まずは、年老いて社会的弱者になっていく一方の自分を「受け入れる」力。それが、今後社会状況がどう変わっても適応できるよう心身を整え続けるために必要な第一の力である。
 前回はそう結論して、終わった。
 では、次に必要な、第二の力はなんだろうか。
 それは「抗い続ける」力だと“今は”考えている。
 “今は”とわざわざ強調したのはもちろん理由があってのことだが、それについては後回しにして、まず私が何に抗おうとしているのかはっきりさせておこう。
 思うに、後半生において抗うべきは大きく分けて三つではないか。
  一つは「そんなものだ」。
  二つは「カモにされること」。
  三つは「閉じていく世界」。
 まず一つ目の「そんなものだ」は、諦念と言い換えてもいいかもしれない。これから先、年齢のせいなので諦めろ、と人さまから言われることはたくさん出てくるだろう。年を取るというのはそんなものなのだから、と。そして、おそらくほとんどの場合において、その御意見は正しい。けれども、それに服するのが不本意ならば抵抗すればいい、と思っている。
 あら、前回は「受け入れることが肝要」とか言ってたじゃないの、ずいぶん矛盾してるわね、と思ったあなた。
 もう少し話を聞いておくんなさい。
 受け入れ力が大事、なことには変わりない。だが、私は受け入れる=無抵抗ではない、と考えている。現状を正しく認識した上で対処をすることを「抗う」と定義したいのだ。
 具体的には、以下のような感じだ。

<現状> 日常生活に細々したミスが多い。

<原因> 物忘れが増えたため。

<受け入れ拒否の場合> 物忘れの増加を直視せず、ないことにしてそのまま放置する。

<結果>
1.生活上様々な支障が出る。
 <例>ゴミ出しができずゴミ屋敷になる、料金を払い忘れて電気ガスが止まる、など。
2.人間関係が壊れる
 <例>約束をすっぽかす、待ち合わせを間違える、言った言わないでもめる、など。

<受け入れた場合>
1.忘れないよう対策を打つことができる。
 <例>AIアシスタントのリマインダーを使う、ToDoリストアプリを使うなど。
2.相手が不快に思わないよう、先手を打つことができる。
 <例>素直に「最近物忘れが多いので当日に確認メールして」などとお願いする。

 このように、私が抵抗と呼ぶのは「対処法」とも言い換えられるものだ。
 漢和辞典によると抵にも抗にも「防ぐ」という意味が含まれている。障害に対し、積極的に対処するのはまさに抵抗に他ならないのだ。老いによって私自身に降り掛かってくるマイナス要因を効果的に防ぎ、そいつらに支配されるのを阻むのが「抵抗力」だ。
 そして、それを百パーセント活かすには、老いを素直に受け入れておかなくてはならない、というわけである。
 だが、ライフハック的な対処法だけが抵抗ではない。
 外部からの明らかな攻撃にも抵抗していかなければならない。
 では、外部からの明らかな攻撃とはなんだろうか。
 それは「老人をカモにする社会」だ。
 社会がグローバル化、情報化した結果、私たちは日常的にとてつもない量の悪意にさらされるようになった。
 四六時中、のべつ幕なしに送られてくるフィッシングメールが好例だろう。パソコンやスマホから情報を盗んで悪さをしようと狙うやからから、毎日のように送られてくる大量のメールはまさに悪意の塊に他ならない。
 幸いなことに私は多少知識があるので、それらの見分け方がわかるし、巧妙に偽装されていても九割方は見破れる。けれども、今後も被害から逃れられるかはわからない。手口は益々巧妙になるだろうし、私の見破り力も年とともに徐々に低下していくだろうから。
 だから、私は大丈夫! なんて過信せず、セキュリティソフトの使用や鑑定精度の高いメーラーを利用するなどして“抵抗”している。
 また、老人対象犯罪のトップアスリートともいえるオレオレ詐欺や還付金詐欺、いわゆる特殊詐欺も、今のところはターゲットになる可能性は低い。私みたいな係累がいない人間はそもそもオレオレ詐欺に引っかかりようがない。還付金詐欺に関しても、「金を取ることには労力を惜しまないが、返すことには及び腰」という社会全般のガメつさをかんがみれば、役所や企業がわざわざ返金のために電話してくるほど親切なわけがなく、その認識さえ持っていれば今後も引っかからないだろう。
 だが、「その認識」が頭からすっぽ抜けるようになってしまったら? そう考えると、やはり「私だけは絶対大丈夫」なんて話にはならないわけだ。
 ところで、全然関係ない話なんですけど、税金って納入が遅れたら利息がつくじゃないですか。それなのに、取りすぎていた税金を還付する時は無利息っていうの、あれ、どういう理屈なんでしょうね? なんか納得いかないなあ。
 まあ、それはさておき。
 老人を取り巻く悪意は犯罪だけではない。グレーゾーン、あるいは完全に合法だけれども倫理的にどうなの? というケースも散見する。
 たとえば催眠商法だ。
 これは、悪徳業者が暇な年寄りを商店街の空きスペースやイベント会場などに集め、巧みな話術や心理操作を用いて高額な商品を購入させる商法である。具体的には「無料配布」や「格安販売」を呼び物に人を集め、面白おかしい話術で会場の雰囲気を盛り上げつつ、たくみに健康不安をあおったりしながら、商品が魅力的を通り越して、生活に必要不可欠であるかのように錯覚させる。聴衆は集団心理も相まって、まるで催眠術にかかったように購入してしまうので「催眠商法」と呼ばれる。マルチ商法でもよく使われる手法だ。要するに悪徳商法なのだが、禁止する法律はない。
 催眠商法は対象への心理操作が有効なうちにフィニッシュに持ち込まなければいけない。冷静になってしまえばせっかくの催眠もおじゃんになる。だから、契約を急がせたり、断りにくい状況を作るなどあの手この手で妨害するのも特徴だ。テレビの通販なんかもこの手をよく使っているので、わりと想像がつきやすいのではないだろうか。また支払い能力が低い者にはローンを組ませたり、クーリングオフがしづらい状況をわざと作ったりするなど、その悪知恵には枚挙に暇がない。
 また、最近多いのが戸別訪問して「家のガラクタを買取しますよ」と言いつつ、高値のつく貴金属を一括買取と称して安く買い叩く、あるいはちょろまかす商法だ。こうした商法では、一見人当たりの良さそうな人が家までやってきて、優しい言葉で相手を懐柔する。孤独な老人なんて赤子の手をひねるようなものだ。「こんなにいい人なら任せていいわ」とかなんとか思わせたら、あとはやりたい放題。だが、一応は「双方納得した上で決めた対価を支払う」という形式を取るので規制もしづらい。商取引は当事者間の合意があれば成り立つからである。
 同じような例に屋根修繕商法もあるが、これなどは少し前までうちにもよく来ていた。それも、何度も。みんな判で押したように「今、このあたりで工事をしている者ですが……」を枕詞にセールストークを始めるのだが、やってきたお兄ちゃん方はみんなとても感じのいい青年だった。しかも、どっちかというと素朴系。バシッと高級スーツを着た目から鼻へ抜けるようなタイプだと警戒心も働くだろうが、揃いも揃って田舎から出てきたばっかりの見習いっぽい雰囲気を漂わせているのだ。ああいうのに来られたら世間擦れしていないおばあちゃんなんか一発で引っかかるだろう。私なんぞは「あなた、まだ若いうちから詐欺まがいの仕事をしていたら人生駄目にするわよ。はやく正道に戻んなさい」と説教したくなったものだが……。
 他にも、認知が怪しくなった老人を言葉巧みに誘導して不必要かつ高額な生命保険にいくつも加入させるビジネス、なんてのもある。これなんぞ大手の保険会社でも平気でやっている。保険会社側は保険勧誘員と加入者の間で一応は合法的に結ばれた契約なので問題ないと涼しい顔のようだが、倫理的には完全アウトである。だが、世論が盛り上がって企業を弾劾する流れにならない限り、今後もこうしたやり方は横行するだろう。
 残念ながら、世の中には弱者をカモとしか考えていない邪悪な人間が数多あまたいる。邪悪とまではいえなくても一旦「仕事」と認識したらグレーなことでもやってしまう“普通の人”も少なくない。そうした人々にとって、認知の衰えた老人は「最高のお客様」だ。
 もし自分がカモにされたくない/なりたくないのであれば、最高のお客様にならないよう、事前に策を講じるしかない。
 元気なうちは、意識して悪徳商法をチェックするように心がけ、やり口を学んでおこう。パッケージは手を変え品を変えだが、すべての詐欺商法は必ず相手の歓心を買おうとする点で一致する。だから、引っかかるまではいくらでも優しく、愛想よくしてくれる。身内が聞いてくれないような愚痴にも付き合ってくれる。
 あなたを騙すために。
 身も蓋もない話をすれば、家族や友人でもない人間の家までわざわざやって来て、あるいはわざわざ会場を設けて、タダで延々相手をしてくれる人間なんて、なんらかの下心があるに決まっているのだ。金銭はもちろんだが、宗教の勧誘やノルマ制商法の会員獲得目的なんてのもあるだろう。世は並べてギブ・アンド・テイク。タダほど高いものはない。それだけ忘れないようにしておかなければならない。
 21世紀型老人サバイバルは一にも二にも情報戦だ。だから、認知が少々怪しくなってきたら、早々に介護事業者につながるべきだろう。また、成年後見制度を利用するのも有効な手だろう。成年後見制度は身寄りがない人間でも、家庭裁判所が選任する法定後見人を利用できる。
 介護事業者にせよ、法定後見人にせよ、公的制度でつながる人は適価、あるいは純然たるボランティア精神でサービスを提供する。時折制度を悪用する者がいないではないが、それを言い出したらキリがない。少なくともサービスを受ける側を保護する機能はあるのだから、それを信用するのが一番安全だ。
 まだ判断力が落ちていないうちに、こうした人たちを自分の味方にしておけば、外部の悪意から身を守りやすい。利用できる公的サービスをチェックし、利用を躊躇わないのが「カモになることに抗う力」になる。
 同時に、社会に対して「弱者をカモにする世の中はおかしい」と表明し続けなければならないと思う。つまり、倫理観がまともに仕事をする社会を作るよう、一人ひとりが意識しようよ、と呼びかけていきませんか? 
 倫理は法の網にはかからない領域を守るための、最後のとりでのようなものだ。これが壊れた社会で、弱者たる老人がまともに生きていくのは無理。倫理を道徳と思えば鼻もつまみたくもなるだろうが、功利的に考えたって倫理が生きている社会を作ることが最高の自己保身になるに決まっている。まともな社会を作り、保つことが、最大の防御なのだ。
 そして、最後の抵抗だが、これは「閉じていく世界」に抗うこと、ではないだろうか。
 一般的には年を取れば取るほど自分の世界は狭くなっていく。退職後、何をしていいかわからなくて引きこもり状態なるのは、その典型だろう。
 それに抗うには、世間との新たな関わりを自分で探していくしかない。
 新たな人間関係を作るもよし、ネットでなにか発信するもよし。どのような形でもいいから、とにかく社会と関わり合うこと。もっと大きく言えば「世界と関係している自分」という自覚を失わないことが、最高の老いへの抵抗になるのだと思う。
 そのためには、与えられるものを漫然と享受する、だけではだめなのだろう。
 好む好まざるにかかわらず、人間社会はギブ・アンド・テイクで成り立っている。これはもう動かしようのない事実だ。ほとんどの老人はそれまでの人生で社会に対して何らかの貢献、つまり「ギブ」をしているはずである。だから、「テイク」を受け取る資格があるわけだが、長寿化すればするほど昔のギブと今のテイクの均衡が取れなくなっていく。
 だから、老人もギブをしてくださいね、というのが今の日本社会の流れだ。たぶん、これはもうどうしようもない。もちろん、テイクばかりでギブしない連中を厳しく監視し、出すべきものはきっちり出させる社会にしなければならないのだが、それはそれとして、自分が社会に何を提供できるのかは考えて続けないといけないなあと思っている。それが、結果的に最大の老いへの抗いになるのではないだろうか。
 そろそろ結論を出そう。
 善き老いは「“そうならない”ではなく“そうなる”から始める準備」をすることによってやってくる。そのためには正しい自認と覚悟が必要。
 お顔の皺だって、彼らがいるのを認めなければ、皺取りクリームを買おうという気にもならない。
 だが、皺取りクリームをいくら塗ったところで20歳の肌には戻らないことだけは覚悟しておかなければいけない。
 皺とともに生きるなら、しわくちゃ婆さんになってもそれを楽しめるよう己の心を整える。いや、それはいやだ、できるだけ皺の生成を回避しようと思うなら、そのために必要な美容知識のアップデートを欠かさないよう学び続ける。
 これが準備。
 平均寿命まで生きることを想定すれば、私の老後はかなり長くなる。
 その長い時間を快適に過ごすために、「Forever young」を合言葉にするような20世紀型の老いは、私は選ばないでおこうと思う。
 老いる自分の姿を見ないふりをしたり、ごまかしたりすることなく、現状をしっかり把握しながら、受け入れるべきを受け入れる。その上で、マイナス要因には全力で抗う。
 それが後半生の生き方になるならば、生を全うすることそれ自体が老境の趣味になるかもしれない。老いの期間が長くなるのであれば、フェーズによって自分を整える方法論も変化していくだろう。その変化に耐えるには自力だけではおぼつかない。必ず人の手を借りなければいけなくなる時期が訪れる。そんな時、私を支援してくれる人たち、いわばチーム門賀ともいうべき人たちをどう形作っていくか。
 ここまで散々「老い=衰え」を強調してきたわけだが、そしてそれは日々実感しているところではあるのだが、一方ではまだまだ伸ばせるポテンシャルを感じる分野も、実はあったりする。
 家事や会話交渉術などの、日常スキルだ。この辺りは確実に昔より上手になっている。そして、たぶん60代ぐらいまでならまだまだスキルアップしていけそうな気がしている。
 ならば、これから先20年ほどはアップしたスキルを駆使して本格的な老いに備える期間、と定義しようと思う。
 近ごろは70代や80代といった年齢になってから新しいことを始め、目覚ましい成果を上げるスーパー老人も珍しくない。私がそれを真似られるかと言うと甚だ心許ないわけではあるが、少なくとも死ぬ瞬間まで世界に対する好奇心を失わず、自分を労ることを忘れず、できる範囲で快適に過ごしていけたらいい。
 老いを受け入れることも、老いに抗うことも、シビアに、でも楽しく。
 そんなことだけ心の隅っこにでもおいておけば、なんとかなるんじゃないかな。
 あとはもうその時その時で気の赴くまま、好きなようにやっていくしかない。結局、「趣味:自分」がうまく老いていく一番の方法なのかもしれない。
 私が何歳まで生きるかはわからないが、今後の私にこの言葉を贈って本連載の締めくくりとしたい。

 これから先、高い山も深い谷も確実にやってくるでしょうが、五里霧中ではありません。だから、お気楽にやっていきましょう。
 足元を確かめながら、ぼちぼち、ぼちぼち。