リリパット国転落事件
4.
「けっこう浅くて助かりましたね」
「どこが浅いのよっ!」
赤ずきんは顎のあたりまで水に浸かりながら、海の中を進んでいきます。赤ずきんより頭二つ分ぐらい背の高いガリバーは余裕の顔ですが、赤ずきんはもう、ほとんど泳いでいる状態でした。
「ぺっ、ぺっ! しょっぱいわ!」
「海なんだから当たり前ですよ」ガリバーは暢気なものです。「あの窮屈なロープから解放されたのだから、よしとしましょう」
リリパット国、ブレフスキュ国はそれぞれ島国だそうです。その距離はだいたい八百メートルぐらいで、リリパットの西にある要塞からブレフスキュの島影がはっきりと望めるほどでした。
二つの国は長い歴史の中で交戦と和平を繰り返してきましたが、今の気の荒い海軍大臣になってからというもの、かなり仲が悪くなってしまい、だいたい二か月おきぐらいに、どちらかがどちらかに攻撃を仕掛ける状態が続いているとのことです。
「軍艦を沈めるなんて、やっぱり気が進まないわ。ブレフスキュの人たちは悪い人たちじゃないかもしれないじゃない」
「そんな甘いことを言ってどうするんです、赤ずきん。お家に帰るには、そうするしかないんですよ」
「たしかにそうだけど……」
後ろを振り返れば、小さな要塞の向こうに二つの細い塔が屹立しています。展望台にはリリアム14世と何人かの閣僚たちがいるのがかろうじて見えます。小さいけれど性能のいい望遠鏡があるらしく、赤ずきんたちの様子をしっかり見守っているに違いないのでした。
塔に上らず、要塞に直結した港からこちらを見ているのはあの太った財務大臣と、軍服の海軍大臣――ハイヒール党である二人は、他の閣僚たちとは行動を共にしていないようでした。
「赤ずきん、振り返らずに、前を見ていきましょう」
ガリバーに言われ、ブレフスキュのほうに顔を戻します。
やがて島影が近づいてきて、海は浅くなってきました。
ずらりと軍艦が停泊している港に、鎧を着た兵士たちが並んでいます。リリパットの兵隊とは違って、半ズボン。首におしゃれな青いスカーフを巻いていました。みな、リリパット人と同じぐらいの身長ですが、赤ずきんたちが近づくにつれ、様子がおかしくなりました。
「ぐあああっ!」
突然、ガリバーが両手を上げ、熊のような雄たけびをあげました。
ぎゃあ! ぎゃあ! ぎゃああ!
兵士たちはそれを見てパニックに陥ったらしく、我先にと海を背にして逃げていきます。指揮官が慌てた様子で戻るように命令していますが、誰も応じる様子はありません。
「わっははは、私たちが怖いんでしょうか」
「そりゃ怖いでしょうよ。向こうは十センチメートルくらいしかないんだから」
軍艦が停泊しているあたりまでやってきました。当然、兵士は一人も乗っていません。
「ガリバー、沈めるって言ったって、思ったより大変そうじゃない?」
周囲を見渡し、赤ずきんは言いました。軍艦は、大小合わせて、十二隻あります。いくらブレフスキュ人が小さいとはいえ、軍艦となるとそれなりの大きさはあります。旗艦と思しきいちばん大きな船は、赤ずきんにとっては立派なボートにもなりそうなぐらいありました。
「そうですね。でも約束なんで。まずはこれからいきましょう」
ガリバーが手近の軍艦に手をかけようとしたそのとき、赤ずきんの頭の中に、あるアイディアが浮かびました。
「ガリバー、ストップ。編み物の毛糸はまだ持ってる?」
「毛糸?」ガリバーは不思議そうな顔をして、腰に付けている袋に手を突っ込みました。「ありますよ」
「じゃあ、毛糸をのばして、二メートルぐらいの長さで切って。できるだけたくさんよ」
「なんですって?」
わけがわからなそうな顔をしながらも、ガリバーは毛糸を伸ばしてはさみで切っていきます。赤ずきんはそれを受け取ると、かたっぱしから軍艦の舳先の柵に結び付けていきました。
港にはいつの間にか、兵士たちが戻ってきています。突如リリパット国からやってきた巨大な人間が、攻撃も仕掛けずに軍艦の舳先に毛糸を結び付けていく様子を不思議そうに眺めているのです。そうこうしているうち、十二隻の軍艦すべてに結び終えました。
「さあ、ガリバー。毛糸の先を束にして持って。リリパットへ帰るわよ」
「えっ?」
ガリバーは驚いた様子でしたが、すぐに赤ずきんの意図を察したようでした。十二本の毛糸をぐいっ、と一気に引っ張ると、軍艦が動きます。
「ああっ」「軍艦が」「そんな」
ブレフスキュの兵士たちが港でぴょんぴょん飛び跳ねています。指揮官は頭を抱え、うろうろとしていました。
「持っていくな」「返せ」「デカい人間たちめ!」
罵声は浴びせてくるものの、取り返しにくる様子がない彼らに向かい、赤ずきんは「じゃあーねー」と手を振ったのでした。
5.
リリパット国の宮殿の中庭は宴で大騒ぎ。小さな国の、小さな楽団が、大音量で陽気な音楽を奏でています。ステージの上では子供たちが踊っていますが、それはまるで虫の出し物を見ている様でした。リリアム14世もまた、ピロピロと笛を鳴らしながら、子供たちと踊っているのでした。
赤ずきんとガリバーは並んで座っています。もちろん、二人の体を支えることのできる椅子などこの国にはありませんから、地べたに直接腰をおろしているのです。
二人の前には小さいけれど広いテーブルが置かれています。身長十センチメートルの給仕たちが、そこに次々と料理を運んでくるのです。パンなど親指と人差し指でつまめるぐらい、サラダやスープや肉はまるでおままごとのようなお皿に載せられています。
不思議なことに、その配膳は完全に左右対称でした。赤ずきんやガリバーの体が大きいからかと思っていたのですが、大臣たちに運ばれる料理も、パン、サラダ、肉、スープと、完全に二皿ずつ、左右対称に置かれるのです。
そんな不思議な習慣があるようですが、味は抜群でした。特に牛や羊のステーキは脂がしっかりのっていて、赤ずきんは一口食べるごとに「うーん」と唸るのでした。
「それにしても愉快な作戦であったな。軍艦を根こそぎ奪ってくるなんて」
テーブルのすぐ向こうで赤ずきんたちと同じ食事をとりながら、内務大臣がご満悦で笑っています。法務大臣、農政大臣、外務大臣、教育大臣と、その他の大臣たちもにこにこしていますが、海軍大臣と財務大臣の姿はありません。
「敵は軍艦を使えなくなり、対する我が軍は軍艦がさらに増えたのね」農政大臣が笑いながら言いました。「ブレフスキュの将軍たちめ、今ごろどうしようどうしようと会議をしているに違いないわ」
赤ずきんとガリバーが軍艦を引っ張ってリリパットの港へ戻ってきたとき、一番初めに大声で笑っていたのは、この農政大臣でした。
「約束が違う!」
「沈めてこいと言ったはずだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るのは、ハイヒール党の財務大臣と海軍大臣。ですが、ピロピロピロロという笛の音がその怒声を遮りました。
「いいじゃん! こんなに軍艦を持ってきてくれたんだからさ」
すでに塔から降りてきていたリリアム14世が笛を吹きながら踊り、「ガリバー、そこのタラップをいちばん大きい軍艦にかけてくれない?」と言いました。
赤ずきんが通訳すると、ガリバーは港に横たえられていたタラップをひょいと持ち上げ、軍艦に渡します。
「それー、とつげーき!」
リリアム14世はすぐさま、どどど、と軍艦の甲板に乗り込み、はしゃぎまわったのです。
王が認めたことで、他の大臣や議員たちはすぐさま「よくやった!」「すばらしいですわ!」と赤ずきんたちを称賛するほうへ傾き、その後、二人の偉業をたたえて食事をふるまおうということになったのです。
「あはー、美味しいですねえ」
赤ずきんの横で、ガリバーは顔を真っ赤にしています。そのテーブルには、赤ワインの樽がもう十二個も空になっていました。
「我が国のブドウは上質だから、とても美味いワインができるのだ」内務大臣もまた、グラスを傾けて上機嫌。「どんどん飲むがよい、ガリバーよ」
「あはー、ありがとうございます」
イーリス鳥の羽をつけていないはずなのに、ガリバーは内務大臣にお礼を言って、また樽を一口で空にします。酔っぱらいとは、言葉がわからなくても会話ができる人たちなのでしょうか。
酔っぱらっている大人が楽しそうにしているのを、ただ見ていることほどつまらないものはありません。それでも赤ずきんは美味しい料理でお腹を満たし、満足しました。
ふと気づくと、ガリバーは横でぐうぐう眠っています。
「まったく、しょうがないわねえ」
「ブレフスキュとのあいだを往復してきたのだから、しかたあるまいな」
内務大臣の顔も赤くなっています。
「ワインを飲んだからでしょ」
赤ずきんは言いました。
「それより内務大臣さん、私たちが帰るためのボートはいつできるのかしら?」
「ああ、ボートを作るにはかなりの木材、それから労働者に与える賃金が必要となる。木材のほうは農政大臣がなんとかしてくれようが、賃金のほうは財務大臣が了承せねばならんだろうな」
「ハイヒール党ね」
「うむ。しかして、今回のことはリリアム14世王が称賛しておることだし、お前たちに悪いようにはならんだろう。さて」
と内務大臣は立ち上がりました。食事は、ほとんど片付けられています。
「この宮殿の北のほうに、草の広場がある。そこに赤ずきんのテントを作らせておいた。案内しよう」
「ありがとう、内務大臣さん」
赤ずきんはちょうどお腹がいっぱいになって眠くなったところなので、感謝して立ち上がりました。
「ガリバーはどうしたらいいのかしら」
「このまま中庭で寝かせておけばよい。お前よりさらに大きいこやつのためには、西のほうの広場を寝床とする。テントは間に合わんかったが、一日くらいは野ざらしで寝てもらってもかまわんだろう。目を覚ましたら案内しておこう」
「何から何まで悪いわね」
――このときの赤ずきんはまだ知る由もなかったのです。このときすでに、リリパット国が、不穏な計画の霧で包まれていることに。
6.
「たのもう、たのもう」
テントの外で声がしたので、赤ずきんは目を覚ましました。
「お開け下され、赤ずきん殿。どうかこのテントを、お開け下され」
外はまだ暗く、眠りについてから一時間も経っていないと思われました。
「誰かしら……」
赤ずきんは布団から這い出ました。
ちなみに、リリパット国では女性たちの裁縫の技術がとても高く、このテントは都じゅうの余っている布を集めて大急ぎで作ってくれたものだということでした。縫いあわされた部分に隙間はいっさいなく、出入り口は内側から二十ほどのボタンを閉めることで施錠の代わりになります。
そのボタンをはずして出入り口の布をめくると、そこにはランプを携えた、太った白髪の男性がいました。
「財務大臣さん?」
「いかにも。お話があるんですぞ。入れてもらえますかな」
「まあ、いいけど」
本当は眠かったのですが、相手はランベルソへ帰れるかどうかの命運を握っていると言ってもよい財務大臣ですから、無下にしないほうがいいでしょう。
「靴は脱いでくださる?」
「もちろんですぞ。……奥に入っても? 帰るときのために、出入り口のボタンはそのままでよろしいですぞ」
財務大臣は靴を脱ぐと、テントの奥へと進んでいきます。偉い人は奥に座るというルールがこの国にはあるのでしょうか。赤ずきんは気にせず、財務大臣と向かい合うために出入り口に背を向けて座りました。
「改めて、ブレフスキュの軍艦をごっそり引っ張ってきたこと、とても素晴らしきこと。感謝しますぞ」
ずいぶんと丁寧な言い方でした。
「さっきは『約束と違う』って言っていなかった?」
「それはあの場の雰囲気にのまれて言ったこと。冷静になって計算してみたところ、やはり、戦費の削減は嬉しいことでございまして。国家にとって大変な益でありますぞ」
んん、と咳ばらいをすると、財務大臣は声を潜めました。
「それに、外務大臣から聞いたところによれば、ブレフスキュの特使が先ほどやってきて、和平交渉をする準備があるとのこと。あなた方の活躍は、はかり知れぬものがありますぞ」
今なら、交渉できそうだわ。赤ずきんはそう思いました。
「だったら、私たちが海に漕ぎ出していけるボートを作る予算をつけてくれる?」
「ふむ。今宵ここを訪れましたのはまさにそのことなのであります。結論から言えば、不可能ではありません。ただし、海軍大臣を納得させぬことには難しいでしょう。何せ、海のことは彼の管轄ですので、せっかくボートを作っても、彼が出港を認めぬのではリリパット国を出ていくことはできません」
「難しそうね、あの人を説得するには」
「ところが秘策があるのですぞ。この国の歴史を勉強するのです」
「歴史?」
「そうです。海軍大臣は名誉と由緒が大好きなのですぞ。あなたがリリパット国のことをよくよく勉強されたとなると、すぐにあなたのことを気に入るでしょう」
言いながら、今度は懐から豆粒ぐらいの本を取り出し、赤ずきんに差し出してきたのです。
「今から私があなたに、栄光あるリリパット国の歴史について教えましょう」
「ちょっと待ってよ。今は夜中よ」
「ことは早いほうがいい。早速始めるのですぞ。ほい、教科書を開いて」
赤ずきんはその極小の本の表紙を、親指と人さし指の爪で開きました。ゴマ粒よりももっと小さい文字……イーリス鳥の羽は、異国の字までは読めるようにはならないのです。
「まずはじめに、リリアム・リリアムティンという神がいました」おかまいなしに講義を始める財務大臣です。「神はあるとき、浜辺で尖った貝殻を踏み、あまりの痛さに涙を一粒こぼしたのです。その涙から生まれたのが、誇り高きこの国の創始者、リリアム1世でありますぞ」
神様が、尖った貝殻を踏んだって? なんだか、左足の裏がかゆくなってきました。赤ずきんは眠い目をこすりこすり、足の裏を掻き掻き、白髪の財務大臣の歴史講義を延々と聞くことになったのです。
7.
「――というわけで、現在のリリアム14世がお生まれになったのが、今から十三年と二か月と二十三日前、ということになりますな」
ようやく、知っている名前が出てきました。
「リリアム14世がお生まれになったその日は、朝から霧が出ていましてな」
「もういい! 限界よ」
赤ずきんは言いました。テントの外は薄明り。小さな鳥のさえずりすら聞こえます。
「夜明けじゃない。倒れてしまうわ」
「ふむむ、たしかにそうですな」財務大臣もまた、目が真っ赤でした。「それではお暇します。海軍大臣に会ったら、私がそれとなく歴史の話に導きますので、きちんと合わせるのですぞ」
「わかったわ、おやすみなさい」
財務大臣がテントを出ていくのを見送り、赤ずきんは倒れるように横になりました。これでやっと眠れる……はずでしたが、
「赤ずきん、大変です、赤ずきん!」
すぐに赤ずきんを呼ぶ声がしたのです。
「起きてください、赤ずきん」
目を開けると、ボタンを閉め忘れた出入り口から、昨日会った騎兵隊長が覗いていました。
「なによ。徹夜で勉強して疲れてるの」
「タップとヤルセンが殺されたのです!」
殺された? 死体?
「そして犯人はどうやらあなたのお仲間、ガリバーなのです!」
ああ、眠れない。赤ずきんは驚きよりも先に、うんざりしたのでした。