マザーグース捜査線

 

1.

 

 冷たいレンガの壁に囲まれた、真っ暗な部屋です。髪の毛の落ちる音さえ聞こえそうな、静寂に包まれています。

 立ち込めるのは、死臭だけ。

 時間さえ凍り付いてしまったように、何も動く気配がありません。

 ――ガタッ

 何かの音が、その静けさを壊しました。

 ――ガタガタッ、バコッ!

 天井近くの一隅から、鉄の塊が床に落ちたのでした。ぽっかり空いた穴から、光が差し込みます。次いで、細いロープが床に向かって垂らされました。

 穴から顔を覗かせるのは、一人の少年です。

 十歳くらいでしょうか。顔立ちはなかなか可愛らしいのですが、顔は垢だらけ、髪の毛は泥で固まり、服もぼろぼろです。

「よいしょっと」

 腰にぶら下げたランプの明かりを頼りに、男の子はロープを伝って降りてきました。ランプで室内を照らし、

「死体置き場か。こんなところにはないだろうな」

 とつぶやきました。

 彼の眼には、四つのベッドが見えます。すべてのベッドには何者かが横たわり、粗末なシーツがかけられています。

「ちょっと、小遣い稼ぎでもしていくか」

 普通の子どもなら、怖がるところでしょうが、彼は怖がりません。一番近いベッドのシーツをバッとまくります。

 現れたのは、白い服を着た三十歳ぐらいの女性の死体。顔になぜか、玉ねぎがへばりついていました。彼はその手や足、首元を探ります。指輪や腕輪、ネックレスなど、貴金属の類は何もありません。

「ちっ、貧乏人か」

 第二、 第三のベッドの死体も似たようなものでした。

「しけてるなあ。せめて黒パンぐらい買える稼ぎになると思ったのに。寄り道してないで、さっさと目当てのものを探せってことかな?」

 死体はあとひとつ――と、第四のベッドに目をやり、彼は「ん?」と目を瞬かせました。シーツの下のふくらみが、他の三つのベッドに比べ、小さいのです。

 シーツをまくると、横たわっていたのは赤いずきんを被った女の子でした。ずきんはぐっしょりと濡れ、前髪は額に張り付いています。

「子どもかよ……」

 とはいえ、彼より四、五歳は年上でしょう。

 彼はその女の子の腕と足、首周りをチェックします。やっぱり貴金属はつけていません。もちろん、お金など期待できないでしょう。

 落胆する彼の目に、あるものが飛び込んできました。女の子の足元近くに置いてあるバスケットです。

「これ、売れるか?」

 そう思って手に取ろうとした瞬間、

「さんざんだわ!」

 大きな声が響き渡りました。むくり、とその赤いずきんの女の子が起き上がります。

「わああっ!」

 彼は飛び上がり、壁際に逃げます。女の子は彼の顔をギロリとにらみつけてきます。

「誰よ、あなた?」

「あ……あ……あ……」彼は混乱しながら、必死に言葉を絞り出します。「死体が、しゃべった」

「誰が死体よ!」

 女の子はベッドから降り、彼に迫ってきます。

「私は赤ずきん。ティンクはどこ?」

「ティンク?」

「おかしな妖精よ。眠っているところを起こされたと思ったら、ネバーランドなんてところに連れていかれて……」

 赤ずきんは壊れたオルガンのようにべらべらとしゃべり続けました。ネバーランドというところで海賊の死体に関する謎を解き、空を飛んで家に帰る途中で、灰色の霧にのまれてそのあとの記憶はない……

「そう言えばティンクは、『いったんロンドン』とか言ってたわね」

「ロンドン? そうだ。ここはロンドンだよ」

 彼は教えてあげました。赤ずきんは目を見張り、そしてきょろきょろと周りを見回しました。

「ロンドンってずいぶん狭いところなのね」

「何言ってるんだよ。ロンドンは広い町さ。ここは、スコットランドヤードというロンドン警察の死体置き場だ」

「死体ですって?」

 そして赤ずきんは、隣のベッドの死体に顔を近づけたのです。

「暗くてわからなかった。私、生涯にいくつの死体と出会えばいいのよっ!」

「落ち着いてくれよ、赤ずきん。大きな声を出すと、警官たちが来ちゃうかもしれない」

「別にいいじゃない」

「よくないよ。僕は泥棒だから」

「泥棒ですって?」

「そうだよ、普段はスリをしてるけど、泥棒もやっている。オリバーっていうんだ。豚小屋みたいな孤児院から逃げ出して、フェイギンって親分に拾ってもらった。親分のもとでは僕みたいな子どもが何十人もいて、盗みやスリをして暮らしている」

「感心しないけど、見逃してあげる。それより、なんで死体置き場なんかにいるのよ」

「親分からの指示さ。『スコットランドヤードの地下に、すごいお宝があるから盗んでこい』って。地上からの通気口が死体置き場に通じていることも教えられた」

 赤ずきんは通気口を見上げました。

「あれが通気口ね? オリバー、外へ連れて行って。私、家に帰らなきゃ」

「ダメだよ、僕は仕事中だ」

「泥棒なんてやめなさい。ここは、警察なんでしょ。連れてってくれないと、大声をあげて警官を呼ぶわよ。うわあああっ!」

「わかったよ。わかったから声を出すのはやめてくれ」

 オリバーは慌てて、赤ずきんの口をふさぎました。

 

2.

 

 狭くてドブ臭い通気口を抜けると、そこは草ぼうぼうの空間でした。太陽は出ていて暗くはないのですが、まぶしい日の光はありません。周囲を石やレンガの建物に切り取られた空は、黴びたパンのような色の雲に覆われています。

「今日は、晴れてるな」

 オリバーは言いながら、歩いていきます。すぐに、堅牢な石塀の前につきました。

「どこが晴れてるのよ」

「ロンドンは霧の町。細かい雨もよく降る。そのどっちもなければ、晴れと一緒なんだよ」

 不機嫌そうな顔のオリバーです。

「なんで晴れと同じなのにそんなふくれっ面なの?」

「仕事を邪魔されたからだよ」

「泥棒なんてやめなさいよ」

「やめたら生きていけないんだ。ほら、ここを潜るぜ」

 石塀の下の部分に、草に隠れて子どもがやっと潜り抜けられるくらいの大きさの穴があります。オリバーはその穴をさっと潜り抜けていきました。赤ずきんも後を追おうとした、そのときでした。

「うわあ! 助けてくれえ!」

 はるか頭上で、叫び声が聞こえたのです。振り返って見上げればなんとも荘厳な建物がそびえていました。その建物の上のほうから、聞こえるようです。

「おい赤ずきん、はやく来いよ」

 穴の向こうからオリバーの声がします。

「でも、誰かが助けを求めているわ」

「僕はお巡りと顔を合わせるのはごめんだ。どうしても行くっていうならここでお別れだ、じゃあな」

 オリバーの声はそれきり、聞こえなくなりました。赤ずきんは石造りのその建物のそばまで行きます。すると、建物のあいだを抜けられるトンネル状の通り道がありました。抜けた先は中庭になっていて、紺色の制服を着た警官らしき大人の男性が五人、頭上を見上げて騒いでいます。

「おい、手を離すなよ!」

「今、助けが行くから!」

 彼らの見上げている先に視線を向け、赤ずきんは仰天します。五十メートルほど上空のとんがり屋根の塔。窓枠につかまって、男の人が一人、ぶら下がっているのです。

「どうしてあんなところにぶら下がっているの?」

 赤ずきんは思わず口に出しました。

「ロットは、ライオンの王冠があるかどうか確認しにいったんだ」

 男の人から目を離さず、五人のうちの一人、口ひげの男性が答えました。よくわかりませんが、ぶら下がっている男性がロットなのでしょう。

 びゅう、と強い風が吹きました。

「わああ!」

 ロットの右手が窓枠からずるりと滑ってしまいました。

「助けて、助けてえ!」

 足をバタバタさせ、ロットは叫びます。

「焦るなって、落ちちまうぞ!」

 まだ空を飛べるかしら、と赤ずきんは力を込めてみましたが無理でした。体はびしょびしょに濡れているので、ティンクの粉は洗い流されてしまったに違いありません。

「クッションはないの?」

「ロットの体を支えるだけの大きさのクッションなんてあるものか」

「じゃあ、大きくて丈夫な布とか。それをみんなでもって広げれば、衝撃を和らげることができるんじゃない?」

「おお、そうか」

 と、口ひげの男性は初めて赤ずきんに目をやり、

「ぎゃあ!」

 と雷に打たれたようにはじけ飛んで芝の上に尻餅をつきました。

「ゆ、ゆ、幽霊だあ!」

「誰が幽霊よっ!」

 赤ずきんが叫ぶと同時に、口ひげ以外の四人の男性が騒ぎます。見れば、ロットが窓枠から手を離してしまっているではないですか!

「ああああっ!」

 ロットが落下してきます。ああ、赤ずきんは今また、新たな死体と出会うことになるのでしょうか――と、そのとき、黄色い光が差しました。

 星です。灰色の空の下に、黄色い無数の星が現れたのです。

「Twinkle twinkle little star~」

 どこかから、しわがれた老婆の楽しそうな歌い声が聞こえてきました。

「How I wonder what you are」

 ロットの体が落ちる速度が、ゆっくりになっていきます。続いて、バッサバッサと音を立て、白い塊が赤ずきんたちのいる中庭に飛び込んできました。大きなガチョウでした。

「Up above the world so high, like a diamond in the sky」

 ガチョウの首に、紫色のとんがり帽子を被った、ワインボトルぐらいの大きさのおばさんがしがみついて歌っています。おばさんはその背中でロットを受け止めると、ガチョウが赤ずきんたちの前に着地しました。

「あ、あ、ありがとう……ガチョウおばさんマザー・グース

 額の汗を拭いつつガチョウの背中から降り、ロットはお礼を言いました。

 

3.

 

 この、ガチョウおばさんというのは、ロンドンでは名の知れた魔法使いなのだそうです。今朝、ロンドンを揺るがす大事件が起きて、その捜査協力の要請を受けてやってきたとのことでした。

 赤ずきんは自己紹介をした後で、これまでのいきさつをすっかり話し、おうちへ帰れる方法がないか、ガチョウおばさんに訊ねました。

「ふうーん、ランベルソねえ」

 ガチョウおばさんは腕を組み、考え込みました。

「知ってるかどうかわからないけど、このロンドンはブリテンという島にあるんだ。ランベルソのある大陸までは船を使わなきゃいけない。だけど今、海には海賊や魔物が多く、ブリテンは船を出すことを禁じている。となるとやっぱり、ロンドンの近くに虹の霧が出るのを待って、飛び込んだほうがいい。空を飛ぶのは、あたしが手助けしてあげよう」

「ありがとう、ガチョウおばさん。それで、虹の霧はいつ、どこに出るのよ?」

「わからんのさ。あたしは今年で七百五十歳になるが、虹の霧の出る日取りと場所だけはわからん」

 一度は喜んだ赤ずきんでしたが、また絶望の底に落とされました。それが伝わったのか、ガチョウおばさんが「そう落ち込まないで」と励ましました。

「心当たりがないわけじゃない。妖精じゃなくて人間だがね。グリニッジ天文大学で数学を研究している教授だが、たしか『虹の霧の出る条件の数理的考察』という論文を発表していた。その名も……」

「お話し中のところ、申し訳ない!」

 赤ずきんとガチョウおばさんのあいだに、さっきの口ひげの男性がずずいと入ってきました。

「スコットランドヤード交通安全課のホレイショー警部補だ。赤ずきんさんとやら、あんた、幽霊じゃないのか? 俺はたしかに、今朝がたテムズ川に落ちたロンドン橋のそばから浮かんでいたあんたの死体を引き上げ、死体置き場まで運んだぞ」

「生きてるわよ。さっき、目が覚めて……」

 オリバーのことを話そうとしましたが、盗みに入ったことを告げ口したら悪いと、思いとどまりました。

「通気口が空いていたからよじ登ったの。悪い?」

「なんと」

「人が死んだかどうか、ちゃんと確認してから運んでよね」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさい! ロンドン橋のそばに浮かんでいたと言ったかい?」

 ガチョウおばさんが、なぜか焦っています。マントの下から赤いバラの花を一輪出すと、

「Ring-a-Ring-o' Roses!」

 と唱えました。ぽん、とバラの花びらが散り、紫色の表紙の本が一冊出てきます。ガチョウおばさんはそれをぱらぱらとめくり、

「やっぱりだ!」

 と叫びます。

「これはあたしが大魔術師から受け継いだ予言の書だよ。ここにこんなことが書いてある。『ライオンとユニコーンの架けし橋、落ちるとき、邪悪なるはかりごとある。濡れに濡れし赤き服の者、この謀を暴き、歌と踊りと共に悪しき者を懲らしめるであろう』」

 おおー、と、周囲で見守る警官たちが声をあげました。

「濡れに濡れし赤き服!」「まさに、あんたのことじゃないか!」「赤ずきんさん、この事件を解決してくれ!」

 警官たちは騒ぎます。

「なんのことなの? 私はただお家に……」

 弁明しようとすると、ぐぅーっと赤ずきんのおなかが鳴りました。

 ホレイショー警部補がくすりと笑います。

「お昼ご飯を用意させよう。話の続きはスコットランドヤードの食堂で」

 もはや断る理由はありませんでした。赤ずきんは、お腹がぺこぺこだったのです。

 

(つづく)