ジャック・ザ・ディッパーを追え
9.
スコットランドヤードの食堂で、赤ずきんはエンドウ豆のスープを前に考え込んでいます。正面にはオリバーがいて、新聞を読みながらパンをもぐもぐと食べています。その横で、ニール警部が腕を組んで難しい顔をしていました。
「おはようございます」
ドアが開き、グレゴリー巡査が入ってきました。
「いやあ赤ずきんさん、そしてオリバー君。ありがとうございました。ジャック・ザ・ディッパーが捕まったおかげで、久々に夜のパトロールをせずに済みました。昨日はゆっくり眠れましたよ」
「それはよかったわね」
サム技官が逮捕されてから一夜明けました。赤ずきんは昨日、またスコットランドヤードの宿直室に泊めてもらいました。宿のないオリバーも一緒です。そして今、朝食をご馳走になっているのですが、どうも胸がもやもやして仕方ないのでした。
「ニール警部も、昨晩は久々に、奥さんとゆっくり食事をとれたんじゃないですか?」
「そうだな」
答えるニール警部の口調は重苦しいものでした。
「あれ、食べないんですか赤ずきんさん?」
「今、考え中なの。サムさんが最後に言っていた話よ」
グレゴリー巡査はピンときたようでした。
「バイドパークで発見されたエリザベスだけは自分が殺したのではない、というあれですか? あれは、サムが最後に我々を撹乱しようと言ったことでしょう。手口だって同じなのだから」
「エリザベスが殺された現場を見て、サムさんはかなり怒っていたの。あれは演技じゃなくて、自分の犯罪を真似されたからじゃないかしら?」
「考えすぎですよ。手口が一緒なんだからあれもサムの仕業です」
「手口が一緒なのだから便乗犯の仕業とも考えられるわ。それに、最後の事件だけ言い逃れしようとする意味がわからないじゃない」
「新聞には載ってないんだけどさ」
オリバーが口を開きました。
「エリザベス以外の四人の現場のスープと、エリザベスの現場のスープは同じレシピなのかな。もし同じレシピじゃないなら、別の人間が犯人である可能性があるよ」
「どうでしょうね。詳しく調べてみないと……あっ」
グレゴリー巡査が立ち上がりました。
「どうしたの?」
「違います。どうして今まで気づかなかったんだ。エリザベス以外の四人のスープには、ソーセージが使われていました。ニワトリの肉は入っていません」
「グレゴリー!」
ニール警部が口を開きました。
「昨日、市場でニワトリを買った者を聞き込みして回ったな。その中に、サムらしき人物はいたのか?」
「はい? え、ええーと」
「エリザベスの一件がサムの仕業なら、スープの中に入っていた肉もまた、サムが自分で手に入れたと考えねばならないだろう」
「そうですね」
「もう一度、調べてこい!」
「はっ!」
グレゴリー巡査は弾かれたように立ちあがり、食堂から走って出ていきました。
「大変ね、スコットランドヤードの巡査は。上司の命令があったら、食事も中断しなきゃいけないなんて」
「赤ずきん」
巡査の背中が見えなくなったところで、ニール警部が声を低くして言いました。
「実は、グレゴリーについてひとつ、気になっていることがある」
「グレゴリーさんについて?」
赤ずきんは意外でした。オリバーもまた、興味深げに聞いています。
「ジャック・ザ・ディッパーの被害者が出はじめてから、私たちは夜中、分担してロンドン中をパトロールしていた。二日前の夜、私とグレゴリーの担当は、バイドパークのあるあたりだった。途中、泥棒を見つけた気がしたので、私とグレゴリーは二手に分かれて挟み撃ちにすることにした。だが泥棒は見失い、おまけにグレゴリーともはぐれた」
「そういえば、そんなことを言ってたわね」
「あのとき、グレゴリーは一時間ばかり行方不明だった」
赤ずきんの中に胸騒ぎが生まれます。オリバーもスープを飲む手を止め、ニール警部の話を聞いていました。
「ひょっとして」赤ずきんは思いあたりました。「ニール警部とはぐれている一時間のあいだに、グレゴリー巡査が犯行におよんだというの?」
ニール警部は顔をしかめます。
「いや、あいつに限ってそんなことはないとは思うが……」
「わからないよ」
オリバーは真剣な顔です。
「スコットランドヤードの捜査の目をかいくぐることができるのは、スコットランドヤードの人間に他ならない。あらゆる相手を疑うのが探偵じゃないかなあ」
「スコットランドヤードは探偵ではない」
「グレゴリーさんに一人で市場に行かせてもいいの? ニセの情報を持ってくるかもしれないよ。誰かがにらみを利かせておかないと」
オリバーはあくまで冷静です。
「そうだな……追いかけよう」
「ニール警部」
赤ずきんは言いました。
「私は、エリザベスさんともう一度会いたいわ」
「死体と?」
「何か、見落としている手がかりが見つかるかもしれない」
10.
市場へ出かけるニール警部を見送ると、赤ずきんとオリバーは地下へ下りていきました。案内してくれるのは、交通安全課のホレイショー警部補です。
「君も大変だね赤ずきん。ロンドンに来て犯罪の捜査ばかりじゃないか」
「世界中どこでも一緒だわ」
地下通路は窓がなく、ランプの灯りでも周囲数メートルしか照らされません。じめじめした廊下をしばらく歩き、鉄の扉の前で立ち止まると、ホレイショー警部補は施錠を解きました。
「ここにまた、戻ってくるとは思わなかったわ」
ランプの光に照らされた室内、すべてのベッドにシーツにかけられた死体が横たわっています。
「エリザベスはどこ?」
オリバーがホレイショー警部補に訊ねます。
「このあいだ、赤ずきんが寝かされたベッドにいるよ」
「ええと……」
きょろきょろと見回すオリバー。そんな彼を横目に、「ここね」と、赤ずきんはそのベッドに近づきました。
「失礼するわ」
シーツをはがすと、赤茶色のもじゃもじゃの髪が現れました。間違いありません、バイドパークに倒れていた女性です。服は脱がされ、検視されたあとです。首筋に毒針を打たれた跡があります。
「これは、遺留品?」
頭のそばに置かれた粗末なかごの中にあるのは、畳まれた衣類と髪飾り。取り出して観察します。特に変わったものはないかと思ったのですが、服のポケットから妙なものが出てきました。ティーカップの下に敷くような、白いレース編みのコースターです。ですが、ほつれていて半分ぐらいしか形がありません。
「なんでほどけているの?」
「逆側を見ると、真実が見えてくることがあるよ」
オリバーが言うので裏返してみましたが、何もありません。
「そうじゃないよ、赤ずきん」
オリバーがくすりと笑います。
「ほどけているんじゃなくて、作りかけってことさ」
彼が指さす先を見ると、遺留品のかごの中に短い編み棒が二本、入っているのでした。オリバーは膝を折り、横たわるエリザベスの頭部の高さに目線を合わせました。
「それにしても、このもじゃもじゃの髪の毛、気になるなあ。ニンジンにカブ、肉のカス。いろんなものが中に入り込んでいるよ」
たしかに。赤ずきんの勘もうずきます。
「この髪の毛が、事件を解くカギじゃないかなあ」
「気が合うわねオリバー。もう一度、バイドパークに行ってみない?」
するとオリバーは赤ずきんの顔を見てニヤリと笑ったのです。
「たしかに、気が合うね」
ホレイショー警部補に同行を頼み、スコットランドヤードの馬車でバイドパークへやってきました。殺人事件現場ということで、公園全体が立ち入り禁止になっていました。豆の木のあたりまでやってくると、見張りの警官が一人いて、ホレイショー警部補に敬礼をしました。
「ご苦労。赤ずきんとその相棒に少し現場を見せてやってくれ」
「はっ!」
寸胴やおたまはすでに片づけられていましたが、ぶちまけられたスープの具はそのままでした。空は曇りなので、地面も乾いておらずぐちょぐちょです。
豆の木は変わらず天まで伸びて、その先は雲の中に隠れていました。
「立派な豆の木だなあ」
オリバーは楽しそうに豆の木を見上げています。
「上ってみようかなあ」
「なんでよ」
「上りたくなるじゃないか。雲の上に巨人の屋敷があったりして」
「それは昔の話だってお豆のジャックさんが……」
「よいしょっと」
赤ずきんの話などまるで聞かず、オリバーは豆の木にとびついて上っていきます。
「しょうがないさ。男の子っていうのは、木があったら上りたくなるものだよ」
ホレイショー警部補は苦笑いして言います。放っておきましょう、と赤ずきんはこぼれたスープの具を調べることにしました。食べやすいように切られた野菜がたくさん、それにニワトリの骨が散らばっています。
「あれ?」
赤ずきんは疑問を覚えました。
「ホレイショー警部補、料理はする?」
「たまにね」
「ニワトリを丸ごと煮込んだら、骨ってこんなにバラバラになるかしら?」
「どんなに煮込んでもならないんじゃないかな。これは、包丁で捌いてから煮たんだろう」
「捌くときって、胃とかお腹の中身を取るものじゃない?」
「そうだろうね」
だったら、いくらニワトリが豆を丸呑みしていても、スープの中には入らないのではないでしょうか。だったらどうやって――と、考えはじめた、そのときです。
「Twinkle twinkle little star~」
聞いたことのある、しわがれ声の歌が聞こえてきました。
「How I wonder what you are」
曇り空からゆっくりゆっくり降りてくるのは、ガチョウのミル。その上に、とんがり帽子のおばさんがすわっています。
「Up above the world so high, like a diamond in the sky」
歌い終わると同時に赤ずきんとホレイショー警部補の前にミルが着地しました。
「おや赤ずきんにホレイショー警部補。おそろいで」
「ガチョウおばさん、ここは立ち入り禁止です」
ホレイショー警部補が警察の立場を守って厳格に言います。
「なんでだい、市民の公園だろうが」
「殺人事件が起きたんです」
「なんだって? 久々にこの豆の木が生えているのが見えたから見物に来たら、殺人事件だって? こりゃ……」
グエッ、グエッ!
突然、ミルが叫び、羽をばたばたさせながら足踏みをしました。
「なんだいミル? えっ? 足が泥だらけになっちまったから洗いたい?」
スープでびちゃびちゃになった場所に足を踏み入れてしまったのでした。
「うちに帰るまで洗えないよ。……イヤじゃないんだよ。まったくこの子は変なところがきれい好きで困るよ。昨日だってハチミツを踏んじまって、うちに帰ったら洗ってやるっていうのに、途中で急降下して大きな毛玉に足を擦り付けたんだ。私はびっくりしちまって……」
「毛玉?」
赤ずきんは引っかかりました。こういうときの引っかかりはよく、解決につながるものです。
「それって赤茶色の毛玉?」
「そうだねえ。ちょうど人の頭ぐらいの大きさだったかね」
「ああー……」
赤ずきんは深く息を吐きました。
「どうしたんだい、変な声を出して」
「ありがとう、ガチョウおばさん。やっとすべてがつながったの……でも、犯人を示す証拠がないわ」
「おーいっ!」
頭上のはるか高くから、声が聞こえます。豆の木を見上げると、雲のすれすれのあたりまで上ったオリバーが手を振っていました。
「赤ずきーん。助けてー。下りられなくなっちゃったよーっ!」
「まったく……ガチョウおばさん、ちょっとミルを貸してくれない?」
「いいともさ」
ガチョウおばさんはミルから降りました。赤ずきんがその背中にまたがると、バサバサとミルは羽ばたいて上昇し、あっという間に、オリバーのところまでやってきました。
「おお、赤ずきん、ありがとう。ははは、ここからの眺めはとても素晴らしい」
「助けを求めておいて、何を言ってるのよ?」
「すばらしいものを見つけたんだ、ほら」
オリバーが差し出した左手に載せられているものを見て、赤ずきんは目を見張りました。
「まさか……!」
「真実を明らかにするためには、時に危険を冒さなければね」
あきれながらも赤ずきんは、オリバーの顎のあたりに違和感を覚えます。まるで壁に貼り損ねたポスターのように、皮膚の一部がめくれあがっているのです。
「あなた、本当はオリバーじゃないわね」
「何を言っているんだ、僕は……」
「さっき死体置き場でホレイショー警部補が『赤ずきんが寝かされたベッド』って言ったとき、どのベッドかわからなかったじゃない。私とあなたはあそこで出会ったっていうのに」
「忘れていたんだ……はは」
「あなたみたいに観察力のある人間が、私の寝かせられていたベッドの位置を覚えていないなんておかしいわ。死体置き場に入るのは、今日が初めてね?」
「……まいったな」
ばつが悪そうにオリバーは唇を歪めました。
「そうさ。僕はとある犯罪捜査のために、オリバーに変装して窃盗団に近づいたんだ。ところが目をつけていた親分のフェイギンが死んで任務は無くなってしまった。挙句の果て、窃盗団に正体がバレそうになって逃げているうちにけがをし、病院に駆け込んだのさ。そうしたら――もっと面白そうな事件に出会ってしまった。そうなったら、そちらに心が傾くのは当然だよ」
「根っからの探偵気質ね」
「君もだろう、赤ずきん」
憎らしい笑顔です。
「首の下がめくれてるわよ。もうそろそろ素顔を見せたらどう、偽オリバー」
「こう見えて気に入ってるんだ」
「じゃあせめて、本当の名前を教えてよ。そうしたらこのガチョウに乗せてあげる」
「いやー、それは……」
びゅうう、と冷たい風が吹き、ぐらーりと豆の木が揺れました。
「うわわわあ」
「早くしないとこのまま下りちゃうわよ」
「わかったよ。教えるよ。僕の本当の名前は――」
11.
ニール警部がバイドパークにやってきたのはそれから三十分後でした。
「スコットランドヤードに戻ったら、こちらに来ていると教えられたものでな。何かわかったか?」
「ええ、そっちはどう?」
ニール警部はうなずきました。
「グレゴリーは一度家に帰し、私が自ら聞き込みをして回り、決定的証拠をつかんだ。あいつで決まりだ。今からグレゴリーの家に行こう」
「実はホレイショー警部補に頼んで、グレゴリー巡査をここに連れてきてもらうことになっているの。待ちましょう」
「そうだったのか」
それからしばらく待っていると、公園の向こうの道にスコットランドヤードの馬車がやってくるのが見え、ホレイショー警部補とグレゴリー巡査がやってきました。
「やあ赤ずきん、新しいことがわかったそうだね」
何も知らないグレゴリー巡査は実に爽やかです。
「グレゴリー」
赤ずきんより先にニール警部が口を開きました。
「警部、さっきはびっくりしましたよ。いきなり家に帰れだなんて……で、市場での聞き込みはどうだったんですか?」
「大収穫だ」
カバンから、一枚の紙を取り出します。グレゴリー巡査そっくりの似顔絵でした。
「食肉を取り扱っている業者に『この男がニワトリを買って行かなかったか』と片っ端から聞いて回った。すると一人の業者が、お前の顔を覚えていた。二日前、私とのパトロールの途中で抜けた時刻にだ」
「なんですって? 何かの間違いですよ」
「やはりお前だったのだな、グレゴリー」
「ちょ、ちょっと待ってください」
うろたえるグレゴリー巡査。迫るニール警部。そして、あ然とするホレイショー警部補。バイドパークに、緊張の糸がピーンと張り詰めました。
「ニール警部」偽オリバーが口を開きました。「その、証言した人以外の肉屋さんは、グレゴリーさんについて何と言ってたの?」
「えっ?」
ニール警部は一瞬戸惑ったように見えましたが、すぐに威厳を取り戻します。
「そりゃ、『知らない顔だ』と」
「それは、おかしいね」
偽オリバーの目が鋭く光ります。
「だってグレゴリーさんは、昨日、ガイーン病院を出た後にも市場に聞き込みに言っている。似顔絵を見せて回ったら、食肉業者たちは『この男は昨日、聞き込みに来たよ』と口々に言うはずじゃないか」
はっ、とニール警部の顔が青ざめました。偽オリバーにばかりいい格好をさせてはおけないわ、と赤ずきんは口を開きます。
「ニール警部の奥さん、たしかお豆のジャックさんのお屋敷のそばで、編み物教室を開いていたわよね? ここで発見されたエリザベスさんのポケットの中には編みかけのレースがあって、遺留品の中には編み棒もあった。さっき一人の警官に調べにいってもらったら、エリザベスさんはあなたの奥さんの生徒さんで、昨日も午前中に教室に行ったらしいじゃないの」
赤ずきんは、ニール警部の顔を見上げます。
「同じ教室の生徒さんによれば、エリザベスさんは癇癪もちで、自分の思い通りにいかないとすぐに文句を言ったり金切り声をあげたりするそうね。先生であるあなたの奥さんにもかなりの頻度で食って掛かり、奥さんは最近それですっかり元気がなくなっていたそうじゃない」
「……」
「ニール警部、あなたはどうして、それを黙っていたの?」
「妻の手芸教室の生徒なんて、知るわけがないだろう」
「ニール警部、あなたはどうして、昨日から、指輪をつけてないの?」
ニール警部は隠すように、背後に左手を回しました。
「気分で外すこともあるんだ」
「じゃあ」赤ずきんはニール警部の鼻先に人差し指を突き付けます。「あなたの犯罪計画は、どうしてそんなに杜撰なの?」
「……何を言っているんだ、赤ずきん?」
「ジャック・ザ・ディッパー事件に便乗して、エリザベスさんを殺したのはあなたよ」
びゅうう、と冷たい風が、一同のあいだを吹き抜けていきます。
は、は、ととりなすように笑い声をあげたのは、グレゴリー巡査でした。
「冗談を言わないでください、赤ずきんさん。ニール警部がそんなことをするはずないでしょう?」
「事件のあった夜、ニール警部はあなたとパトロール中だった。このバイドパークもその範囲内に入っていたのね?」
「ええ」
「ニール警部は途中、泥棒を見かけたから挟み撃ちにするぞと言ってあなたを入り組んだ路地へ走らせた。その後、一時間ほど二人ははぐれた」
「そうです」
「あなた方以外、このエリアをパトロールしている警官はいない。はぐれた相手を探す相棒は公園ではなく入り組んだ街の中を探しているはず。一時間のあいだ、バイドパークは安全よ。エリザベスを殺してジャック・ザ・ディッパーのように逆さ吊りにし、用意してあったスープに頭を突っ込むのに集中できる」
口をつぐむグレゴリー巡査。赤ずきんは口元を緩め、「最初から話しましょう」と言いました。
「ニール警部の奥さんは、問題児のエリザベスさんのために精神的に追い込まれていた。あいつさえいなくなれば妻はまた笑顔を取り戻せる。ニール警部はいつしかそう思うようになった。そんなとき、ジャック・ザ・ディッパーという連続殺人犯がロンドンに現れた。その手口は極めて残忍で特徴的。これに紛れて、一人ぐらい女性が殺されても、自分のせいだとは誰も思わない。……ニール警部はエリザベスを殺し、ジャック・ザ・ディッパーのせいにする計画を立てた」
ニール警部は両方の手をズボンのポケットに入れ、黙ったまま赤ずきんの話を聞いています。太い眉とぎょろりとした目が赤ずきんを威圧しますが、負ける気はありません。
「『妻があなたにいつも迷惑をかけているからお詫びの金を渡したい』――そんな言葉でエリザベスをこの近くに呼び寄せておいたあなたは、グレゴリー巡査に『泥棒がいた』と嘘をついてできた隙にエリザベスを殺害。ここに運んでロープで吊り下げ、用意してあった寸胴のスープに頭を浸した」
翌日に発見されると、あらたなジャック・ザ・ディッパーの被害者として処理されるはずだったのでしょう。
「ところが、ここで一つ、思いもよらない誤算が生じたの」
ははっ、と偽オリバーが笑います。
「本当に誤算だよなあ」
見上げているのはもちろん、そこにそびえる魔法の豆の木でした。
「これに関しては、ある人の証言を聞いてもらわないとわからないわ。出てきて」
バサッ、バサッと音を立て、豆の木の陰からガチョウおばさんを乗せたミルが現れました。
「ガチョウおばさん……」
「いやあすまないすまない。お豆のジャックのことは、あいつのろくでなしの父親が子どもの頃から知ってるんだよ。金の卵で金持ちになったあとにも、『魔法の豆の処理に困っている』と相談を受けてね、三日に一度ぐらいミルを連れて行って、全部食べているのさ」
「二日前も食べに行ったのよね?」
「そうさね。ところが、その前に来ていた農家のヘンリーがハチミツをぶちまけていたんだ。ミルはそれを踏んじまって大慌て。豆をこぼして、大わらわさ」
「そのとき、ハチミツにまみれた豆が一粒、ミルの足にくっついちゃった可能性は?」
「そりゃあるだろうねえ。豆粒なんていちいち何粒あったか数えちゃいないんだから」
「そのあと、どうしたの?」
「お豆のジャックの屋敷からうちに帰ろうってことになったんだ。帰って足を洗ってやるっていうのに、べたべたするのが気持ち悪かったんだろうね、突然急降下して、赤茶色の足ふきで足を拭いたんだ」
「それって、人間の頭ぐらいの大きさだったんじゃないの?」
「そうだったかもしれない」
「わかったでしょ、ニール警部」
赤ずきんは愉快な気持ちで、きょとんとしているニール警部のほうを向きました。
「それこそ、手芸教室から帰る途中のエリザベスさんのもじゃもじゃ頭だったのよ」
「あ……」
「ミルの足についていた豆はこのとき、エリザベスさんの髪の中に潜り込んでしまった。エリザベスさん本人も気づかなかったんだもの、ニール警部が気づくわけないわ。あなたは運の悪いことにそのエリザベスさんの頭を、たっぷりのお水の中につっこんでしまった。水を吸ったお豆は夜のうちに成長し、寸胴も死体もなぎ倒して天まで届く木になった」
グレゴリー巡査も、ホレイショー警部補も、そして誰よりニール警部が、口をあんぐりさせています。
「ニール警部、あなたは自分がいつ魔法の豆を鍋に入れてしまったのかまったくわからなかったはず。捜査の流れで、私たちを連れてお豆のジャックの家に行ったら、あのマイクロフトという太っちょの会計担当さんが、豆を丸呑みしたニワトリがスープに使われたのだと言い出した」
ふふん、と赤ずきんは笑います。
「あなたがこの推理に乗ることにしたのはずっとあと。サムさんがジャック・ザ・ディッパーだと暴かれて、エリザベス殺しは自分の仕業じゃないと告白し、オリバーの推理で私たちがその説に傾きかけたときよ。あなたはグレゴリー巡査に罪を擦り付ける細工をした。似顔絵を市場の人たちに見せたのが嘘だというのは、今から市場に確認しにいけばすぐにわかるわ」
びゅうう、とまた風が吹きます。どこかもの悲しい、かび臭い風でした。
「グレゴリーの似顔絵を見せて聞き込みをしたのが嘘だとわかったところで、私がエリザベスを殺したことの証明にはならない。違うかね?」
ニール警部は姿勢を崩しません。
「苦しいとは思うけど、違わないわ」
赤ずきんは言うと、偽オリバーを振り返りました。
「これはロンドンの事件。最後はロンドン市民のあなたに譲るわ」
「うん」待ってましたとばかりに、偽オリバーは赤ずきんと場所を替わります。「ニール警部、本当はこのスープの野菜や肉のひとつひとつを拾い上げて、あるものを探したいんじゃないですか?」
「何を言っている?」
「僕がそれを見つけてしまいました」
ぼろぼろの上着のポケットから、偽オリバーはそれを取り出しニール警部の前に見せました。ニール警部の目が、月のように真ん丸になります。それは、銀色に光る指輪でした。
「あなたと、女性の名前が書いてあります。エリザベスを吊るすときに鍋の中に落としてしまったんですね? 一度指輪を落とすとなかなか拾えないほど大きな寸胴を使ったジャック・ザ・ディッパーを、恨んだでしょうね」
ニール警部は指輪を見つめ、
「……どこにあった?」
乾いた声で訊ねました。偽オリバーはにこりと笑い、豆の木の上のほうを指さします。
「僕がこの地面から拾い上げたのなら、初めにここに来たときにうっかり落としたと言い逃れができるでしょう。でもこの状況なら、豆が成長を始める前にすでに寸胴の中にあった以外に考えられない。あなたは豆の木を上っていないのですからね」
彼の指の先を見上げ、ニール警部は小刻みに震えていましたが、やがて「はっ」と笑いました。
「はっ、はははっ、ははははっ!」
空を見上げ、唾を散らし、頬の肉を震わせます。
「雲を突き破る豆の木だと!? ロンドンめ、忌々しいほど不思議なことが起きる街だ!」
曇天の下に響き渡るニール警部の笑い声。ロンドンの空気は、そのけたたましい笑い声をすぐに吸収してしまうかのように、重苦しいのでした。
「証拠品です」
偽オリバーはグレゴリー巡査に、指輪を差し出します。
「あっ、ああ……」
グレゴリー巡査はそれを受け取りました。戸惑っていますが、やがて上司に声を掛けます。
「ニール警部。警部もわかっていたはずです、ジャック・ザ・ディッパーがスープにソーセージを使うことを。なぜ、ニワトリの肉を使ったのです?」
「君も知っているだろうグレゴリー。私と妻は共に、ソーセージ入りのスープが大好きなんだ。初めて妻が私のために作ってくれた料理だからね」
ニール警部は部下の顔を見て答えました。
「今後、夫婦の好物を食うたびにあの癇癪女のことを思い出さなきゃならないなんて、考えただけでも反吐が出る。夫婦にとって思い出の料理は大事だ。君も結婚したら、わかるよ」
「ええ……」
「ほら、何をしている」
両手をグレゴリー巡査の前に突き出すニール警部。
「君が連れていくんだよ。犯人を」
*
グレゴリー巡査とホレイショー警部補に連れられ、ニール警部はスコットランドヤードの馬車に押し込まれます。
「それじゃ、私たちは帰るとするかね。明日、出航だそうじゃないか赤ずきん。見送りに行くよ」
「ああ、さようなら」
バッサバッサと、ガチョウおばさんを乗せたミルは上昇していきます。それを偽オリバーと共に見送っていると、
「赤ずきんさん!」
グレゴリー巡査が手を振りながら再びやってきました。馬車は待たせたままです。
「どうしたのグレゴリー巡査?」
「今回の事件が解決できたのは君のおかげです、ありがとう。しかし……」
急に不安そうな顔になりました。
「ニール警部がいなくなってしまったら、私はどうしていいかわからない。赤ずきんさん、無理を承知でお願いします。ロンドンに残って、これからも一緒に事件を解決してください」
赤ずきんはにこりと笑い、
「嫌よ」
と言いました。
「私はお家に帰るの。私が手伝わなくても、ロンドンには優秀な探偵がいるわ」
そして、油断している偽オリバーの顎にさっと手を伸ばすと、めくれている皮膚の一部をつかみ、べりべりっ、と一気に剥がしたのです。
「あっ、いたたっ!」
顔の下からは、オリバーとは似ても似つかない、角ばった輪郭の目の細い顔が出てきました。
「君は、オリバーじゃない?」
グレゴリー巡査はびっくりしていました。
「グレゴリー巡査に自己紹介しなさいよ」
偽オリバーは不本意そうな顔をしていましたが、やがて観念したように、言いました。
「シャーロック・ホームズです。まだ十二歳だけど、兄の助けで探偵をしています」
「そうだったのか……シャーロック。改めまして、グレゴリー・レストレードです。また、難しい事件が起きたときには、協力を頼みます」
グレゴリー巡査は手を差し出しました。シャーロックは恥ずかしそうにその手を握ります。なんだか歴史的な握手を見ているようだわ、と赤ずきんは胸が温かくなりました。
エピローグ ロンドン最後の夜に
さて、ジャック・ザ・ディッパー事件が完全に解決したその夜のこと。
スコットランドヤードが用意してくれたレストランで、赤ずきんとシャーロックは食事をしていました。二人では大きすぎる個室に丸テーブル。並んでいる料理は、カブのサラダにキノコのシチューにポテトに鶏の丸焼き。それに、黒焦げの、カボチャのような野菜。
「グレゴリー巡査も来ればよかったのにね」
「しかたないさ」黒焦げの野菜を切り分けながら、シャーロックが言います。「犯人を捕まえたら取り調べをしなきゃいけない。つまらないだろうけど大事な警察の仕事だよ。はい、君の分」
赤ずきんの皿に載せられたのは、握りこぶしぐらいの大きさの、どす黒い塊でした。
「これ、種じゃないの? 食べられるの?」
「食べられなさそうなところを排除していったとき、最後に残った部分が、食べられるところなんだよ。たとえどんなにそれが、不味そうであってもね」
「なんか名ゼリフっぽく聞こえるけど、これ絶対に食べられないわ」
そのとき、ウェイターさんが「失礼します」とやってきました。
「赤ずきん様にお客様がいらしています」
「お客様? 通していいけど」
やがて、廊下の向こうからくふ、くふふという声が聞こえてきました。
「やあカップケーキちゃん」
「うわ、美味しそうなの食べてる。私も座っていいかしら?」
ドッジソン教授とアリス、そしてもう一人、ずいぶん背の高い金髪の男性が入ってきます。
「私の計算によると、やっぱり明日の夜、虹の霧が海の上に出るのは間違いなさそうだね。くふ、くふふ。朝六時にロンドン橋近くの桟橋を出てテムズ川を下れば、夕方六時にはマンチェスターに着くだろうね。そこから海に出れば、じゅうぶんに間に合う」
「お家に帰れるのね」
「あー、キノコだわ、これ」
すでにシチューを食べようとしているアリスが、しかめ面をしました。
「私、あれ以来、キノコ苦手なのよね。体の大きさが変わっちゃいそうで」
「大丈夫よ、ここは夢の国じゃないんだから。ところでドッジソン教授、そちらの人は誰?」
「私の古い知り合いさ。もともとは船医だったが、今は自分の船で商売をしている。明日、君を乗せてくれるんだよ、カップケーキちゃん」
「まあ、そうだったの。早く言ってよ!」
赤ずきんは飛び上がり、その男性の前に進みました。そして、お辞儀をして挨拶をしたのです。
「こんばんは。私、赤ずきんよ。どうぞ私を船に乗せて、虹の霧のところまで連れていってください」
「承知しました、赤ずきん」
金髪の男性は柔らかな微笑みを浮かべました。
「私の名前は、レミュエル・ガリバーです。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
丁寧な挨拶を返してくるこの男性との出会いが、新たなる冒険の始まりであることを、赤ずきんはまだ、知るはずもないのでした――。