いよいよ何十年ぶりの体力テストである。
 しかも単なる測定ではない。SPS(スポーツ・プログラム・サービス)はプチ人間ドックも兼ねているので、身体測定や採血、採尿、さらにはレントゲンや心電図、医師の診察まで含まれるのだ。結構本格的。
 学校時代、授業がなくなる行事が大好きだった私は、今回もなんとなく意気揚々と会場の横浜アリーナに向かった。
 アリーナの外縁通路からは、晴天に遠く映える富士山が光って見えた。
 なんとも縁起がよいではないか。体力テストに験担ぎが必要かと問われると微妙だが、爽やかな気分になるのはよいことだ。
 受付で手続きを済ませ、運動服に着替えたらいざ始まりである。指定された部屋には私以外7人の受検者がいた。みなさん私より年上のようだ。まあ平日朝イチから体力テストを受けるなんてヒマ、普通の社会人にはないだろう。私だってこんなこと(つまり「老い方がわからない」の執筆)がなければ来なかったに違いない。
 だが、受け終わった今、私は声を大にして言おう。
 大きいお友達のみんな! 体力テストは一回やってみたほうがいいよ!
 と。
 なぜなら、ここで私は予想だにしていなかったコペルニクス的転回を迎えることになったからだ。大げさにいえば後半生が変わったのである。
 いやあ、まさに驚きの結果、だった。なにが驚いたって、子供の頃から頑なに信じ続けていた「私は体が超固い体力0の運動音痴」は単なる思い込みだったと判明したのである。
 なんとなんと、私は同世代の中だと体力も運動能力もまあまあ優秀な方に入る、そうなんですよ。
 結果のほぼ全てが年相応か年齢以下の水準。骨量も筋肉量もまったく問題なし。歩行能力にいたっては20代同然だっていうじゃありませんか、あなた。まあ確かによく歩く方だけど、今回測ったのは持久力じゃなくて最大歩行速度、つまり歩く能力そのもので、これが20代ってことは大変に素晴らしいんだそう。前々回、フレイル指標のひとつに歩行能力があったのは覚えておいでのことと思う。それぐらい大事なのだ。
 唯一ミソがついたのは足を前に伸ばしての前屈で、これは「80代相当」と惨憺たる結果だった。しかし、両足裏をつけた状態で横に開脚しての前屈ならかなり曲がるので、柔軟性ではなく、下腿部の骨格の問題だろうということだった。つまり骨筋になんらかの異常があるだけで、体自体が極端に固いわけではなかったのだ。
 びっくりである。
 小学時代からずっと駄目だ駄目だと思っていた我が体力および運動能力、実はそれほどでもなかっただなんて。むしろ、今になってみれば同世代中上半分に入るなんて。
 目から鱗が落ちた。ボロボロ落ちた。足元にうず高くたまったほどだ。
 だがつらつら過去を遡って考えてみると、鱗の出どころについては思い当たる節があった。小学一年生時のクラス担任教師(専門は体育)と我が母である。私の目に目一杯鱗を挿し込んだのは、この二人だ。彼らが「体が超固い体力0の運動音痴」と私に刷り込んだのだ。
 もちろん、故なしではない。確かに私は「体を思い通りに動かす能力」は低かった。これは運動に限ったことではない。楽器や道具の使い方も同じだ。こうやりなさい、と手本を見せられたとして、頭では理解できる。ただ理解した動きを体で再現する能力が著しく低いのである。何事も型の習得までにかなりの時間を要する。
 また動体視力は眼科医が「こんなに悪い人も珍しい」と感心するほど悪い。おかげで最近趣味になったバードウォッチングでも苦労している。
 なんにせよ、体を思い通りに動かすのが苦手な以上、ダンスや体操、球技などにはまったく向いていない。できないことはないが習熟に人一倍時間がかかる。ゆえに、時間が限られた体育の授業や習い事では成果を出すことができない。だから評価が低くなる。ただし、一度飲み込むと後は早い。けれども、できるようになった頃には授業はもう別の競技に入っている。
 教師は体育の時間だけ、母親は通信簿の点数と習い事先での成果だけで判断する。そのため彼らは「この子はからっきし」と早々に評価を下してしまった。幼い私はそれを真に受け、「私は運動が苦手」と思い込んだ。だから運動を避けるようになり、やがて“運動嫌い”になっていった。特に競争や勝敗が伴う競技は大嫌い。体の動かし方が下手だから走るのは速くないし、動体視力最悪だからうまく投げたり取ったりできない。団体競技だと確実にチームの足を引っ張ってしまう。
 けれども、今思うに、ペースを乱されない限り体を動かすこと自体は決して嫌いではなかった。特にジャングルジムや雲梯は大好きだった。猿的動作ができる遊具が好みだったのだ。
 体育の中なら水泳は比較的好きだった。フォームやタイムをうるさく言われさえしなければ、平泳ぎで延々泳いでいるのなんてむしろ歓迎だった。
 また、猿的動作が好きだったのは、バランス感覚や反射神経が悪くなかったからだと思う。今回の体力テストでもバランス感覚は30代相当だったし、反射神経も年相応と出た。実は、バランス感覚については前々から密かに自負していた。反射神経だって、今回のテストでやったような光の点灯を確認してから飛び上がるタイプのものではなく、ふいに落下する物をつかむタイプの試験だったら相当いい結果が出たと思う。なにせ日常生活において物を落とすと、十中八九は途中で掴めてしまうのだ。危険を察知して飛び退いたりするのも速い。つまり、合図を確認するプロセス――「意識が体に命ずる」プロセスさえ噛まなければ驚異の反射神経を発揮するのは、日常的に自覚している。
 要するに私は、競技スポーツに関わらない限り、なんの問題もない人だったのだ。私が「体が超固い体力0の運動音痴」と評価されたのは(ただしスポーツ教育の基準に則れば)というカッコつきの話だったのである。ある意味、超マイペース/超個人主義的な体力/運動能力といえよう。
 なんということでしょう! 「体」まで筋金入りのインディペンデンティストだっただなんて! 
 もうつくづく生まれついてのボッチ体質、というしかない。
 しかし、これがわかったことで、私の老い方計画づくりはまったくフェーズが変わってしまった。思い込みのせいで、フレイルやロコモまっしぐらの未来しか想像していなかったからである。なんだったら50代半ばでもうサルコばあちゃんモードに入るのではないかと恐れていたぐらいだ。
 ところがどっこい、現状をキープする限り、私にそんな未来は訪れないのである。それどころか高齢者になってもシャキシャキ動けるかもしれないのだ。
 なんということでしょう!(再び)
 前半生にわたってあれだけ劣等感に苛まれていたにもかかわらず、モンガミオコ51歳は驚異の健康優良体力優秀児だった。思いもよらぬ大逆転。コペルニクス的転回だ。だって、この前提なら「体」の老い方プランニングが全然変わってくるもの。
 テスト前、ぼんやりとだが我が後半生は「フレイルに陥るのをどれだけ遅らせられるか」勝負なのだと思っていた。だが実際にやってみると「鍛えればまだまだいけるんじゃね?」に変わってしまったのだ。
 すばらしい!
 すばらしいが、これも正式な体力テストを受けてみたから判ったことだ。自己判断だけで進めていたら、まったく的はずれ――というか自分を不当に低く評価したプランニングをしていたことだろう。やはり計画作成には科学的データに基づいた客観評価が必要不可欠だったのだ。
 ゆえに、最初に戻る。
 大きいお友達のみんな! 体力テストは一回やってみたほうがいいよ!
 今回、私が受けたのと同等の詳細なテストを提供する施設は限られることだろう。けれども前回書いた通り、体力テスト自体はスポーツ施設やスポーツ系イベントで受けることができる。単発イベントは春秋の大型連休期間に行われることが多いようだ。タウン紙や行政からの公報をチェックしたり、スポーツ施設に直接問い合わせてみるといいだろう。また、自治体のスポーツ振興課系部署に問い合わせるのもありだと思う。
 どうにか探し出して、体力テストを受けて自分の「体」を数値的に客観視してみよう。私のようなビッグサプライズがあるかもしれない。子供の頃からの運痴だった人ほど、うれしい発見があるかもしれない。
 逆も然り。特にかつてスポーツ・エリートだった人はかえって問題が見つかるかも。自分で思っているより骨量も筋肉量もヤバいかもしれませんよ? やーいやーい、ざまあみろ!(完全に私怨)。
 ともかく、今回、重い腰をあげて体力テストを受けたおかげで思わぬ教訓を得た。
 何事にせよ思い込みは駄目、ってことである。
 自分を一番知らないのは自分、ぐらいに心得て、自分の現在地を正確に測ってみる。
 それが正しい方向に歩み出すための第一歩だ。勘違いしたままあさっての方を向いていたら残念な結果になるばかりだ。
 たぶん、子供の頃に受けた雑なジャッジによって思い込まされた・・・・・・・自己・・認識・・に振り回されている人って案外多いのではなかろうか。
 自己判断できる年齢になってから客観データを取ってみると、知らなかった自分が見えてくるかもしれない。苦手! 駄目! 無理! と決め込んで敬遠していた道こそが、本当は己を活かす道だった、なんてことがあってもおかしくない。もしかしたら、ここまでの人生で己を嵌め込んできた枷から解き放たれるかもしれない。老い準備の一貫として、そんなワンチャンにかけてみるのも一興ではないか。駄目だったら駄目で今まで通りやればいいだけだし。
 後半生に入る最初の地点で「現在地の再確認」をするのは、とっても大事だった。軌道修正できて本当によかった。体力テストを受ける決心をした私、スーパーGJである。褒めてつかわす。
 こういうわけで、心技体のうち、「体」は体力レベルでも健康レベルでも花丸の優等生と判明した。結構結構、おおいに結構。大満足である。
 残るは心と技。
 今回、「技」は知と解釈することにしている。だが、知的能力は心とも関わってくるところなので、ひとまず職業能力や家事能力、社会生活スキルをベースに考えていきたい。
 そんなわけで、次は「技」の現在地を明らかにしよう。
 個人的にはそれほど悪くないだろうとは思っているのだが……「体」とは逆のサプライズが起こったりしないか、それだけが不安だ。

 

(第9回へつづく)