抜き差しならぬ2050年問題を抱えた我が祖国ニッポン。
 ぼやぼやしていたら夢の悠悠自適生活どころか、貧困老人まっしぐらだ。
 今の基準だと老後は65歳から始まるとして、私の場合はあと14年。準備期間としては十分とは言い難いが、遅すぎるわけでもない。自己救済のために対策を立てる必要はあるだろう。
 けれども、個人のできることには限界がある。高齢化対策なんて特にそう。やっぱり社会全体で取り組むべきものだ。
 そうである以上、当然、お国も何か手を打とうとしている、はずである。
 ……してるよね?
 やはりここは、主権者かつ超当事者たる身として、政府の考えをチェックしておくにしくはなし、だ。
 でも、どうチェックすればいいのだろうか。
 老人問題なら主幹は厚生労働省だろうか。でも、もっと根本的な話となると、財務省や経済産業省がやるのかもしれない。
 そんな風に考えた私は、これら省庁の公式サイトをチェックすることにした。
 そうしたら、案の定、複数の情報が見つかった。
 まず、財務省。
 トップページに置かれたバナーに「日本の財政を考える」というのがあった。
 それをぽちっとして、出てきたページのタイトルは「これからの日本のために日本の財政を考える」。(https://www.mof.go.jp/zaisei/index.htm
 おお、これぞ求めているものではないか。
 内容は五章仕立てだ。
 1 日本の財政構造
 2 厳しい財政事情
 3 経済と財政
 4 社会保障と財政
 5 日本が直面する課題
 嗚呼、タイトルを見ただけで読む気無くすやつ。
 でもこれもお仕事と思い、がんばって読んでみた。
 で、その結果、日本はお先真っ暗なのと、財務省はもっと消費税税率をあげたいんだってことだけはよくわかった。なにせ「はじめに」の掉尾を飾る一文が、下記のとおりである。

「消費税率引上げによる増収分は全て社会保障に充てられています。」

 ほお。「全て」ですか。ふーん。
 でも、「増収分は全て社会保障に充てた」からって、個々の負担が減るとは言ってない。増収してもサービスはよくて現状維持、むしろ劣化させたいらしい。
 なにせ、第四章「社会保障と財政」にはわざわざ「給付と負担のアンバランス」なるページを設けて、「諸外国と比較すると、日本の社会保障は、『給付』(社会保障支出)に対して、『負担』(税・社会保険料)が低いのが現状です」と太字で書いているのだ。
 庶民語に訳すと「お前ら、ろくに金を出してないくせに高度なサービスを受けすぎなんだよ」と言っているわけである。あげく「高齢化等に伴う社会保障の給付の増加と国民の負担の関係について、引き続き、国民全体で議論していく必要があります。」ときたもんだ。しかも、同じ文言を二度も太字で重ねて書いている。たぶん、単純な表記ミスだろうけど私にゃ「大事なことだから二度言いました」に見える。そもそも「国民全体で議論していく必要があります」って文言だって、「四の五の言わずに増税を飲め」っていうお役所表現ですよね?
 とにかく財務省にとっての2050年問題解決策は「増税」一本槍らしい。
 最近は政府主導の賃上げが進んでいるというが、増やした分は国民の手元に残さず、国庫に吸い上げたいのだろう。なら最初から法人税で取れば? と思うのだが、それだと法人に所属していない人間からは取れないから「不公平」ってことになるのかな。
 なお、社会にひどい格差が生まれると国が滅びるという認識は一応あるようだ。配布資料にはそう明記されているし、やたらめったら「公平」が連呼されている。
 しかし、彼らが気になる「格差」は「納税額の格差」ばかりらしい。結論が「所得が低い層からも徴税できるから消費税は平等!」なのだ。つまり、稼ぎがあろうが無かろうが課税できる消費税で吸い上げたお金を再分配するのがもっとも平等である、との発想らしい。
 でも、消費税の逆進性については触れられていないし、トマ・ピケティ氏が主張するような富裕層に対する資産課税強化なんて話は毛ほどもない。さらに、国が責任をもって富を独占する層から貧しい者へ適切に再分配しますよ、なんて約束事は一切書いていない。
 また、日本国は2022年に史上最高の税収を得たが、「そんなもんは焼け石に水だからもっと増税を!」と言いたいのが丸出しのグラフも掲載されている。
 財務省にとって増税は既定路線なのだ。そうである以上、たぶん今後は政権がどの政党になっても消費税はあがっていく。
 ならば、老後は少ない年金と貯蓄で暮らさなければならない私のような人間は、生活防衛のために消費を減らす以外に道はない。一国民として、景気アップに寄与できないのは大変遺憾ではあるが仕方ない。お国の施策に唯々諾々と従うなら、そうする以外ないのだ。
 とはいえ、財務省はあくまでお金の話しかしない。
 景気云々は経済産業省の管轄だ。ならばそっちに期待してみよう、と思ってチェックしたところ、なんと平成30年、つまり2018年に「産業構造審議会 2050経済社会構造部会」なるものが発足していた。
 設置目的は「2050年頃までの経済社会の構造変化」を見据え、「持続可能な経済社会に向けた政策課題」を検討することだという。
 これは具体的な施策を期待してよさそうだ。
 そこで資料をダウンロードして読んでみた。
 で、結果。
 どうやら部会は「年金増額とか無理だから、自分でなんとかしてもらえるような土壌を作っていくしかないよね」という前提で「投資を中心とする自己責任の資産形成とギグ・エコノミーを推進していこう!」みたいな感じの結論を出したかった、らしい。
 らしい、というのはこの部会、2019年5月20日に開催された6回目のミーティングを最後にストップし、その後再開されないまま2021年度に廃止になっているのだ。
 HP上には「※2021年度で廃止されました。」とあるだけで、廃止理由は書かれていない。だがどうにも不自然である。
 そこでなにかヒントはないかと新聞記事を検索してみたところ、これのせいじゃないかな? という出来事が見つかった。
 みなさんは覚えているだろうか?
 2019年6月に、老後資金に関する一騒動があったことを。
 この月、金融庁は人生百年時代に必要な老後の蓄えを「資産寿命」と定義し、この“延命”方法を示す指針をまとめ、報告書を出した。
 金融庁の定義によると「資産寿命」とは「老後の生活を営んでいくにあたって、これまで形成してきた資産が尽きるまでの期間」であるそうな。
 資産寿命は生命の寿命が終わるまで尽きてもらっては困るわけだが、これから老後に入っていく人が95歳ぐらいまで生きるとして(女性はその蓋然性が高い)、今の年金額をベースに平均的な貯蓄率やら金融資産の保有額なんかを勘案すると、老後資金として2000万円ぐらいは持っておかないと命より先に資産の寿命が尽きますよ、という内容だった。
 で、これが炎上した。
 なにせ、自民党政権は、2004年の年金制度改革において「日本の公的年金は百年安心ですよ!」と謳っているのだ。それを主導した政治家は他ならぬ当時自民党幹事長だった故・安倍晋三氏だ。ところが、それが100年どころかたったの15年で、当の本人が首相をしている政権下にある省庁が「年金のほかに2000万円もの大金を用意しておかなきゃ老後の安心は無理みたいです、テヘペロ」みたいなことを言い出したものだから、燃えたのである。
 国民にとっては、まさに寝耳に水……というのは流石に嘘になるか。みんな、うっすら気づいていたはずだ。年金で足りるわけねえ、と。けれど、政権の甘言にのって、ずっと見て見ぬふりをしていた事実をはっきりと数値で示され、冷水を浴びせられた思いがしたのだろう。熾火に水をぶっかけたせいで灰神楽が立ったようなものだ。
 安倍首相(当時)にしてみれば年金問題は恐ろしい古傷だ。第一次安倍政権は「消えた年金問題」で痛撃を受けたからだ。ここでまた年金問題が再燃したらどうなるかわからない。野党にすれば格好の攻撃対象だから、燃やす気満々である。燃やさず問題そのものの消火に動いてほしいんだけど、政局にそういうまっとうな理屈は通じない。
 結果、当時の内閣は「報告書を受け取らない」という斜め上の作戦に出た。
 ほぼ2週間後の18日には「世間に著しい誤解や不安を与え、政府の政策スタンスとも異なる」とする答弁書を閣議決定し、「2000万円って金融庁が勝手に言ってるだけだから! 僕たちがそう言ってるんじゃないから!」ってことにして火消ししようとしたのだ。
 いくらカクギケッテイをしたところで「年金だけじゃ不足」という事実が覆るわけではない。だが、安倍政権は常に「聞かなかったことはなかったこと」「見なかったことはなかったこと」を貫いてきた。つまり、「知らないって言い続ければないことにできる」という謎理論を老後問題にも当てはめることにしたのである。だからといって新たな解決策を模索しようとしたわけではない。臭い物に蓋をしただけだ。
 そんなわけで、金融庁の報告は有耶無耶になってしまったわけだが、実は経済産業省も遡ること2ヶ月前の4月に老後資金不足問題を「産業構造審議会 2050経済社会構造部会」に提出していた。
 試算では、2018年に65歳になる夫婦が95歳まで生きたと仮定すると生活費は生涯で1億1000万円弱必要になるが、公的年金収入は満額の厚生年金でも8000万円程度、単純計算で3000万円弱は不足する、となっている。そして、部会はその数字を元に議論していた。
 ところが、内閣によって「年金だけじゃ生きていけないのよ問題」はもみ消され、3000万円の不足なんて言っちゃ駄目! と口をふさがれたのだ。たぶん、そのせいで部会は空中分解したのではないか、と推測するわけである。前提がちゃぶ台返しされ、部会の委員さん方もさぞドッチラケだったことだろう。心中お察しする。
 しかし、もしこの部会が続いていたとしても、最終結論は私の心に適うものではなかったはずだ。
 前述した通り、「投資を中心とする自己責任の資産形成とギグ・エコノミーを推進していって、死ぬまで馬車馬のごとく働く社会を作ろう!」になっていたはずだから。
 なにせ、公開されている資料には「第四次産業革命」やら「百年健幸」やら威勢のよい文言が並ぶばかりで、「のほほんとしていても安心老後」なんて提言はひとつもない。
 とにかく「働け! 働け! 働け!」である。健康も、幸せな隠居生活を送るための健康ではない。労働力としてお役に立てる状態を保つための健康だ。
 なお、厚生労働省もこの時期、同様の試算を元に年金制度や高年齢者雇用安定法の改革を進めていた。そして、こちらは着々と議論が進み、近年相次いで改正法案が成立する運びとなった。正しく改まったかどうかはさておき、とにかく改められたのである。
 今秋から導入される予定のインボイス制度も同じ流れの上で言い出されたものだろう。
 企業は高齢者の雇用に責任を負わされることになるが、直接雇用は負担が大きい。よって、可能な限り、社会保障費の負担がゼロで、なおかつ賃上げの必要もないばかりか安く買い叩ける(私のような)フリーランスを使いたい。
 そのために、いわゆるギグ・エコノミーを拡大したいのだ。
 ギグ・エコノミー(gig economy)は「ジャズ音楽のギグのようにその場その場でセッションする、つまり労働力の需要と供給をその場かぎりでマッチングする」そうだが、日本古来の伝統的な言葉を使えばつまりは「単発仕事の日雇い/時間雇い」である。
 これまでは主に第一次産業や第二次産業で盛んだったが、インターネットの発達で「労働力の需要と供給のマッチング」が容易になったために第三次産業にまで広がった。
 ギグ・エコノミーは本来シェアリング・エコノミー、つまり遊休状態になっている物件や個人の時間/労力/技能を金銭化する“ライトな副業”の一環として認知されていた。ところが、米国などではギグ・ワーカーを利用することで雇用者の負担軽減を図る経営者が続発し、労使関係を破壊する一因となっている。
 でも、老人の場合、「年金を補完する」目的に限ればこれはこれで「あり」の働き方なのかもしれない。
 だが、ギグ・エコノミーは「消費税の免税事業者」を多数生むことになる。ミニマムな経済活動なのだから当然だ。もし老人が働きやすいようにしたいのなら、制度はそのままにしておくべきである。
 しかし、新たな利益が生まれるのに税金をかけられないなんて、財務省には我慢できないのだ。Beatlesの名曲「Taxman」の歌詞に「全部税として取られないだけ感謝しなさい」ってのがあるが、まさにあれである。インボイスの開始は、国として雇用者の責任が発生しない個人事業主を増やす方向に舵を切る中、税金のとりっぱぐれが起こらないようにするための地ならしだろう。
 経済界と経済産業省はギグ・エコノミーをやりやすくなればいいだけで、そこに従事する人々が二重の搾取対象になるのなんて知ったこっちゃあない。
 こうして当事者以外のwin-winが成立する。
 すべては「少子高齢化で生産人口が減る中、税収は維持しつつ、社会保障の質を落とすことで国庫全体における社会保障費を減らして国の負担を減らす」政策に繋がっている。
 ま、要するにですね。
 私たち国民は、もう粛々と「年金だけでは生活できない」を前提として受け入れなきゃいけないわけです。国はとっくにその方向に切り替えています。それが嫌なら易姓革命レベルの政権交代を起こさなきゃ無理ですけど、今の世の中を見る限りまずないでしょう。
 これが「斜陽の国で老いていく」ということなんですね。
 どんなに厭な現実でも、それが現実である限り向き合っていかなければならない。
 公助をできる限り縮小し、自助を際限なく拡大する方針の背景にあるのは、新自由主義が大好きな政権ブレインたちの“思想”だろう。彼らは格差の拡大など屁とも思っていない。むしろバッチ来~い! だ。だから、「ナッジ」とか「インセンティブ」とかを錦の御旗に、特定業界への利益誘導を恥ずかしげもなくやってのける。
 ちなみにナッジ(nudge)とは、
1 (注意・合図のために,特にひじで)〈人を〉そっと突く,軽く押す;((比喩的)) 〈人の〉注意を引く,軽く刺激する[あおる]. (『小学館 ランダムハウス英和大辞典』より)
という意味の英単語を語源とする、行動心理に関する用語で、「個人の自律とパターナリズムに基づく有効な介入のバランスをうまくとるための方法」であるそうな。選択肢がむちゃくちゃ多い世の中で、個人が感覚的に最良の方法を選択できるよう、強制するのではなく、さりげなく誘導してあげましょう、ということらしい。
 今の行政はこの「ナッジ」が大好きである。省庁や地方自治体の資料には「ナッジ」という言葉が散見する。やたらめったらインセンティブ(やる気を起こさせるような刺激や動機付け)を使いたがるのもナッジがインセンティブの利用を推奨しているからだ。
 なお、ナッジ理論を提唱したノーベル経済学賞受賞者のリチャード・セイラーと哲学者のキャス・サンスティーンは、その著書『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』の中で、ナッジの悪用(スラッジ)について言及している。
 スラッジとは、それをやらせる主体(政府や企業)が望まないことをするには膨大な労力や費用がかかるよう、制度設計することだ。これもまた最近よく見かける事例である。
 わかりやすいのだと、サブスクリプション契約を解除しようとすると解除ページがなかなか見つからなかったり、何回もウザい確認が入るような設計になっているサイト。あれなんかがスラッジの典型例だ。
 同じように、健康保険証をマイナンバーカードにしなければ窓口手数料があがるようにする、なんていうのも典型的なスラッジだ。
 要するに、行動主体が、行動をさせる側にとっては望まない行動をしないよう、せっせと嫌がらせをするのである。性格悪いことこの上ない。
 今の政府がナッジ理論で制度設計しようとしている以上、私たちはこの理論を理解して、彼らがナッジを悪用しないよう慎重に注視していかなければならない。だが、政府のように注視するだけではいけない。スラッジをやろうとしたら、全力で止めなきゃいけないのだ。
 なんともめんどくさい世の中になったものだ。
 私はただのほほんと老いていきたいだけなのに。
 願わくは豪華客船の中で一生を過ごしたいだけなのに。
 ぼんやりと暮らすためには、搾取したい連中の思惑にのせられないよう、その手法を学び続けたり注視したりし続けなきゃいけない。ぼんやりしたいならぼんやりしていられないなんて、なんたる喜劇的矛盾か。
 とにかく、どれだけ望んでものほほんとはしていられない世の中になってしまったのだ。
 つらいことである。

 

(第16回へつづく)