人生論的エッセイの定石に従うなら、最後は明るく希望のある話題で締めくくるのが正解なのだろう。だが、極めて遺憾ながら、私たちの老後は厳しいものになると覚悟しなければならない以上、それも難しそうだ。
 生活=サバイバルになるとすると、それを切り抜けるための武器がいる。その武器こそ後半人生ならではの人間力であろう、という結論で前回は終わった。
 なので、今回はズバッと言うわよっぽく何かを強言する手もあるだろう。だが、あえて「私はこう思う」というところを表明するに留めたい。なぜなら、私自身もまだ迷いの最中にいるからだ。
 社会状況が刻々とあまり芳しくない方向に変化し続けている今、どんなプランを立てても長期的には絵に描いた餅で終わりかねない。現時点で持ち得る希望もほんの数年先には持てなくなってしまう可能性も大だ。日本の老いを巡る状況を知るにつけ、不安は高まるばかりである。
 だが、ただ不安がるだけではどうしようもない。具体的プランはともかく、これから先、社会状況がどう変わっても適応できるよう心身を整え続けないといけない。
 そして、この「整え続けられる力」こそ、21世紀の老人サバイバル時代に必要な人間力ではなかろうか、と思うのだ。
 では、整え続けられる力は、具体的にどのようなフォースで構成されるのか。
 第一は「受け入れ力」。我が身を取り巻く変化をひとまずは受け入れられる能力だ。
 変化には世界情勢といった大きなところから、生活に関わる身近な諸々、さらに自らの心身状態までが含まれるが、おそらく一番受け入れ難いのは自分自身の変化、もっと言えば老いることで社会的弱者になっていく自分を受け入れることだろう。具体例だと「席を譲られても素直に座る」や「年齢を理由に運転免許証の返納を勧められても聞く耳を持つ」みたいなの。
 今、50歳から65歳ぐらい、つまり現役だけれどもそろそろ老いターンに入りつつある世代は親が後期高齢者になっている世代でもある。
 この世代が集まると話が盛り上がる……というか同病相憐れむ、になるのが老親問題だ。子育てがいち段落ついたとホッとしたのも束の間、今度は親の老いに直面し、何らかのトラブルを抱えている。そして、その根本には「親が、言うことを聞いてくれない」問題がある。
 離れて暮らす親が、既に誰かの手を借りねば生活が成り立たないところまで弱っているのに、介護サービスの利用を渋る、あるいは拒絶する。
 同居での家族介護が限界に来ているのに施設への入居を嫌がる。それどころかデイサービスの利用すらしてくれない。
 自動車がないと不便な地域ではあるものの、車には何度か擦ったりぶつけたりしたらしき痕があるから運転を止めるよう助言しても頑として受け入れない。
 全て「老親あるある」だ。
 これらの現象にはたぶん二つの心理が働いているのではないかと思う。一つには「人の世話になりたくない」「子供に迷惑をかけたくない」という、実に現代日本人らしい遠慮の塊だ。だが、その奥には自分はまだまだ老いさらばえてはおらん! 的なプライドというか、根拠のない自信があり、これら二つが複合して面倒を生む。
 現在の老人が昔に比べれば随分と若いのは確かだ。サザエさんの父、磯野波平は54歳の設定なのだそうだが、現代だとあの佇まいなら70歳は超えていないとおかしい。現代の五十代半ばは竹野内豊であり、福山雅治が標準――とするのはさすがに強弁が過ぎようが、周囲を見渡したところでフォルムが波平の54歳はまずいない。
 けれども、その若さはあくまで過去との対比であり、体力や能力の衰えを免れているわけではない。それは誰でもわかっているはずなのに、つい見て見ぬふりをしてしまう。そして、きちんと認識しなければニッチもサッチもいかない段階になってしまう頃には、認識できないレベルにまで認知能力が低下している。老いると、認知症を発症しないでも、認知能力自体が落ちる。いわゆる脳がバグることが増えるのだ。私など今から既に日々自分がしでかす間抜けごととの戦いに明け暮れているわけだが、今後それが常態化すれば認知力の低下を正しく認識できなくなるだろう。
 こうして「自立できないのにできているつもり老人」が爆誕する。
 つもり老人は、時として自分の心身財産、さらに他人の命にまで危険を及ぼしかねない。
 誰にも面倒をかけていないはずが、本人の気づかないところで迷惑のタネは花開き、最後にとんでもない爆弾に結実するのだ。思うに、迷惑とは正常な認知の光がとどかいないところで育つ隠花植物なのだろう。そして、爆発の実が破裂した時には、被害が自分だけで済むなんてことはまず考えられない。家族はおろか、世話になってきた人や見ず知らずの他人まで巻き込んでしまう。まあ控え目にいって最悪である。
 これを予防するため、まずは「誰でも50歳を過ぎれば、どんどん社会のメインストリームからは押し出されていくのだ」という事実を素直に認めておく。そうすれば、タネは実をつけるまでには育たないのではないだろうか。
 もちろん、今時の50歳なんてまだまだ働き盛り、これから社会的ステータスのトップに登り詰めようとする御仁は少なくなかろう。65歳を過ぎても社外取締役だとか相談役なんてポジションでブイブイ言わせる人もまだまだいるはずだ。そういう意味では社会の中心には居続けられる。
 だが、物理的には確実に弱者になっていく。
 今の七十代ぐらいなら、現役時代に始まったオフィスのIT化に全くついていけず、結局最後まで慣れられないまま退職した、みたいな人もいることだろう。
 スマートフォンは一応持っているものの、機能のほとんどは使わないまま。チェーンレストランでは注文用のタブレット端末を前にしてフリーズし、コンビニでセルフレジが空いていても人が並んでいる有人レジを選ぶ。
 どうしてこういうことが起こるのか。
 それは社会というのが、基本的に強者基準で設計運営されているからだ。
 強者といっても、別にアスリートやらセレブって話ではない。適応力や身体能力が二十代から四十代程度の人間である。それぐらいの人ならば難なくできることが標準となって社会システムが出来上がっていく。
 歳をとってくると説明書の小さな文字は読めなくなるし、ペットボトルの蓋は固くて開けられなくなるし、静脈を使った生体認証では寒い日なんかだとセンサーが静脈を認識してくれなくなる。きっと困っている人は多いはずだ。でもなかなか改善されない。困っているのは既に社会の本流からは外れた人たち、だからだ。つまり、どれだけ社会的地位が高かろうと、影響力甚大だろうと、生活上年齢に起因する何かで困りごとに遭遇するなら、その人は社会のメインストリームからはスピンアウトするフェーズに入りつつあるのだ。
 私は、相手が人なら30秒もかからない注文を3分ぐらいかけてタブレット入力する時、ゴミの分別収集のために醤油の注ぎ口を瓶から外そうとして手指の力が足りずに四苦八苦する時、毎年ユーザーインターフェースが変わるe-taxで確定申告をする時などに、しみじみ痛感するのだ。ついていけない者は捨てていく社会になったのだ、と。
 だが、落ち込んでもいられない。というか落ち込む必要はない。そんなもの、捨てていく社会の方がおかしいのである。
 だけれども、現実には対応しなきゃいけないわけで、そんな時、私はひとまず“できない自分”を受け入れることにしている。受け入れた上で策を考える。
 できない原因が「慣れていないから」ならば、慣れるまで繰り返す。
 「理解できないから」ならば、理解できるよう調べる。
 「腕力が足りないから」ならば、補助器具などを使う。
 できぬならできるまでやろうホトトギス、である。
 それでもなお困難であれば、もう遠慮なく他人を頼る。お店の人、行きずりの人、専門業者。とにかく私のしたいことを手伝ってくれる人なら誰でもいい。ひとりでできるもん! は時という風とともに去りつつあることを認めるしかない。
 けれども、もしできない自分を受け入れないままだとこうしたアプローチはしづらいだろう。特に最後の一手はハードルが高いはずだ。だからこそ、まだ自力でもできるうちに、自分の「できなくなる化」を予測的に受け入れ、そんな自分に漸次慣れていくしかないと思うのだ。
 これが私の考える「受け入れ力」である。
 もちろん老いに抗うのは悪いことではない。だが、まずは受け入れた上での方がより効果的に、今時の流行りだとコスパよく抵抗することができるのではないだろうか。
 これこそ整え続けるための第二のフォースだと私は思うのだが、ここについては次回。いよいよ最終回である。お楽しみに。

 

(第30回へつづく)