくるようだった。
「護冬……」
卓抜した指の運びも、開放的な明るさも別人のようだ。しかし翼には分かる。あの楽人は護冬だ。
「馬鹿な……」
翼の隣で、柳貴が絶句している。
「女にあれが弾けるわけがない」
船は少しずつ岸へ近づいていく。護冬は船の上へ大輪の笑みを向けた。その甘美なさまは川辺の風を彩り、翼の胸の奥まで染めた。
以前、江都へきたとき、家の隣人が翼にこう語った。
――あの護冬とは思えぬほど笑うので、印象に残っているのです。見違えるようでしたよ。
護冬の内面にある豊かさに気づいているのは自分だけだという自負があった。それが今、衆目に晒されている。男たちが向ける好奇の目に気づき、言いようのない焦燥を覚えた。
曲を弾き終えた護冬は、なめらかな動きで船上へ手を差し伸べる。相手は翼――ではなく、楊広だった。
宦官らに腕を押さえられながら、楊広は惚けたように立ち尽くしている。
「陛下、風がお身体に障ります」
翼は楊広を船内へ案内しようとする。しかし、楊広は微動だにしない。
「あの娘を召しだせ」
呟くように言った声に、翼の心臓が跳ねる。
楊広は大きく二度瞬きをし、大声で命じた。
「あの娘を朕のもとに!」
(つづく)