北風と太陽
6.
先ほどまで晴れていたのに、空は一面、黒い雲に覆われています。
ごごごぅ、ごごごぅ──!
こちらを向いて直立している銀色のコートのイソップ。その背後の空に、白い煙のようなものが渦巻いていました。その中に、太い眉とぎょろりとした目が見えます。岩のように大きく丸い鼻、不揃いの歯……醜い大男の顔でした。
「出たわね、北風」
赤ずきんは立ち上がり、ずきんが飛ばされないようにしっかり押さえました。
「イソップよ、その者たちは不実を犯した」
白煙の中の男が言葉を出すたび、寒風が吹きつけてきます。
「よもや忘れたわけではあるまい。お前の父親を騙し、両親を死に追いやった不実な商人のことを」
ぎぎ、ぎぎぎぎ……イソップもまた左手でコートの首元を押さえ、目を剥き、歯を食いしばっています。
そして、絞りだすようにつぶやきます。
「ふ……じ……つ……!」
「正しい人生には正しい教訓が必要だ」
「きょ……う……くん……!」
「不実な者には相応の報いを与えねばならん」
「む……く……い……!」
ごごごぅ、ごごごぅ──
邪悪な寒風が吹く中、イソップは右手を頭の上に掲げます。その手に、氷の塊が生まれました。
「そうだイソップ! 正しき行為を遂行するのだ!」
北風がイソップを鼓舞するように言います。
「た……だ……し……き……!」
「正しくなんかないわ!」
赤ずきんは、イソップとその後ろの北風を睨みました。
「あなたの中にあるのは正しい教訓なんかじゃない。過去への執着と、行き場を失った醜い復讐心よ!」
「ふぐっ!」
イソップの手の中の氷塊が、地に落ちて砕けました。
「騙されるな、イソップ」
北風はなおもイソップをあおります。
「この赤き少女は、お前に悲劇を与えた者と同じだ。言葉で人を弄し、騙し、甘い汁を吸う。この者に、報いを……」
「む……く……い……!」
イソップの銀色のコートが、ギラリと光ります。それはこの世全体の不実に向けられた憎しみの光でした。
ごごごぅ、ごごごぅ───!
強い風が吹き、赤ずきんはまた吹き飛ばされます。その腕を、ぐいっとロリヒがつかんでくれました。
「赤ずきん、こりゃダメだ。敵いっこない」
「一度、退散しましょう」
鳥の羽のコートの襟元を顔まで上げ、メンデスが情けない声を出しました。
「大丈夫よ」
赤ずきんは両足を踏ん張り、北風に向かって言いました。
「愚かね、北風。あなたがむかしむかし、太陽に負けて封じ込められたのがよくわかるわ」
「なに?」
「そしてあなたはまた、同じ方法で負けるの。憎しみのコートを脱がす方法は、一つしかないわ」
「私を愚弄するのか」
「イソップ!」
赤ずきんはイソップの目をまっすぐ見据えました。
「私は、あなたを、許すわ」
イソップは不思議そうに赤ずきんを見ています。
「この国で私に優しくしてくれたみんなを、あなたは凍らせてしまった。そればかりか、この港町を凍らせたから私は船に乗れなくなった。今だって寒くて死にそうよ。だけど……それを全部、私は許すわ」
「ゆ……る……す……」
「そうよ。ねえ、みんなも、そうよね」
「ああ。君を許すよ」
デンドロが言います。
「俺もだ。お前を憎くてしょうがないが、忘れよう。許す」「私もよ。イソップさん。あなたを許す」
ロリヒとメンデスも続きます。するとどうでしょう。イソップの白い肌に、赤味がさしてきたのです。
「騙されるな、イソップ!」
北風が叫びますが、吹きつける風はさっきまでよりだいぶ弱くなっています。それどころか、どうでしょう。空を覆っていた雲が、四方に流れ、晴れ間が見えてきました。
「あなたは真面目な人よ。私はあなたを許すから、今後はその真面目さを、過去への執着ではなく、未来のために使うのよ」
「……暑い」
イソップはつぶやき、コートのボタンを外しました。
「やめろイソップ、こいつらは……」
「暑い。暑い暑い暑い。こんなコートなど着ていられない」
次々と外されていくボタン。
「やめろ、やめろやめろやめろ」
北風の声は小さくなっていき、その姿もだんだん薄くなっていきます。
「やめ……」
どさりと、その銀色のコートが石畳に投げ出されると同時に、北風の姿は見えなくなっていました。
がくり……イソップは石畳に膝をつき、空を見上げます。
「ゆるす。ゆるす」
呪文のように彼が二回言うと、その周囲の氷が解けていきます。空にはすでに雲はなく、太陽がキラキラと輝いています。
「ゆるす、ゆるす、ゆるす」
イソップは呆けたように、何度も何度も口にしています。それは、人生にいちばん必要な教訓を忘れまいと、何度も復唱する子どものように、赤ずきんには見えました。
終章 さらば、ピリーウス
午後三時、ピリーウスの町は活気にあふれています。人々は食品売り場で買い物をし、荷物を載せた台車を押す人々が「どいたどいた!」と言いながら走っていきます。帽子売り場の前では若い女性たちがきゃっきゃと笑い、居酒屋の前では陽気なおじさんが太鼓を叩きながら笑っています。
「つい一時間前まで凍っていたっていうのに、いい気なもんだぜ」
ロリヒが辺りを見回しながら言いました。
「いいじゃない。町はやっぱりこうじゃなくちゃ」
赤ずきんは上機嫌です。なんて言ったってもう少しで、家に帰る船に乗れるのですから。
イソップを負かしてからすぐに、「私は次のコンテストの準備があるから」とかささぎのメンデスは三人に別れを告げ、消えていきました。赤ずきんは男二人とともに、デンドロの友人の経営する船会社に行きました。ミングスというその経営者は、赤ずきんの置かれた状況を知るや同乗して、「ちょうど今日の四時にコマルセイユ行きの船を出すつもりだ。それに乗っていけ!」と威勢よく言ってくれたのでした。
赤ずきんたちは約束の時間に合わせ、運河沿いの道を歩いているのでした。
「おっ?」
向こうからひょこひょこやってきた背の低い男の人を見て、デンドロが手を上げました。
「子犬のプルッタス。どこへ行くんだ」
「う、う」
薄汚れたジャケットを着て、無精ひげを生やしたその男性は、顎をくいっくいっと動かします。両手を布で固定していて、首には小さな箱がぶら下げられています。
「向こう? ああ、薬の配達に行くんだな?」
こくこくと男性はうなずきます。
「気をつけてな」
男性は「う」と返事をして、ひょこひょこと去っていきました。
「薬屋の小間使いをしている男なんだけど、生まれつき声が出せないのさ。おまけに先月転んで両手を骨折したらしくて、今はああやって首に薬をぶら下げて配達しているんだ」
デンドロは言いました。
「『子犬の』ナントカって言ってたけど?」
「ああ、あいつ犬っぽい顔立ちをしているだろ? グリース国では、人間でも動物の名前をつけて呼ぶことが多いのさ。あだ名ってやつだな」
そういえば、「かささぎのメンデス」もそうだわね、と赤ずきんは思いました。
「お前はさしずめ、『なまずの赤ずきん』だな」
「誰がなまずよ!」
「おい、港が見えてきたぞ」
デンドロが指さす先、大きな帆船がありました。力強そうな男性たちが木箱を次々と積み込んでいる中に、さっき会ったミングスがいました。
「ミングスさん、コマルセイユまでお願いします」
改めて挨拶をすると、「おお」と赤い手拭いを頭に巻きながら彼は笑いました。
「もうそろそろ荷を積み終わって出航だ。乗り込んじまっていいぞ。あ、そうそう……おい、こっちに来いよ」
そばの柱のところで背中を丸めていた青年に声をかけ、ミングスは手招きをしました。彼はやってきて、人見知りっぽい感じで赤ずきんを見ています。出っ張った前歯が特徴的な顔でした。
「こいつも一緒に乗せていくことになった。途中、イコノス島っていう農村ばかりの島に下ろすんだ」
「こんにちは。私は赤ずきん」
「ああどうも。僕はミュルトス。『ねずみのミュルトス』ってみんなは呼ぶよ」
たしかに、出っ歯がねずみのようでした。
「二人とも、乗り込んじまってくれ」
ひょこりとミュルトスはお辞儀をして、桟橋と船に架けられた渡り板を歩いていきます。赤ずきんは、デンドロとロリヒを振り返りました。
「それじゃあ二人とも、ここまでありがとう。できれば、ジャコモとライラスに会って、解凍されていることを確認してほしいわ」
「任せてくれ」
デンドロが胸に手を当てました。
「ロリヒ。もう嘘をついちゃだめよ」
「そうだな。少しは真面目に働こうか」
がははと笑うロリヒ。二人とも、束の間だけど仲間だったのだわ──そう思うと、赤ずきんの胸にも寂しさが押し寄せてきます。
しかし、ハッピーな別れに涙は似合いません。赤ずきんは軽く手を振り、渡り板を歩いて甲板に立ちました。先に船に乗っていたミュルトスが手すりに凭れてピリーウスの街並みを眺めています。赤ずきんも隣に立ち、桟橋でこちらを見ているデンドロとロリヒにもう一度手を振りました。
「家がいっぱいあるなあ。慌ただしいところだよ、ピリーウスは」
赤ずきんにだけ聞こえるような声で、ミュルトスは言いました。その視線の先には、赤や黄色、青に緑、色とりどりの建物の屋根が見えました。
「活気があっていいところだと思うけど」
「いやあ、僕はやっぱりのんびりした農村がいいや。チーズをちょろまかしても誰にも咎められない。おかしな犯罪の証拠だって覗かなくてすむ」
「犯罪の証拠?」
「ああ……君にだけ教えるよ。あの赤いとんがり屋根の建物、あるだろう?」
ミュルトスが指さす先には、たしかにそういう建物がありました。
「あそこは貿易商の倉庫なんだ。ピリーウスに来た夜、僕は幼なじみのテラートとあそこに忍び込み、チーズをつまみ食いしていた。そうしたら持ち主がやってきた気配がしたんで、奥の壁にあいていた穴から、隣の部屋に逃げ込んだんだ」
どこかで聞いたような話です。
「そしたらそこに、何があったと思う?」
「何があったのよ?」
「大量のハンドスパイスさ。僕だって新聞を読んでいるからね、それが何を意味しているかわかったよ。一時的に保管していた倉庫からあのとんがり屋根の建物までは、細い運河がある。きっと当局の目を盗んで運び出したに違いないさ。ほとぼりがさめたらあれで儲けるつもりなんだろうけど、見つかったらただじゃすまないよね」
面倒ごとは苦手だからあえてタレコミはしないけどさ、とミュルトスは両手を頭の後ろに回します。
ハンドスパイスはそんなところにあったのね……と思うと同時に、激しい違和感が頭の中を満たしていきます。ミュルトスが言った建物のとんがり屋根は、真っ赤です。
だけど昨晩、ベットさんの家に現れたねずみは「屋根が黒かった」と言わなかったでしょうか。
あのねずみには、そんな嘘をつく意味がありません。だとすれば……
頭の中で、小さな疑問が繋がっていきます。そして、ばちん、と赤ずきんの目の前に雷が落ちたようになりました。
「それじゃあ出航するぞ、渡り板を上げろーっ!」
甲板に渡ってきたミングスが合図を出してました。
「待って、待って!」
「なんだ、どうした、赤ずきん?」
「私を見送りに来たあの二人に言い忘れたことがあるの。二人を、ここへ呼んで!」
ミングスは顔をしかめます。桟橋に残された二人も、何事があったのかと、赤ずきんの顔を見つめていました。
*
ピリーウスの町に夜が訪れました。
空は黒いキャンバスと化し、星はグリース国の神話の登場人物たちを描いているのでした。
北風の暴虐に満ちた教訓の消えた地上では、人々が安らぎを抱きながら眠っています。ですがその平和の静寂の一角を、ガタガタ、ガタガタという音が乱していました。
ロリヒはデンドロと肩を寄せ合い、その音を聞いていました。
この壁の向こうに、やつがいるのです。
やがて、ガタガタという音はやみました。ロリヒは息をひそめて様子を窺います。
出入り口からゆっくりと出てきたのは、一台の台車。その上には布に包まれた大きな荷物が載せられています。台車を引いているのは、スリムな人影です。
「おい」
声をかけると、その人影はびくりとして止まりました。辺りが一瞬にして、昼間のように明るくなります。隠れていたピリーウス警察の面々が、一斉に手に持ったランプに火を入れたのでした。
「ロリヒ……」
出てきた人影──かささぎのメンデスは、黒く縁どられた目を大きくしてロリヒの顔を凝視しています。
「あなた、どうしてここに? そして、この人たちは何?」
「メンデス、お前はどうしてこんな時間に叔母の店に入り込んでいる?」
相手の質問に、ロリヒは質問を返しました。
「わ、忘れものを取りに来たのよ」
台車を持つメンデスの手が震えています。その上の、袋詰めにされた大きな荷物も。
「メンデス、お前の左肩にはどうして、黒くて丸い房飾りがついてないんだ?」
「えっ? どこかで落としたんじゃないかしら」
「それじゃあ」
ロリヒはメンデスに人差し指を突きつけます。
「お前の犯罪計画は、どうしてそんなに杜撰なんだ」
「はい? え、あ、何?」
「お前、叔母を殺しただろ。……かかれっ!」
ピリーウス警察の面々が台車の上の大きな包みにとびかかります。
「やめて、それは私の大事な荷物っ!」
その肩を、ロリヒは抑えました。
「ああ、ああ……!」
メンデスが嘆く前で、警察官たちが包みを開いていきます。
やがて中身が見えたとき、彼らは「うっ」と顔をしかめました。
かっと目を見開き、歯をむき出しにした、やせこけた老婆だったのです。細い腕は茶色く、まるで木の枝のようでした。
顎から胸にかけて血がこびりついたその死体を見下ろしながらロリヒは、夕方、出航前の船の甲板に上がってこいと言われたときのことを思い出していました。
*
「まず初めに怪しいと思ったのは、店の売り上げがなかったことよ。会計袋の中は空っぽだった」
デンドロとともに甲板に上がっていくと、赤ずきんは二人を近くに呼び、声を潜めて言いました。
「俺たちに会う直前にメンデスが盗んだんじゃないのか?」
「イソップがピリーウスの町を氷漬けにしてしまったあとだというの? それだったら会計袋の中にお金も凍り付いちゃって取れなかったはずよ」
「ああ、たしかに」
ロリヒは、デンドロがカウンターにへばりついた新聞紙を爪で剥がそうとしている光景を思い出しました。
「しかしそれならいつ盗んだっていうんだ?」
「決まってるじゃない。イソップがピリーウスを凍らせてしまった十日の午後六時より前。おそらくはその日の昼よ」
どういうことだと首をひねるロリヒたちの前で、赤ずきんは指を二本立てます。
「次に不思議だったのは、魚よ」
「メンデスが蹴飛ばして、俺たちがその後食った、ガーフィッシュのことか」
赤ずきんはうなずきます。
「メンデスの叔母さんの家は雑貨屋なのよ。どうして魚があるの?」
「叔母さんはあの店で飯を食うのが普通だったんだ」
「パンとか瓶詰めとかそういうものばかりだったはずよ。生の魚をそのまま食べるなんてことはなかったんじゃない?」
「たしかに。じゃあガーフィッシュは?」
「凶器よ。初めて見たとき、尖った口の先が赤かった」
こともなげに赤ずきんが言うので、ロリヒはのけぞりました。隣でデンドロは口をあんぐりと開けています。
「お前、何を言ってるんだ?」
「メンデスは以前から叔母さんにお金を無心していたのでしょう。ところが、度重なる無心に我慢できなくなった叔母さんはお金を貸してくれなくなった。そこでメンデスは叔母さんが強盗に殺害されたように見せかけ、店の売り上げを盗むことにした。凶器に選んだのが、先端が鋭く、ナイフのようになっているガーフィッシュだったのよ」
「魚をナイフ代わりに使ったというのか? どうして刃物を使わなかった?」
「メンデスは刃物恐怖症でしょ」
昨晩、ベットさんの家でロリヒが使っていた鉈を嫌がっていたことを思い出します。
「叔母さんを奥の部屋で刺したメンデスは、盗んだ金と凶器のガーフィッシュを持ち帰ろうとしたところでお客さんの声がしたの」
「水玉のばあさんか」
デンドロが言います。
「そう。背後の部屋で叔母さんが刺殺されていて血まみれのガーフィッシュを持っていたら、さすがに怪しまれるわ。メンデスは素早く扉を閉め、ガーフィッシュをカウンターの内側に落とし、おばあさんを出迎えた。都合の悪いことに、おばあさんは、家まで鉄鍋を運んでほしいと言う。で、メンデスはそのままピリーウスに戻らず外で一晩明かすことにしたのね」
「死体を放っておいてか?」
「そうよ。夜になって店じまいがされていないことを不審に思った誰かがカウンターの奥の扉を開けて叔母さんを発見すれば、強盗が殺したように見える。下手に戻るより、町の外で平気な顔ですごしていたほうが怪しまれないと思ったんでしょう」
「なるほど」
感心するデンドロの横で、「信じられんな」とロリヒは首を振りました。
「全部お前の妄想だろ? 叔母さんが殺されたなんて」
「目撃者がいるわ」
「誰だよ」
「ねずみよ」
「ねずみって、俺がしゃべったあのねずみか」
「そうよ。あのねずみは、友だちのねずみに誘われて倉庫でチーズを食べていたら、人間の気配がしたのであわてて壁の穴から隣の部屋に逃げ込んだ。そうだったわね?」
「そうだ」
ロリヒはうなずきます。
「そこで彼はハンドスパイスを見たと言ったのよね。布の下から突き出た『細いもの』。手が丸い実をつかんでいるようだった、と」
「そのとおりだ」
「それは本当にハンドスパイスだったのかしら? 痩せたメンデスの叔母さんの死体だったんじゃないの?」
「馬鹿なことを言うな!」
「あのねずみは、その『細いもの』を見る直前、貿易商の倉庫に忍び込んでチーズを食べていたのよね? あそこは一つの建物に二つ横並びで店舗が入っている。右がメンデスの叔母さんの店で、隣は倉庫だったわ」
「ねずみが忍び込んだのはその倉庫だっていうのか?」
「あっ」
デンドロが額をぺちんと叩きました。
「そうだ。前にミングスと一緒にチーズを買いに行ったとき、あの倉庫に入ったことがある。倉庫の奥の右奥の壁、小さな穴が開いていたぞ」
貿易商から逃れ、ねずみはその穴から雑貨屋の小部屋に逃げ込んだ。そして、布の下から覗き見えている叔母の手をハンドスパイスと見間違えた──その光景が、ロリヒの頭の中にも描かれました。
「メンデスは昨日になって、叔母さんの死体が発見されていないかを確かめるため、ピリーウスを訪れた。ところがそこに広がっていたのは変わり果てた町。イソップがピリーウスをブリザードで凍らせてしまったのね」
凍り付いた扉は開かなくなり、死体はそのままになってしまった。せめて凶器の魚を処分しようとしたところ、広場のほうで声が聞こえたので出てみた──。
「あっ!」
ロリヒはあることを思い出して叫びました。
「俺が肉や野菜をそこらの店から持っていこうと提案したとき、『盗みは不実だ』と初めに言い出したのは、メンデスだったな。それで、叔母の店にあった食材を持って行ったんだ。あれは……凶器を隠滅する目的があったのか」
「そういうことよ」
赤ずきんは同意しました。
「ロリヒ、デンドロ、メンデスはきっとこれから叔母さんの死体の処分を実行に移すはず。人目につきにくい深夜が怪しいわ。あなたがた、ピリーウス警察に今の話をして、メンデスを捕まえるのよ」
「俺たちが? お前も一緒に来いよ」
「おかしなことを言わないで」
赤ずきんが両手を肩のあたりに上げました。
「私はようやく、帰れるの。グリース国の事件は、グリース国の人たちが解決するのよ」
「おーい、そろそろ出航だーっ!」
船長が両手を口のそばに添えて叫びました。
「そろそろお別れよ。最後に、いちばん大事なことを言うわね」
赤ずきんは早口になっています。
「メンデスの罪を告発するとき、必ず、人差し指を突きつけてこう言うのよ。『あなたの犯罪計画は、どうしてそんなに杜撰なの?』──ってね」
「お前それ、シャビースにも言っていたな。なんなんだよ、いったい」
「本当に本当に、もう出航するぞーっ!」
ミンガスが赤ずきんたちのそばで叫んでいます。
「いい? 絶対よ! わかったら船を降りて。ほらほら早く」
赤ずきんに急き立てられ、ロリヒとデンドロは桟橋に追いやられました。
「おい赤ずきん、本当に死体はあるんだろうな?」
渡り板が引き上げられるとき、ロリヒは確認しました。赤ずきんはそれには答えず、
「さようなら。あなたたちのことは忘れないわ」
と、手を振るだけです。
「赤ずきん!」
「おい、赤ずきん!」
いたずらっぽくて、ちょっと知的なその女の子を乗せたその船は、白い波を残し、どんどん小さくなっていくのでした。
*
「ねずみのやつが言っていた『黒くて丸いもの』というのは、これのことだったんだね」
ロリヒの横でデンドロが言いました。彼の視線の先にあるのは、やせこけた叔母さんの右手。黒くて丸い、房飾りが三つ握られています。
「お前に殺されるときに、服からもぎとったんだろうな」
「叔母さんが悪いのよ……」
メンデスは声を震わせます。
「私はいつか、この美貌で億万長者になるの。その先行投資よ。いくら私にかけたって、惜しくないじゃない」
「身の丈に合った生き方をしないと、不幸になる。そういう教訓だろ」
「教訓! そんなのが人を幸せにするっての? 教訓! 窮屈! まっぴらよ、教訓なんて!」
くっ、くくく、とメンデスは涙を流しながら笑いました。
「ねえデンドロ、昨日の夜、あなたが赤ずきんに『北風と太陽』を語って聞かせているとき、私も起きていたのよ。厳しさより寛容さのほうが、ことを上手く進められる──あなた、そう言ったわね? 私に大して寛容さはないの?」
「殺人者には厳しさだけ」デンドロはぴしゃりと言いました。「これが、赤ずきんからの最後の伝言さ」
「来い!」
ピリーウス警察の面々が、わめきたてるメンデスを引っ張り、叔母さんの死体を運んでいきます。
「すごい女の子だったね、赤ずきんは」
遠ざかっていくランプの光を眺めながら、ロリヒの隣でデンドロが言いました。
「出会わなかった死体の謎まで、解いていった」
へっ、とロリヒは笑います。
「あいつの話は俺たちが語り継いでいかなきゃいけないな」
「赤ずきんの話か……その話の教訓はなんだい?」
「決まってるだろ。『杜撰な犯罪ならしないほうがマシ』だ」
ふ、ふふふ、とデンドロも笑いはじめました。ロリヒはさらに続けます。
「それでも死体を増やそうという犯罪者どもがいたときには、俺が叫んでやるよ」
そして天を仰ぎ、オオカミが吠えるように大声を出したのです。
「赤ずきんが、来たぞ──っ!」
デンドロもまた、叫びます。
「赤ずきんが、来たぞ──っ!」
二人の声はピリーウスの星空にいつまでも響いているのでした。