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「そう、暗い顔をするなって」

 翼は後頭部で手をくみ、時おり振りかえっては人波の合間を縫って進んでいる。

 連れだって散策しているというのに、柳貴の歩みが遅いからだ。新年のにぎわいの中で、時おり物憂げな吐息をもらす。表情はいつもどおり取り澄ましているが、明らかに気落ちしているのが見てとれた。

 正月の東都――。翼と柳貴は活気のある漕渠そうきよの水辺を歩いていた。かつて、楊広がお忍びで翼を連れだしたあの運河である。

「せっかく陛下からお許しをいただいたのに、楽しまない手はないだろ? 気分が乗らないのは分かるけどさ」

 江都での滞在は、落ち着きのない楊広にはめずらしく一年にわたった。

 その間も翼は手をつくしたが、護秋と護冬の行方はつかめない。なんの成果も得られぬまま年が明け、翼は楊広に伴って江都を離れることになった。

 高句麗遠征のためである。

 江都を発った楊広は、北のたくぐんへと移った。

 たく郡は対高句麗戦の前線基地で、楊広は補給路を確保するために、たく郡と黄河をつなぐ運河を開削し、さらに何百艘もの軍船を造らせていた。

 たく郡にそろった隋軍は、将兵だけで一一三万、さらに倍の数の兵站の人員を擁した。その規模は、中華の歴史でも前代未聞という。

 加えて、隋は長く異国との戦をしていないので、将兵は功績をもとめ戦意に満ちていた。

 指揮を執るのは「親征する皇帝」こと楊広で、文官を帯同して通常の公務を執りながら進軍するという余裕を見せた。万全の態勢と十分な補給、圧倒的な兵力を抱え、隋軍は、陸海双方から高句麗へ兵を進める。

 隋の勝利をだれもが確信していた。にもかかわらず、隋は高句麗に見事なほどの大敗を喫した。七月には攻撃を中止し、本国へ引き返すはめになったのである。

 それがつい昨年のことだった。

「うまいもんでも食べよう。何がいいかな」

 翼は明るい声でひとりごつ。

「せっかくの外出なんだから、宮中で食えないものがいいよな」

 楊広は、翼と柳貴に新年の休暇を出した。

 ふたりで交友を深めるようにとの意向だが、なんてことはない。気に入った妃でもできたのか、楊広は後宮に入り浸ることが増えた。説教されるのをいやがってか、なにかにつけて翼を外出させようとする。それで柳貴を誘ったのである。

「見ろ、はんがあるぞ」

 翼は運河沿いに並ぶ屋台のひとつを指さす。油飯は胡麻油で炊いた飯で、南方の食べ物である。

「柳貴も食うだろ?」

 ん、と柳貴は心あらずの返事をする。

 ――楊広のこととなると、これだもんな。

 戦のための労役に、多くの民が徴発された。男だけでは足りずに女も駆り出されたが、それが民の大きな反感を買った。女を労役に駆り出す行いは、為政者が避けるべきものとされている。それであれだけ派手に負けたのだから、民から相当恨まれた。

 楊広に対する大きな逆風が吹いており、柳貴は日がな気を揉む日々を過ごしている。

「ここで待ってろ」

 浮かぬ顔の柳貴を待たせ、屋台へ向かった。

 すれ違う人の顔が心なしか暗く、街にもどこか緊迫した気配がある。油飯を柿の葉で包んでもらって、すぐに柳貴のもとへ舞い戻った。

「うまいから食えよ」

 葉をひらくと、香ばしい湯気がのぼり、蓮の実がつやりと光沢を放つ。押し付けられて始末に困ったからか、柳貴は油飯を口にした。

 往来を行く娘らが、こちらを盗み見ては囁き合っている。女人の好奇の目にも、柳貴は興味を示さない。楊広が三人の女に口説かれたと得意げに話していた姿とあまりに違って、おかしくなった。

「私が思うに」

 宮中を出てからずっと無言だった柳貴が口をひらく。

「お前は自分の声を取り戻した。しかし、それはりようびんの声ではない。きっとお前は、儺神になったのだと思う」

 ぱらぱらとした米を一粒もこぼさずに口へ運ぶ。一方、翼は手が米だらけになっていた。柿の葉は用をなしておらず、てのひらの米を唇でついばむ。

「そんなの迷信だって」

 翼は声変わりを乗り越え、今では安定して歌えるようになった。日々、歌い手としての成長を感じている。百歩ゆずって、翼星の言い伝えがほんとうであったとしても、自分が儺神になったとは思えない。

 柳貴は視線を落として言う。

「迷信では説明がつかない。なにせ、あの宇文殿が見誤ったのだから」

 それを言われると返す言葉がない。

 高句麗との戦では、幾度も不可解なことが起きた。象徴的だったのは、間違えない男こと蜂顔の宇文愷が失態を犯したことだ。

 隋から高句麗を攻めるには、国境付近にある遼河をわたる必要がある。宇文愷は、この遼河をわたるための浮橋を三本設計した。しかし、ほんの一丈(約三m)ほど向こう岸まで長さが足りない。そのせいで、多くの隋兵が命を落とした。

 翼は声を落として言う。

「でも去年の戦にかんしては、陛下が仰ったことが一番だろ」

 ――おれが判断を誤った。

 それが楊広なりの敗戦の総括だった。

 高句麗戦において、楊広は各将に独自の判断を禁じた。すべて、皇帝である自分の指示を仰いでから動くように厳命したのである。

 しかし、戦は生ものだ。数刻の判断の遅れが、重大な結果を及ぼすことになる。敵が降伏を申し出たというのに、将がその場で即決できず、敵に回復のときを与えてしまうといった事態が起こった。

 古来、戦になれば天子は全権を将にゆだね、口は出さないものとされている。ところが楊広は他人に判断を任せられぬたちだ。その性分とすべての伺いに応じうる能力が禍した。

 柿の葉をたたみ、柳貴は淡々と言う。

「恐れ多くも、聖上にそう言わしめたのはお前だろう」

 高句麗戦の大敗後、翼は楊広を激しく責め立てた。

 ――周囲を頼るよう、あれほど申し上げてきましたのに。

 楊広も、生来の苛烈さをもって応じた。敗戦による苛立ちをここぞとばかりに晴らしたのである。

 禁中の衛士が何十人も集まるほどの騒ぎとなり、だれもが翼の死を覚悟した。

 衣架いかはかけてあった羽織ごと倒れ、びようは翼が投げつけた硯の墨で真っ黒になった。互いに投げつけた椅子は、脚が折れて使い物にならなくなり、ついには素手で殴り合う。もはや、子どもの喧嘩である。

 鼻頭の急所に拳を一発くらった楊広は鼻血をふきながら仰向けに倒れた。翼は衛士に押さえ込まれたが、牢に連行される段になって楊広がむくりと起きた。

「阿呆らしい」

 ひとことそう言うと、そのまま寝所へ入ったのである。

 翼は沙汰待ちの身となり、宮中の牢屋で一晩を過ごした。翌朝、楊広に呼びだされ、いつもどおりの世話を命じられたのである。お咎めなしとなったのは、楊広こそ鬱積をぶつける相手を欲していたからかもしれない。

 すんなりおのれの過ちを認め、次なる戦の準備に取り掛かった。

 とはいえ敗戦にかかわった者たちを罰しないわけにはいかず、将軍らは更迭こうてつなど、その職責に応じた処分を受けている。楊広は今、限られた人材で立て直しを図ろうとしていた。

 翼は手巾で手をぬぐい、往来へ足を踏み出す。

「今はなにが起こってもおかしくはない。おれたちがしっかりしなくては」

 柳貴も翼の隣にならんだ。

「むろん。後宮も信用できんしな。とりわけ蕭皇后は」

 思いがけぬ言葉に、足が止まった。

「お前、今なんて言った?」

 切れ長の眼が翼に向く。

「私はちようえきの回転宮殿で、お前と同じ舞台にいた」

 蕭皇后と宇文述のやり取りに目を留めたのは、自分だけだと思っていた。言われてみればそうだ。楊広のことにしか興味のないこの男が、あの光景を見落とすはずがない。

 柳貴はしれっと言う。

「その件、聖上は問題ないとおっしゃった。私たちが深入りすべきではないが、注意はすべきだろう」

 翼は頬に平手打ちを食らったようになった。柳貴は、すでに楊広の耳に入れていたのだ。

「お前には敵わないな」

 しかし、それならば話は早い。

 高句麗遠征の失敗で、楊広は窮地に追い込まれている。その上、楊広を陥れようとする者の正体もまだ分からない。

 頼みの護秋と護冬の行方は知れず、翼は八方ふさがりになっていた。だれかひとりでも秘密を共有できる仲間が欲しい。

 熟考の末、楊広を裏切らないという点で絶対の信用が置ける人物がいることに気づいた。むしろ楊広への忠誠において、この男に勝る者はいない。

「さて、腹もふくれたことだし、少し歩かないか」

 

 

 

「つまり、蕭皇后が元凶ということか」

 柳の並ぶ運河沿いを歩きながら、翼は自分たちが大興城へ来た経緯から蕭皇后の謀叛の疑惑まで、すべてを柳貴に打ち明けた。人が多いほうが却って声は紛れる。水辺なら周囲に隠れる場所もなく、立ち聞きされることもない。

 柳貴は考えるふうにしていたが、ひとこと呟いた。

「ありえなくはないな」

 荒唐無稽だとつっぱねられるかと思いきや、柳貴にも思いあたるふしがあったらしい。柳貴はさりげなく周囲に目をやり、語を継いだ。

「蕭皇后は国母として申し分のないお方だ。しかしどこか無理をなさっている向きがある」

「お前もそう感じていたのか」

 護冬と同じように、柳貴は蕭皇后の抱える何かに気づいていたらしい。いかに自分に人を見る目がないかを思い知らされる。

「張掖での一件、私の目には宇文殿が蕭皇后を拒んでいるように見えた。しかし、もし宇文殿がなびいたら厄介だ」

 皇后と、朝廷でもっとも権力を持つ宇文述。両者が手をくめば、いかに楊広でも太刀打ちできない。しかも、ふたりは楊広にとって最愛の妻と親友だ。

 考えるだけで頭が痛くなる。

「おれはまだ信じられないよ。宇文殿は女っけのないお方だし」

「そうか? 女好きのするお人だと思うが」

「あの宇文殿だぞ?」

 熊を思わせる粗野な体つき、性分は愚直で女人の扱いがうまいとは思えない。

 しかし柳貴は淡々と語る。

「女がきれいだなんだと私たちを持てはやすのは一時だ。最後にえらぶのは宇文殿のような権力や財力を持つ強い男だろう」

 真理めいた言葉は、棘となって翼の胸を正確に貫く。

「それは言えてる」

 翼や柳貴は身分の低い楽人で、女に暮らしを保障してやれない。頭に護冬の顔がちらつき、くぐもった懊悩を頭の外へ追いやった。

「それで」と、柳貴はさらに声を落とした。

「その叛意の疑いの件、聖上には?」

「お耳には入れた。小説でもあるまいしと、笑い飛ばされたよ」

 なんだとでもいう風に、柳貴は眉をひらく。

「ならば、おれたちにできることはない」

 橋にさしかかり、向こう岸へと足を向ける。向かってくる人とぶつかりそうになりながら、翼は柳貴に食い下がった。

「しかし何もしないわけにはいかないだろ」

「聖上が判断されたのであれば、その件は問題ないということだ。あの方は私たちの考えの及ばぬところまで見えていらっしゃる」

「おれは、それがいけないと思う」

 柳貴の前へまわりこみ、たちふさがった。対峙した翼と柳貴の脇を、橋を渡る人々が水の流れのようにさざめきながら通り過ぎていく。

「高句麗の戦を思い出せ。おれはたしかに陛下を糾弾した。だけど、そもそも責められるべきは陛下じゃないんだ」

 楊広が臣を頼らないのは、それに足る者がいないからだ。

「おれたちなんだよ。一番の役立たずは」

 翼と柳貴は、楊広が信頼できる数少ない存在だ。しかし力が足りない。力さえあれば、楊広の援けとなれたはずだった。

「陛下の姉君、楽平公主のお言葉を忘れたわけじゃないだろ。まずはおれたちが変わらなくちゃ」

 死の間際、残った命をふりしぼるようにして、楊麗華は楊広の今後を翼たちに託した。しかしその思いに応えられていない。

 水上の風に袖がはためいて、大気を叩くような音を立てた。

「ついてきてくれ」

 柳貴の肩に手を置き、翼は橋の先へ向かう。柳貴と並んで袖をたなびかせ、濁流を進む二匹の魚のように人の波を進んでいった。

 橋を渡り終えると、さらに人通りが多くなる。ふたりが足を踏み入れたのは、東都でもっともにぎわう市場――通遠つうえんだ。

 湯餅うどんをゆでる湯気が頬を撫で、蝋でつくった燕の飾りやら、新年の風物の色が目に鮮やかだ。子どもたちのはしゃぐ声が市場の通りを彩っていた。

 翼は細い路地へ柳貴を手引きする。

 ひとりの老婆の前で足をとめ、ゆうの礼をした。

「ご婦人、りよう桃源とうげんの酒はありますか」

 

 

 

「これはこれは」と翼の姿を見るなり、沈光しんこうは声を上げた。

 翼は階段を下りながら、義眼の男に笑みを向ける。

「おれを覚えていらっしゃいますか、肉飛仙」

 半地下の部屋に、高窓から淡い光が射している。細かな埃をはらんだ大気の流れを、ゆるやかに浮かび上がらせていた。その光景は深い海の底のようで、沈光は岩陰に潜む大魚のごとく片目を光らせていた。

 かつてこの場を訪れてから六年が経っていた。翼の後に続いて部屋に入った柳貴は、珍しそうに高い天井を見上げている。

 談義の最中だったらしく、仲間の男たちは沈光の前で身構えた。沈光が手で払うと、魚の群れのようにさっと沈光の背後に控える。

 沈光は大きく破顔した。

「忘れるわけがなかろう。隋で一番の美少年を」

 少年といえば三十歳くらいまでを指す。若者、といった意味合いだ。

 沈光はなつかしむように、義眼ではないほうの右目をほそめる。

「しかし、ずいぶん背がでかくなった。前は女みたいな顔したくそがきだったのに」

 近所の小父のような口ぶりだが、自分とさほど歳は変わらないように見える。せいぜい三つか四つ、自分よりも年上といったところだろう。

「おかげさまでおれも二十歳になりました」

 翼は、階段のそばの壁に張りついている柳貴を振り返る。

「あの楽人仲間も同い年です」

「ああ」と沈光はあごをさする。

「お前と天子の寵を争っているっていう美男か」

 柳貴はまつげ一本動かさず、人形のように壁際で立っていた。市井でも、寵童の噂が人の口にのぼっているらしい。まったく迷惑な話である。

「正月でにぎやかなので、肉飛仙もこちらにいらしていると思いました」

 来訪者に気づいたか、階段と対角にある戸口から披風うわぎを羽織った女が現れる。男たちの中で紅一点。腕を組み、沈光の真後ろにある壁に寄り掛かった。

 沈光は椅子の背もたれに右腕を掛け、左手で義眼をいじる。

「しかし生きていたとはな。去年の戦で死んじまったかと思ったよ」

「おれは内向きのお役目しかしておりませんから」

 翼は懐かしむ体で、室内を眺めて歩く。高い天井、縦横に組まれた梁、珍しい木目の床は古びて、ところどころ穴が空いている。記憶の中の光景とほとんど変わっていなかった。

 

 

(つづく)