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 翼は柳貴の隣に控える。動きがぎこちないのが自分でも分かった。

「先ほどまで夢を見ていました。まだ北周の皇后だったころの夢です」

 楊麗華は、やつれた目を部屋の端へやった。備えつけの机の上に置かれているのは、七絃琴しちげんきんだった。

「宮中のわたくしのもとへ、十になったばかりの広が遊びにきておりました。琴を教えていたのです。そこへあの人が来ましてね。深酒をして、ひどく酔っていました」

 あの人、というのは楊麗華の夫、北周の宣帝のことだろう。

「琴の音がうるさいと怒鳴っておりました。夫は父親に厳しくしつけられたせいか、皇帝となったとたんに横暴になって。鞭で打つことでしか、人との関わりが持てない、そんな人でした」

 かつて楊広と楊麗華と翼の三人で、お茶をしたことがあった。宣帝を昏君と蔑んだ楊広の顔を、今でも覚えている。

「夫を立てて尽くしても、ばかにされたような気分になると夫から咎められました。そのときも、顔が賢しらで鼻につくとわたくしを何度も殴打したのです。広がわたくしを守ろうとしてくれたけれど、あの子に怪我をさせるわけにはいきませんから寝台に隠しました」

 楊麗華の細い指が、手の甲の傷をさする。

 傷は、そのときにできたものなのだろう。宣帝は、これほど大きな傷が残る危害を自分の妻に加えた。むかむかと額のあたりに熱がこもる。考えるだけで、頭に血がのぼった。

「あの子は怖かったでしょうね。恥ずかしいことに、わたくしもそれから数日の記憶がないのです。おとなですら記憶が飛ぶ恐怖の中で、あの子は目をそむけずにいた」

 姉の寝台の上で、十歳の楊広が目を見開いている姿がうかぶ。楊広が見ているのは、自分を守ろうとする姉の姿だ。

「広をかばったことで、わたくしは夫の逆鱗に触れ、自死を命じられました。実家の母が必死に取りなしてくれて事なきをえたのです」

 楊麗華は賢妻で名高かった。後宮でも女官や宦官から慕われていたときく。人柄が優れているゆえに、宣帝は楊麗華を疎んだのだろう。

「わたくしが正気を取り戻してから、広と会う機会がありましてね。急に大人びたことを言い出すのです。阿呆と無能は天子になってはいけないと」

 ――おれは南北に分裂していた時代の無能な皇帝たちとは違う。

 かつて、楊広は翼にそう言った。

 宣帝の暴行事件が、楊広にそう言わしめたのだ。

「広は夫の横暴を父母に訴えましたが、北周の臣である父が取り合うわけもありません。あれ以来、広は父母に対してどこか一歩引いて接するようになりました。両親だけではなく、人というものを信用しなくなったのです」

 外で風がふき、壊れた笛のような音が響いている。

 楊麗華は、手の甲の傷をもう片方の手で握りしめた。

「ずっと後悔をしておりました。あのときわたくしが広を後宮に呼ばなかったら、あの子はあんな目に遭わずにすんだのにと」

「公主」

 翼は楊麗華を見上げた。

「事件がなくとも、陛下は今のように激しい生き方をなさったと思います。あの御気性は生まれ持ったものでございましょう?」

 柳貴もめずらしく感情をあらわにする。

「畏れながら、元凶は北周の宣帝にございます。身を挺して守ってくださった公主だからこそ、陛下は慕っておられるのです」

 楊麗華の顔がさらに翳った。

「確かにわたくしは、広に対して母親のような愛情を注いできました。母が厳しい人でしたからね」

 楊家の母・どつ孤伽羅こからは潔癖で、我が子に人の模範たることを求めた。その厳しい姿勢は、包むような愛情とは遠いものだったのかもしれない。

「ですが、私の愛情は広にとって良いものだったのかどうか」

 柳貴が眉をひそめて訴えた。

「なんの問題がありましょうや」

「広が即位したとき、わたくしの夫のようにはならないと誓ってくれました。翼星をないがしろにせず万能の天子になると」

「翼星をないがしろに……」

 唇が、楊麗華の言葉をなぞっていた。じわじわと胸の底から滲んでくるものがある。

 なぜ、あの苛烈な楊広が、即位を阻もうとした翼を罰しなかったのか。

 その謎がやっと解けた。翼に、北周の翼星だった楊麗華を重ねていたからだ。

 楊麗華は息苦しそうに胸を押さえる。罪を告白するかのように明かした。

「わたくしが望んだせいで、広を縛ってしまいました。わたくしのために大きな犠牲を捧げることを、心のどこかで望んでしまっている。これではまるで子の愛情を試しているようです。あの子には自由に生きてほしいのに」

 小さな男児の姿が、目にちらつく。

 楊広は天子としての功績、とくに結果に強いこだわりを持った。人任せにせず、すべてを自分ひとりでやろうとした。

 非力な十歳の子が、今も楊広を追い立てている。

 すべては、万能の天子となるため――。

 楊麗華は口もとを押さえ、肩で息をする。身体を起こしているのもつらそうだった。

「わたくしのことはよいから、あれを」

 背をさすろうとした女官の手を遮り、七絃琴を手もとに運ばせる。

「この琴を柳貴に託します」

 柳貴はたちあがり、床の楊麗華から琴を受けとった。

「公主、これは……」

「広の使っていた琴です」

 大人が使えるように調整してあると、女官が言い添えた。

「私がいただいてよろしいのでしょうか」

 柳貴の顔に、戸惑いがうかんでいる。託されたものの重みに慄いているようだった。

「広があなたを引き立てたのは、あなたが十二の頃でしたね。琴を奏でるあなたに、広は幼いころの自分の姿を重ねたのだと思います」

 それから、と楊麗華は翼をみた。

「翼もです。あなたは護秋のために行動する子でした。広もわたくしを助けようと懸命でしたから、姉のために駆けずり回るあなたに感ずるものがあったのでしょう」

 明かされていく真実に、愕然とする。

 楊広の行動原理の源は、すべて楊麗華にあったのだ。おそらく楊広自身、それに気づいていない。

 ――もし楊麗華が亡くなったら。

 楊広は縛りから解放されるのだろうか、それとも縛りを失って暴走するのだろうか。

 楊麗華がおのれに託そうとしているものに気づき、身震いがする。血が、熱く立ち騒ぎはじめていた。

「あの事件以来、広はずっと琴を弾いておりません。琴に触れれば、十歳のときの自分に戻ってしまうから」

 ひざまずく柳貴と翼の前に、するりと絹の夜具が降りたつ。

「ですがわたくしの望みは、広が自分の時間を取り戻すこと」

 楊麗華はふかく頭をたれ、床に額づいた。

「あなたたちは、幼き日の広そのものです。どうか力をあわせて、ひとりで奮闘する広を援けてください。どうか――」

「公主」

 柳貴の目のきわが、炎を灯したように赤い。流れた涙まで赤く染まって見えた。

「ご案じなさいますな。柳貴はこの命をすでに陛下にお預けしたつもりでおります」

 翼の胸にも、赫とした赤いものが立ち昇っている。

「私たちが陛下のために最善を尽くすのは当然のことです。公主、どうかお顔をあげてくださいませ」

 楊麗華は柳貴と翼の手をとり、おのれの掌の上で重ねる。

「柳貴、わたくしに万が一のことがあっても、それは翼のせいではありません。けして責めることのないように」

 そう言って、祈るようにひとみを閉じた。

 天幕の外で風が吹きすさび、激しい音を立てている。

 二日後、楊麗華はしずかに息を引き取った。

 

 

 

 賓客がざわめいたのは、宴が始まってすぐだった。

 客席には、交易路に隣接するこうしよう国の王や皇族、各国の使者、交易の商人など、多彩な顔触れが詰めている。

 その数百ほどの客人が「何ごとか」と、どよめいた。

 宮殿の窓から見える景色が少しずつ変わっている。床がゆっくりと回転していることに、みなが気づいたのだ。

 中央の舞台を取り巻くように、客席は段々と四方へ上がる形になっている。最上階の壁にもたれる翼の前を、異国の使者があわただしく駆けていった。宮殿が壊れているのではないかと、隋の官人のもとへ確かめに向かったらしい。

 吐谷渾を撃退した楊広は、西方巡幸のもうひとつの目的――西方諸国との関係強化を図った。楊広が西方でのもてなしに用意したのは、移動先で組み立てる宮殿だ。回転することで、全方位の景色が眺められるという代物で、設計したのはもちろん建築師の宇文愷である。

(こけおどしよ)

 翼の前方の席から、ひそかな嘲罵が聞こえた。

 背後で、天子の楽人が控えていることに気づかないらしい。頭数を揃えるのに動員された異国の使者か、隋に対して不満があるようだった。

(国内では民が飢えていると聞くぞ)

 隣の男が声を抑えろと窘めたが、周囲はみな同胞だから気が大きくなっているらしい。翼にも分かる隋の言葉で罵りつづけた。

(隋は長くは持たぬかもしれぬな。あの派手好みの皇帝では)

 周囲の使者たちが同調する。もてなしはすべて虚勢だと嘲っていた。

 翼は黙って腕を組み、指でおのれの脇腹を細かく叩く。

 わざわざ大国の隋から出向いて諸国の王らをもてなすのは、地元の民にも隋の高い技術力や文化水準を見せつけるためだ。隋の国威を印象づけ、反抗の気力を失わせる楊広の戦略である。

 さらに交易の活発化のため、張掖から隋へ帰国する旅に西方の商人らを随行させる手筈でいる。この巡幸には二重三重のねらいがあった。

 ――小役人には分かるまい。

 楊広は自身の悪評を、さほど気にしない。取り繕おうともしないから、さらに悪い噂を呼ぶ。

 使者らは調子づいて言った。

(なんぞ、艶聞の絶えぬ天子だからなあ)

(無能のわりに、ずいぶんと傲慢な顔をしておる)

(長けているのは腰の振り方だけか)

 下卑た嘲笑が、客席の人いきれに流れた。

 隣に控えている柳貴の顔が、氷雪のように冴え冴えとしている。純白の衣装が、その冷たさをさらに際立たせていた。

 翼は壁から背を離す。壁沿いの通路を進むと、燃えるような赤の衣装が揺れた。すぐ隣に白い衣装が並ぶ。柳貴とふたりそろって、舞台へと降りていく。

 舞台では、動物を扱った雑技が繰り広げられている。翼と柳貴が足を止めたのは、舞台の前、主催者の席だった。

 ふたりで楊広の前へ進み、揖の礼をする。

「陛下、皆さまのいっときを私どもにいただけますか」

 申し出た翼を、楊広は威圧するふうに見おろした。

「歌えるのか」

 今日の演目に、翼と柳貴の出番はない。翼の声がふるわないからか、楊広が演目から外していた。

 すかさず柳貴が胸の前で手をくみ、楊広に礼をする。

「聖上、どうぞご期待を」

 ふだんは相容れぬふたりが声をあわせたので、楊広は眉をひそめる。

「いいだろう。失態を見せればただでは済まさぬ」

 官人に演目の変更を命じる。

 先に舞台にあがった柳貴が、翼に手を差し伸べた。手を取ると、思いのほか強い力で引き上げてくる。赤の衣装がふわりと広がり、女人のあでやかな声が上がった。

「さて、西方の民には何の歌がふさわしいかな」

 翼が問いかけると、柳貴は考える顔をする。

 あの無粋者どもを圧倒してやる。そう顔に書いてあるようで、思わず苦笑した。

「そうだ」

 思いついた歌を翼が耳打ちすると、柳貴は意外そうに目を見開く。

「いいだろう」

 琴の前に座り、目で合図を送ってきた。

 奏でたのは、素朴な旋律だ。翼は遥か遠い江都の方角へ手を差しのべる。

 

 むすめ有り 車を同じくす(あの娘を誘って車にのれば)

 顔はしゆんの如し(その顔はあさがおの花のよう)

 

 客席がざわめく。歌ったのは恋歌で、客人らが想像していた勇ましい歌や煌びやかな歌と違っていたからだろう。

 しかし、朴直な曲のほうが技巧の差が出る。

 ――さすが柳貴だ。

 まだだれも踏み入れていない雪の白色、風に躍る草原の緑。

 飾らない音が、すっと心の底に収まる。

 

 たこうし 将たしようすれば(気ままに車をめぐらせれば)

 けいぎよくけいきよ(腰に揺れるのは玉かざり)

 

 翼の想い人は遠い南方にいる。

 護冬はつま先立ちになって、やわらかな唇を押し当ててくれた。もしときを戻せるのなら、あの吸いつくような唇のふくらみをこころゆくまで堪能したい。

 しかしそれも叶わぬ願い――。

 

 の美しきもうきよう(ああうつくしい姉さん)

 まことに美にしてなり(ほんとうに美しくて雅やか)

 

 心の歌を――。

 今、披露すべきは、魂の歌だ。

 客席には、髪を編み込んだ男や、碧の瞳の女や、江都にいては顔を合わせることもなかったであろう様々な人種の顔が並んでいる。

 しかし、恋心はどの国の民もおなじだ。

 力で威圧するのではない。偽りのない声で心の琴線に迫ろうと試みる。

 主催者席で、楊広が立ちあがっていた。柳貴が奏でる琴が、かつて自分が所有していた楽器だと気づいたのかもしれない。

 ――ばかな男だ。

 楊麗華をうしなって、ほんとうは声をあげて泣き叫びたいだろうに。長男の楊昭をうしなったときもそうだった。平然を装って、やせ我慢をしている。

 家族との離別で傷ついているおのれの心に気づかない。

 強がる楊広のために、勇ましい歌をうたいたくなかった。立て続けに恋歌をうたう。思いは遠い南へ。魂に近い音色を、全身で奏でる。

 歌い終えたとき、観衆のひとりと目が合った。赤毛の女人は、碗をひっくり返したのかと思うほどの涙で頬を濡らしていた。

「――!」

 知らぬ国の言葉で歓声があがった。

 ひとりが立ちあがると、客席が熱狂に包まれる。それは風を受けて勢いよく燃え上がる炎のようで、たちまち翼の内側まで染めつくした。

 称賛の熱を身体の芯で感じ、「ああ」と祈るような気持ちで目を細める。

 自分は声を取り戻した。何百という人の心に、声が届いたのだ。

「いくぞ」

 柳貴に手を引かれ、舞台の端へ向かう。客人に挨拶の礼をして回り、最後に隋の天子を振り仰いだ。

 楊広は諸外国の民の畏敬のまなざしを受け、威容を見せている。

 瞳には深海のような昏さと、夏の太陽のような苛烈さ。

 唯一無二の、万能の天子――。

 対面する者の心持ちは深遠となり、しぜんと膝が折れる。翼と柳貴、ふたり揃ってうやうやしく拝礼した。

「悪くない」

 すぐ隣で、ぼそりと柳貴の声がする。翼はこっそりと謝った。

「すまなかった」

 長い間声が安定せず、柳貴に面倒を掛けた。それも今日までのこと。喝采の中、万感の思いを噛みしめる。

 割れんばかりの歓声に応えながら、舞台を去ろうとしたときだった。ある光景が目に飛び込んでくる。

 宮殿の窓の外、丘の上の樹木の陰で、一組の男女が何かを言いあっている。

 ひとりは熊のごとき巨体、宇文述だ。

 女人は頭からべきを被っている。風が吹いて羃籬がひらめく。垣間見えた素顔に、心臓が口まで躍り上がるかのようになった。

 蕭皇后――。

 羃籬を被り直した蕭皇后が、宇文述の頬を叩く。厚い胸にすがり、宇文述が慌てて蕭皇后の両肩を離す。それはまるで、女が男に言い寄る光景のようだった。

 頭が急に冷め、動揺で心臓が波打ち始める。目をすがめたものの、回転する宮殿の壁が外の景色をさえぎった。

 呆然として、目にしたものをすぐに理解できない。

「いったい、どういうことだ」

 

 

(つづく)