ネバーランドに消ゆ
3.
「僕は昨日の朝、入り江の上空を散歩していたんだ。もちろん、空を飛んでね」
ひらり、とピーターは浮き上がり、くるりくるりと二回、宙返りをしました。赤ずきんよりもずっと、空中での動きは軽やかでした。
「すると顔見知りの人魚が三人、海から上半身を出して手招きしているんだ。降りていくとすぐそこの桟橋に、この貝が乗っかっていた」
ピーターの指さす先には桟橋があり、古いボートが一艘、係留してあります。
ピーターがどうしたのかと訊ねると、人魚はこう答えたそうです。
――貝がこんなところにあるなんておかしいわ。引きずり降ろそうとしても、中に何か入っているみたいで重いのよ。ピーター、開いてみてくれない?
「俺は言われたとおりに開いたよ。すると、死体があったんだ! 茶色い帽子に黒いシャツ、金色の半ズボンとオレンジ色のブーツ。フック船長の手下のジュークスだ」
ピーターは興奮したようにくるりくるりとまた宙返りをしました。
フック船長というのは海賊の頭目で、ピーターを目の敵にしていて、何かと突っかかってくるとか。何度か闘っているうちに、海賊団の団員の顔と名前はみんな一致するとピーターは言いました。
「ジュークスの首には絞め痕があった。『こんなところに死体があったら気味が悪いから何とかしてくれ』って、いつもはイタズラばかりする人魚が口々にいうものだから、僕はロストボーイズのみんなを連れてきて、貝殻ごと引きずって岩場まで上げた。ところが、そこを、偶然あの茂みにやってきていた海賊の一人に見られてしまったんだ」
向こうの茂みを、ピーターは指さしました。今もまだ、三人の海賊が捜索しています。色あせた赤いタオルを頭に巻いた凶悪そうな顔立ちの一人が、チェッコだそうです。
「やつは俺に言った。『ジュークスを殺したのか?』。俺は答えた。『殺してやった! 俺たちに盾つくと、お前たちもこうしてやるぞ!』ってね」
赤ずきんは驚きました。
「なんでそんな嘘をつくのよ?」
「チェッコがビビると思ったんだ。ちょっとしたイタズラ心だよ」
ケラケラとピーターは笑います。ロストボーイズのみんなも、顔を見合わせてクスクス笑い、ティンクだけが呆れ顔です。
「この島では、イタズラ心は何よりも大事なのさ」
ピーターとその一味は、どうやら少し、常識がずれているようでした。永遠の子どもの国なのだから仕方がないとでもいうのでしょうか。
「チェッコは血相を変えて逃げていった」
ピーターが話を続けます。
「すっかり俺たちに恐れをなしたんだと思ったけど、そうじゃなかったんだ」
ピーターたちはそれからしばらく、人魚の入り江を望む岩場で貝の中にあるジュークスの死体を前に、どうしようかと話し合っていました。すると突然、どーん!という大きな音が空気をつんざきました。
島の東側からゆっくりとやってきていた帆船が大砲をぶっ放したのです。砲弾が入り江に着水し、大きな水柱を立てました。人魚たちがきゃあきゃあと逃げ惑いました。
「海賊船はすぐに入り江の直前までやってきて、小舟を下ろした。フック船長と手下たちが全員で岸に上陸して、脅してきた。俺たちは勇敢に海賊たちと闘った」
「そうそう。ジョンがラッパを吹いたりしてさあ。プパーパッ!」
「あのときはみんながジョンに注目して、一瞬、戦闘が止まったよねえ」
1番、2番が楽しそうに話します。
「だけどその後、チェッコが『死体はどこだ!』って叫んで」「貝の上を見たら死体がなかったんだ」
双子の3番・4番が言いました。
「誰も、いつそこから死体が消えたのかわからなかった」ピーターが続けます。「そうしたらフック船長、1番の首根っこをつかんで『ジュークスの死体を持ってこい。さもなくば、お前たち誰かの死体と引き換えだ!』って怒鳴った」
「あれ、怖かったなあ」
1番は首をすくめます。
「だけど、ウェンディがすぐに言った。『私が人質になるから、その子は離してあげて』って。勇気があるんだ、ウェンディは」
うんうん、と他の面々もうなずきます。
「わかっただろう、赤ずきん。僕たちはどうしてもジュークスの死体を探してフック船長のところに持って行かなきゃいけない。それで、ティンクに頼んで君を連れてきてもらったってわけさ」
大体のいきさつはわかりました。
「死体は、闘いの騒ぎで海に落ちちゃったってことはない?」
「そう思って、今、人魚たちに捜索してもらっているんだけどね。ジョン、呼べるかい?」
ピーターに言われ、ジョンはうなずき、首に下げていたラッパをプパーッ、と吹きました。ぴょこ、ぴょこと海面に女の子たちの顔が出てきます。この国の人魚はみんな、金髪のようでした。
「メア、見つかったかい?」
「いいえ、どこにもないわ」
ジョンの問いに、いちばん小さな顔の人魚が答えました。目の下に隈のようなものがあり、何となく陰のある雰囲気です。
「メアはジョンといちばんの仲良しなんだよ」
1番が、赤ずきんに小声で教えてくれました。
「あの海賊たちは、やっぱりジュークスの死体を探しているのね?」
茂みの中の三人のほうを見て、赤ずきんは訊ねました。
「そうだろう。他の海賊たちはみんな、船に引き上げたよ」
ピーターが答えました。
「死体を運んでいるところを、チェッコという海賊に見られたって言ったわね? 海賊がこのあたりを散歩するっていうのは、よくあることなの?」
「いや……そういえば珍しいな」
「その事情を聞いてみたいんだけど」
「チェッコ!」
ピーターが茂みに向けて呼びかけると、その海賊は顔を上げ、こちらを睨みつけました。
「なんだピーター、一対一でやろうっていうのか?」
「こっちだって闘う準備はあるけど、今は違う。この赤ずきんって子が、昨日の朝のことを訊きたいそうなんだ」
「はあ?」
「赤ずきん。大声で訊くといいわ」ティンクが耳打ちします。「近づいていったらまた、闘いになっちゃうから」
「わかったわ。……チェッコさーん! ごきげんよう、赤ずきんよーっ! あなた、朝、どうしてそこに来たのーっ!?」
「お前、声がでけえな。こいつを追ってきたんだよ!」
左手にキラリと何かが光っていました。
「金貨ねーっ!」
「ああ」
とチェッコは答えました。
「ピーターよ。俺たちが根城にしているこの島の東の磯があるだろう?」
「いつも沖に海賊船を浮かべているところか?」
「そうだ。詳しい場所は言えねえが、その近くの岸に、俺たちは宝を隠している。毎朝、その宝に異常がないか確認するのが俺の仕事だ。ところが今朝行ってみたら、金貨が一袋盗まれていた。慌てて周囲を探したら、この入り江に続くけもの道に一枚落ちていた」
さらにそこから数メートル離れてもう一枚、また離れてもう一枚と、金貨があったそうです。
「馬鹿な泥棒め、きっと金貨の袋に穴でも開いていて、一枚ずつ落としていってるんだ。俺は、捕まえて縛り首にしてやろうと思って追いかけていったんだ。するとどうだ、この茂みの裏まで来たところで、人魚とお前たちが騒いでいた。よくみりゃ、貝の上にジュークスが乗ってるじゃねえか。しかもありゃ、明らかに死体だった!」
――ジュークスを殺したのか!
――殺してやった! 俺たちに盾つくと、お前たちもこうしてやるぞ!
この後の展開は、さっきピーターに聞いたとおりでした。
「チェッコさーん! 泥棒は捕まったのーっ!?」
「声がでけえっつうんだよ、赤ずきん。ジュークスが殺されて、その死体が消えて、それどころじゃねえだろうがよ!」
赤ずきんは顎に手を当てて考えます。もしジュークスを殺した犯人と金貨を盗んだ犯人が同一人物だとしたら、チェッコをここに導いていたように思えます。犯人はチェッコにジュークスを発見してもらいたかったのでしょうか?
「みんなー、大変でしゅーっ!」
そのとき、舌っ足らずな声が、チェッコがいるのとは反対のほうから聞こえました。振り返ると、丘へ続く坂の上を、クリーム色の服を着た五歳ぐらいの男の子が飛んでくるところでした。
「マイケル、こっちに来るなよ。海賊との闘いになるかもしれないから」
ジョンが言いました。マイケルは赤ずきんたちの前で着地します。そして、両手を振り振り、焦っています。
「でもでも、大変なんでしゅ」
「マイケル。こんにちは。私は赤ずきんよ」
「あ、こんにちは」
「大変って、何があったの?」
するとマイケルは目を見開き、大声を上げました。
「海賊の死体でしゅ。崖の上の巨大トーテムポールにぶら下がっているそうでしゅ!」
「なんだと?」
反応したのは、ロストボーイズの誰でもなく、海賊のチェッコでした。
4.
マイケルの先導で、赤ずきんにピーター、ティンク、ロストボーイズたちは森の中の道を飛んでいきます。一度、丘の上に建つ木でできた家の前を通り、今度は西へ向かう下り坂です。
「遠回りに思えるかもしれないけど、人魚の入り江とピカニニ族の集落を結ぶ道はこれしかない。海の上をぐるっと通っていくよりずっと近いんだよ」
ロストボーイズの1番がそう説明してくれました。
やがて森を抜け、開けたところへ出ました。あちこちに、木に布を張って造られたような三角形の家があり、炊事中なのか煙が立ち上っています。
浅黒い肌の人たちが、そこかしこを歩き回っています。男の人も女の人も、襟や袖にカラフルな装飾を施した薄手の麻のような服を着て、頭に鳥の羽を使って作った飾りを付けています。鼻や頬には絵の具のようなもので印がつけられていて、不思議な感じでした。
集落の中心の広場に、やけに大柄な人と、女の子がいました。一同は彼の前で着地します。
「おまえたち、よく、きた」
身長は赤ずきんの二倍ほど、でっぷりとした丸い体つきをしていて、体重は赤ずきんの三倍か、ひょっとしたら四倍ぐらいあるかもしれません。そばの女の子は、赤ずきんと同じくらいの年齢でしょうか。頭にはかわいらしい白いユリの花を付けていました。
「族長、海賊の死体があるって聞いたけど?」
ピーターが訊ねると「そうだ」と答えました。
「海沿いの細い洞窟の道、行く。神の祈りの団、着く。見上げる崖の上、先祖のトーテムポール、ある。ロープ、ぶらさがる。海賊、ぶらさがる」
「そこに案内してくれないか?」
「私の娘、タイガー・リリー、案内する」
「案内する」
父親に続いて、ユリの花を付けた女の子がさっと胸の前に手を上げます。
「でも、祈りの場、三人しか行けない。しきたり。私の他、二人だけ」
「じゃあ僕と赤ずきんで行くよ」
ピーターが言うと、タイガー・リリーは不思議そうに赤ずきんのほうを見ました。
「私、赤ずきんっていうの。ネバーランドに連れてこられたばかりだわ」
事情を簡単に説明します。言葉があまり通じないらしく、タイガー・リリーはところどころ難しそうに鼻に皺を寄せましたが、
「案内する」
くるりとこちらに背を向けて歩き出します。
輪になって踊っている男性たちの脇を通り、丸太のテーブルを囲んでアクセサリー作りをしている女性たちの脇から草原を抜け、潅木に挟まれた道を行くうち、集落のざわめきは小さくなっていきました。
その間、タイガー・リリーは無言でした。
「あなたたちはなぜこのネバーランドで暮らしているの?」
気づまりになって赤ずきんは訊ねました。
「神、人を創る。人、そこに住む。あたりまえ」
タイガー・リリーの答えは明確ですが、そっけないものでした。
「ピカニニ族はみんな、神様を信じているんだ」
ピーターが言ったそのとき、目の前に洞窟が見えてきました。それは、細身の人間しか入れないような狭い入り口でした。身をかがめ、タイガー・リリーは入っていきます。赤ずきんもピーターもそれに続きます。
長さ二十メートル程度の、トンネル状の洞窟でした。両側の出入り口から光が差し込むので暗くはありません。抜けた先はちょっとした広場になっており、四方は切り立った崖。中央に祭壇のようなものがあり、焚火の跡がありました。
「あれ」
タイガー・リリーは頭上を指さします。はるか高く崖の上に、奇妙な柱が立っています。高さは十メートルと言ったところでしょうか。
「トーテムポール。人、動物、刻む。精霊、宿る。神に祈り、届ける。病気、ないように。飢え、ないように。喧嘩、ないように」
彼女の言うように、柱には人間や動物の顔が彫られていました。てっぺんの顔は鳥で、二つの横木が翼のように取り付けられていますが、その片方に、ロープで何かがぶら下がっているのです。黒いシャツと金色のズボンを身に着けた、人間のように見えました。
「あれって……」
赤ずきんが言うと
「死体っぽいね」
ピーターが応じます。
「マスター・パンサー、祈りに来た。あれ見つけて、おどろいた」
タイガー・リリーは言いました。マスター・パンサーというその男性は、いつも決まった時間に祈りの場に行き、神様に祈りを捧げるそうです。今日も祈りに来ると、トーテムポールに海賊がぶらさがっていたのでびっくりして広場に戻り、みんなに報告しました。それを、たまたま遊びに来ていたマイケルが聞きつけ、飛んで報告に来たということでした。
だけど……と、赤ずきんはよく目を凝らしました。だらりと垂れ下がった手足、少し傾いた首。何か変です。
ぴゅーっと赤ずきんのそばからピーターが飛んでいきました。そして、その死体を見て、ケタケタと笑いはじめました。赤ずきんも飛んでいきます。妖精の粉をかけられていないタイガー・リリーは飛べないようでした。
「見ろよ、これ」
ピーターは、まだ笑っていました。
柱の横木に括り付けられていたそれは、布でできた人形でした。大きさは人間より一回り小さく、触ってみると中には綿が詰められているようで、少しでも風が吹くと大きく揺れるのです。
「イタズラだよ」
「妖精の粉をかけられた誰かの仕業かしら?」
「俺たちの仲間だっていうのか? ありえない」
「だったら誰がこんな高いところに登ってこられる?」
赤ずきんは崖の周囲を見回します。トーテムポールが立てられているあたりこそ岩肌が見えているものの、あとは枝にトゲの生えた背の低い木に覆われています。昔使われていたらしき道の名残がありましたが、何年も使われていないのは明らかでした。
「海から祈りの広場まではそう距離がない。崖も、足場があるし、海賊なら上ってこられるよ」
ピーターが言います。
「海賊がやったっていうの?」
「ピカニニ族の誰かかもしれない」
可能性はありますが、祈りの場という神聖な場所にこんなイタズラをするでしょうか?
「人形の服はどうかしら。ジュークスっていう海賊のもの?」
「似ている気もするけど、どうだろうね」
まったく頼りになりません。
理由なきイタズラ。そう言ってしまえばそれまでですが、今朝、消えた死体に似せた人形をこんなところにぶら下げるなんて、どう考えても理由があるようにしか思えません。
どーん!
海のほうで爆発音が鳴ったのは、そのときでした。
「な、何?」
とっさにそちらを見ると、黒い玉がひゅーんと飛んできます。砲弾でした。
「きゃっ!」
慌てて身をのけぞらせると、赤ずきんとピーターのあいだを抜けた砲弾は、ずしーんと、背後の黒い木に当たりました。
「危ない!」
めりめりめりと音を立てて、その黒い木は倒れます。
「フック船長めっ!」
ピーターが顔を真っ赤にして睨みつけるのは、海上をゆっくりと進む海賊船。デッキの上の大砲の周りに海賊たちが集まり、おうぇいおうぇいと恫喝するように叫んでいます。
「チェッコが報告したのね」
先ほど、ここにジュークスの死体がぶら下がっているとマイケルが報告したとき、あの人相の悪い海賊もそばにいたのです。彼はすぐさま海賊船に取って返し、フック船長に報告したに違いありません。それで、ジュークスの死体を回収するため、海賊船を移動させてきたのでしょう。
どーん!
再び砲弾が飛んできました。背後の木に当たります。ずしーん、めりめり。
「虚無の木をこんなに折ったら危ないだろっ!」
「虚無の木? それってクレヨンみたいに丸を描くと中身がなくなってしまう、あれ?」
赤ずきんは数時間前の自分の部屋を思い出していました。ティンクが持っていた、すべてを真っ黒な空間に陥れてしまう、怪しい木の枝……。その材料である黒い木は、こんなところに生えていたのです。
「ああそうさ。雷で折れることもあるけれど、そういうときはなるべく触れないように森の奥によけておくんだ。樹皮は触っても大丈夫だけど、内側は危険だからね」
とそのとき、海賊船のほうから大声やピーピーという指笛の音が聞こえました。何を言っているのかはわかりませんが、ピーターを罵倒するように聞こえます。
「あいつら……もう我慢できない」
怒りに口を震わせたかと思うと、ピーターはぴゅーっと海賊船に向かって飛んでいきました。
5.
赤ずきんが折れてしまった虚無の木を少し調べてから海賊船に飛んでいくと、デッキの上ではすでに大騒動が始まっていました。十人ばかりの海賊がサーベルや銃を片手に一斉にピーターに襲いかかりますが、ピーターはひょいとよけてケタケタケタと大笑い。
「どこに目をつけてんだ、こっちだよーっ!」
海賊船の右舷から左舷へ、舳先から船尾へと海賊たちを翻弄します。
「やめてよ、ピーターも海賊のみんなも!」
マストの見張り台に着地した赤ずきんは大声を上げますが、誰も聞いてくれません。
すると、デッキ上の船室のドアが、勢いよく開きました。
「いいかげんにしろ、このクソガキめ!」
現れたのは、一人の中年男でした。ドクロがあしらわれた軍帽を被り、コートのような長い紫色の上着を着ています。ちぢれ髪を肩まで伸ばし、顔は髭だらけ。ぎょろりとした目が悪魔のようです。最大の特徴はその左手です。上着の袖から出ているのは人間の手ではなく、金属の鉤なのでした。
「出たな、フック船長」
にやりと笑いながら、ピーターが彼の前にすーっと飛んでいきました。その手にはすでに、ナイフが握られています。
「馬鹿な真似はやめろピーター」
フック船長は低い声ですごみます。
「それ以上無茶をすると人質の娘の喉を掻き切る。さっさとジュークスの死体をここへ運んで来い」
「やーだよー」
ピーターは、くるりくるりと宙を舞ってフック船長をおちょくったかと思うと、
「大人しくウェンディを解放しろ!」
と斬りかかっていきました。フック船長は鉤の手でカキンとナイフを撥ねのけ、身構えます。
ずどん、と海賊のだれかが銃をぶっ放し、わあわあとまたピーターに十人がかりで飛びかかります。
「ピーター、やめてーっ!」
ぱたぱたと島から飛んできたのは、ティンクでした。大砲の音を聞いて飛んできたのでしょう。
「ティンク、ピーターが全然言うことを聞いてくれないの!」
叫ぶと、ティンクは赤ずきんに気づいて見張り台までやってきました。そして、「これはダメね。最終手段よ」と、黒い枝を取り出します。虚無の木の枝でした。
「赤ずきん、念のために頭を保護しておいて」
言うが早いかティンクは、虚無の木の枝を赤ずきんより数メートル上のマストの表面でぐるぐるとマストを一周させたのです。黒く円の描かれた部分より上のマストがぐらーっと傾きました。
「おっ、おーっ!! マストが落ちてくるぞ!」
海賊の一人が叫び、彼らが逃げ惑うその中心に、マストの先っちょはずしーん、と落ちました。
「な、ティンカーベルじゃないか。そして、お前は誰だ?」
フック船長がようやく、見張り台に注目しました。
「高いところから失礼するわ、フック船長。私、赤ずきんっていうの」
「赤ずきん……」
「よく聞いて、船長。あのトーテムポールにぶら下がっているのは、あなた方のお仲間、ジュークスによく似た、人形だわ」
海賊たちがざわめきました。
「人形だと? レディー・赤ずきん、このジェイムズ・フック、ロンドンの名門パブリックスクール、ヴィートン校を出ている。無知と知ったかぶりと、何より嘘が嫌いな、誇り高き海賊である。嘘をつくならその赤いずきんをズタズタに引き裂いて……」
「お頭、本当ですだ! ありゃ、人形ですだ!」
船べりに肘をついて、望遠鏡を覗き込んでいた太っちょの海賊が叫びました。
「本当か、スミー?」
「本当ですだ。風に吹かれてゆーらゆら、してますだ」
海賊たちが望遠鏡を奪い合うようにして、次々とトーテムポールのほうを眺め、「本当だ」「人形だ」と口々に言います。
「あーあ、バレちゃった」
ピーターは空中で寝っ転がるようなポーズをとりました。フック船長との戦闘が中断されたのがつまらないのでしょうか。
「レディー・赤ずきん。いったいどういうことだ。なぜわが手下、ジュークスに似せた人形があそこにぶら下げられている? そして、ジュークスの死体はどこにある?」
「知らないわ。それを私たちも探しているのよ」
フック船長は鉤の手であご髭を撫でながら考えていましたが、やがて目をぎろりとさせました。
「とにかくそこから降りてこい!」
ずしーん、とマストに体当たりします。それを見て、海賊の手下たちもみな、マストに群がってきました。
「ヨー、ホー、ヨー、ホー、降りてこい!
赤いずきんの女の子!」
妙な歌を歌いながらマストを揺らします。赤ずきんは必死でしがみつきました。
「ヨー、ホー、ヨー、ホー、降りてこい!
両手を縛って、逆さ吊り!」
「嫌よ!」
ピーターは助けてくれる様子もなく、それどころか、ヨー、ホー、ヨー、ホーと海賊とともに歌う始末。その状況にティンクは呆れています。
――チック、タック、チック、タック
どこからか、時計の音が聞こえてきたのは、そのときでした。
――チック、タック、チック、タック
音は瞬く間に近づいてきます。海賊たちのマストへの体当たりはやみました。
「あ、あ、あ……」
デッキを見下ろすと、フック船長が真っ青になって震えているのでした。あの気高く残忍な表情はどこへいったというのでしょう。両手はぶるぶる、足はがくがく、顔に汗をにじませています。
――チック、タック、チック、タック
赤ずきんは目を凝らしました。船の後方の海に、何やら白い波が立っています。クジラかしら?と思っていたら、緑色のごつごつした背中が現れました。次いで、同じくごつごつした平たい顔です。カエルのように突き出た黒い目。がぱあと開かれた真っ赤な口に並ぶ、鋭い牙。
「ワニだわ」
思わずつぶやきました。そのワニが、なぜかチック、タックと時計の音を鳴らしているのでした。
「時計ワニだっ! 逃げろ、逃げろ!」
フック船長はデッキ中を走り回ります。
「落ち着いてください、お頭」
「うるさい。スミー、早く、やつから逃げるんだ。レディー・赤ずきん、ワニはどっちからきている?」
「あっちよ」
「ということは、逆だ。北、北へ全速力!」
「アイアイサー。しかしお頭、今朝からこの船、スムーズに進まないんですだ。海底に何かをがりがり引っ掻いているような気が。全速力出して壊れないか心配ですだ」
「どうでもいいそんなこと。錨をあげろ、総員オールを持て。わあ、迫ってくる。あいつが、迫ってくる!」
船室に逃げ込み、ばたんとドアを閉めるフック船長を見て、ピーターは手を叩いて大喜び。船を出せと言われ、海賊たちはそれぞれの持ち場につくために大わらわです。
「赤ずきん」ティンクが耳元までやってきて言いました。「忘れているかもしれないけれど、あなた、飛べるのよ」
赤ずきんはがっしりとマストにしがみついたままです。海賊たちの勢いがあまりにすごかったので、焦っていたのでした。
「わかってるわよ。マストの太さを確かめたかっただけ」
言い訳をしながら、赤ずきんはふわりと浮かび上がります。くすりとティンクは笑い、
「ピカニニ族の集落へ戻りましょう」
と言いました。
「歓待の儀式を開いてくれるそうよ」