2023年10月6日、正午過ぎ。
私は上越新幹線の終着駅に降り立っていた。
投宿予定のホテルに荷物を預け、駅前のロータリーでタクシーを拾い、行き先を告げた。
「新潟ユニゾンプラザへお願いします」
運転手は軽く頷き、車は滑らかに走り出し、私はぼんやりと窓に流れる景色を眺めた。
越後で過ごす誕生日か。珍しいことになっちゃったな、と思いながら。
時は少し遡る。
9月半ば、高齢者の住宅問題についてリサーチを進めていたところ、「身寄りなし問題研究会」なるNPO団体に行き当たった。あまりに直截な団体名にいたく興味を惹かれ、さっそくアクセスした。
サイトのトップには「おひとりさまを許せる社会に 私たちはそんな地域共生社会を目指します」との文言が躍っていた。
ああ、すごいな、と思った。
現在表面化しつつある社会の諸問題の本質を、ずばり喝破していたからだ。
前著『死に方がわからない』でもたびたび言及したが、今の社会制度は「家族」がいることを前提に作られている。家族がいなければうっかり死ぬことすらできない。誰もが必ず経験する「死」でさえその体たらくだ。「死」以前の「生」では「家族なし」なんてのは最初から選択肢ですらないような扱いだ。だって、入院や引っ越しなど、誰にでも起こりうるライフイベントに高い高いハードルがあるんですよ? まあ、かく言う私だって、将来的な「身寄りなし」が眼前に立ちはだかるまで問題を見逃していたんだから、偉そうなことは言えないが。
勢い込んでサイトを隈なく読んでみたところ、この団体は長年支援の現場にいた人たちが立ち上げ、運営していることがわかった。つまり、実務者集団が必要にかられて作った団体であるわけだ。間違いなく足が地に着いている。
さらに情報をたぐっていくと、「居住支援研修」が開催されるという告知があった。そこでは「居住支援」現場の生の話が聞けるようなのだ。
なんとお誂え向き! 私が聞きたい「実際のところ」がまとめて聞けるに違いない!
これは神のお導きとばかり、日付をチェックした。
すると、嗚呼なんということでしょう!
日付は10月6日、つまり我が誕生日だったのである。
私は、毎年の誕生日には何があっても必ず丸一日休んで、自由気ままに過ごすことにしている。セルフ慰労会みたいなものだ。この習慣はわりと絶対的なもので、10月に近づいたら仕事のオファーには「6日だけは絶対NGなのでスケジュール調整お願いね」と返事するし、もし日付決め打ちだったら相手がキアヌ・リーヴスでもない限り丁重にお断りすることにしている。
けれども、今回はむしろ誕生日だからこそ行かねばならぬ、と思った。いやさ、神様からの誕生日プレゼントみたいなものだ、とさえ。結果、「越後で過ごす誕生日」になったわけである。
というわけで、最初に戻る。
目的地にはものの10分程で到着し、案内板が示す会場に入ると、そこは私が想像していたようなこぢんまりとした研修室ではなかった。ひな壇付きの立派なホールだった。20はあると思しき各テーブルには5席分の椅子が用意されている。
つまり百人規模の研修会らしい。
あっけに取られつつ、私は指定されたテーブルに一度収まった後、会場を見渡し、「身寄りなし問題研究会」代表の須貝秀昭氏の姿を探した。
須貝氏は地域包括支援センターなど、長年介護や福祉の現場で働いてこられた筋金入りの人物である。そんな中、身寄りの問題を“発見”し、平成29年には有志とともに「身寄りなし問題研究会」を立ち上げられた。NPO法人化したのは令和5年、つまり今年のことだが、活動歴は長いわけである。
氏は正面席におられた。イベント前の忙しい時間帯、しかも挨拶しようとする人々で列ができている。声をかけたものかどうか迷ったが、やはり軽く挨拶することにした。取材目的だからだ。その旨は事前にお伝えしてあり、快諾をもらっていたものの、やはりここはきちんとお声がけしておくのが筋というものだろう。
私は恐る恐る近づき、「門賀と申します。このたびは取材許可をいただきありがとうございました」とごく一般的な社交辞令を多少緊張気味に述べたわけだが、須貝氏はニッコリ笑って「あ、どうもどうも」と軽く受け止めてくれた。こちらの身構えがバカバカしいほど自然体だ。
それで、改めて思った。
やっぱり筋金入りの人なんだな、と。
だいたいにおいて、介護や福祉関係の現場で働いている人は(一部の役所の人を除けば)ごく人当たりの良い……というか、最初から相手を緊張させない雰囲気を持つことが多い。おそらく職業上必要な特性なのだろう。
手助けが必要な人ほど、相手のまとう空気には敏感なものだ。威圧感やビジネスライクな態度を感じると心を閉ざしてしまう。どんな相手でもオープンマインドで接することができるか否かが重要なのだ。
こういう人を見ると、ほんと敵わないなあと思う。私も職業上、初対面の人とお話をする機会は少なくない。しかし、一過性のものだ。しかも多くの場合、相手もインタビューや他者との会話に慣れている。ごく稀に明らかなコミュ障がいないでもないが、ものの一時間ほど話ができればなんとかなるからしのぐことはできる。
しかし、支援の仕事をしている人たちは違う。長いタームで信頼関係を築いていかなければならないが、第一印象はのちの関係性にかなり影響するはずだ。彼らが元々人好きするタイプなのか、それとも職業的訓練の賜物かはわからないが、とにかく相手を緊張させないことに長けているのは間違いない。
須貝氏とひと言ふた言を交わし、私はまた席に戻った。テーブルには、私の他に四人の参加者がいらっしゃった。こういう席上では積極的に御挨拶するべきか、それとも取材者として大人しくすっこんでおくべきか、勝手が分からず少々悩んでいたら、お一人が自発的に名刺の交換会を始めてくれた。ありがたいことだ。同テーブルにいた方々は介護の専門家や社会福祉協議会の職員、そして役所の福祉課職員といった面々だ。みなさん、日々支援の現場にいる人たちである。ただ、会場全体で見ると福祉医療関係者は約半数で、残りの半数は行政関係者や不動産関係者。行政関係者は福祉系ばかりでなく、住宅問題を掌管する土木課の職員も含まれていたそうだ。住宅確保要配慮者の支援者が横断的に関わる研修会だったのだ。
いつのまにかホールも満席、ほぼ定刻に研修は始まった。前半は須貝氏と地元の不動産業者の対談形式での事例発表、後半はそれをうけて各テーブルでグループワークという流れだ。
対談では、お二人がいま実際に関わっている支援者の話なども交え、リアルなところが語られた。実例として上げられていたのは必ずしも高齢者ばかりではない。精神障害者や刑務所出所者の話もあった。事情に違いはある。けれども「住宅確保要配慮者」であるのは同じだ。
そして、聞きながら痛感したことがあった。
結局のところ、住宅問題でさえ最終的にものをいうのは助けを発信できる「胆力」と、差し伸べられた手を掴む「度量」なのだ、と。
助けてくれと叫ぶには、我が身の置かれた状況をある程度客観的に把握し、なおかつ自己解決不可能であると判断する力が必要だ(最初から全て人任せのタイプは除く)。しかし、自分が崖っぷちだと理解できても、なおそれを素直に受け入れられないこともある。ひとりきりではもうどうにもならぬから助けてほしいと声を上げるには、それなりの胆力が必要なのだ。
一方、本人の能力が衰えていても、周囲が見るに見かねて手伝おうとしてくれることもあるだろう。そんな時、助言を聞き入れ、差し伸べられた手を握り返せるかどうかは人としての度量次第なんじゃないかと思う。私の亡父はこの度量が決定的に欠けていたせいで最終的に何一つ自分では始末できないまま逝った。プライドがあったといえばそれまでだが、時には小さなプライドを捨ててもやらなきゃいけないこともある。それができるかどうかを決めるのは、自分の失敗を素直に認められるかにかかっていて、認めるには度量が必要だ。
だからといってシアサッテの方向に「私を助けろ! 助けろ!」と怒鳴り続けても誰も相手にはしてくれない。それどころかただ嫌がられるだけで終わるかもしれない。叫ぶなら、ちゃんと適切な場所を選んで叫ぶ必要がある。そして、適切な場所を選ぶには、それなりの土地勘がないといけない。その肝心要の土地勘を養うには、頭がきちんと働くうちからある程度目処をつけておかなくてはならないわけだ。
そんな時、「身寄りなし問題研究会」のような団体に相談することができたらなんとかなるんじゃないだろうか。旅先で観光案内所に飛び込めば地図や情報はゲットできる、みたいな。
やはり、ここはもう少しお話を聴くべきである。
そう判断した私は、後日、須貝氏にインタビューを申し込んだ。
どんなお話を聞けたのか。それはまた次回。