ジャック・ザ・ディッパーを追え
5.
再び馬車に揺られ、赤ずきんとニール警部、それにグレゴリー巡査の三人は、ロンドンの大通りを、南へ南へと進んでいきます。
「〝お豆のジャック〟は今は五十歳ぐらいだが、ロンドンでは知らない者のいない名士だ」
ニール警部は、説明してくれます。
「ジャック氏が十歳のときだというから、四十年ほど前になるだろうかな。ジャック氏はロンドンを少し離れた農村で、母親と牛と暮らしていた。暮らしぶりは貧しく、ついに食べるものがなくなってしまったので、母親はジャック氏に牛を売って金に換え、パンを買ってくるように頼んだんだそうだ」
できるだけ高く売ってくるんだよ――母親は少年のジャック氏にそう言いつけましたが、ジャック氏は途中で黒い服を着た妙な男性に呼び止められたのだそうです。男性は言いました。
その牛と、この三粒の豆を交換しようじゃないか。
「牛と豆じゃ、全然釣り合わないじゃない」
赤ずきんが文句を言うと、「ジャック氏もそう思ったんだ」とニール警部は応じます。
「だが、その男はジャック氏に言ったそうだ。『これはそんじょそこらの豆じゃない。とても不思議な豆なんだ』。ジャック氏はついに、その豆を牛と交換した」
「そんなことをしたら、お母さんは怒るんじゃないの?」
「そうだ」
事の顛末をジャック氏から聞いた母親は怒って、豆を窓から放り投げてしまったのでした。
ところが翌日目が覚めて、ジャック氏と母親は仰天します。天まで伸びるほどの太い豆の木が生えていたのでした。少年ジャック氏はその木をぐんぐん登り、雲の上に達しました。不思議なことにそこには、一軒の大きな家が建っていたのです。
それは、恐ろしい人食い巨人の家でした。
「で、ジャック氏はなんだかんだあって、その家から金の卵を生むニワトリを盗んできたんだ」
なんだかんだの部分は気になりましたが、赤ずきんは口をはさみませんでした。ニール警部の口調には熱がこもってきます。
「気づいた巨人は豆の木を伝って追ってきたが、ジャック氏はいち早く地上に降り立つと、母親から借りた斧で豆の木を根元からぶった切った」
巨人は地面に真っ逆さま。首を折って死んでしまいました。
「それ以来、ジャック氏は金の卵を売って大儲け。大きな屋敷を立て、恵まれない家庭を支援する《豆の木財団》を設立するなど慈善事業も行い、ロンドンではちょっとした名士になっているんだ」
「ジャックという名は、ロンドンでは鳩と同じぐらいありふれていますからね。他のジャックと区別するため、彼は〝お豆のジャック〟と呼ばれているのです」
「なるほどね。それはわかったんだけど」
赤ずきんは胸騒ぎがしました。
「さっきの遺体のそばに生えていた巨大な豆の木は、その、お豆のジャックさんの豆なんでしょう?」
「そうに違いない。鍋の水を吸った豆が芽を出し、朝が来る前にこれだけ大きくなったのだろう。しかし、豆は屋敷の外には持ち出せないはずだ」
「ジャック・ザ・ディッパーはそれをどうにかして外に持ち出して、鍋で煮込んだということ?」
「それか」ニール警部は眉根を寄せました。「お豆のジャックが、事件に関与しているか……」
「慈善事業をしている人が、どうして連続殺人事件なんて起こすのよ? ジャックっていう名前はありふれているんでしょ。同一人物の可能性は低いんじゃない?」
「そうだろうがな」
「あっ」馬車から外を見ていたグレゴリー巡査が声を上げました。「編み物教室をやっていますね。あれ、警部の奥さんではないですか?」
見ると、道の脇に小さな家があって、そのテラスで婦人たちが六人ほど集まってレースを編んでいるのです。だいたいが二十歳ぐらいですが、一人だけ四十代後半らしき女性がいました。
「ああ、そうだな」
「赤ずきんさん、警部の奥さんは編み物の先生なんですよ」
「そうなの。のどかで楽しそうね」
「警部、挨拶していきましょうか?」
「いい。向こうも迷惑だろうからな」
「以前お話しされていた、文句ばかり言っている生徒さん、どうなりました?」
「さあ。最近は話を聞かないから、落ち着いたんじゃないのか?……おい、見えてきたぞ」
レンガの塀で囲まれた、立派な屋敷でした。馬車はその前で停まり、グレゴリー巡査、ニール警部に続いて赤ずきんも降りていきます。
立派な門についている呼び鈴を鳴らすと、お屋敷の門が開いて女性が一人出てきました。「こちらは〝お豆のジャック〟さんのお宅ですか?」
「ええ、そうですが」
ニール警部が事件のことを話すと、その女性が取り次いでくれ、三人は敷地に入ることを許されました。ところが、玄関には案内されず、屋敷をぐるりと回っていくのです。三人が通されたのは、中庭でした。
芝生が敷き詰められているその中央に、大きな茶色い切り株があり、そのそばで、五十歳ぐらいの男性と、灰色の背広を着た男性が、テーブルを挟んで談笑しているのです。背広の男性は丸々と太り、両手にチキンを持ってもぐもぐ食べながらしゃべっています。
大人かと思いましたが、肌のつややかさやあどけなさの残る顔が、まだ少年ぽくもありました。
「お豆のジャックさんですね?」
ニール警部が声をかけると、五十歳ぐらいの男性は立ち上がり、「ええ」と応じました。
「私はスコットランドヤードのニール警部。部下のグレゴリー巡査に、捜査を手伝ってもらっている赤ずきんです」
「こんにちは」
赤ずきんが挨拶をすると、お豆のジャックはにこりと笑い、三人に椅子を勧めました。
「さっそくなのですがお豆のジャックさん、ロンドン市内であなたの魔法の豆が芽を出したようで、ぐんぐん伸びてしまっているのをご存じですか?」
ニール警部が訊ねます。
「うん。今朝、九時に彼がやってきたときに、教えてくれたよ」
お豆のジャックは、背広姿の少年のほうを見ます。
「彼は?」
「マイクロフトといって、私の慈善事業の会計を担当してもらっている」
「初めまして、マイクロフトです」
少年はチキンを食べる手を止め、つやつやした顔に満面の笑みを浮かべて自己紹介をしました。
「失礼だが、おいくつで?」
「十六です」
若いとは思っていましたが、赤ずきんはびっくりしました。お豆のジャックがくすくす笑います。
「名門のビートン校に通っていて、計算は早いし、とにかく頭が切れるんだ。打算的なところがない分、大人よりもずっと信頼できるよ」
「はあ、そういうものですか」
「うん。……ところで豆の話を聞きにきたんだろう? 見てみなさい」
お豆のジャックは立ちあがり、茶色くなった豆の切り株に近づきます。赤ずきんたちもまた、そのそばに寄りました。
「知っての通り、これは私が少年のときに斧で切り倒したものだ。しばらくは青々としていたが、やがて茶色くなっていった」
「枯れてしまったのね」
赤ずきんが言うと、「いや」とお豆のジャックは首を横に振りました。
「ここをよく見なさい。新しい蔓が伸びてきているだろう」
お豆のジャックが指さす先を見ると、切り株の所々から白っぽくて細い蔓が伸びています。その先には、小さな鞘がついたものもあります。
「不思議な豆だよ。今でもこうして、実を実らせるんだ。ほら、そこにも、そこにも」
注意深く観察すると、蔓のあちこちに小さな鞘があるのでした。
「魔法の豆は水をたっぷりやると、一晩で天まで届く木に成長する。そんなことがあちこちで起きては大変だ。私は毎夕、この鞘を取っては、豆を箱に溜めておくんだ。こうやってね」
ぷちりともぎ取った鞘から豆を出すと、そばにあった木箱に放り投げました。
「あれを盗まれたらどうするのよ?」
「そうならないように、二、三日おきに、ガチョウおばさんに来てもらう」
妙な歌を歌うあのおばさんを、赤ずきんは思い出します。
「なんでガチョウおばさん?」
「魔法の豆は不思議でな、暖炉の中に放り込んでも燃えん。だから初めは鳥に食わせて処理しようと思ったんだが、そんじょそこらの鳥が食べても腹の中で消化されず、糞の中にそのまま出てくる。ところがほれ、あのミルという不思議なガチョウだけは、この豆を消化できることがわかったんだ。で、あやつに食べてもらうことにしたんだよ」
「昨日も来ましたね」お豆のジャックの言葉に、にこにこしながらマイクロフトが言いました。「うまそうに全部平らげていきましたよ」
「わかりませんな」ニール警部は顎に手を当てました。「ではその豆がどうして、この屋敷の外に? そして、殺人鬼のスープの中に入ってしまったのでしょう?」
「さあな」
「失礼ですがお豆のジャックさん」グレゴリー巡査が口を開きます。「昨晩はずっとこのお屋敷に?」
「ああ。最近はずっとそうだ。午後十時には眠り、今朝は六時に起きた」
「それを証明できる方は?」
「眠っているときのことを証明できる者などおらん。私を疑っているのか?」
お豆のジャックの顔が急に険しくなりました。ニール警部は攻勢をやめません。
「連続殺人鬼は『ジャック・ザ・ディッパー』と名乗っている。あなたの名前ですね。財力を手に入れて暇になった金持ちが変身願望を持て余し、夜な夜な女性を殺して回る――いかにもありそうなことです」
「いくらスコットランドヤードだからって、言っていいことと悪いことが……」
「ジェニーが証明してくれませんか」
疑わしげなニール警部と爆発しそうになるお豆のジャックの合間に、マイクロフトが呑気な声で割り込んできました。
「昨晩は鳴かなかったのですか?」
「ジェニーって誰?」
赤ずきんは訊ねました。
「私が子どもの頃、天の上の巨人の屋敷から盗んできたニワトリだ。えらいもので、四十年経った今でも生きていて、金の卵を産む」
「うそ! ニワトリが四十年も生きるなんて!」
赤ずきんは信じられませんでした。
「地上のニワトリとは違うんだろうな。しかしやはりここ数年は老いてきて、夜中に突然起きて鳴くようになった。そうなるともう、私が背中をなでてやるまで鳴きやまん。昨日は一回鳴いただけでちゃんと鳴きやんだ」
「近隣のお宅に聞き込みに行かれてはどうです?」マイクロフトが言います。「ニワトリが一度だけコケコッコーと鳴き、それ以降鳴くのが聞こえなかったという証言が得られれば、お豆のジャックさんがこの屋敷にいたことの証明になりませんか」
ニール警部は口を歪めて何も答えません。そのすきに、赤ずきんが言いました。
「でもそれだとやっぱり、どうやって現場にこのおかしな豆が運ばれたかの謎が残るわ」
「はは、今さっき、思い出したことがありますよ」
マイクロフトは愉快そうに笑います。
「僕は昨日のランチの時間もこのお屋敷にお邪魔しているのですがね、ちょうど農家のヘンリーがニワトリたちを引き連れて来ていましたね」
「農家の人がどうして来るの?」
「ジェニーのためだよ」ため息を吐き出すようにお豆のジャックが言います。「ありゃ、人間でいえばもうお婆さんで歩くのもヨタヨタしている。ところが、若いオスのニワトリの群れの中に放り込むと、とたんに元気になって、卵を産むんだ。だから、ヘンリーに頼んで、オスのニワトリたちを市場に持っていくときに立ち寄ってもらうことにしているんだ」
「ジェニーはあの小屋に住んでいます」
マイクロフトは、芝生の向こうにある赤い屋根の小屋を指さしました。
「あそこに二十羽ばかりのオスのニワトリを入れて、一時間ばかり放っておくんです。昨日、オスのニワトリの一羽が抜け出して中庭を走り回り、ヘンリーがハチミツの壺を持ったまま追いかけていましたね」
「ああ、そうだった。ヘンリーのやつ、ここらへんで転んで、ハチミツを盛大にこぼしたんだったな」
ふふふ、とお豆のジャックは思い出し笑いをします。
「私はここで食事をしながら見ていましたが、そのニワトリはヘンリーにつかまる直前、豆の木の根元をついばんでいたようにも思えます」
「なるほど……」
赤ずきんは合点がいきました。
「そのニワトリはそのあと、市場に持っていかれて捌かれた。ジャック・ザ・ディッパーはそのニワトリを買って、スープの具にした。お腹の中で消化されなかったお豆は、スープの水を吸って豆の木に成長した。自分が買った食材が、直前に不思議な豆を食べているなんてわかるわけないものね」
「現場にこぼれたスープの中に、ニワトリの骨が混じっていましたね」グレゴリー巡査が思い出すように顎に手を当てます。「市場へ行き、昨日の午後、ニワトリの肉を買った客について聞きましょう」
「そんな客、たくさんいるだろう」
ニール警部が顔をしかめると、
「もう一つ、気づいたことがありますよ」
フィンガーボウルで手を洗いながら、マイクロフトがニコニコしました。二つのチキンはすでに骨になり、皿の上に積まれています。
「ジャック・ザ・ディッパーの被害者の首には、毒針の跡があったといいましたね。暗闇で首筋に毒針を刺すなど、普通の人間にはできないのでは? 犯人は特別な技術を持った人間のように思えます」
「というと?」
「医者ですよ」
確信に満ちた声でした。ニール警部はグレゴリー巡査のほうをちらりと見て、再びマイクロフトのほうに目を向けます。
「まあ、参考にしておきましょう。ご協力ありがとうございます、マイクロフトさん」
「いいえ、礼には及びませんよ」
ひらりとハンカチを頭の上に掲げるマイクロフト。たしかに頭は良さそうだけれど、事件はこの人が考えているよりもう少し複雑なのではないかしら――赤ずきんはそう思うのでした。
6.
ニール警部の指示で、市場への聞き込みはグレゴリー巡査が任されることになりました。赤ずきんとニール警部は再びバイドパークに戻り、現場を調べます。死体はすでにスコットランドヤードに運ばれ、そこでサム技官が検視しているということでした。
見張りの警察官数人が警備をする中、ニール警部はやはり地面に這いつくばるようにして、丹念に何かを調べていました。泥で汚れてしまうのが嫌だからでしょうか、昨日していた薬指の指輪はありません。
赤ずきんはといえば、やっぱり気になるのは豆の木でした。雲を突き破って、この木はどこまで伸びているのかしら、と考えていたら、
「ニール警部! 赤ずきんさん!」
市場へ行ったグレゴリー巡査が走ってきたのです。
「どうした、何かわかったか?」
「昨日の夕方、ニワトリの肉をまるごと一羽ぶん買った客の中に、女性の医者がいたんです。ガイーン病院の、フローリィ院長ですよ!」
ニール警部の目が、ぎらりと光りました。
三人で連れ立ってガイーン病院に着いたのは、午後一時でした。フローリィ院長は診察室にいるということなので行ってみると、そこには膝から血を流した少年と、彼に治療を施している白衣姿の少年がいるだけでした。
「あー、痛い、痛い」
「我慢しろ。男の子だろう」
手当をしてもらっている患者の少年を見て、赤ずきんは思わず「あっ」と言いました。
「オリバーじゃないの」
「おっ、そういう君は赤ずきん。……いたた」
「あなた、どうしてここに?」
聞けばオリバーは、スコットランドヤードの少年課に目を付けられ、けしかけられた警察犬に追いかけられているとき、ごみを運ぶ荷台と激しく衝突し、膝をけがしてしまったとのことでした。
「また窃盗をしたんでしょ」
赤ずきんが言うと、そうじゃない、とオリバーは首を振りました。
「フェイギン親分が死んで、窃盗団は解散だ。命令されなきゃ、盗みなんてやらないさ。そう言ったのにやつら、聞いてくれなかったんだ。警察なんて何にもわかっちゃいない」
「それはいいが、君は誰だね? どう見ても子どもに見えるが」
オリバーの憎まれ口を無視して、白衣の少年のほうにニール警部は問いました。
「ジョンといいまして、医学部を志望しているのです。たしかにまだ子どもですが、フローリィ院長に見込まれてお手伝いを……おい君、動くなって」
「痛いんだよ」
オリバーが叫ぶと同時に、奥のカーテンがさっと開いてフローリィ院長が顔を出しました。手には食べかけのサンドウィッチを持っています。
「ジョン、もうここはいいわ。あとは食べながら対応するから」
「わかりました。では、二階の患者さんを見てきます」
頭を下げ、ジョンは出ていきます。フローリィ院長はサンドウィッチを無理やり口に押し込み、もぐもぐ口を動かしながらオリバーの手当の続きを始めました。
「院長、確認したいことがあってまいりました。昨晩、市場でニワトリの肉をまるごと一羽ぶん買いましたね?」
「んむ?」フローリィ院長はサンドウィッチを飲み込みます。「どうして知っているんです? 買いましたけれど、それが何か?」
ニール警部はバイドパークで発見された死体と、不思議な豆のことを院長に話しました。話が終わるころには、オリバーの手当もすっかり終わっていました。
「なるほど。市場でニワトリをまるごと買った医者、つまり私が容疑者として浮上してきたわけね」
フローリィ院長は聡明そうな笑顔を浮かべ、「でも私ではないわ」と言いました。
「そのニワトリの肉は、昨日、ちゃんと焼いて食べたもの」
「それを証明できる人は?」
「一緒に食べていた友人がいる。この病院の若い女性看護師三人よ」
スラスラと、その三人の名前をフローリィ院長は言いました。グレゴリー巡査がそれをメモし、「確認してきます!」と廊下へ飛び出していきます。
「大変ね、スコットランドヤードも」
見送りながらフローリィ院長はつぶやきます。
「ニール警部。院長を疑うのは間違いだと思うよ」
突然、オリバーが口を開きました。
「なんだコソ泥め。院長に手当てしてもらったからといってかばうのか」
「そうじゃないよ。院長は、腕はいいけどこんなに細くて力がない。死体を木の枝に逆さ吊りにするなんて、できないんじゃないのかな」
それは実は、赤ずきんも気になっていたことでした。ただの泥棒少年かと思ったら、筋の通ったことを言います。
「ねえオリバー、じゃああなたは、ジャック・ザ・ディッパーの正体はいったい誰だと思うの?」
「そんなのはわからないよ。ただ、こんな人じゃないのかなというのは想像できる」
手当てしてもらったばかりの膝をさすりながらオリバーは楽しそうな顔で言うと、さっ、とぼろぼろの上着の内ポケットに手を入れ、新聞紙を取り出しました。
「金持ちが読み捨てたのを拾った。ここに、事件のことが載っている」
赤ずきんには、字はまったく読めませんが、四人の女性の似顔絵が並べられています。これまでのジャック・ザ・ディッパーの被害者たちでしょう。今朝の新聞なので、エリザベスの一件は書かれていないようです。
「これだけ被害者が多くなったら、次に狙われるのは自分じゃないかと、ロンドンじゅうの女性はびくびくしているんじゃないのかな」
オリバーは被害者たちの顔を一つ一つ指さしていき、最後の一人のところで手を止めました。
「そうなってくると、重要なのは、彼女の体験だ。ライリ・クーベル」
「ジャック・ザ・ディッパーに襲われたのに助かった女性ね?」
赤ずきんの問いに、「うん」とオリバーは答えます。
「彼女は襲われたとき、買ったばかりのおたまを顔の前に掲げたら、助かった。どういう理屈かはわからないけれど、この連続殺人犯は、新品のおたまを持っている女性を襲わないルールがあるらしい」
「なんでなのかしら」
それはまさに、赤ずきんが不可解に思っていたことであり、この事件を解決しようとする気になれない理由でもありました。
「ルールというものの存在意義を考えなくちゃいけないようだね」
オリバーはいつしか、大人のような口調になっています。
「ルールの主要な機能の一つは、行動の規制だ。例えば危ないことやズルいことを規制することによって、人は安全に、あるいは健全にことを進められる」
「新品のおたまを持っている女性を襲わないことが、殺人鬼にとっての安全につながるなんて思えないわ。ましてや健全なんて……」
赤ずきんの中の不可解さはさらに膨らみました。
「うん。だからジャック・ザ・ディッパーのケースについては、ルールの持つ別の機能について考えなきゃいけないということだね。それはすなわち、プレイヤーの操作さ」
「プレイヤーって?」
「この場合、ジャック・ザ・ディッパーのゲームに強制的に参加させられている人たちのこと。命を狙われるかもしれないと思っている、ロンドンの女性たちだ」
整然としていて鼻につく説明ですが、赤ずきんの頭の中は整理されていくようでした。
「ルールの提示によって、ロンドンの女性たちが操作されるというのか? まったくわからん」
ニール警部が首をひねる横で、「わかったわ」と赤ずきんは言いました。
「みんな、おたまを買いに走る。そして、ロンドンじゅうの金物屋や雑貨屋から、おたまがなくなる。ジャック・ザ・ディッパーは、金物屋や雑貨屋からおたまをなくしたいのよ」
「すばらしい!」
オリバーは満足そうにうなずきました。「明快だよ、赤ずきん」
「馬鹿馬鹿しい」ニール警部は鼻を鳴らしました。「それで犯人にとってなにかいいことがあるわけではないだろう」
赤ずきんは首を横に振りました。
「それがあるのよ『いいこと』が。それがわかったら犯人もわかるわ」
「早まるんじゃない、赤ずきん。第一、本当にロンドンじゅうの女性がおたまを買いに走っているかどうか、わからんじゃないか」
「わかります、警部」
診察室の出入り口には、さっき出ていったグレゴリー巡査が立っていました。
「フローリィ院長とチキンパーティーをしていた三人の若い女性看護師ですが、みな、今朝の新聞を読み、出勤する前に金物屋に寄ったそうです。三人とも、お守りのように、ぴかぴかのおたまを首からぶら下げていますよ」
報告を聞き、ニール警部は苦いものでも食べたような顔をしたのでした。