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 もし、楊広がここで死んだら――。

 脳裡に、大運河で見た光景がよぎる。五千艘を超える船が、旅団をなして南へ進んでいる。川鳥の羽ばたく音、跳ねた魚の銀のうろこ、船がすすむたび、川面を照らす金の光がくだけ、白い水煙が立ちのぼる。

 あのとき、大きな翼が切り開いていくその先が、垣間見えた気がした。

 翼は、楊広の腕をつかみ、義眼の男にたずねる。

「私が頂戴しても?」

 義眼の男は、興味深そうに含み笑いをした。

「構わんぞ」

「ばかめ、おれが飲んでこそ意味があるのだ」

 翼の手を振り払おうとする楊広の力が弱い。もう力が出ないのだ。

「陛下は黙っていてください」

 楊広の腕を押さえたまま、翼はもう片方の手で杯をとる。

 間を置かず、ひと思いに杯をあおった。

 天井がまわり、気づけば頭が床にたたきつけられていた。しかりつける楊広の声がやけにはっきりと聞こえる。

「あほう。おれは飲んでも死なん。なぜ飲んだ」

「わ、わたし、わたしだって、死にません」

 げらげらと、頭の奥処で義眼の男の笑い声がひびいている。

「このがき、おもしろいやつだな」

 楊広が男に迫った。

「毒消しはあるか」

「どうだったかな」

 はぐらかす男に、楊広が苛立ちをあらわにする。

「水だ、水を持ってこい」

「おれはな、頭ごなしに命令してくるやつがきらいだ。好きなのはな、このがきみたいに自分で身体を張れるやつだよ」

「おい、翼。おれの声が聞こえるか――」

 楊広が翼の身体を抱き上げる。翼の身体をうつ伏せに返し、喉の奥に手を突っこんできた。反射で翼は腹の中のものを吐く。

「傾城の美貌が台無しだな」

「こいつはふだんから酒そのものを飲まん」

 顔が腫れているのが自分でもわかる。目がかすんでよく見えないが、手の甲にびっしりと発疹ができている。痒みと吐き気、息苦しさに加え、心臓の音がどくどくと全身に鳴り響く。

 人はこういうふうに死ぬのだ、と頭だけが妙に冷静だった。悪霊のような義眼の男の笑い声が翼の耳を覆い、すぐに意識はとぎれた。

 

 

 人の声が聞こえる。

 義眼の男の声だ。話している相手は楊広のようだった。

「おれは馬鹿だが、天子さまが馬鹿ではいかんだろ」

「馬鹿呼ばわりはゆるせんな。こちらは大真面目にやっている」

「たかが穀物の貯蔵所に、なぜそこまで?」

 楊広が大きく咳き込む。楊広の体調が気になるが、翼も身体が動かない。視界はしろく覆われ、じぶんが生きているのかも分からなかった。

「飢えさせぬためだ」

「飢え?」

「隋の建国より前から、長安洛陽の一帯は慢性的に食糧が不足している。その上、いつ飢饉が起きるとも限らん」

 言葉を詰まらせながらも、楊広はつづける。

「この国は産物の収穫量が温暖な南に偏っている。北のある地域では民が餓死しているというのに、南のある地域では余った食糧を廃棄しているといった具合にな。ゆえにその構造を変えたい。飢えとは、流通の問題だからな」

 楊広の言葉が、ふかく翼の腹におちた。

 長江、黄河と東西に流れる大河はあれど、南北にはない。物を多く運ぶには船がいちばん適していて、水の流れさえあれば、南北でも人や物資の運搬が叶う。

「それで穀倉ねえ」

 義眼の男が息まじりの声をもらす。

 楊広は、南の穀倉地帯と北とを運河でつないだ。南の産物が北へ入ってきているのは、通遠市で目にしたとおりだ。しかし蓄える箱がなければ、せっかく運んだものを腐らせてしまう。だから年内に穀物庫をつくらねばならない。

 楊広がなにをしようとしているのか、翼はようやく理解した。

「人は衣食たりて礼節を知る。飢えれば、怪しげなものを信じ、奪い殺しあう。そんな地獄で隋の民を苦しめるわけにはいかぬ」

 しずかに語る楊広に、義眼の男が言葉をはさむ。

「しかし、なぜ急ぐ? 過重な労役で失われた命もあるぞ」

「知っている。だが、おれに言わせれば、一年で出来ることに何十年もかけるなどただの鈍間だ」

 はやく仕上がれば、その分助かる命が増える。急いでも急がなくても犠牲は避けられず、楊広はより少ないほうを選んだということだろう。

 義眼の男がうなった。

「穀倉を作らねばならぬ事情は分かったが、おれは人から命じられるのが嫌いだ」

 この男、楊広や翼に毒酒を飲ませておいて、まだ承諾していないらしい。

 楊広はしれっと言いのけた。

「来年、再来年さらに数年先に飢饉が起きたとき、助かる命がいまお前の手の中にある。決めるのはお前だ。役人殺しを続けるのか否か」

「お前、ほんとうに天子か。詐欺師と話しているようだ」

「おれは命じているわけではない。頼む、沈光しんこう

 沈光、という名に聞き覚えがある。

 ――にくせんか。

 南方のこうの名門、沈家の令息だ。

 隋が陳をほろぼし、長安に大興城の都を立てた際、陳の官人たちは北の大興城へ移住した。沈光はその官人の子息で、素行不良で知られている。

 なにより、その身軽さが評判を呼び、肉体を持った飛仙と呼ばれるようになった。大興城に本拠を置いていると耳にしていたが、東京にも隠れ家を持っているらしい。

 義眼の素性は、もと貴公子だったのだ。

「お前が襲った者たちが酷吏であったことも調べはついている。その責は工事を急がせたおれにもある。同じ過ちは繰り返さぬと約束しよう」

「従うのはこの一件だけだぞ」

「ついでにおれの手下にならんか」

「冗談をいうな」

 無下なく断る。たしか沈光の父は、何らかの咎で官職を追われている。そもそも、無頼の沈光が、宮中で飼いならされている姿は想像できなかった。

「お前ほどの男が、なぜ盗賊くずれに?」

「退屈だから、かな」

 沈光はみじかい言葉を繋いでいく。

「父に従って、役所の雇い仕事をしたことはある。だが、生きているという心地がしない。今も自分だけ浮いている気がする」

 沈光は義賊で知られている。実際に会って分かった。宮仕えに収まる器ではない。

「気に入らん役人を殴って、いつの間にかこうなっていた。あんたも案外おなじじゃないか」

「一緒にするな」

 楊広の不満げな顔が目にうかぶ。

「おれはずっとこらえ性がある」

 ふたりは同時に笑声をたてた。

 楊広は生きている。目的も果たせた。それが分かり、翼の意識はふたたびとけた。

 

 

 つよい吐き気で、翼は目覚めた。

 目に入った桶に飛びつく。腹の中は空で、血のまじった唾液が垂れるのみだった。

「起きたか」

 涙目になって顔をあげると、蝋燭の火に照らされた楊広の姿がある。

 狭いへやで、半分空いた窓の外は暗い。欄干が見え、今いるのが楼閣の上階だと分かった。横たわっていたのは寝台の上で、すでに何回か吐いたらしい。寝床には嘔吐物を始末した痕が残っていた。

 楊広は寝台のへりにすわり、翼に水差しと手巾を手渡す。

「恐れ入ります」

 翼は水差しの水を手巾に含ませ、汚れた顔をぬぐった。

「沈光の厚意で宿を借りた。二、三日は使っていいそうだ」

「陛下、お身体は?」

「熱が上がってな、一睡もできなんだ」

「事前に仰っていただければ、薬やら支度をしてまいりましたのに」

 恨み言をいうものの、本人は意に介する様子もない。

「言ったはずだ。このおれが死ぬわけがない。天がそれを許さぬ」

「ずいぶんな自信ですが、毒を飲めばだれでも死にます」

「死んだら、それまでの男ということだ」

 毒に身体を慣らしていたというから、勝算はあったのだろう。義眼の男が何者なのかも、事前に調べてあった様子だった。

「沈殿のもとを訪れたのは、穀倉のためだったのですね」

「役人どもが脅えて工事が進まなくてな」

「宇文さまや、だれかほかの方にお命じになればよろしいのに」

 とはいえ、沈光は権威を嫌っている。宰相級の高官では逆効果だ。

 沈光の手下の数は、国軍の一団に匹敵すると聞く。そのうえ、みな怖いもの知らずだというから、その戦力を楊広が欲するのも分かる。

 楊広はだるそうに手を首の裏にかけた。

「頭でっかちの熊と沈光が対峙すれば血をみる。自分でやったほうがはやい」

 この男はなんでも自分でやらねば気が済まぬたちだ。初めてあったときも、みずから寺に忍び、楊勇を陥れるための仕込みをしていた。

 それはつまり、自分以外の者を信用していないということだ。

「懸念はひとつ減った。あとは国境あたりか」

「南方ですか」

 しかし楊広は北を見やる。

「まずは北の突厥とつけつだな。西方も安定せぬし、頭が痛いのが東のこうだ」

 高句麗には、先代の文帝の時代に大規模な遠征をして大敗している。

 中華の皇帝は、周辺諸国、ひいては世界を従わせる存在でなくてはならない。翼は蕭皇后からそう教えられた。

 国内の工事から外交まで、楊広はすべての国事を背に負おうとしている。

「蕭皇后にお報せしなくては。侍医を呼んでいただきましょう」

 自分で動きたいが、腰から下に力が入らない。酒を飲んですぐに楊広が吐かせてくれていなかったらと思うとぞっとする。

 楊広は額に手をあて、「おれの蓮の花」と悩ましそうに言う。

「今すぐあの肌にふれて眠りたい」

「夜が明けたら、沈殿にたのんで馬車を出してもらいましょう」

「ばかもの、こんななさけない姿を愛妻の前にさらせるか。熱が下がってからでないと帰れぬ」

「この事態になにを……」

 呆れて言葉が続かない。非常時まで妻の前で恰好をつけようとしている。

「お前、惚れた女はおらんのか。おれはあれに幻滅されるのが一番こわい」

「難儀な方だな」

 使いを出して、護秋を呼んでもらうしかない。翼は楊広と向き直り、こんこんとさとした。

「よろしいですか。すこしは周囲を頼るということを覚えてください。宇文さまや、蕭皇后や、心から陛下をお支えしたいと思っている方がいらっしゃるのです。皇帝みずから、こんな間者のような行いをなさってはいけません」

 楊広はふいと顔をそらす。

「昭がおればな」

 聞こえるかどうかというほど細い楊広の声を、翼の耳は逃さなかった。

「まさか、皇太子殿下がこういったお忍びを?」

「お前はあれの品行方正な姿しか知らぬだろう。裏の顔をみたら驚くぞ」

 楊昭も表と裏の顔を使い分けていた。血は争えない。楊昭は真の意味で、楊広の息子だった。

「その裏の顔も、もう見ることは叶わぬがな」

「それで……」

 楊広が精力的にはたらくのは、息子の喪失を埋めようとしているからだ。やっと翼にも理解できた。

 最愛の妻の前でさえ、楊広は見栄を張る。甘えられるのは姉の楊麗華くらいだろうが、楊麗華は楊広にとって護るべき対象で、政に関わらせようとしない。

 楊昭が亡くなった今、楊広はひとりだった。

「夜が明けるか」

 楊広は立ちあがり、寝台のすぐ側の、半開きになっていた窓を開け放った。

 群青色の夜陰に、街が沈んでいる。

 朝陽が射しこみ、碁盤の目のような坊の区画がしだいに姿を現わしていく。

 最初に光をみせたのは、洛水や運河、街中をめぐる水の流れだった。

 水面で、ささやくようにちいさな光がまたたいている。光の粒が数をまし、地上を照らしていくさまは、金の蝶が羽ばたいたかのようだった。

 城壁や家屋のいらかはうるみのある暁色を帯び、赤日を凝縮したような明るさであたりを照らしだす。夜明けを祝福するように、あけがらすが朝を告げる声をあげた。西のそらを見れば、しろい月星がくっきりと姿をのこしていた。

 幾万もの命が、太陽としろい月星の下でひしめいている。そんな感慨がおしよせ、翼は歓びで胸がふるえた。

 楊広が見ているのは、今生きている命だけではない。これから先、五年後、十年後、さらに気が遠くなるほど先に生きる命をみつめている。

 この男が志しているものが自分にも見えた。見えてしまった。

「なにを泣いている」

 寝台を振り返った楊広が、怪訝な顔をしている。

 宇文述をわらえない。翼は自嘲をうかべ、頬をぬぐった。

「ほんとうのことを言うよ。おれはあんたが嫌いだった。いまもたぶん嫌いだ」

 護秋をもてあそんだ軽率さを、まだ許せずにいる。

「でもおれは、おれの意志であんたの福神になる」

 楊広が目をすがめる。翼は肩をすくめ、悪臭のたちこめるへやを見やった。

「同臭相救うだろ」

 肩、背と楊広の輪郭が、明けの色に染まる。光は汚れた室内を照らし、翼はじぶんが楊広とおなじ陽の中にいるのを感じた。

 

 

第五章 万能の天子

 

 

 

「護秋姉さんが倒れたの」

 護冬からの報せをうけて、翼は馬を走らせた。

 数日前に護秋は宮中を出て、坊間に構えた家で療養しているという。楊広の許しを得た翼は、護冬の案内で街を急いだ。

 寝台によこたわる護秋の青白い顔をみて、心臓が潰れるような思いがした。

「すこし休むことにしました」

 翼を気づかって、明るくふるまう姿が痛々しい。

 ――しらなかった。

 泣きぼくろの下の頬はこけ、かるい病ではないようにみえる。護秋は薬師であり、翼にとってたのもしい母親役だ。倒れることなどないという思い込みがあった。

 青ざめた顔で、護秋は翼をさとす。

「お役目に戻りなさい。私なら世話をしてくれる者がおりますから」

 屋敷には侍女や従僕がおり、手は足りているようだった。

 身体を支えるためについた手の甲に筋が浮いている。幼いころから翼を労わってくれた手は、ずいぶんと細くなっていた。

「いつでも呼んでほしい。飛んでくるから」

 顔を見られたくなくて、翼は寝室をあとにする。

 厩にたどりつき、槐の幹を拳で打った。

「これじゃ、使い捨てじゃないか!」

「翼、落ちついて」

 背後から声を掛けてきたのは護冬だった。翼は拳を握りしめる。

「楊広が護秋姉さんをこき使ったからだ。おれは姉さんに楽をさせてやりたかったのに」

 あいかわらず楊広はあちこちを駆けずり回っていた。

 新しく洛陽に造営した東京に朝廷の機能を置いたかとおもえば、急に長安の大興城へ居所を戻したりする。唐突に、穀倉造営の現場に入ったりして、そのたびにしよう皇后こうごうをはじめ近しい家族、主だった文官武官がつきそう。

 さながら、移動する宮廷だった。

「自分の身体のことだもの。護秋姉さんだって薬師なんだから、翼よりは加減が分かるでしょう」

「それはそうだけど」

 風に脅えた夜、護秋は幼い翼の手をにぎってくれた。翼が男にかどわかされたときも、女の身で立ち向かってくれた。

 捨て子だという引け目はあっても、世間を恨んだことはない。自分がこの世に存在していいと思えるのは、すべて護秋のおかげだ。

 その護秋の衰弱した姿を目の当たりにして、落ちついていられるわけがない。

「それで楊広はなんだって?」

「息災で暮らせって」

「それだけ?」

 ずいぶんと冷淡だ。楊広が護秋を軽んじるのが、翼には悔しい。

「おかしいと思わない?」

 護冬が白い顔をかたむける。

「楊広即位に功績のあった猛将の楊素、寵姫だった宣華夫人、皇太子の楊昭、楊広のまわりの人たちが不審な死をとげている。みな、身体にはなんの支障もなかった人たちよ。護秋姉さんだって、いつの間にあんなに痩せたのか、気づかなかったもの」

 翼はじぶんの喉に触れる。

「おれのせいだろうか」

 翼にとって、翼星の言い伝えは迷信めいたものだった。伝承そのものの存在は理解できても、どこかおとぎ話を聞かされているような気がしていた。

 しかし実際、北周も陳も、翼星が音を奏でられなくなったのを機に滅んでいる。

 もし、自分が国を滅ぼす儺神なのだとしたら――。

「護秋姉さんはこれを機におれから離れたほうがいいのかもしれない」

 東京の街中、もしくはさらに遠い江都へ。禍の及ばぬ場所に送り出すべきだ。

 護冬がとりなすふうに言う。

「ちがう。私が言いたいのは――」

 翼は護冬の両肩をつかんでいた。

「護冬、宮中を出るんだ」

 三つ年上の姉は、まばたきもせずに翼を見あげる。

「街で護秋姉さんと暮らすのもいい。どこか遠く、おれから離れたところへ行ってほしい」

「急にどうしたの」

「おれは護冬がいなくてもだいじょうぶだから。ひとりでやっていけるから」

 微動だにしない護冬を前に、翼は自分を奮い立たせる。どうしても、この姉を説き伏せなければならない。

「護冬に万が一のことがあったら悔やみきれない。護秋姉さんだって、おれが翼星でなかったら、楊広と出会わずにすんだ。もっとまともな男と一緒になれたはずなんだ」

「そんなふうに言わないで。すきなひとのそばにいられて、護秋姉さんは幸せだったんだから。私も抱いてもらってうれしかったもの」

 翼は、後頭部を鉄で殴りつけられたようになった。

「今なんて?」

 護冬は無言で、目をそらす。

「護冬も……なのか」

 心が乱れさわぎ、翼は肩で息をしていた。しずまれ、と自分に言い聞かせる。しかし楊広の軽薄さに、怒りがおさまらない。あの好色漢は護秋のみならず、護冬にまで手を出していたのだ。

「楊広、あいつ――」

「ちがうわよ」

 護冬が目をほそめて翼を見ている。これは呆れているときの顔だ。

「まだ分からないの?」

 冷静になれとでもいうように、護冬は翼の頬をたたく。庭へ目をやり、ふたたび翼を見あげた。

「動かないで」

 つま先立ちになった護冬の手が、翼のえりあしへ伸びる。

 やわらかいものが、くちびるにふれた。吸いつくような感触に、背がふわりと軽くなる。脳の奥が痺れ、怒りは遠くへ吹き飛んでいた。

 翼が事態を理解するより先に、護冬が身体を離す。翼のまぶたが、瞬きをくりかえした。

「護春や護夏が嫁いだ時、どうして私が残ったと思う?」

 興味がない、とあのとき護冬は言った。おなじ口で護冬は告げる。

「翼と離れたくなかったし、役に立ちたかったからよ」

 表情にとぼしい顔に、わずかに後悔の色が浮かんだ。

「言うつもりなんてなかったのに」

 淡々と言って、護冬は翼のわきを通り過ぎていく。

「まって、護冬」

 呆然とする翼を置いて、護冬は馬に乗って去ってしまった。

「どういうことだ」

 追いかけようにも、左右が分からないほど動揺している。

 宮中にもどってからも、心と身体が離れたようで、なにも手に着かない。頭の中で護冬のことばがめぐっていた。

 抱いてもらってうれしかった、と護冬は言った。

 ――おれはなにもしていないぞ。

 礼にそって、きわめて品よく接してきたつもりだ。もうひとりの自分がいて、人目を盗んで護冬と逢瀬をたのしんだのだろうか。むろん、そんなことがあるわけがない。

「溜息ばかりついてどうした」

 背後から声を掛けられ、翼は跳びあがる。楊広が翼の手もとを覗き込んだ。

「その紙はもう使えぬな」

 これから楊広は調べ物をする手筈で、翼は書斎の机を整理していたところだった。書きとめるための紙をたたむうち、手の中で紙がちりぢりになっていた。翼はにがい思いで詫びる。

「申し訳ございません。考え事をしておりました」

「すきな女でもできたか」

「いっ――」

 文鎮を足の甲に落とし、翼は跳びはねる。

「なやましいな」

 楊広は口をかたく結ぶ。すぐに、こらえきれんといった顔で高らかな笑いをあげた。

 

 

(つづく)