終の棲家を決めるには家賃や住環境だけでなく、地域の医療や介護環境も考慮にいれておかなくてはならない。前回まででそれは理解した。ただ、いくら環境が整っていても、適宜利用できないのではどうしようもない。
では、利用を阻害する要因はなんだろう。
いろいろ考えてみた。
そしてこう結論した。
情弱とコミュ障。
これが老後を貧しくする二大元凶だ、と。
情弱とは情報弱者、コミュ障とはコミュニケーション障害を略したものだが、略語になった場合、本来の意味よりカジュアルかつ侮蔑的な色合いを含むようになる。
情報弱者なる概念が広く知られるようになったのはインターネット普及期だったように記憶している。当初はほぼデジタル・デバイド、つまり「コンピューターやインターネットなどの新しいITを使いこなせる者と使いこなせない者の間に発生する格差」を指していた。
しかし、(新語にはよくあることだが)少しずつ意味合いがずれて一般化していき、「情報を探す方法を知らない人」や「情報の価値や真偽を理解できない人」も情報弱者に含まれるようになった。その結果、「情弱」なる俗語が生まれ、嘲笑の対象になったのだ。
また、コミュニケーション障害も広まるうちに俗化し、意味合いが変わってしまった言葉だ。本来は、発語に難があったり、言語発達に問題があったりするためにコミュニケーションが障害される症状を指す医学用語である。それがいつの間にか他人とのコミュニケーションが苦手な人たちを指すように変化し、コミュ障なるスラングになった時点で、やはり侮蔑語となった。
一方、あまり人付き合いをしたくないタイプが、言い訳のために積極的に用いることもある。私もコミュ障を自称している。謙遜気味の卑下をしておけば、細かい事情をいちいち説明せずに済むので楽チンなのだ。
このようにコミュ障は自称されるが、自ら情弱を名乗る人はそれほどいないように思われる。
おそらく、情報化社会においては相互コミュニケーションよりも、一方的な情報収集に重きが置かれるためだろう。コミュ障は人格的な問題だが、情弱は知能の問題にまで広げられやすい。ダメな人と思われてもいいがバカと思われるのだけは我慢できない人間が増えているのかもしれない。
ただし、これが通用するのはネットの情報空間においてのみである。リアルの世界では比重は反転する。多少情報に疎くともコミュニケーション力さえあればいくらでも世間を渡っていけるからだ(楽に、とは言い難いが)。
コミュニケーション力を自在に発揮できれば、苦境に陥っても誰かに助けてもらいやすくなる。これは大きな利点だ。けれども、落とし穴もある。近づいてくる人間の良し悪しが判別できなければ、騙されたり搾取対象にされたりしてしまうからだ。これを回避するには情報や知識が必須である。結局のところ、どちらかだけでは危なっかしいのだ。
逆に言えば、老後、世渡りのための足腰が弱ってきても、情報へのコミット手段と他人様と付き合える程度のコミュニケーション力を最低限確保していれば、なんとかやっていくことができるのではないか。
この仮説を前提に、我が身を振り返ってみた。
今のところ「情弱」の心配はそれほどない。だが、油断は禁物だ。いつそう呼ばれる側に落ちるかわかったものではない。なぜなら、私が高齢者に突入する二十数年後に主流となる情報機器がどんなものなのか、まったく想像がつかないからだ。
少なくとも携帯端末はスマートフォンではなくなっているだろう。ウェアラブル・デバイス、つまりメガネや腕時計のように身体に装着可能な機器がもっと発達し、使いやすくなればそちらに移行するに決まっている。だが、年老いた私は独学で使いこなせるだろうか。
また、パーソナル・コンピューターに関しても、今のようにモニタとキーボードで操るのではなく、脳と直接繋ぐ方式になったとしても驚かない。さすがに10年後は無理だろうが、25年後、私が80歳前になる頃なら十分ありうる。なぜなら人体のサイボーグ化はもうすでに現実に試みられている段階にあるからだ。今はまだ特殊事例での実験にとどまるが、テクノロジーは時宜を得たなら一気に広がる。産業革命以降、人類は何度もそれを経験してきた。
いずれにせよ、これからも新しいテクノロジーはわんさか出てくることだろう。
新しいもの好きとしては、こうしたものについていくことに不安はないし、むしろ楽しみですらある。しかし、将来的に認知に大きな問題が発生したり、精神的にダウンして好奇心を保てなくなったら、どうだろう。
また、新しいテクノロジーについていくには本人の意欲だけでなく、金銭も必要だ。最近は端末がどんどん高額化する傾向にある。新しいiPhoneはとうとう10万円を超えた。こうなるともうさすがに新機種が出るたび気軽に替えるわけにはいかなくなる。
もちろん、安い端末や中古を使えばいいわけだが、そうなると最新技術には触れられないわけで、そこにデバイド(格差)が生じてくる。最初期と違い、通信環境や端末普及が整った今、デジタル・デバイドに起因する情報格差はもっぱら挑戦心や好奇心の格差になっているが、今後は経済格差が主因になっていく気がする。
けれども、社会のデジタル化は止まることはない。国策だからだ。つまり、日本国民でいる限り、何が何でも情報化社会についていかなくてはいけないのだ。
それなのに、付いていくための手段が貧乏ゆえに得られないとしたら。年金だけではやっていけないことが確定している私のような未来老人にとって、それはなかなか恐ろしい未来だ。
もちろん、行政もなにも考えていないわけではない。
たとえば総務省では高齢者のデジタル・デバイド問題にアドバイザーを招聘し、各地自治体への落とし込みを図ろうとしている。対策の中には端末配布も含まれる。ただし、何度も繰り返すが、最後の人口ボリュームゾーンである私たちにもそれが適用されるかはわからない。やっぱり自力でついていくしかないのだ。
人間、年を取れば取るほど保守的になるというが、その正体は「新しいものを取り入れるのがめんどくさい」なのだと私は理解している。
それに関して、最近しみじみ思うことがある。
「めんどくさい」は人生を損なう最悪のメンタリティなんじゃないか、と。
世の中、めんどくさいことは多い。
でも、「めんどくさい」と捨て置いているものは、本当に「めんどくさい」んだろうか。やってみたら特に面倒でもなかったなんてことは、誰でも経験があるはずだ。突き詰めれば「めんどくさい」をもたらすのは複雑化した社会などの外部要因ではなく、怠惰が原因の内部要因なのだ。
そして、「めんどくさい」の連発は、その先にあったはずのいくつもの「こうなったかもしれない未来」を自ら手放しているに等しい。私はもっと早くこの事実に気づくべきだった。できれば10代、遅くとも20代後半には気づいておきたかった。そうしたらもっと人生が自由自在になったような気がする。気がする、だけかもしれないが。
なんにせよ、生命力が漸次低減していく今後、「めんどくさい」がますます口癖になっていくのは目に見えている。だからこそ、毎日自分に言い聞かせなければならないのだ。
「めんどくさい、は暗い老後の一里塚」と。
さて、次はコミュニケーションの方である。
あ~、これ、マジめんどくせ~な~(←さっそく出ている)。
コミュ障的には一番厄介なんですよ、この問題。
コミュ障を名乗るとわりと誤解されがちなんだけど、別に挨拶や社交的な会話が一切できないわけではないんです。一応、社会人としてやっていける程度のコミュニケーションは取れるんです。
でも、その程度のコミュニケーションでさえ、相当なエネルギーを消費しないとできない。コミュニケーションが得意な人なら空気を吸うようにできることが、フルマラソンなみの気合とカロリーを投入しないとできないわけです。つまり、無茶苦茶燃費が悪い。よって、疲労困憊する。特に発達障害を抱えているとこの傾向が強いんだそうで、それは医学的にも説明されているとか。こんな具合なのでさすがにこればっかりは「めんどくさい」と言っても許されるのではないかと思う。
とはいえ、まともなコミュニケーションができなければ悲惨な老後が待っている。これだけは間違いない。老いるとはすなわち人の手を借りなければ日常生活すらおぼつかなくなっていく、ということだ。だが、人の手を借りるには「相手に気持ちよく、あるいはストレスなく手を貸してもらえる」レベルのコミュニケーションはできなければいけない。
これは命に関わる問題なのである。
だが、コミュニケーションのために短い老い先の全精力を使い果たしてしまうのは問題だ。おひとり生活を満喫するためのエネルギーは残しておかねばならない。
よって、私は今から「コミュ障でも低燃費で可能なコミュニケーション術」を編み出さなければならないのだ。
では、コミュニケーションとはなにか。
えらく基本的なところからだが、一応確認しておくにこしたことはない。
定義としては、自と他が円満な意思の疎通をするために行われる会話や仕草、といったところでよろしかろう。
ここでポイントになるのは「円満」である。
低燃費を目指すなら「円満」は最大の条件だ。自動車でも悪路にさしかかると燃費が落ちるわけで、若い頃に道なき道をゆくのであればそれもよかろうが、ひねもすのたりのたりしている海をポンポン船で航海するような後半生を送りたいなら、我が道はなだらかであるよう均しておかなければならぬ。
ならば、コミュニケーションにおける地均しとはどんなものだろう。
まず、発信する方だが、これは仏教の教えにある「無財の七施」が一番わかりやすい答えなんじゃないかなと思う。
無財の七施とは、文字通り「金がなくても出来る七つの施し」で『雑宝蔵経』という経典に書かれた「果報(良い報い)を得る方法」であるわけだが、私はむしろ世渡り手段だと思っている。とはいえ、いきなり勝手解釈を御紹介するのもなんなので、天台宗が運営するホームページ「一隅ネット」から定義を引用したい(カッコ内は筆者補足)。
1.眼施(げんせ) やさしい眼差しで人に接する
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する
3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する
4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する
5.心施(しんせ) 他のために心をくばる
6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る
7.房舎施(ぼうじゃせ) 自分の家を(宿や休憩場所として)提供する
それぞれ細かく説明するまでもないぐらいシンプルな内容だが、いざ実践しようとすると難しいのは説明するまでもあるまい。特に4,6あたりは年をとると自分がやってもらう方になるのだろう。だが、その他は何歳になってもできるはずだ。要するに“かわいいおばあちゃん”を目指せばいいわけだ。
私の場合、特に気をつけなければならないのは言辞施だ。自分ではそんなつもりはまったくないのだが、しばしば語感がキツく聞こえるらしい。50歳を過ぎ、私もようやく大分人間らしくなってきたので指摘されることは少なくなってきたが、気を抜けばどうなるかわからないので、ここのところは今後も頑張りたいなと思っている。2に関しては眉間のシワを考えれば美容的にも採用したい。
次に「受信」の方だ。
これも色々考えた結果、「人の称賛や親切は素直に受け取る」を第一目標にしよう、と結論づけた。
なにせ心が捻じくれているので、人から褒められるのがどうも苦手だ。素直に受け取ることができない。「はいはいお世辞乙」で聞き流すのが習性になっている。
なんでそうなったのかというと、元々上方のハイコンテクスト文化圏で育っているせいである部分は大きいんじゃないかと思う。上方のハイコンテクスト文化とは「えらいええ時計してはりますなあ」と言われたら「長居しすぎじゃボケ早よ帰れ」と読み替えねばならぬという、あれである。「言われた内容をそのままの意味で受け取るのはバカ」なのだ。
けれども、年を取ってきたら「えらいええ時計してはりますなあ」と言われたら「いややわあ、褒めてくれはっておおきに」でいいんじゃないか。それぐらい図々しくしたって平気なぐらい面の皮も厚くなってきた。
だから、今後は「モンガさんの文章はおもしろいです!」とか「モンガさん、お若く見えますね!」みたいなことを言ってもらえたら、「本当のことをありがとうございます!」と受け取ることにする。どうせ先方だって社交辞令だ。それなら素直に聞くのがお互い気持ち良いというものだ。
また、親切にされた時にもやたら遠慮や固辞せず、素直に受け取ればよろしい。電車の中で席を譲られたら「ありがとう」と喜んで座ればいいのだ。席を譲りたくなるほど年寄りに見えるのかと怒る人もいるようだが、座った方が楽じゃないか。断られたら申し出た方も気まずい。何度も経験したのでわかる。好意は好意として、下衆の勘ぐりをしなけりゃいいのだ。どうしても年寄りと思われるのがいやなら、私が立っているにはふさわしくない貴婦人に見えたのだろうと思っておけばいい。譲る方も譲られる方も双方おめでたく治まる。万々歳である。
結局のところ、人からの厚意を素直に受け取れないのは、心が捻じくれているからだ。若い頃ならともかく、年を取ってまだなお捻じくれているようでは、自分がしんどくなるばかりだろう。
人は年をとると丸くなるという。たしかに、私の周辺にいる人たちもどんどん丸くなっていっている。私もそうだ。たぶん、みんな自己アピールや自己防御のために張っていたへんなこだわりのバカバカしさに気づいていくのだ。見栄や虚栄の無意味さを悟るのが後半人生の醍醐味なのかもしれない。
一方、年とともに頑なになっていく人たちがいるのも事実だ。その中にはなんらかの病気によって高次機能障害を発症し、認知にバイアスがかかってしまっている可能性もある。実際、病後性格的に難を抱えるようになった例を目の当たりにした。
よって、世の中にはそういう事例があると認識した上で、不可抗力でない限り、老後は素直であれば素直であるほど自分自身が得をする、と思っておけばいい。人から寄せられた親切をしっかりと受け取るのだって、それなりに胆力がなければできないことだ。
つまり、今後今よりもさらに世知辛くなっていくであろうDeath Japan をサヴァイヴしていくには好奇心を失わず、親切を受け止める胆力を養うことが肝要、というわけである。
……なんだか前半生を何も考えずに生きてきたツケが全部回ってきている気がしないこともない。ちょっと凹むが、気づけたのを好機として、これからは意識的に人格を育てていきたい。
ま、育成ゲーム感覚でいけばいいか。
鬱屈したひねくれ者の私、風と共に去れ。
かわいいおばあちゃんの私よ、こんにちは。
こんな感じで。