ネバーランドに消ゆ

 

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7.

 

 海賊船が錨を下ろして停泊していたのは、島の北側の沖でした。

 太陽はだいぶ水平線に近づき、デッキはオレンジ色に染まっています。島を見れば、たくさんの鳥が飛び回っています。

 ゆらーりゆらーりと揺れる船の上は、異様な静まりに包まれていました。

 フック船長を中心とした海賊たち、ピーターにロストボーイズ。赤ずきんと一緒に飛んできたばかりのジョンとティンク。誰もが何も言わず、じっとしています。

「赤ずきんよ、この高邁なるジェイムズ・フックの船、ジョリー・ロジャー号に何をしに来たのだ」

 フック船長が訊ねます。

「報告よ」赤ずきんは、その場の全員に聞こえるような声で言いました。「あなた方がいつも根城にしているっていう東の磯で、死体が見つかったわ。ジョンとティンクによれば、ジュークスに間違いないそうよ」

「なんだと!」

 フック船長は目を剥き、海賊たちがざわつきます。

「スミー! さっそく船を東の磯へ……」

「ちょっと待って!」

 赤ずきんは掌をフック船長に向けました。

「今、海賊船を島の東に移動させたら大変なことになるわ」

「大変なこと? たわごとを」

「私に時間をくれれば、すべてを教えてあげる。この事件の犯人の、恐ろしい計画をね」

 デッキにざわめきが広がります。誰もが顔を見合わせ、赤ずきんの言っていることを理解しようとしていました。

「とおっ!」

 突然、ピーターがフック船長に襲い掛かります。

「そんなことより、ここで決着をつけちゃおうぜフック船長。難しいのは苦手さ!」

 かきん、かきん、と剣とフックがぶつかり合う音がします。

「ティンク、お願い」

 赤ずきんが言うと、ティンクはピーターの上を飛び回って青い粉を振りかけました。とたんにピーターの動きが止まります。どたりとデッキに倒れ込んで、ぶるぶると震え始めました。

「な、なんだなんだ。体が動かない。そして、寒い」

「ごめんねピーター。あなたみたいに落ち着きのない男の子は、解決のシーンには邪魔だわ。ちょっと大人しくしていて」

 赤ずきんが言うと、ティンクも「そうね、しばらくそうしていて」と笑います。この妖精も、ピーターのヤンチャぶりには日ごろから辟易していたのでした。

 デッキの上で動けずにいるピーターを、フック船長はぎろりと睨みつけていましたが、やがて、「ふふ」と笑いました。

「面白いじゃないか、レディー・赤ずきん。私も思っていたのだ、ピーターは落ち着きがないとな。高貴なる精神を持った海賊、ジェイムズ・フックはお前に時間をやろう」

「ありがとう。ついでに一つ、お願いしたいんだけど。人質のウェンディをここに連れてきてくれない?」

「そんなこと、できるかい!」

 チェッコが怒鳴りますが、「よろしい」とフック船長は言いました。

「スミー、ウェンディを連れてこい」

「ア、アイアイサー」

 スミーが船室に入っていき、やがて、十五歳ぐらいの女の子が連れてこられました。

「ああ、やっと外に出られた。みんなもいるのね! でも……これはどうしたこと?」

「ごきげんよう、ウェンディ。私は赤ずきん。ひょんなことからこのネバーランドに連れてこられたのよ。あなたが栗毛の女の子で本当によかったわ」

「面白いことを言うのね。よろしく、赤ずきん」

「ええよろしく。ところで、初対面で悪いんだけど」

 と、赤ずきんは彼女の顔を指さしました。

「ねえウェンディ、あなたはどうして、海賊船に乗せられているの?」

 ウェンディは不思議そうな顔をしましたが、

「ロストボーイズ1番の代わりに、人質になったからよ」

 と答えます。赤ずきんはすかさず、ジョンのほうを向きます。

「ねえジョン、あなたはどうしていつも、ラッパを持ち歩いているの?」

 ジョンがつまらなそうな顔で口を開きます。

「好きなんだよ。闘いのときには役に立つこともあるしね」

「それじゃあ」

 と赤ずきんは、ロストボーイズの中でこちらを見守っている、小さな男の子を見ました。

「マイケル、あなたたちの犯罪計画は、どうしてそんなに杜撰なの?」

「えっ」マイケルは戸惑いながら、答えます。「い、い、意味が、わからないでしゅ」

「海賊のジュークスの衣服を島のあちこちにばら撒いたのは、あなたたち三姉弟ね」

 しーん、と、海賊船の上に、さっき以上の沈黙が訪れます。

 く、くく、くくくと笑いはじめたのは、ジョンです。

「何を言い出すかと思ったら、赤ずきん。僕たちがジュークスを殺したって?」

「正確には、あなたたちの協力者が一緒だったでしょう。人魚のメアね」

 ジョンの目が一瞬泳いだのを、赤ずきんは見逃しません。

「ジュークスは人魚のメアを気に入っていた。それを知っていたメアは夜中、海賊船を降りて人魚の入り江の桟橋にくるようにとジュークスを誘い出したのよ。いい気になって油断していたジュークスに、隠れていた三人が襲い掛かってロープで首を絞め上げて殺した」

「その証拠は?」

「ないわ」

 刃のような鋭いジョンの質問を、赤ずきんはさらりと受け流しました。

「ないって? はは、それであんな大見得を切ったのかい? どうかしてるよ」

「殺したのがあなたたちかどうかは、はっきり言ってわからない。だけどその後の行為、いえ、その前から準備が進められていた計画を考えると、あなたたちしか考えられない。まずはこれを見て」

 赤ずきんは、人魚の入り江で拾った虚無の木の樹皮を見せました。

「知っているわね? ピカニニ族の集落の周辺に生えている虚無の木。落雷でたまに折れてしまうらしいわね。ウェンディたちは殺人事件を起こす前日の夜中、人に見られないようにその一本を引き出し、人魚の入り江まで運んでいった。三人じゃ飛んで持ち運ぶのが難しかったようね。本当は誰かに見られる危険のある丘の住まいの前を通りたくはなかっただろうけれど、ピカニニ族の集落から人魚の入り江に行く道は他になく、引きずった跡が人魚の入り江まで続いていたわ。さらに入り江の岩場には、削った作業の跡が。この樹皮にはほら、栗色の髪の毛がついていた。ウェンディ、あなたの髪の毛と同じ色ね」

 ウェンディの顔の近くにそれを近づけます。

「たしかに。同じ色のようだ」

 フック船長が認めました。ウェンディは何も言わず、目をそらします。

「虚無の木の樹皮を削ってクレヨンのように加工したところで、あなたたち三姉弟は小舟に木を載せ、人魚たちの寝静まった入り江を通り過ぎ、東の磯の沖に停泊している海賊船まで漕いでいった。木に石の重しをつけ、海賊船の船底にロープで括り付けた。海に潜ってその作業をするのは人間には難しそうだから、ここでもメアに頼んだのかもね」

「待て待て、レディー・赤ずきん」

 フック船長が鉤じゃないほうの手を振ります。

「お前はいったい、何の話をしているんだ。虚無の木をわがジョリー・ロジャー号に括り付けただと? そんなことをして何に……」

「あっ」スミーが大声を上げました。「そういやお頭、今日、船が進むとき、いつもよりスムーズでなかったような。どうも海底を何かが引っ掻いていくような感じがしたんですだ」

「たしかにそう言っていたな」

「虚無の木とやらが括り付けられていて、海底を引っ掻いていたなら納得できますだ」

「だ、か、らっ!」フック船長はイライラしている様子でした。「そんなことをして何になるんだ!」

 対照的に、マイケルやウェンディの顔は青ざめてきています。ジョンだけはまだ、平静を装っていました。

「ジョンやウェンディはきっと、海賊の宝のありかを知っていたのよ。虚無の木を海賊船に仕掛けた翌日の夜、ジュークスを殺して貝に入れ、入り江の桟橋に放置したあと、夜中のうちに盗んだ金貨を森の中の道に落とした。チェッコを人魚の入り江に導くために」

「なぜ、わが手下のチェッコを、朝から入り江に導いたというのだ?」

「考えてみて、フック船長。朝早く、人魚の入り江に行ったあなたの部下が、ジュークスの死体を発見したら、まず何をすると思う?」

 フック船長は鉤の手を顎に当て、すぐに答えました。

「もちろん船に取って返し、このジェイムズ・フックに報告するだろう」

「報告を受けたあなたは、死体を回収しに、この船を、停泊している東側の磯から人魚の入り江のある南側に移動させる。そうよね」

「ああ。現に、そうしたのだ」

「すると、船に引きずられた虚無の木は、海底に線を描いていくわ」

 その言葉の意味を、デッキ上の誰もが、考えはじめたようです。赤ずきんは続けました。

「あなたや手下たちは彼らの目論見通り、死体回収のために襲い掛かってきた。ジョンが大きなラッパを吹いて注目を集める。そのすきにメアがジュークスの死体を海に引きずり込み、服を脱がせたうえで、人魚たちも近づかない海賊たちのテリトリー、東の磯の海底に運んで隠したんだわ」

 海賊たちは息をのんで、赤ずきんの話を聞いています。

「ロストボーイズの1番が人質に取られたとき、ウェンディが身代わりを申し出たのは、計画通りに事が進まなかったときに、フック船長を言いくるめて船をちゃんとした進路に進めるためね」

「『ちゃんとした進路』とは何のことだ?」

 フック船長が疑問を挟みます。

「それはあとでわかるわ。それより、三姉弟の行動に戻りましょう。死体が消えたあと、一番活躍した彼の話よ」

 赤ずきんは芝居っけたっぷりに、マイケルを指さしました。

「マイケル?」「マイケルだって?」

 ロストボーイズの面々がざわめきます。

「そうよ。朝からピカニニ族のところへ行っていたというのは嘘で、人目につかずいろいろ動いていたのよ。ピーターたちと海賊の戦闘が始まったとき、マイケルはすでに東の磯で待機していた。そして、メアがジュークスの死体からはぎ取った服を海上で受け取り、すぐさまピカニニ族の祈りの広場へ飛んで、隠してあった人形に服を着せてトーテムポールに着せたのよ。さらに北の海鳥の巣の密集地に飛んで、帽子とブーツを落としていった」

「わからないでしゅ、わからないでしゅ」

「私がティンクに連れられてやってきたのは、あなたが仕掛けを終えた直後だったんでしょう。飛び回って細工しているところを見られなくてよかったわね」

「デタラメでしゅ!」

「あなたは本当によく働いたわね。そのあと頃合いを見計らって、ようやく人魚の入り江に現れ、『トーテムポールに死体が!』って報告にくる仕事もタイミングよくできたのね」

「そんなこと、僕は、僕は……」

「あわわ、そうか……!」叫んだのは海賊のスミーです。「チェッコからそれを聞いた俺たちは、船をピカニニ族の連中の住む西側へ回した。また、海底に線が描かれるだ!」

「とても頭がいいわね、スミーさん。あなたもそう思うでしょ、ジョン」

 赤ずきんは、ジョンのほうを向きます。ジョンは何も言わず、目をそらしました。

「わからぬ」フック船長は左手の鉤であご髭を撫でます。「まったくこやつらの意図が読めんぞ」

「もう少し話せばわかるわ、フック船長。トーテムポールに吊り下げられているのが人形だとわかったとき、ピーターが何をしたか覚えている?」

「あれが本物の死体だといって、我々を挑発しに来た」

「あなたたちはその挑発に見事に乗ってしまった。味を占めたピーターが、またジュークスの死体に見えるものが見つかったら同じことをするだろうということまで、ウェンディたちは見越していたのね。ここまで準備をしておいて、ピーターとみんながジュークスの帽子を発見するように仕向けたの。海賊に卵をぶつけることを提案したのはマイケル、あなただったわ」

 ジュークスの帽子が見つかれば、またピーターが面白がってフック船長を挑発するために海賊船に飛んでいき、海賊船は北へ回ってくるでしょう。

「あ……あ……あ……」

 スミーだけが口に手を当て、呻いています。その恐ろしさを理解しているに違いありません。

「時計ワニまで操ることはできなかっただろうから、あのワニが南からやってきたのは偶然でしょうね。そういう運も味方して、三人の目論見通りに海賊船は島の北へ回った。仕上げはいよいよ、メアが隠しておいたジュークスの死体よ」

 マイケルを無視し、赤ずきんはジョンのほうを向きました。

「三人の計画はこうよ。北に飛んだみんなを見送ったジョンは、一人、人魚の入り江に向かい、メアに合図を出す。メアは海中に隠しておいたジュークスの死体を、海から打ちあげられたように東の磯に置く。島の北側では頃合いを見計らって、マイケルが『海賊がいない間に宝を分捕るでしゅ』とか理由をつけてみんなを東の海岸に導き、ジュークスを発見する」

「はわわ……」スミーが、ガタガタ震えています。「ジュークスの死体を発見したピーターは喜んでまた、この船に挑発に来る。お頭は船を島の東へ……そんな、ことを、したら……」

「まさか!」

 フック船長が叫びました。

「そのとおりよ」

 ついに赤ずきんは、事件の核心に触れました。

「ウェンディ、ジョン、マイケル。三人の真の目的は、海賊船を利用してこの島をぐるりと囲む、虚無の輪を描くことだったの! フック船長、あなたは部下の死体を探しているつもりで、その恐ろしい計画の実行役を務めさせられていたのよ」

「な、なんという……」

 ぎりぎりと歯ぎしりをするフック船長。

「ま……待て……待てって……」デッキの上でしびれて倒れているピーターが、声を絞りだすようにして言いました。「そ……そんなことをしたら……ネバーランドは……」

「消えてしまうわ」

 呆然としながらも、ティンクが告げました。

「永遠にね」

 ウェンディ、ジョン、マイケルはそろって遠くを見ています。誰とも目を合わせたくないといった様子でした。

 ゆらーっ、と、海賊船がまた揺れます。

「……嘘だ」

 ロストボーイズの1番が言いました。

「ウェンディたちがそんなことをするはずがない」「嘘つき」「赤ずきんは嘘つきだ!」

 他の面々も口々に言います。赤ずきんは、三人に問いかけました。

「あんなことを言っているけれど、どう? 私は間違っている?」

 三人は何も答えません。口が針と糸で縫い合わされてしまったかのようでした。

「フック船長はもう、このまま東の海岸には船を進めないでしょう。西側、南側を回るルートを取るはずよ。ねえ」

「当然である。いくら危険を顧みぬ海賊といえど、こんなのは、危険すぎる」

 フック船長は答えました。

「人魚の入り江を通るとき、メアではない人魚に船底を確認してもらったら、船底に虚無の木が括り付けられているかどうかはっきりするわ。確認したあとで、メアを問い詰めてもいいのよ」

「嘘だ……嘘だって言ってよ、ジョン……」

 ロストボーイズの1番はもう、ほとんど泣きながらジョンに縋りつきます。

 ジョンはその手を振り払い、ふっ、と息を吐きました。

「赤ずきん、君の言う計画を僕たちが立てたとして、そんな大それたことをする理由はなんだい?」

 挑発的というよりむしろ、それもわかっているのか、と問いかけるようでした。

「絶望、でしょう?」

「本当に、ピーターの思い付きには閉口するよ。こんな賢い女の子をティンクに連れてこさせるなんてさ」

 静かな自白でした。ウェンディとマイケルがそろってうなだれます。

「ど、ど、ど……」

「どういうこと?」

 うまく話せないピーターに代わって、ティンクが訊ねました。

「僕たちがこの島に来てから、どれくらいが経ったか。ティンク、覚えている?」

 ジョンの問いに返答はなく、ただ波音と海鳥の声だけが聞こえました。

「僕はここへ来てから一日が何回過ぎたか記録している。昨日までに三万一千百三十六回、太陽が昇って沈んだ。八十五年と三か月だよ」

 これには、赤ずきんもびっくりしました。

「僕たちはたしかにロンドンの家では、自分勝手な両親にうんざりしていた。ピーターに連れられてネバーランドに来たときには、心底嬉しかった。一日中遊んでも文句を言われない。ずーっと子どもでいられるなんて、なんて楽しいんだろうと思った」

「日々はあっという間に過ぎていったわ」

 空を見上げ、ウェンディがつぶやきました。

「本当に楽しかった。この子たちの世話をして、本当にお母さんになったみたいだった。……きっかけは、つい最近よ。ピカニニ族のタイガー・リリーと初めてゆっくりしゃべったの。彼女はとてもクールだから、ここへきてからずっと話しかけにくくて。でも、いざ話しかけてみたら、素朴で優しい女の子だった」

 穏やかな表情の中にも、寂しさや虚しさがにじみ出ていました。

「リリーは言ったわ。『時の流れは止められない。たとえ、永遠に子どもでいられる世界があっても。神は、時を流れるように作ったから』。私、ネバーランドに来てから初めて思った。もとのロンドンの世界を。私がこの世界でずっと子どもでいるあいだ、私と同い年のロンドンの子はどんどん大人になっていたのよ」

「僕は五歳でしゅ。でも本当は、五歳じゃなくて、九十歳なんでしゅ!」

 マイケルが叫んで、頭を抱えました。

「今なら元のロンドンに戻れるかって、私、ピーターに訊いたの。そうしたらピーター、『戻れるわけないじゃん』って笑ったわ。……そのとき、思い出した。私、看護師になりたかったのよ。夢があったの。それが、今、ロンドンに戻っても、私……」

「ウェンディ、それは……しょうが、ないよ」ピーターが言いました。「君、だって……ずっと、ネバーランドで暮ら、したいって……」

「お母さんに会いたいでしゅ! お父さんに会いたいでしゅ! わああん!」

 ピーターを遮り、九十歳のマイケルはついに大声で泣きはじめました。

「わかっただろう、みんな」

 ジョンが言いました。

「僕たちは長ーい夢を見させられていたんだ。ずっと子どもでいられる世界。その世界の結末は、絶望だった。でも僕たちには死ぬ勇気がなかった。だから、永遠にいなくなれる方法を考えたんだ。僕たちだけじゃなくて、君たちも一緒に」

「不幸なことよ!」ウェンディは涙を流していました。「赤ずきん、あなたが私たちの計画を見破らなければ、この子たちは恐怖を感じることなく無になれたのに……」

 それは、灰色の息を吐きだすかのようでした。

 日はさっきよりも傾き、デッキ上の人びとの表情が見にくくなっています。誰も何も言わず、海鳥の声と穏やかな波の音、それに、マイケルのすすり泣く声だけが聞こえていました。

「……笑っちゃうわ」

 その静けさを破ったのは、赤ずきんでした。三姉弟は一斉に、赤ずきんを見ます。

「自分で死ぬのが怖いから、無になるために他人を殺して死体を利用する。分別のある人間の考えることとは思えない。子どもよ。あなたたちにはやっぱり、ネバーランドがお似合いだわ」

「なんてことを言うの!」

 絶望と怒りがない交ぜになった表情で言ったかと思うと、ウェンディは赤ずきんにつかみかかってきました。

「さっきここに来たばかりのあなたに何がわかるっていうの!」

「わかるわよ。子どもはいつか大人になる。だから若さは貴重なのよ。それに八十五年も気づけなかったなんて、犯罪計画だけじゃなく、人生の計画も杜撰だわ」

「あんたなんかにはわからない! あんたなんかには……」

 ウェンディが、ぐいっと赤ずきんの首を絞めてきます。

「あっ」

 急にウェンディの力が緩みました。ばたりと、デッキに倒れます。彼女の上でティンクが、青い粉を振りかけながら飛んでいるのでした。ティンクはさらに、ジョンとマイケルにもその粉を振りかけます。

「うぐっ」「だ、だ、ダメでしゅ」

 二人も倒れます。ピーターと同じようにしびれて動けなくなってしまったのでしょう。

「ずっと……子どもでいよう……よ」

 そのピーターが、笑いながら三人に話しかけます。

「そうだよ」

「ピーターの言うとおりだ」

 ロストボーイズの面々もまた笑いながら、倒れている三人に迫っていきました。

「僕たちのお世話をしてよ、ウェンディ」

「や……めて……」

「虫のことをもっと教えてよ、ジョン」

「近づ……く……な……」

「大好きだよ。僕たちの弟、マイケル」

「いや……で……しゅ……」

「ウェンディ!」「ジョン!」「マイケル!」

 海賊たちが唖然として見守る中、ネバーランドの空に、三人の永遠の子どもの名前が響きました。

 

 

8.

 

「赤ずきん、あなた、本当にこのまま帰ってしまっていいのね」

「いいに決まっているでしょ?」

 ティンクと二人、赤ずきんは空を飛んでいます。

 あたりはすっかり暗くなってしまっています。横にぴかぴか光る妖精がいなければ、闇の中をどこまでも飛んで帰らなければならないところでした。

「フック船長があなたのことをだいぶ気に入っていたみたいだけど」

 たしかに、事件を解決したあと、フック船長が赤ずきんに近づいてきて言ったのでした。

 ――レディー・赤ずきん。お前は賢く、勇気がある。わがジョリー・ロジャー号の乗組員として迎え入れたい。すべての手下の中でもっとも上の階級を与える。

「海賊なんてまっぴらよ」

 赤ずきんはそう答え、すぐにでもお家に帰るわ、と空に飛び立ったのでした。

「私は永遠に子どもでなんていたくない。人間は成長するものよ」

「大人になるって退屈じゃないかしら」

 ティンクはそう言って笑いました。

 大人になるって退屈――それはある意味、正しいのかもしれません。大人になると考えることが増え、いつの間にか刺激を探す心を失ってしまうからです。しかし本当は、いつでも身の回りに刺激は溢れているはずです。

(私は、退屈になることはないわ)

 赤ずきんは思いました。

(だってこれからもきっと、刺激のほうからやってきそうだもの。それは、私が望むと望まざるとにかかわらず……)

 顔のそばをふわっ、と綿のようなものが通りすぎていきました。

「ちょっと待って赤ずきん!」

 ティンクが止まります。慌てて赤ずきんも進むのをやめました。

「見てよ、これ」

 今の綿のことを言っているようでした。見覚えのある虹色をしています。

「虹色の霧。こんなに小さくなっちゃった」

「えっ?」

「日によってこういうことがあるのよ。また大きくなるのを待たなきゃ、帰れないわ」

「ちょっと待ってよ!」赤ずきんは焦りました。「それじゃあ、ネバーランドに戻らなきゃいけないの?」

「しっ!」

 ティンクが人差し指を唇に当てます。

 ずごごう、ずごごう、と何かの鳴き声のようなものが聞こえました。

「灰色の霧だわ」

「何よ、それ」

「ロンドンに通じる雲よ。ロンドンからなら、うまくいけばランベルソに行ける。赤ずきん、いったんロンドンでいい?」

「『いったん』って何よ」

「いいわね、いったんロンドンで。ちょっと嵐に巻き込まれるけど」

「嫌だわ、嵐は」

 ずごごう、ずっごっごう――灰色の霧とやらはすごい速さで近づいてきているらしく、音がだいぶ大きくなっていました。

「息を止めておいたほうがいいわ。下手すると、体に霧が入ってきちゃうかも」

「どうなっちゃうの、それって」

「はい、大きく息を吸って――」

 言われるままにすると、すぐに赤ずきんはその冷たい霧に囲まれました。

(苦しい!)

 まるで濁流に呑まれたように、体がぐりんぐりんと回転していきます。視界は遮られ、意識も遠のいていきました――。

 

 

幕間 スコットランドヤード・科学捜査班

 薄汚れた白衣の袖でごしごしと鼻をこすり、その男はニール警部の顔を見上げた。

「何の変哲もない、インクですな」

「どこにでも売っているものか」

「ええ。すぐそこのファリンばあさんの雑貨屋でも手に入りますよ」

 ニール警部は落胆した。

 ゆで卵のように頭が禿げあがったこのサムという男は、スコットランドヤードが誇る科学技官である。ジャック・ザ・ディッパーの正体に迫れればと、手紙の分析を頼んだが、使われている紙もインクも、どこでも手に入るものだという。

「筆跡はまあ、特徴的と言えないこともありませんが、平凡と言えないこともない。絞れて千人くらいでしょうな」

「スープのほうは」

「美味いスープだったでしょうよ。ご婦人の首が浸かってなけりゃね」

 けひひ、とサムは悪趣味な笑いを浮かべる。

「いずれにせよ、現場に残された品から犯人に迫るのは難しい。郵便局を当たったほうが賢明ですよ」

 ニール警部は腕を組む。弱った。これ以上、犠牲者を増やすわけには……

 どたどたと足音が聞こえてきた。

「ニール警部! こちらでしたか!」

 入ってきたのは、部下のグレゴリーだった。慌てぶりから、また何かが起きたことは明らかだった。

「どうしたんだ?」

 ニール警部の脳が、リヴァプールの風速計のように激しく回転した。またジャック・ザ・ディッパーの被害者か? 昼の二時から犯行に及んだというのか?

 だがグレゴリーの口から出たのは、まったく予想外の言葉だった。

「ロンドンブリッジが、落ちました」

「なんだって? なぜ?」

「わかりません。ただ、落ちたロンドンブリッジの近くで、一人の少女の死体が上がりました。ロンドンじゃあまり見ない、赤いずきんを被った女の子です」

 赤いずきんの女の子? ジャック・ザ・ディッパー事件と関係があるだろうか。事件は混迷を極めてきた。頭の中に嵐が来たようだった。

 

(「ネバーランドに消ゆ」・了)