“発達障害”という概念が世間に広く知られるようになったのはいつの頃からだったろう。
 私の初見は、十数年前に「ギフテッド」に関する書籍の企画に呼ばれた時だった。
 ギフテッドとは極めて高い知的能力を有する子供たちのことだ。彼らは、同世代はもちろんのこと、一般的な大人さえ遥かに凌ぐ知性と精神性を持つ。いわゆる天才児だが、その能力のあまりに高きがゆえに凡人社会では理解を得られず、力を十分発揮できないばかりか、時には社会との断絶を選ぶなど、不幸な道を歩むケースが少なからずあるそうだ。
 そんな彼らへの理解を促進し、先進国に比べると遅れがちな支援を呼びかける内容の本を作りたいという編集者の思いに感じるところがあり、喜んで協力したのだが、その後紆余曲折があって企画自体はボツになってしまった。
 そんなわけで、事前準備の自主学習は骨折り損だったが、すべてが無駄骨になったわけではなかった。
 この過程で“発達障害”なる概念を知ったからだ。
 私が読んだ解説書のいくつかに「ギフテッドには発達障害を併発する子もいる」という文脈でくわしく説明されていた。
 ギフテッドについては完全に他人事だが、発達障害の症状には思い当たる節がありすぎた。特にADHD(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder)と呼ばれる症候群のうち「注意欠如」がもう自分にビンゴ過ぎて笑うしかないほどだった。
 そんなわけで、以来ずっと関心を持ち続けていたわけだが、だからといって何かアクションを起こすわけでもなかった。日常生活の中で、発達障害のせいと思しき細かい困りごとは多々あるとはいえ、社会生活に著しい困難を抱えるほどひどくはなかったからである。
 つまり、私の場合は「あきらかにAttention-Deficit──注意欠陥の“特性”が見られるが、 Hyperactivity ──多動や衝動性の傾向は少なく(ないわけではない)、かつ“障害”として医療ケアを受けなければならないほどではない」状態なのだ。
 こういう「特性はあるが障害というほどではない」状態を近頃は「グレーゾーン」と呼ぶ。なので、私はまあ「グレーゾーン」だなと自己判断し、それで放置していた。
 ところが、である。
 「老い方」を調べ始めて少し経った頃、「グレーゾーンでOKとか、そんな呑気なこと言っている場合じゃねえ!」と頬を打たれるような事例に行き逢ってしまった。
 発達障害を認知症と誤診されて投薬治療を受け、状態がより悪化したケースが散見する、というのだ。そこで、よりくわしい資料を求めてネット検索したところ、熊本大学が昨年発表したニュースリリースが見つかった。
 タイトルは「高齢者において、認知症に誤診されうる発達障害が存在することを世界に先駆けて報告」。そのままズバリ、の内容である。
 よって、リリースの「ポイント」として記載されている部分をそのまま引用させてもらおう。

● 認知症専門外来を認知症疑いで受診した患者446名のうち、7名(1.6%)が発達障害(ADHD)であったことが判明した。
● 先天的な疾患と考えられている発達障害が、加齢により後天的に顕在化する可能性があることが示唆された。
● ADHDと診断された高齢患者の約半数が、治療薬により症状が改善した。
 
 研究グループの発表ゆえ、紹介されているのは「正しい治療薬を使うことにより症状が改善した」というポジティブな事例だ。
 だが、裏を返せば、こうした認識を医師たちが持てるようになる前には、誤診でえらい目にあった人たちが数多いる、ということになる。
 では、なぜADHDは認知症と誤診されるのか。
 それは、ADHDの注意欠陥は認知症の物忘れと非常に似ているからである。
 早い話、注意欠陥優勢のADHDは、ものすごく「物忘れ」が多いのだ。この物忘れは年齢には関係ない。たとえば私の場合、物忘れの最たる現象である「忘れ物」のピークは小学生時代だった。その後、成長するに従い、少しずつ改善していったが、それは忘れ物をしなくなったのではなく、長年の経験によって対策を取るようになったためである。だが、対策を取ったって治りはしないし、万全にもならない。今でも出かける時に忘れ物をしない方が珍しい。今日こそ完璧と思って外出しても、必ず小さな何かを忘れている。
 私には「完璧な準備」などありえないのである。
 何を威張っているんだか、と思われるかもしれないが、もう威張るしかないぐらい、ひどいのだ。
 また、「物忘れ」のもう一方の雄である「物の管理下手」も大変なレベルである。財布や鍵やスマホを探すのは日常茶飯事。他にも、購入したかどうか忘れて二度買いする、大事なものをどこかにぽいっと置き失くしてしまう、大事なものを大事にしまい込みすぎてどこに置いたかわからなくなるなどなど、「忘れる」のバリエーションなら数限りなく経験してきた。
 物忘れマスターを名乗ってよかろう。
 あら、そんなの決まった位置に置けばいいだけじゃないの、と呆れる向きもおられようが、それができないから「障害」なんだよ! とキレ気味にお答えするしかない。
 それでも、長年の訓練と対策の結果、かなりマシにはなってきてはいる。けれども、完全に特性がなくなるわけではない。生まれながらの特性は、瞳や肌の色のように一生変わらないものだ。環境や経年によって多少の変化はあっても、根っこはずっと同じである。
 大人の発達障害が取り沙汰されるようになったのは、ほんの近年のことだ。よって、ほとんどの大人は、たとえ発達障害があっても見過ごされているだろう。そして、そのまま老年を迎え、物忘れが周囲の目につくようになった時に、それが元々の特性だったと気づかれないまま、的はずれな治療で悪化させてしまう。
 これは、とっても怖い。
 たとえば、偏頭痛も脳腫瘍の頭痛もまとめてしまえば同じ「頭痛」だが、原因も治療法もまったく異なる。診断を誤り、偏頭痛治療ばかりしていたせいで脳腫瘍が悪化したら命取りだ。それと同じことが「認知症治療」で起こりかねないのである。
 この事実を知り、私はようやく重い腰を上げて、きちんと医師による診断を受ける気になったのだ。
 寄る辺少なき独り身にとって、認知症は本当におそろしい。今では認知症でもひとり暮らしを続ける人だっているが、それは適切な加療が前提条件であり、最初のボタンがかけちがっては最悪のことになりかねない。
 よって、自分の特性に白黒を付け、将来認知症を疑うようなことになっても医師に対して正確な情報を伝えられるようにここらでひとつ当確を打っておこうと考えたわけである。
 読者諸氏におかれましては「認知症」やら「老害」の話をしていたところに突然「発達障害」なんて話が出てきたので唐突感がありありだったかと思うのですが、こういう事情でございましたので、どうぞ御了承ください。
 そんなわけで、近隣の精神科に行った。「横須賀市 発達障害の診断をしてくれる病院」と入力してググって得た一覧から、一番近いクリニックを選んだだけである。簡単だ。
 医師には今回の受診目的が「将来の誤診予防」であることを最初にはっきりと伝えた。
 で、結果。
 めでたく「軽度から中度の注意欠陥優勢ADHD」との診断がおりた。
 しかしながら自力で対処できているし、派生的な精神疾患もないので加療の必要性は認めない。
 以上である。
 グレーゾーンを脱し、黒の領域に足を踏み入れた今、気分は「すっきりした~」のひと言だ。
 この気持ちを何に喩えよう。
 ガラスの靴がぴったり合う女性を探し当てた王子の気持ち。
 ゆで卵の殻が一気につるんと向けた時の気持ち。
 タンスの後ろの五円玉がやっと出たマンの気持ち。
 そんなレベルでモヤモヤが晴れ、眼の前がスカッと明るくなった。
 何事にせよ「あいまい」が苦手な私にとっては喜ばしい限りなのだ。
 世の中には「障害」という言葉に忌避感や嫌悪感を持つ人がいる。そのせいで自身や家族に発達障害の疑いがあっても、見て見ぬふりをしたり、臭いものに蓋をする態度で通したりする。だが「ないこと」にしても何も解決せず、結局苦しみを長引かせてしまうだけの結果になる。「みんなと一緒じゃないと落ちこぼれ」という風潮が強い社会に生きる人ほど、そういう傾向が強い。別に日本だけの話ではない。先進的といわれている西側欧米諸国でさえ、自分や家族の障害を隠そうとする人たちは一定数いる。
 けれども、現実を虚心坦懐に見ると、“障害”は何も特別なことではない。
 近眼や老眼だって立派に障害だ。
 私なんかは左0.2 右0.1以下のド近眼なので視力補正器具、つまりメガネやコンタクトレンズがなければ危なくって出歩くことすらできない。家事や仕事も不可能だ。「視覚障害認定基準の手引き」を見る限り認定を受けられそうなレベルだ。まあ、こちらは必要がないので受けるつもりはないけれど。
 また、この先、何らかの病気や事故で身体障害や知的障害が後遺症になる可能性だってある。加齢によって耳が遠くなるかもしれない。また、骨粗鬆症になって骨折したあげく、車椅子ユーザーになるかもしれない。すべて十分ありうることだ。
 世の中には健常者などいない、障害者と未障害者がいるだけだ、なる言い回しを聞いたことがあるのだが、まったく言い得て妙だと思ったものだった。
 そうである上は、別に私の発達障害も隠すようなことではない。
 これまでのところ、ごく親しい人や一部の仕事関係者には発達障害が確定した話をしたが、「え、本当に? 全然そうは見えないけど」と言われておしまいだった。
 世の中、そんなものである。特別視するようなことではない。
 一方、私はたまたま物書きで、著作のテーマに関わるから世間様に向けて公表したわけだが、普通ならそんなことをする必要はかけらもない。自分のみ知っておくだけでも十分だ。
 だから、もし読者諸氏の中に「もしかしたら……」と心に引っかかる方がいれば、一度精神科で相談するのもいいのではないか、と思う。投薬によって特性が軽減することもある。それに何より認知症の疑いが出た時に、より正確な「自分情報」を医師にわたすことができる。
 それが自分の「老後」を守ることになるのだ。
 ソクラテスも言っているではないか。
 汝自身を知れ、と。
 そんなわけで、延々続いた私の「自分探しの旅(ただし老後向け)」もようやく終わりを迎えることができた。
 次からいよいよ実務的老後対策に進んでいきたい。乞うご期待、である。

 

(第14回へつづく)