北風と太陽
2.
「今から一週間前のことです。ピリーウス沖七キロにあるサンゴ礁で、一艘の商船が座礁しました。それは遥かアジアからの積み荷をピリーウスよりさらに北のケサロニキに運ぶ船でした。ピリーウスの漁師協会はすぐに助けの船を出しました。幸い船は座礁しただけで乗組員と積み荷はすべて無事でした。乗組員は病院へ。積み荷は一時的にピリーウスの倉庫に収容されたのです」
「知ってるわ」赤ずきんは腕を組み、強気な感じを出して言いました。「さっき、新聞で読んだもの」
本当はデンドロが読んでいるのを聞いていただけですが、まあいいことにします。
「積み荷はすべて持ち主に返されたのでしょ?」
「いいえ」
イソップは首を横に振ります。
「持ち主に返されたのは引き上げられた翌日。その時点で、四十箱のハンドスパイスが倉庫から消えてしまっていました」
「さっきから言っているハンドスパイスって何のこと?」
「香辛料の一種よ」
いつのまにかそばに来ていたメンデスが耳打ちしました。
「肉にまぶしてうま味を出したり、保存がきくようにするの。南方のほうでしか採れないからとても高価なのよ」
「なんでハンドスパイスなんて名前なのよ?」
「枝が、人間の手によく似ているからさ」
デンドロが説明します。
「黒い実が三つ、その掌に握られるように実るんだ」
「へぇー」
「ピリーウス警察はただちに、町の中を捜索しました」
何事もなかったかのように、イソップは先を続けます。
「ピリーウスから海路・陸路の双方に検問を張りましたがスパイスが出ていく様子はありません。私はこの不実な状況を察知し、ピリーウスにきて町の者を広場に集めて質したのです。『スパイスを盗んだものは誰か。四十八時間以内に名乗り出なければ不実の報いが与えられるだろう』──四十八時間はすぐに経過しましたが、名乗り出る者はいませんでした」
そこでイソップは一度言葉を切って言いました。
「この町は不実です」
「そんな!」
「町全体が不実なのです。私の北風の力をもってすれば、こんな不実な町に相応の報いを与えることなどたやすい」
「ちょっと待ちなさいよ。スパイスを盗んだ人がいるとして、それはこの町の一部の人間でしょ? 無実の人だってたくさんいるわ。それに、一生懸命やった警察の人まで凍らせるなんて」
「残念なことですが、グリース国から不実を撲滅するにはこれしか方法がありません」
「おかしいじゃない!」
食ってかかろうとする赤ずきんでしたが、ロリヒに腕をつかまれました。
「やめとけって」
赤ずきんは少し、冷静になりました。ですがこのまま引き下がるわけにはいきません。こほん、と咳ばらいをして、再びイソップのほうに顔を向けます。
「イソップさん。もしこのピリーウスにスパイスが隠されていなかったら、どうするつもり?」
「そんなわけはありません」イソップは冷たく言い放ちます。「一度は倉庫に引き上げられたのですから」
「ピリーウスにないことを証明できたら、この町の氷を解かしてくれるわね?」
「証明、ですって?」
初めてイソップの顔に感情のようなものが浮かびました。赤ずきんの言葉がよっぽど意外だったと見えます。
「赤ずきんさん、この町にないことをどうやって証明するのです? ピリーウスは広い。すべての家の屋根裏や床下、船の甲板から船底などを探してなかったとしても、隠し場所は無尽蔵です」
「やってみせるわ」
赤ずきんは胸を張ります。
「おうちに帰るためですもの」
イソップはしばらく赤ずきんを見下ろしていましたが、
「いいでしょう」
とつぶやきました。
「ただし、できなかった場合は、虚言を弄した不実のため、ピリーウスの者と同じ運命を辿ることになりますよ」
「いいわ。私だけじゃなくて、この仲間の三人もね」
「えっ?」「おい」「はっ?」
ロリヒ、デンドロ、メンデスの三人が同時に声を上げました。そして、「巻き込むな」と騒ぎ出します。
イソップは右手を肩のあたりに上げると、そこに赤い塊が生まれました。それはぴゅうと時計台に飛んでいき、文字盤を溶かしたのです。針と日付表示がひとりでにぐるぐる動き、「11日・14時」を指しました。
「時間は二十四時間としましょう。あの時計が『12日・14時』を告げる時です」
「そんな、短すぎ……」
ごごう、という寒いつむじ風に、デンドロの言葉は遮られました。気づくとそこにはすでに、イソップの姿はありませんでした。
「赤ずきん! どういうつもりだ」
ロリヒがつかみかかってきます。
「まあまあ」
デンドロが割って入ります。
「赤ずきんは君ですら見破れなかった『オオカミ少年ゲーム』のイカサマを見破ったんだ。きっと何か考えがあってのことだよ。ねえ」
「いいえ」
赤ずきんは肩をすくめました。
「何も思いついていないわ」
「なんだって……」
絶句するデンドロでした。
「とにかく、おなかがすいちゃったの。何か食べるものを探しましょう。それを持って町を離れて宿を探すのよ。凍り付いた建物なんかじゃ、寒くて眠れないもの。その宿で、作戦会議よ」
赤ずきんの提案に、デンドロは唖然としています。ロリヒはやれやれというように頭を振りました。
「ま、こんなときだから肉も野菜もそこらへんの店から簡単に手に入るしな」
「いけないわ」
ばさっ、と鳥の羽のコートの襟を抱き寄せるようにして、メンデスが顔をしかめます。
「それは盗み。不実な行為よ」
「あ……」
「私の叔母の店に戻りましょう。何か食べ物があるはずよ。身内のだから、持っていっても盗みにはならないはず」
「なるほど、頭がいいわ」
赤ずきんは手を打ちました。
「そういえばさっき、凍った魚も落ちていたわね」
赤ずきんのその言葉には答えず、メンデスは身をひるがえして雑貨店への道を歩きはじめていました。
3.
メンデスの叔母は店の奥に住んでいるそうですが、扉が開かず奥に入ることができません。しかし、店先で食事をすることがあるということで、カウンターの内側には空っぽの会計袋と食料の入った箱がありました。パンが一塊に、ジャガイモとリンゴが二つずつ、カブも二つ、肉の瓶詰が三つでした。
「これも持っていこうじゃないか」
メンデスが拾い上げたのは、床に転がっていた三十センチほどの魚です。先ほど、彼女自身が蹴飛ばさなかったかしら、と思いながら赤ずきんは訊ねます。
「なんなのその魚?」
「ガーフィッシュさ」
「ずいぶん顔の先が尖っていて武器みたい。怖くて食べられないわ」
「たしかに、網から下ろすときにうっかり触って怪我をする漁師もいると聞いたことがあるね」デンドロが笑います。「そいつの口の先にも血がついてるじゃないか」
「大丈夫よ、これは魚の血だわ。こう見えて、美味しいんだから」
メンデスは笑いました。
「美味しいならいいけど……」
赤ずきんは信用できませんでしたが、これ以上反対していてもしょうがありません。
四人は食材を手分けして持つと、ピリーウスの外に宿を求めて歩き出しました。
凍っている地域から出て十分ほど寂しい一本道を歩いたところで、向こうから腰の曲がったおばあさんが歩いてきました。黒檀の杖をつき、上着もズボンも青い水玉模様という派手な格好でした。おばあさんはメンデスの顔を見て、
「おやおや」
と立ち止まりました。
「昨日は助かったよ」
「どうも」
メンデスはどこかよそよそしい態度でしたが、おばあさんの口は止まりません。
「何せ息子が孫を五人も連れてくるっていうんで、急遽、大きな鍋が必要になったのさ。昔から贔屓にしている店に行ったら、あんたが店番してたんだ。好都合だったねえ。親切に郊外のうちまで鉄鍋を運んでくれて」
どうやらこの水玉のおばあさんは、メンデスの叔母のお店のお客さんのようです。
「メンデス、昨日の昼間、店番してたの?」
赤ずきんは訊ねます。
「ちょっと用事があるからって、そのときだけよ」
「そうかいそうかい。そのときにお店に行けてよかったよ。今日もこれからピリーウスに買い物に行こうと思ってね」
「ピリーウスは今、凍り付いているわ」
「えっ?」
メンデスは手短に、ことのいきさつを説明しました。
「なんとまあ……買い物ができないんじゃ仕方ない、帰るとするかね」
「おばあさん」赤ずきんは帰ろうとするおばあさんを呼び止めます。「私たち、宿を探しているの」
「あいにくうちは孫が五人も来ていてね……」
「おばあさんの家に行こうっていうんじゃないわ。どこかに空家はないかしら?」
「それなら、あの森の中に、炭焼きベットさんの家があるよ。ベットさん夫婦が亡くなってから、誰も住んでいないはずさね」
「それはいいわ、ありがとう」
水玉のおばあさんに別れを告げ、四人は森へと向かいます。
ベット夫妻の家は、古くてもしっかりした作りでした。ドアにカギはかかっておらず、難なく中に入れました。蜘蛛の巣がそこかしこに張られ、床には土埃が積もっており、もう何年も誰も足を踏み入れていないのは明らかです。
ロリヒは壁にかかっている鉈を見つけるや、すぐに古い揺り椅子を壊しはじめました。
「何をしているのよ?」
メンデスが咎めると、ロリヒは彼女を睨みつけました。
「薪を作ってるんだ。燃やすものがなけりゃ、料理だってできねえだろ」
「それをこっちに向けないで」
「あっ?」
「私は、刃物の光が苦手なの。私の目につかないところでやって」
「お前が背中を向けてろ」
ばきっ、ばきっとその後もロリヒは乱暴な手つきで揺り椅子を壊していくのでした。そのあいだ、デンドロはテーブルを掃除し、メンデスは持ってきた食材を並べます。
「赤ずきん、その鉄なべを洗って、水を汲んできてくれる?」
「はーい」
バスケットを椅子の上に置き、棚の上に置かれていた大きな鉄鍋に近づいていきます。びっちりと蜘蛛の巣が張られている状態でした。赤ずきんはそれを外に持っていき、木の枝で蜘蛛の巣を払ってから、家の裏にあった泉でごしごし洗い、水を汲んで戻ります。暖炉の鉄鉤にその鍋を掛けてテーブルを振り返ると、メンデスの叔母さんの店から持ってきた食材が並べられていました。
「おい、そのガーフィッシュもこれでぶった切るか?」
鉈を振りかざすロリヒに、「やめてって言ってるでしょ!」とメンデスが叫びました。
「こんなにカチコチになってちゃ無理よ」
「そうだなあ。斧でも歯が立たなそうだ」
デンドロが木こりだったことを、赤ずきんは今さらながらに思い出していました。
「そのまま煮込んじゃえばいいのよ」
「ちゃんと洗えよ。口に血がついてるんだからな」
「魚の血なんだから大丈夫って言ってるでしょ。ほらロリヒにデンドロ、早く火を焚いて」
「お前、なんでそんなに偉そうなんだよ」
文句を言いながらもロリヒは薪と化した揺り椅子を暖炉の中に並べます。デンドロがマッチを取り出して、それに火をつけました。ぼんぼんと、メンデスは鉄鍋に食材を放り込んでいきます。
初め、ガーフィッシュとかいう武器のような魚は鍋に収まりきらず、剣が鍋に突き刺さっているかのようでしたが、やがて温まってくるとぐにゃりとスープの中に沈んでいきました。
「何か味付けに使えるものはないかしらね」
赤ずきんはそう言って、戸棚を開けました。古臭いペッパーミルがあったのでぐりぐりと回してみましたが、何も出てきません。
「そんなペッパーミル、中身があったって使えやしないわ。叔母さんのところから塩を持ってきたからこれで我慢しましょう」
メンデスはすっかり、料理長のようでした。
──それからしばらく時間が経ち、外がすっかり暗くなったころ、家の中にはいい匂いが立ち込めていました。
「ああ、腹が減ってきた」
デンドロが鼻をひくひくさせました。
「そろそろいいわね」
メンデスは木の匙で鉄鍋の中身を器に取り分け、デンドロ、ロリヒ、赤ずきんの順に手渡していきます。
「いただきます。……ん、こりゃ美味い」
「本当だ。魚とジャガイモの相性が抜群だ」
デンドロとロリヒが揃って言うので赤ずきんもスプーンを取って口に運びます。
「うん、たしかに美味しい」
味付けには塩しか使っていないはずですが、魚がいい味を出しているのかもしれません。凍った魚を丸ごと煮込むなんて大雑把だと思っていましたが、大したものです。
「もっとくれもっとくれ」
「俺にもだ」
デンドロとロリヒはおかわりをし、魚はみるみる骨になっていきます。
「いい匂いだなあ」
聞きなれない声がしたのはそのときでした。
「えっ?」
声のしたほうを振り返った赤ずきんを、ロリヒ、デンドロ、メンデスの三人は不思議そうに見つめています。
「どうしたんだ、赤ずきん」
「今、そこで声がしなかった? 子どものような……」
「別に」
声のした方には、古びた麻袋が重ねられているだけでした。気のせいだったのかしら、と思っていると、
「僕にも分けてくれよ」
また声が聞こえ、麻袋がもぞもぞと動き、一匹のねずみが顔を出しました。そして、ちょろちょろと赤ずきんの前にやってきたのでした。
「それは魚かい? いいなあ。いいなあ」
「食べてもいいわよ」
器を床に置くと、ねずみはその煮魚をぴちゃぴちゃと音を立てて食べはじめました。
「ねえ赤ずきん、『ちゅうちゅう』ってねずみに話しかけるなんて、あんた変よ」
メンデスに指摘され、赤ずきんは状況を理解しました。ずきんについている虹色の羽を指ではじきます。
「これ、イーリス鳥っていう鳥の羽で、つけていると知らない言葉を自在に聞いたり話したりできるの。グリース国の言葉なんて知らないのにあなた方と話せているのは、そのためよ」
「ねずみの言葉もわかるというのか。おい、それを貸してくれ」
ロリヒは物珍しげに手を差し出します。本当は嫌でしたが、その太い腕を見て、機嫌を損ねると面倒そうだわ、と赤ずきんは思いました。黙ってイーリス鳥の羽を渡すと、ロリヒはそれを肩のあたりに取り付けました。
ちゅうちゅう、ロリヒはねずみの言葉をしゃべります。ねずみのほうも器から顔をあげ、何事かを話しているようです。赤ずきんはそれを横目で見つつ、パンをかじりながらイソップをやりこめる方法を漠然と考えていましたが、
「なんだって!」
突然ロリヒが、わからない言葉を叫んで椅子から転げ落ちたのでびっくりしました。
「どうしたの?」
問いただしますが、ロリヒは、デンドロやメンデスと意味のわからない言語でしゃべるばかり。それはそうです。赤ずきんは今、イーリス鳥の羽をつけていないので、グリース国の言葉は理解できないのです。
赤ずきんはロリヒの肩から羽を奪い、ずきんに戻しました。
「お、おい赤ずきん、このねずみ、つい昨日、ピリーウスの倉庫で見たらしいぞ」
ロリヒは焦っていました。
「見たって、何をよ?」
「ハンドスパイスをだ!」