「51歳のリアル」調査もいよいよ最終段階に入った。
 心技体のうち、残すは「心」。
 モンガミオコの頭脳と精神は、今現在どの程度のものなのか確認していかなければならない。
 では、どこから始めるかというと、やっぱり認知機能だろう。老いていく上でもっとも心配なのがこの部分だからだ。

にんち‐きのう【認知機能】
視覚や聴覚などによって外部から得られた情報をもとにして、周囲の物事や自分の状態を正しく把握し、適切に行動するための、脳の高度な機能。記憶・思考・判断・理解・計算・学習・言語といった知的機能の総称。(小学館「デジタル大辞泉」より)
 この定義によると、認知には三つの段階があるらしい。
 一つ目が「外部から情報を得る」こと、つまり入力機能。
 二つ目が「得た情報を正しく把握する」こと、つまり情報処理機能。
 三つ目が「把握した情報を元に適切に行動する」こと、つまり制御および出力機能。

 昔は「老人ボケ」や「痴呆症」などと呼ばれていた症状が今は「認知症」と呼ばれるようになったのは、患者はボケたのではなく、三つの認知機能のいずれか、あるいは全般に問題が生じているだけと考えられるようになったためだ。私も最初は「ボケとか痴呆とかは語感が悪いから、穏当に言い換えただけでしょ?」と思っていたが、そういうわけでもないらしい。
 認知症は現在進行形で研究がどんどん重ねられている病であり、知見も刻一刻と上書きされている。現時点での定義は「なんらかの病気や外傷などが原因になって認知機能が低下し、生活全般に支障や困難が発生する状態」とするのが妥当だろう。
 認知症になる原因は加齢に限らず、種類もいくつかある。
 一般的によく知られるアルツハイマー型や最近よく聞くようになったレビー小体型は「神経変性疾患」と呼ばれている。「神経変性疾患」は読んで字の如しで、脳や脊髄の神経細胞が変性し、正常な細胞が徐々に失われることで発生する障害全般を指す。グループの仲間にはパーキンソン病や筋萎縮性側索硬化症がいる。
 発症のメカニズムは、まだ全容が解明されたわけではないそうだが、現在わかっている範囲だと、神経細胞内に特殊なタンパク質が異常に凝集し、度を超えて蓄積すると発症の引き金になる。凝集する過程で、原因となるタンパク質が毒性を持ったり、正常な細胞の機能をじゃましたりしはじめた結果、神経細胞が死んでしまい、脳が萎縮したり、神経伝達がうまくいかなくなるのではないかと、いうのが定説だそうだ。悪貨は良貨を駆逐する、みたいな? なんにせよ、悪い奴らが徒党を組むとロクなことにならないのは人間社会も体内も同じだ。
 次によく聞くのが脳血管性認知症で、脳梗塞や脳出血などだ。脳の血管に障害が発生して出血、あるいは血が行き渡らなくなり、神経細胞が破壊されることで起こる。私の場合、脳に動脈瘤のベビーを抱えているので、こっちの方をより強く警戒している。
 脳卒中だと、後遺症としては身体麻痺や言語障害などがまず思い浮かぶが、認知に問題が残るケースも少なくない。私は近年、そのケースを間近で見ることがあり、怖さを実感した。なにが怖いって、脳血管障害が一端発症すれば、前触れ無くいきなり認知症状も出てしまうのだ。つまり、心の準備をする間もなく認知症と付き合わねばならなくなる。これは本人にとっても、周囲の人間にとってもヘビィだ。よくなる可能性はあるが、私のようなボッチ人間にはたとえ一過性でも怖い。回復までの間、困りごとがてんこ盛りになるのは目に見えているからだ。
 みなさん、本当に高血圧には気をつけましょうね。侮ると大変なことになります。
 他にも頭を打ったのが原因で脳に血が溜まることで認知症が発症する外傷性、脳腫瘍や水頭症、感染症、内分泌や代謝の異常、さらには私なんぞかなり危ないアルコール脳症などなど、バリエーションが豊かすぎる。嫌がらせとしか思えない。
 想像してほしい。
 中高年を過ぎたら、ありとあらゆる方向から認知症リスクが攻めてくる。
 つまり、四面どころか十面から楚歌が聞こえてくるわけだ。
 絶体絶命である。
 怖や怖やと身を震わせつつ、覚悟を決めて認知症チェックをした。
 手段はまたもやネット上の簡易チェックだ。
 今回は、東京都福祉保健局が提供する自己チェックリストを利用した。
 
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/zaishien/ninchishou_navi/checklist/index.html
 
 結果、点数は15点。20点以上がイエローゾーンらしいので、ひとまずは安心である。
 けれど、「認知」の問題は、単に認知症の心配だけで終わらない。
 自分の「認知」が時代にあわせてきちんとアップデートされているかも問題なのだ。
 「認知」ってやつは実に厄介で、三つの機能がそれぞれまともでも、途中のどこかに変なフィルターがあったら処理や出力に多大な影響が出る。その影響がつまり「偏見」と呼ばれるわけだが、偏見から逃れられる人間は百パーセントいない。誰だって時代の子、地域の子である以上、環境からもたらされる無意識のバイアスを避けることはできないからだ。 
 私は1971年に日本で生まれ、経済成長期に育ち、成年以降は下り坂一方の社会で生きてきた。昭和から令和の三時代、西暦では20世紀から21世紀を跨いだわけだが、今振り返ると昭和の子供として変なフィルターをいっぱいインストールされていたのを実感する。
 たとえば、子供の頃よく聞いた「女の子は小学生までは優秀だが、中学以降は男の子が急激に伸びてすべての能力で上回る」なる説。幼いミオコちゃんはそんなもんか、と特に疑問を持つこともなく聞いていたが、今思えば単なる男女差別に基づく偏見だ。迷信と断じてよい。
 事実は、今より男女差別が著しかった社会において、男性は中学で伸びなくても高校、高校で伸びなくても大学、大学で目が出なくても社会人になれば、と常に時間的猶予をもらえていただけだ。どの段階でも伸びなくても、期待値は自動的に引き上げられていただけなのだ。
 でも、幼いミオコちゃんはそれが何の根拠もない「偏見」であることに気付けなかった。「みんなそう言っていた」から。
 こうした傾向は平成になっても続く。就職時には人事担当者から「女性は、男性より優秀な人を選抜して採用しましたよ!」などとドヤ顔で言われたものだった。彼にしてみればリップサービスのつもりだったのだろう。けれどもそれは同じ能力なら男性が優先されることを意味している。しかも彼らは「伸びる」タイミングを「入社後」や、ともすれば「入社後数年」まで待ってもらえる。そして、当時は「入社後数年」もすれば同期女性は職場を去るのが普通だった。必然的に男性だけが残り、ライバルが減って昇進しやすい環境が整うわけだが、それを「男子だから伸びた」と認定してもらえたのである。
 これが差別でなくてなんなのか。
 けれども、あの時の人事担当者の笑顔を思い浮かべると、彼はなんの罪悪感もなかっただろうし、ましてや差別であるなんて思いもよらなかっただろう。そして私も、その言葉に違和感を覚えながらも、そのまま聞き流していた。ただ、幸いなことに「何かおかしなことを言われた気がする」と記憶に留める程度にはミオコちゃんもアップデートされていたらしい。何がおかしいのかを言語化するには至っていなかったけれども。
 ただ、幸いなことに、その後自分の認識のおかしさをチェックしていく機会を得た。
 たとえば、一緒に仕事をしていた人が産休育休に入った経験は、私にはとても勉強になった。彼女は産休から育休を経て育児短時間労働で働く状況が、お子さんが小学校に入学するまで続いた。最初は、彼女の時間制限のために仕事の流れがたびたび滞る状況にとまどいを感じた。また独身子無しにフォローのすべてが振られることにいらだちを覚えたこともあった。
 けれども、一年ぐらいした時にふと憑き物が落ちたようになった。人間、まったく異なる二つのことを従前のパフォーマンスで同時にできるなんてありえないんだから、それができない彼女にいらだつ自分の方がおかしかったのだ、と気づいたのだ。
 今の彼女が諸々できないのは当たり前だし、そもそも、そのフォローをするのは彼女のためではなく自分のためなんじゃん、と。
 仕事は自分が食べるためにやっているわけなんだから、スムーズに運ぶように努めるのは自分のため。
 なんで他人のフォローしなきゃいけないの? って、それは情けは人の為ならずであって、陰徳を積むのは自分のため。
 ま、それ以前に、自分だって親の介護での時短が視野に入ってくるお年頃だし、そもそも独り者なんて自分自身がやばくなったら周囲の絶大なる援助に頼らざるを得ない。つまり、今の協力は前払いである。
 彼女が産んでくれた次世代を支えるのは、未来の老人たる自分のため。下り坂を止められなかった世代として贖罪の気持ちもある。
 ただ、この境地にたどり着いたのは自分ひとりの力ではない。いろんな本を読んだり、いろんな人の話を聞いたりして、認知フィルターをアップデートさせていったおかげだ。
 こうしたことが重なったおかげで、今のところ私はなんとか時代から振り落とされないでいる。でも、この先どこまでついていけるかわからない。
 もし、認知フィルターがアップデートされなくなったらどうなるか。
 「老害」になる。
 老害とはなにか。
 それは、認知を時代や状況に適合させられない人、だ。
 老いていくに従い、人はどこかでフィルターのアップデートを止めてしまう傾向があるのは確かだ。なぜなら、フィルターのアップデートはそこそこエネルギーを使うから。人間っていうのは、本質的に「できるだけエネルギーは使わず楽したい」と思うように出来ている。努力ができるのは、努力に報いるだけのご褒美がある場合か、努力を他者に強いられることで奴隷のごとく無気力になっている場合のどちらかである。
 最近は「老害で何が悪い」と開き直る人々も出てきているが、それは社会の有力者だったり著名人だったりするからできることだ。
 私のような名も寄る辺もなき浮草女が幸せな老後、いやもう少しレベルを下げてストレスの少ない老後を送るためには、後進から総スカンをくらわないようにしなければならない。
 だいたい、老害じゃない方が自分自身だって楽なはずだ。いや、わしは老害でおる方が楽だ! と頑なに言い張る人は、変わることを恐れているだけの怠惰な臆病者なんじゃないの? と思っている。
 どうせ婆さんになるなら、わたしゃ楽な婆さんになりたい。
 だが、そのために私は前にそびえるひとつの山を超えなければならない。
 「発達特性」ってやつだ。
 私は前々から自分がいわゆるADHD──注意欠如・多動症なのではないか、と疑ってきた。その疑いをクリアにする時が、いよいよ到来したようだ。

 

(第13回へつづく)