北風と太陽
4.
そのねずみは、ふだんは田舎の農村に住んでいるそうです。
昨日、友だちのねずみに誘われてピリーウスを訪れ、とある貿易商の倉庫に忍びこんだのだそうです。倉庫には見たことのない外国産のチーズがたくさんあって、夢中で食べていると、人間が入ってくる気配がしたので、友だちのねずみに案内され、壁の穴から隣の部屋に逃げたのだそうです。
灰色の壁に囲まれた殺風景な部屋──そこに、何かの荷物が包まれた大きな布があり、床との隙間から細いものがにょきっと突き出ていたのです。それは黒くて丸いものを三つ握った、人間の手のように見えました。
「間違いないね」デンドロが言って、器に残ったスープを一口すすりました。「ハンドスパイスだ」
「それを見つけたあとはどうしたの?」
赤ずきんが訊ねると、ねずみは子どものような声で答えました。
「いくら美味いもんが山のようにあっても、常に人間たちにびくびくしなきゃいけないところなんて、僕はまっぴらさ。その日のうちにピリーウスを離れた。だが道に迷っちまって、この家にもぐり込んだら麻袋の中で眠っちまった」
それで、さっきいい匂いがしたもので目を覚ましたんだ、とねずみは言いました。
「危なかったわね。そのままピリーウスにいたら、氷の彫刻になっていたところよ」
赤ずきんが事情を説明すると、ねずみは「ひゃー」と目を丸くしたのでした。
「ねえ」
メンデスが口を挟みます。
「ハンドスパイスを見た倉庫っていうのは、ピリーウスのどこにあるのか訊いてくれない?」
赤ずきんは言われたとおりに訊いてみましたが、ねずみは不可解そうに首を横に振るだけです。
「ピリーウスに来るのは初めてだし、道もわからない。案内してくれって言われても無理だよ。ただ、黒い屋根の建物だったかなあ」
赤ずきんが訳すと、
「そんな建物、ピリーウスには二、三百はあるわよ」
馬鹿にしたように、メンデスは首を左右にコキキと動かしました。
「だがどうする、赤ずきん」
ロリヒの質問の意味は、赤ずきんにはわかりすぎるほどわかっていました。
赤ずきんは先ほど、イソップ相手に、「ピリーウスにハンドスパイスなんて隠されていないことを証明する」と啖呵を切ったのです。ところが今、偶然部屋に逃げ込んだ田舎のねずみの証言により、「ピリーウスのどこかにハンドスパイスがたしかに隠されている」ということが明らかになってしまいました。
正しいのはイソップの方です。それを、イソップが勘違いしているという結末に導かなければなりません。しかも相手は、「不実」を毛嫌いし、誰も立ち向かえないブリザードの力を持つ猛者です。
絶体絶命。
いったいどうすれば、彼を打ち負かすことができるというのでしょう。
いつのまにか、パンは最後のひとかけらになっていました。赤ずきんはそれを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら考えます。
ふと、それまで注目していなかった壁の一部が気になりました。壁紙かと思っていたのですが、薄汚れた何かが貼ってあります。赤ずきんは立ち上がり、それに近づいていきます。そばにあったはたきで、ぱんぱんと表面の汚れを落としていきました。
「ピリーウスの地図だね」
赤ずきんの様子を見ていたデンドロが言いました。たしかにそこには、港に面した、運河が縦横にめぐらされた街の地図が現れたのです。
赤ずきんは腕を組み、その地図をじっと観察しました。
今、この町は全体が氷に閉ざされているのです。
「それじゃあ、僕はこれで!」
突然、ねずみが言いました。見るともうねずみはちょろちょろと床を走っていき、ドアの下の隙間から抜け出していくところでした。
「なんだよ、行っちゃったのか」
デンドロが言いました。
「腹が満たされて、元気になったんだろ」
とロリヒ。赤ずきんは釈然としません。
「お礼ぐらい言ったっていいわよね」
「ねずみってのは夜のほうがよく動くもんさ。とどめたって仕方ねえ」
宥めてくるロリヒにも腹が立ちましたが、たしかに追っても仕方ありません。それよりも、目の前の困難を解決するほうが先でしょう──。
*
「むかしむかし、ピリーウスの町に一人の旅人がやってきた」
暖炉の火は静かに燃え、部屋は薄暗くなっています。ロリヒとメンデスは寝息を立てていますが、赤ずきんは眠れません。デンドロも眠れないと見え、話をしているうち、先ほど中断したグリース国に伝わる北風と太陽の話を始めたのです。
「旅人がコートを着ているのを見て、北風が太陽に言った。『どっちがあのコートを脱がせられるか勝負しようぜ』──北風はびゅうびゅうと冷たい風を吹きつけたが、旅人はコートの襟を立て、ボタンをしっかりとめてしまい脱がせることはできなかった。次に太陽がさんさんと輝くと、辺りはぽかぽかとした陽気に包まれ、旅人はとたんにコートを脱いだ」
「太陽の勝ちってわけね?」
「そうだ。厳しさより寛容さのほうが、ことを上手く進められるという教訓だな」
教訓──またこの窮屈な言葉が出てきました。しかし、そこにはたしかに人生を有利に進めるヒントがあるようです。まどろみの中で赤ずきんは考えました。思えば太陽とはなんと素晴らしいものでしょう。太陽は大地を暖かくし、農作物を育て、人々の生活を豊かにしてくれます。毎日朝に出て夕方に沈み、規則正しい生活に人々を導いてくれます……
がばり、と赤ずきんは身を起こしました。
「どうしたんだ?」
デンドロの問いには答えず、ランプに火を入れ、壁に貼られた地図の前に立ちます。町の中央を流れる大運河を目印に探していくと、ありました。
「伝書鳩オフィス──これだわ」
赤ずきんの中に計画が立ち上がっていきます。このやり方に、かけるしかないでしょう。
5.
翌日、赤ずきんたちはベットさんの家を出て、ピリーウスに向かいました。
広場に着きます。
コートを抱えた旅人の像。その下に昨日と同じく十人の警察官たちが、整列したまま凍り付いています。氷の世界でただ一つ動いているのは、塔の時計。かちこちかちこち──日付は「12」、時間はあと一分で「14時」になるところでした。
「本当に大丈夫なの、赤ずきん?」
かささぎのメンデスがそわそわしていました。
「信じるしかないだろ」とロリヒ。「どうせ逃げ出したって、やつは俺たちのことを捕まえる」
「約束してしまった以上、破ったら『不実』になるしね」
デンドロもまた、覚悟を決めているようでした。
赤ずきんは何も言わず、長針を見つめます。時計が14時ちょうどを指すと──ごごごぅ、ごごごぅ、とつむじ風が舞い起こりました。
目の前に立っているのは、銀色のつば広帽子に、銀色のコートを羽織った、あの男です。
「ごきげんよう」
赤ずきんはイソップに向かって、いつものとおり礼儀正しい挨拶をしました。
「ごきげんよう」
イソップもまた、同じ挨拶を返します。
「証明の準備はできましたか」
「ええ。そちらこそ、ピリーウスを解凍する準備はできている? ピリーウスだけじゃなくて、あなたが凍らせたグリース国中すべての人を解凍するのよ」
そこまでは約束していませんが、赤ずきんは強気に言いました。イソップは、答える必要はないと言わんばかりに、帽子のつばに手を当てます。
「証明のために、こっちについてきてくれる?」
赤ずきんは、広場から見える橋のほうに歩いていきます。ロリヒ、デンドロ、メンデス、そしてイソップがそのあとに続きます。橋を渡り、寒々しく凍った運河沿いの道を進み、鳩の形の看板のとりつけられたその建物の前で立ち止まりました。
「伝書鳩オフィスよ」
赤ずきんは振り返り、イソップに言いました。
「知っています」
「ハンドスパイスを盗んだ犯人は、ここから外に送ったの」
イソップは無表情を貫いていましたが、やがて無言のまま、開いていた扉からオフィスの中に入っていきました。カウンターの上に散らばった手紙。足に紙を結わえ付けられた鳩が三羽ほど、凍っています。店の奥には鳥かごが並び、三人の従業員が白い彫刻と化していました。
「伝書鳩を使い、ピリーウスの外へハンドスパイスを運んだというのですか」
つぶやきながらイソップは凍った鳩を一羽拾い上げ、赤ずきんに見せてきました。
「ごらんのとおり、伝書鳩は足に紙を結び付けて飛ばします。できるだけ軽くするため、紙以外の物は送れません。ハンドスパイスは枝に黒い玉が握られているような形状をしています。その大きさは、これくらいでしょうか」
二センチくらいの大きさを指で形作ります。
「鳩につけて飛ばすのは不可能に思えますが」
「イソップさん、まさかこれを知らないわけじゃないでしょう?」
バスケットの中に隠してあったそれを、赤ずきんはカウンターの上に置きました。昨日、ベットさんの家で見つけたペッパーミルです。
「スパイスはこれで細かく砕いて使うの。それを混ぜたインクで紙に文字を書く。内容なんてどうでもいいその手紙を、ここからよその町に向けて飛ばす。受け取った仲間はそのインクからスパイスを取り出し、集めて売る。どうかしら?」
「現実的ではない」
イソップは首を横に振りました。
「座礁船から積み荷が引き上げられてから、ハンドスパイスが消えたことが確認されるまでたったの一日でした。その間に四十箱分ものハンドスパイスを運び出し、すべて砕いてインクに混ぜて飛ばすなど……」
「すごーく大きなペッパーミルなら一度に削れるわ」
「はい?」
「私がこのあいだまでいたアラビアというところには、魔法の指輪というものがあった。それをこすると魔人が出てきてだいたいの願いをかなえてくれるの。実は私、その指輪を持っていたんだけど、この国の森の中でリスに盗まれてしまったの。犯人はきっとそれを拾ったのよ。それで、三階建ての建物くらいのペッパーミルを出してもらったんだわ」
赤ずきんは、いかに自分が荒唐無稽なことを言っているのかわかっていました。背後で聞いている三人のため息が聞こえてきそうでした。しかし、ここで引き下がるわけにはいきません。
「イソップさん。ひょっとしたらこのオフィスにまだ、証拠が残っているかもしれない。ハンドスパイス入りのインクで書かれた手紙とか。あった場合は『この町にハンドスパイスがない証明』は失敗したことになるけれど、ピリーウスの大半の人が無実だということの証明にはならない?」
「……どうでしょうか」
「とにかくこの凍り付いた手紙を調べてみる価値はあると思うけど」
と、床に置かれた、手紙で満杯の三つの籠を指さしました。
イソップは気が進まない様子でしたが、おもむろにコートから手を出し、籠に向けて赤い光を放ちます。とたんに氷は解けました。
「三人とも、手紙を調べてくれる?」
デンドロ、ロリヒ、メンデスはうなずき、それぞれ籠からごっそりと手紙を取り出し、一つ一つ開いていきました。
なぜあなたは作業を手伝わないのですか──イソップからその質問がされないことを、赤ずきんは幸運に思いました。なぜって、赤ずきんはこの国の文字は読めないのですから。
「あったよ」
「こっちもだ」
「私も見つけたわ」
三人が手紙をひらひらさせました。
「インクにスパイスが? どうしてわかるのです?」
「おばあちゃん、お加減どうですか? 約束通り十二日にそちらに行きます。ポッパコス」
不審そうなイソップに向け、まずデンドロが手紙を読みました。
「十二日のボクシングの試合に向け、こちらは調整中。風邪ひかないで、当日は正々堂々とやろう。パンクラッチェ」
ロリヒが続きます。
「頼まれていた野菜ですが、予定通り十二日には届けられそうです。今年のはとても出来がいいから楽しみにしておいて。カトリン」
と、メンデス。
「……それらの手紙にどうしてハンドスパイスが使われているというのですか」
イソップが首を傾げます。
「わからないなんて呆れたわ!」
赤ずきんは大げさな身ぶりで言いました。
「十二日って、今日なのよ?」
「はい?」
「ポッパコスは今日お祖母ちゃんに会いに行けなかった。パンクラッチェは今日、ボクシングの試合に行けなかった。カトリンは今日、野菜を届けに行けなかった。みんな、約束を破った。……不実よ」
ぴくっ、とイソップの目が見開かれました。
「彼らの不実の原因は何? ピリーウス全体が凍らされてしまい、身動きが取れなくなったことだわ」
「しかし……」
「ポッパコスもパンクラッチェもカトリンも、自分が不実をしていることすらわからず凍っている。手紙を探せば、もっとそういう人が見つかるわ。イソップ。あなたは不実への報いのつもりでした行為でしょうけど、それがさらなる不実を生んでいるのよ!」
「がっ!」
イソップのつば広帽子が何かに弾かれたように宙に舞います。イソップは銀色の頭髪を掻きむしり、「ぐ、ぐぐぐ」とうめきました。
「仕方のないことなのです……盗みの不実は、大きい」
「不実に大小なんてないわ。あったとしても、『大きい一つの不実を罰するために、小さい不実がたくさん生まれてもしょうがない』なんて馬鹿げた教訓でもあるというの!」
「うう、ううう……わあっ!」
イソップは表へ駆け出しました。
「待て、こら!」
ロリヒが飛び出し、デンドロとメンデスも追います。カウンターの上のバスケットを取って、外に出た、そのときです。
ごごぅ───!
「きゃあ!」「うおぅ!」
激しい寒風が吹き、四人はまとめて吹き飛ばされてしまいました。
「騙されるでない、イソップよ」
山をも揺るがすようなおぞましい声が、凍った地面を震わせました。