2040年問題。
 社会問題に関心が高い向きにはすでにおなじみの言葉だろう。この連載でも何回か触れてきた。
 2040年には団塊ジュニア世代、日本最後の人口ボリュームゾーンである世代が高齢者となり、日本の高齢人口はほぼピークを迎える。
 しかし、現役世代は減る一方。そのため、どの分野でも猛烈な人手不足が発生するとみられている。というか、問題はすでに顕在化している。とりわけ介護現場は崩壊が現実的な未来として予測されているほど危機的な状況だ。
 今頃になって政府は異次元のなんちゃらをやっているが、あまりにも遅すぎた。少子化対策は団塊ジュニア世代が出産可能な年齢にあった時期にやっておかなければならなかったのだ。でも、政府も社会も、なんなら団塊ジュニア世代自身も問題を見て見ないふりをしたまま、徒に時が流れた。
 団塊ジュニア世代は就職氷河期世代のトップランナーであり、バブル崩壊後に社会人生活を始めている。20代から40代にかけては賃金上昇率が低く抑えられた。また非正規雇用を長年強いられている者も多い。これらが影響し、婚姻率も出産率も親世代と比べ物にならないほど低いままだ。中には私のように好き好んで独り身を選んだ人間もいるが、そうでない者も多い。特に男性には多いはずだ。なぜなら、団塊ジュニア世代はまだまだ昭和の価値観を強く内面化している。つまり、甲斐性のない男は結婚相手とみなされなくて当たり前、だったのだ。
 また、結婚しても子供の数を抑える夫婦が多かった。これには初婚年齢の上昇や専業主婦率低下の影響もあるだろうが、経済問題が理由の最たるものであるのは「出生動向基本調査」などを見ても明らかだ。
 だが、今ここで指摘したいのは少子化問題の責任や原因ではない。
 この先、どうやったって人口は増えず、私たち世代は支えてくれる層がないまま年老いていかねばらないという超シビアな現実である。
 国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、現段階では、2050年には東京を除くすべての都道府県で今より人口が減少し、うち2割は30パーセント以上も減少するそうだ。
 さて、これをどう考えるか。
 まず想像できるのは、これまでの日本を支えてきた諸々のインフラ──上下水道、ガス、電気、通信、交通機関、そして医療などすべての分野において、需要が少ない地域からごっそりと削られていくであろう、ということである。
 前回の夢小説は、曲がりなりにも交通手段はあり、物流は都会と同レベル、通信や水道光熱も当たり前に供給されている前提になっていた。2024年の今ならば、その前提は間違っていない。けれどもそれがいかに儚い前提かは、近年続く交通インフラや郵政サービスの縮小を鑑みれば自明だ。民営化してもサービスは変わらないはずだったのが、実際はどんどん縮小していっている。民間企業になれば営利追求が目的になるのだから、当たり前の話である。
 ものすごく身近な話だと、私が住んでいる横須賀市の市内交通に重要な役割を果たしている京急バスが昨年から便の削減をし始めた。人員不足のためと説明されている。なお、バス料金も一気に数十円とそこそこ大きな値上げをした。これは燃料費や人件費などの高騰のため、なのだそうだ。交通インフラを担うとはいえ民間企業である以上、こうした選択は致し方なし、なのだろう。
 だが、公営である水道料金も値上がりした。独居者や小規模世帯が増えたことにより水道料金徴収額が低下したため、計算方法を変えたそうだ。その結果、まさしくその「独居者」である私は数百円負担が増えた。これも受益者負担の原則を考えれば致し方なし、の一つに数えられるのかもしれない。
 だが、生活が少しずつ圧迫されている感は否めない。
 負担額が増えているのは、生活の維持に必要不可欠で節約にも限度がある分野である。今はまだひと月単位ならば千円以下の増額に過ぎないが、これがどんどん積み重なるとどうなるのだろうか。
 ごく単純にいえば、インフラは利用者が多ければ多いほど個々の負担額は低くなる。つまり大都市圏が有利といえるだろう。だが、大都市圏であっても都心から離れたベッドタウンのような場所は油断ならない。
 たとえば昨年末に大阪府南部の路線バス事業者「金剛自動車株式会社」が、いきなり全15路線を廃止し、バス事業そのものから撤退すると発表した。金剛バスといえば地域の交通の要であり、年間利用者は約110万人に及んでいたという。地域人口も70万以上いる。
 それなのに廃業になってしまった。主な理由は「運転手不足」と発表されている。しかしながら問題はそれだけではなかったらしい。
 同社は15年ほど前から利用者減による赤字が続いていたそうだ。運転資金の枯渇は人員不足に繋がり、需要があっても応えることができず、経営環境を圧迫する。そんな悪循環が重なり、結果として廃業に至った。
 実は一昨年、取材で南河内郡太子町にある叡福寺──聖徳太子の陵墓があるとされている寺を訪れた際、金剛バスを利用したことがある。その時に驚いたのが、運賃を現金でしか支払えないことだった。自治体が走らせているコミュニティバスならともかく、今どきかなり田舎でもバスはICカード決済可能なことが多い。私は「ここ、大阪よね?」と若干引きつつ、システム利用料などを支払うのが厳しい経営状況なのかなあなどと思ったものだった。
 だが、参拝後に利用した最寄り駅・上ノ太子駅ではさらなるドン引きが待ち受けていた。なんと一時間に2本しか電車がない時間帯があったのだ。
 もちろん、かなりの地方にいけば一時間2本なんてザラである。しかし、上ノ太子は大阪市南部最大の繁華街である天王寺/阿倍野界隈に30分ほどで行ける駅なのだ。思いっきり通勤圏内である。よって、通勤通学時間帯は一応一時間に4本は出ている。でも、それ以外の時間帯は……。
 大阪でこれ? Againである。しかも運行させているのは金剛バスのような小さな会社ではない。近鉄という、私鉄としては日本一の営業距離を誇る大会社だ。
 私がよく利用する最寄駅は、都心から一時間半ほどかかるプチ田舎かつ横須賀線のどん詰まりなのだが、それでも最低一時間に3本は走っている。ああ、目くそ鼻くそと笑うなかれ。この1本の差は大きいし、一時間に2本なんていう時間帯は始発や終電の時間帯を除けば、ない。
 だが今後の日本においては、各地で「これ」が見られるようになっていくのだろう。うちらあたりもいつまで保つことか。
 いくら人口を抱えていても、それらが「移動しない人口」=高齢者なのであれば交通インフラは衰退していく。水道光熱費にしても、事業者が増えないのであれば家庭需要のみが頼りになるが、高齢者が水道光熱費をどんどん使うなんていうのは活動面でも経済面でも考えられない。
 さらに、医療もすでに危機的な状況に陥っている。
 都市圏以外では、中核病院の医師や看護師の不足がすでに問題化している。特に専門医や高度医療の担い手が不足していて、人材確保にあの手この手が使われるものの、なかなか奏功しないそうだ。
 都市圏の大病院でも「儲からない医科」の閉鎖が続いている。たとえば産婦人科は少子化によってどんどん少なくなっているが、産婦人科の診療対象はお産だけではない。婦人科、つまり女性特有の病気も含まれる。つまり産婦人科の閉診は人口の半分を占める女性の健康問題に直結するのだ。
 では、日常的な医療を支える診療所(クリニック)などの開業医はどうだろう。
 今のところ、人口密度に関わりなく、それほど閉院率は高くない。ただ、これも「今のところ」のエクスキューズが付く。
 厚生労働省が令和2(2020)年に発表した「医師・歯科医師・薬剤師統計の概況」によると、開業医が経営する診療所の医師の平均年齢は60.2歳だという。つまり、後継者がいなければ2040年には医師の高齢化を理由に廃業する医院が続出すると考えられる。無医村のような医療サービス0エリアが人口集中地区でも発生しうるのだ。
 介護関連もほぼ同じである。担い手の平均年齢は50歳以上だ。
 介護ヘルパー不足が叫ばれて久しいが、低賃金重労働が解消されないため今後も劇的に改善するようには思えない。若い人たちが将来設計をできないような賃金では人が増えるはずもない。それなのに低賃金に抑えられている。この分野に関しては、アダム・スミス先生おっしゃるところの「神の手」は働かないらしい。ついでにライター稼業にも働かない。神なんて大嫌い。
 老人は増える、でも病院や診療所は減る。介護者も減る。
 国は今後、終末期の在宅医療を推し進める構えだが、その担い手が2040年に十分いるかとなるとかなり危うい。担い手不足が続く限り、医療や介護を受けられない高齢者が増えていくのは避けられないわけだ。
 このように、人口が少ない小規模自治体だけではなく、一定の人口規模を抱える中核都市であっても、今後は安住するに足るインフラが揃わないようになっていくのはほぼ既定路線である。
 では、寄らば大樹の陰ってことで、東京や大阪のような大都市に住めば問題は解決するのだろうか。
 それがどうもそうでもないっぽいのだ。
 確かに、交通や物流などは維持されやすいだろう。医療供給も比較的安定すると見られている。けれども介護に関しては都市も小規模自治体もあまり変わらない事態に陥るんじゃないか、なんだそうな。
 現状の人口推移が続けば(というか、それしかないわけだが)日本が自前で人員不足を解決できる目処めどは絶対に立たない。今から少子化対策をしたところで、人口グラフの減少角度をわずかながら緩やかにするぐらいの効果しかないだろう。
 介護ロボットの利用なんて話も出てきている。それは介護者の労力軽減に繋がるかもしれない。けれども、介護者の数を増やす決定打になるわけではない。もし機械類の導入で作業が楽になったら速効従事者増に繋がるというのであれば、農業人口の減少はどう説明するのだろうか? 農作業は百年前と比べて飛躍的に楽になっているはずだ。でも、就農者数が上向きなんて話は聞いたことがない。そうならないのは結局のところ労力と報酬の釣り合いが取れない──「これだけでは食えない」レベルで取れていないからだ。
 また、外国人の人材を受け入れるなんて話も出てきている。だが、こんなのなんの解決にもならないことは目に見えている。
 まず人材育成が困難だろう。介護も医療も専門職であるが、同時に人間を相手にするコミュニケーション必須の職だ。言語が通じなければ話にならない。旅行客相手にちょっと話せます、のレベルでは済まないのだ。さらに文化の違いは世話の質に直結するだろう。日本の中でさえ、東西でこれだけ文化が違うのである。私も大阪から東京に引っ越した当初は、外食するたびにうんざりしたものだった。今でもこっちのうどんは食べられないし。食文化はいうまでもなく、部屋の掃除やらちょっとしたものの言いようやら、日常の中での文化差は確実に摩擦の原因となる。相互理解にはコミュニケーションが不可欠だが、老人にそれを求めるのは難易度が高い。
 それに、である。そもそも20年後の日本が、外国の人々が喜んで働きに来てくれるような国のレベルを保てているとは限らないのだ。低成長や円安が続けば、外国人を受け入れるどころか、日本人が富裕国に出稼ぎに行かなければならないようになるだろう。どうやらこの現象はすでに一部の技能職では始まっているようなのだが。
 こうなった時、考えられるシナリオはたった一つ。
 貧富の差が、介護医療サービスの差に直結する、ということだ。
 都心や高級リゾート地には富裕層に向け、至れり尽くせりのサービスを提供する老人施設が増える。一方、そんな金を出す余裕がない私のような人間は、ジリ貧になるばかりの介護医療サービスで凌ぐしかない。
 こう考えた時、私が戦慄とともに思い出したのが、アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』で描かれた「貴腐老人」の姿だった。
 このアニメでは、西暦2034年(たった10年後)、人体機能を次々とサイボーグ化することによって今よりもサイバー化は進んでいるけれども、世界大戦の影響などによって人類が穏やかな衰退に向かっている架空の未来が舞台になっている。
 その未来でもやはり老人問題は発生しているが、人権問題にあまり重きを置かなくなっている時の政府は、寝たきりの老人を直接介護システムにつなぎ、常時バイタルサインの確認をすることで、体面だけは繕っている。政府は決して老人を見捨ててはいませんよ、ちゃんと見守っていますよ、というわけだ。栄養も薬も一応は与えられる。機械的に。
 貴腐老人はみな大規模団地に住んでいる。管理しやすいからだろう。2DKほどの部屋は、ついの棲家としては十分なのかもしれない。でも、介護の手が十分でないから誰も片付けず、ほぼゴミ屋敷と化している。QOL──生活の質を保つだけのサービスはまったく提供されていないわけだ。よって、老人たちは、機械に繋がったまま生命維持だけされて生きながら腐っていく。そんな彼らを、社会は「貴腐老人」と呼んでいるのだ。
 初めてこの作品を見た時の私はまだ若かったので、貴腐老人をあくまで作品世界のギミックとして捉えていた。
 だが、今は違う。
 今後、日本社会が最悪のラインをたどっていった先にある、かなりリアルな自分自身の未来なんじゃないかと感じている。
 たった10年でアニメほどサイバー化が進むことはないだろう。だけれども、見捨てられたに等しい老人は増える。つまり機械に繋がれない貴腐老人ばかりになる、というわけだ。
 今、団地が高齢者の住居として人気になってきている。
 キラキラ老後本などでも「おしゃれで楽しい月5万円団地暮らし」みたいなのが出ている。
 ああいうのを見ると、正直なところ、今の老人世代は気楽でいいよな、と思う。
 今の団地は高度成長期から80年代末までに建てられたものが多い。現在で築40年から60年ほどだ。まだ住もうと思えば住める。けれども、20年後は住むに適さないほど老朽化する物件も増えているだろう。だが、スクラップ&ビルドするだけの余力が、自治体にあるだろうか。おそらく、ない。団地に入れないんじゃあ、貴腐老人にさえなれやしない。
 前回は住宅問題について触れた。今後空き家が増える以上は住居も手に入りやすくなるだろうと楽観的な見解を述べる向きもある。けれども、建屋は刻一刻と古くなるのだ。昭和の建築はそれほど堅牢ではない。一戸建てでも集団住宅でも補修なしには住めなくなるだろう。高齢化した社会は、その負担に耐えられるのだろうか?
 高齢になっても、元気なうちはまだどこに住もうがなんとかやっていけるだろう。
 けれども介護や医療なしではどうにもならなくなった時、どうするのか。
 インフラがない地域には当然ながら住めない。よしんばインフラがあっても、それを利用できないのであればないに等しい。
 結局、慎重に、身の丈にあうサービスを得られる地域を探して住むしか無い。
 そんなところがあれば、だが。
 幸運なことに、条件の整った地域を探し当てたとしよう。
 しかし、人は年を取れば取るほど環境の変化には弱くなっていく。親に同居を勧めても、うんと言わない、みたいな話はよく聞くが、それは子への遠慮ばかりでもなかろうと思う。年老いてからの変化への対応は、若い頃には考えも及ばないほどのエネルギーが必要だ。それならば多少不便でも住み慣れた場所がいいと判断するのは自然なことだろう。だが、それが可能なのも今はまだ老人を巡る環境がある程度整っているからだ。
 今後、全サービスが低下していく中、自分はどうするのか……それを考えておくのは早ければ早いほど良い。
 自然災害大国である日本では持ち家さえ安住の地とはいえない。
 だれもが「終の棲家」について、あらゆるパターンをシミュレーションしておかなければならない。
 そんな世の中がもうすぐ来ようとしているのである。
 なら、私のような、ないない尽くしの人間は、できるだけ情報収集して、シミュレーションし、いざという時には動ける体制を整えておかなければならないのだ。
 ああ、またやることが増えた。うんざりである。(既視感のある終わり方)

 

(第24回へつづく)