十六 足利直冬(承前)
目を、奪われた。
耳朶を打つ念仏の中心に、まっすぐな、そして強い視線があった。暗い講堂の中では、あまりに鮮やかな薄紅の小袖と、籠目文様の灰色の裳袴。三年と十カ月ぶりに見たその顔は、少しも変わっていない。いや、少しだけ歳を重ねたのか。
直冬を見つめる霞が、立ち上がり微笑んだ。
回廊の途中で立ちすくんだ直冬の前に、皺だらけで目が埋もれているような老僧が、進み出てきた。朱と黒の袈裟を身に着けている。今にも折れそうな貧相な身体だが、なぜかこちらを圧倒してくる気配がある。直冬の前に立ち、頭を下げた。
「頼宝と申します。直義公より、綴連王を守ることを頼まれておりました」
「……父が」
「東国へ出立なさる前、この地にもしも霞と名乗る者が来れば、迎えが来るまで守るようにと。とはいえ、大樹のひざ元にあるがゆえ、佐殿(足利直冬)に使者を送ることも叶いませんでしたがのう」
何かを測るように直冬を見つめる頼宝が、にこりと口元だけで笑い、身体を右へずらした。
足がいつの間にか動いていた。一歩、二歩、気づかぬうちに駆け足となり、正面から駆けよってくる霞を、抱きしめた。様々な感情が胸の内からあふれ出て、言葉になることなく身体の中に戻っていく。霞の長い黒髪が、右手の甲を柔らかく撫でた。
「待たせた」
「よくぞ長い道をまいられました」
妻の、いつもの凛とした言葉が、微かに震えている。その声を聞いただけで、九州からここまでの苦労が吹き飛ぶようにも思った。
「身体は?」
「馬に乗れるほどには」
「そうか」
ゆっくりと息を吸い込み、霞の顔を見ようとした。離れない霞に苦笑し、直冬は天井を見上げた。
「ここは戦場となる。じきに兼見が来る。先に、石見に戻ってくれ」
「ようやく会えたというのにでございますか」
微かな怒気を孕んだ言葉に、直冬は慌てて腕に力を込めた。
「刀は振れるか?」
「この三年、ほとんど外に出ることもできませんでした。書を読み、刀の腕を磨くことぐらいしかすることはなく、今ならば直冬殿にも負けませぬ」
耳に入る言葉全てが、頬を緩ませようとする。顔を引き締め、直冬は頷いた。
「ならば、共に戦ってくれるか?」
霞がわずかに離れ、直冬を見上げ、微笑んだ。
「これを」
そう言って霞が懐から取り出したのは、ところどころ折れ曲がり、土の染みのようなものがついた一通の書簡だった。切封の上の墨引を見て、胸に懐かしさが込み上げた。封を解き、丸まった書を広げる。時の無い中で書いたのだろう。死ぬまで休まずに働き続けた男の文字は、飛び跳ねるように散らかり、それでいて厳格さを感じさせる。
父、足利直義の文字だった。
短い文章だ。よくぞ、生き抜いた。そう始まった文は、霞との祝言を寿ぐ言葉が連ねられている。そして、我が子へと結ばれた言葉を読み終わった時、直冬は目を閉じ、少しだけ俯いた。
「南朝との和議を結ぶために上洛した折、直義公から手渡されたものでございます」
「父は、どこまで先を見ていたのだろうな」
もしも自分が死ぬことがあれば、それを継ぐのは直冬だと、記されていた。この書が記されたのは、尊氏に勝利した直後のこと。直義の頭の中にあったのは、平穏のための政だろう。義詮を支え、幕府を整えようとしていた。平穏のため、武士の王が現れれば、義詮の矛となって殺すのは、お前の役だと、直義は言っていた。
苦笑をこぼし、直冬は書を懐に入れた。
「最後の戦だ」
直冬の呟きに霞が頷いた時、念仏の声が一際大きくなった。
二月に入り、佐々木、赤松、細川軍を引きつれた足利義詮が、播磨から進軍してきた。三万の大軍。近江で軍を整えていた尊氏もまた、義詮に呼応するように三万の兵を連れて西坂本(現在の京都府左京区)に布陣した。
「さて、始めようか」
東寺の望楼から朝焼けの京の街並みを見下ろして、直冬は肩を回した。
この数日、指呼の間に布陣していながら、尊氏軍と干戈を交えてはいない。
互いに、触れてはならぬものでもあるように、兵を出せば引き、引けば出すという動きを繰り返していた。初めて、戦場で相まみえる敵だ。そう思い、直冬は戦人の血が熱くなっていることに気づいた。直貞がいれば、苦笑しながら、気を鎮めろと言っただろう。
今、向かい合っているのは、綺羅星のごとき英雄たちに勝ち抜き、天下を制した武士なのだ。尊氏の動き一つ、見落としてはならない。尊氏もまた、その動きの中で足利直冬という武将を測っているはずだ。
六日、南から息を切らして飛び込んできた伝令に、直冬は血の気が引いた。
八幡を出陣し、義詮を神南(現在の大阪府高槻市)で迎え撃った楠木正儀が、大敗していた。正儀の指揮下で戦った山名一族からも、多くの死者が出たという。義詮率いる軍は三万と掴んでいたが、それが偽りだった。正儀の前に現れたのは、六万を超える大軍。
「……佐々木道誉の謀略だな」
吐き捨てるように言い放った。焦りの中で、拳を握りしめ、直冬は地図に十の印を書き込み、伝令に渡した。
「すぐに正儀へ届けよ。兵をまとめ、この地に布陣してほしい」
わずか一日で正儀が敗れるなど、想定していなかった。このまま正儀が壊滅すれば、尊氏と義詮の挟撃によって一気に敗れ去る。自ら動くか迷い、直冬は息を吐きだした。自分がここにいるがゆえに、尊氏を京に引き付けられているのだ。
祈るように何度も水を呑んだ。正儀から伝令が届いたのは、七日の日が昇る直前だった。
四散した楠木軍は、神南から八幡に後退したが、その途中で軍を十に分けて、宇治から天王山の山中にかけて布陣したという。
安堵の息を吐き、直冬は氷のように冷たい水を温めるよう兵に頼んだ。
義詮としては、これを無視して北上することはできない。一度は、正儀を無視して北上しようとしたようだが、正儀率いる四千の軍に夜襲を受け、崩されている。八幡を睨む位置に布陣し、そこから動くことはできていなかった。
だが、それも長くは続かない。西坂本に布陣する尊氏を、早急におびき出す必要があった。
「桃井、斯波に伝令。錦小路、大宮まで押し出せ」
六条河原に布陣する尊氏軍の一部が、錦小路と大宮から南下しようとしている。ちらりと東の方角を見て、盛宗にも兵五千を率いて鴨川まで押し出すことを命じた。一刻ほど経った時、東寺に駆け込んでくる伝令が多くなった。
「ついに、始まったな」
次々に届くのは、討ち死にした武士の名だった。ぶつかっている場所は、東寺から四半里もない。耳を澄ませば喊声も聞こえてきた。夜まで押し合って、直冬は全軍の後退を命じた。尊氏も同じ命を降したようだった。帰還した盛宗が、水浸しで頭を掻いていた。東福寺の方角に埋伏していた敵を奇襲し、川を越えて追ったという。
こちらを測りながらも、隙があれば急所を狙ってくる。尊氏の戦のやり方が、なんとなく知れた気がした。まだ、尊氏も遊び程度だろう。それから数日、同じような押し合いが続いた。桃井、斯波が壁となり、盛宗が兵を大きく動かし移動している。
「仁科殿は、上手く兵を埋伏させているようですね」
望楼で、霞が呟いた。盛宗が率いていた兵は、すでに千ほどが討ち取られたことになっていた。派手な動きを目隠しとして、十人、二十人と街の中に埋伏させている。
敵の勢いが変わったのは、十五日の夕暮れだった。尊氏が清水坂の十住心院に置いた本陣を出て、鴨川を渡って戦場を督戦しているという。
ようやく、尊氏が本陣から頭を出した。直冬は、京の地図を見て、桃井、斯波の軍を徐々に後退させた。十日間、激しくぶつかりあい、その間、直冬は東寺から動かなかった。尊氏は、いま直冬の思惑を測りかねているだろう。何かを待っているように見えているかもしれない。
「戦場をじかに見て、埋伏に気づいたかな」
遮る街を薙ぎ倒すように進んでくる尊氏軍を遠目に見て、直冬はにやりとした。義詮は未だ八幡の正儀に苦戦している。軍をわずかに北上させて入るが、正儀の追撃を恐れて、直冬たちの戦に割って入ることはできていなかった。
三月七日の夜、直冬は正儀に伝令を送り、十に分けた軍のうち、兼見率いる二軍を宇治から山に入れて埋伏させるように命じた。防ごうと動いた義詮の軍を、正儀率いる八つの軍が急襲した。尊氏にもその動きが伝わったのだろう。夜が明けた八日、尊氏が西坂本に後詰の兵を残し、一万五千ほどの兵で一斉に七条通りまで押し出してきた。
少しずつ近づいてくる尊氏を、待ち焦がれるような気持ちになった。
「桃井、斯波を東寺まで後退させよ」
この一月ほどの戦で、桃井と斯波の兵はそれぞれ三千ほどにまで減っている。盛宗の麾下三千と直冬直下の二千を合わせて一万千。ただ、京の街に散り散りに埋伏させた兵が二千はいる。
桃井たちの後退を罠と思ったのか、尊氏が前進を止めた。
戦となると、尊氏はどこまでも慎重だった。昔の戦を聞くかぎり、尊氏は勢いで勝利を手にしてきたようにも思っていたが、その正反対だ。僅かでも無理があると思えば、あっさりと兵を退く。逆に微かな緩みを見て取れば、凄まじい勢いで押し出してくる。
「さすがに強いな。兵法書に載る手本のような戦い方をする」
手足をもがれていくように兵を失っているが、戦場では焦った方が負けることを直冬は知っていた。九日、十日と布陣を少しずつ変えながらも、睨み合いが続いた。桃井と斯波を左右両翼に置き、盛宗を中央に布陣させた。南からの義詮の攻撃は、正儀が防ぐと信じた布陣だ。こちらの動きに応じるように、尊氏も軍を動かしている。
三月十一日、東寺の境内に一本だけある桜が、花を咲かせた。
白の花びらが、風と共に舞い上がる。
柔らかな春の日差しを受ける桜から、視線を北へ向けると、東西に広がって進んでくる尊氏の二万の軍容が見えた。左翼は細川清氏、右翼を仁木頼章が率い、その中央には、二つ引き紋が高々と翻っている。
そこに、尊氏はいる。
五町(約五百四十五メートル)ほどの距離だ。まだ表情は見えない。そもそも、尊氏の顔をしっかりと見たことはなかった。その声を近くで聞いたのも、一度だけ。だが、一目で分かった。
「風格とでも言うのかな」
「ええ、直冬殿にはないものでございますね」
霞の言葉に頷きながら、直冬は開いた扇を閉じた。
ただ一騎、強烈に光り輝いていた。両軍合わせて三万近い軍がこの場にいるはずだが、その全てが霞んでみえるほど、その一騎は目を引く。白糸縅の甲冑を身に着け、兜の金の鍬形は、日の光を受け、鋭い光を放っている。
母が死んだ日から、真正面から父と向き合う日を夢見てきた。だが、刀どころか、軍を率いて対峙することになるとは思ってもみなかった。
はたして、あの光り輝く武士の王を討てるのか。刀の柄に手を添えた時、いつの間にか近づいてきていた霞の手が重なった。
尊氏軍が動いたのは、翌朝だった。法螺貝の音が、あちこちから響いた。正儀を突破できない義詮との合流を諦め、独力で直冬を討つことを決めたのだろう。時が経てば、宇治から山中に潜んだ直冬軍が、後背に現れることを尊氏は知っている。
単純な兵力でも、尊氏軍の方が二倍近い。攻め時だと、尊氏は見たのだ。
仁木と細川が猛然と前に出てきた。桃井と斯波がそれを受ける。尊氏軍から動揺が伝わってきた。この二十日間ほど、桃井と斯波には、敵とぶつかれば必ず最後に退くよう命じてきた。だが今、桃井と斯波の二軍は、一歩も退かず、むしろ少しずつ押している。
街に潜む直冬軍による奇襲を、尊氏が警戒していることが分かった。中央の尊氏は軍を五段に構え、尊氏は三段目にいる。
「狼煙を」
東寺の境内から黒々とした狼煙が上がった。尊氏の目にも入っているだろう。白糸縅の騎馬武者が、警戒するように二段目まで前に出たのが見えた。
直後、敵両翼の背後に、千ずつの兵がじわりと現れた。一息も待たず、仁木と細川の軍勢の中に突っ込んでいく。両将が軍の後ろに陣取っていたこともあり、二軍の指揮が乱れた。
尊氏の舌打ちが聞こえたような気がする。
「まさか」
心が震えた。騎乗した尊氏が、瞬時も待たずに周囲の兵を引き連れ前進していた。虚をつかれた盛宗の兵が、次々と薙ぎ倒されていく。盛宗が必死に声を上げているが、勢いのついた尊氏軍の前に、誰も踏みとどまれていない。
想像を超えた尊氏の果敢さこそ、直冬が願ったものだった。
自ら先頭を駆けることも、容易くやってのける。全土の武士を束ね上げた王の姿に、直冬は鴉軍に騎乗を命じた。
黒衣の五十騎。直義によって編成を命じられ、伏見野の調練で細川顕氏ひきいる千の徒歩を破った。尊氏の記憶にある鴉軍は、そこまでだ。その後、どれほどの死線を潜り抜けたかを、尊氏は知らない。京に侵攻してからも、黒草衆を東寺で殲滅するまで、一切戦場に立たせなかった。
騎乗し、直冬は五十騎を見据えた。
三日月の前立てを付けた兜は、残り一つ。
「義冬、お前が鴉軍の指揮を執れ」
名を呼ばれた尾張義冬が、三日月の兜を少し持ち上げた。
「殿と霞殿をお守りすれば?」
「いや、道を作れ」
刀を抜いた。菊池武光と打ち合った時にできた切っ先の刃毀れの場所には、附子(トリカブトの根)を煮詰めたものが塗られている。かすかに黄色く光る刀を見下ろして、直冬は馬腹を蹴った。黒馬が嘶き、駆け始める。東寺の両開きの門が、勢いよく開け放たれた。途端に、戦場の喊声が、荒れ狂うように正面から吹いてきた。
盛宗が門のすぐ外で、弓を構えている。引き絞られた矢が、正面を向いた。
武士の王がいる。刀を振りかざし、遮る者を蹂躙する尊氏の姿に、直冬はそう思った。言葉遊びなどではない。一目、その姿を見れば、武士であれば否応なく、それが王だと認める。
まっすぐ、駆けた。鴉軍は少しも遅れずについてくる。
強烈な殺気が、全身を包み込んだ。
尊氏の黒い双眸が、直冬を見据えていた。一町(約百九メートル)も離れていない。尊氏の馬が棹立ちになり、一気にその両脇から徒歩が溢れ出てきた。盛宗の兵を破り続け、勢いに乗っている。
「足利直冬よ。九州より出でて、京に立ったことを、褒めて遣わそう」
尊氏の笑みに、怒りが込み上げた。刹那、鴉軍の馬足が上がった。直冬を追い抜くように義冬が駆けていく。敵にぶつかった瞬間、義冬の槍が、徒歩の一人を宙へ舞い上げた。幻を見ているようにも見えただろう。唖然とする敵が、次々に鴉軍に討たれていく。
尊氏との間に、道ができた。敵も味方もいない。
がらりという馬蹄が響いた。尊氏の騎乗する白馬のものだ。あちこちから刀を打ち合う甲高い金属音や、死にゆく断末魔の叫びが響いている。だが、それらがすうっと消えていくようにも感じた。背後にいるであろう霞の気配も、曖昧になっていく。尊氏が口を開いた。
「父の願いを叶えてみせよ」
尊氏の白馬が、ゆっくりと動き出す。
父の願いは、武士の王を殺すこと。父の仇に言われずとも──
刀の柄を握る拳に、力を込めた。
「足利直冬、参る」
呟き、直冬は馬腹を蹴った。
長かった。近づいてくる尊氏を見て、直冬はそう思った。全てのものが、ゆっくりに見える。燃え盛る東勝寺の伽藍が見えた。すぐに宙に投げた母の髪束へと変わり、折檻を受け続けた童の自分が見えた。辿り着いた京では、実の父に拒絶され、鴨川の畔で涙を流した。そこに現れた白粉の男が、今川直貞と名乗り、そして霞や仁科盛宗と出会った。
四条畷で楠木正行と高師直の戦を目の当たりにし、紀伊では正儀を正面から破った。鞆で刀を振りかぶる南宗継と、血を流す直貞の姿が浮かび、そして消えた。次に現れたのは、西へ向かう船の中で見た霞の優しげな顔だった。夕陽に照らされ、茜色に染まっている。
辿り着いた九州では、多くの武士を従え、千軍万馬を率いた。そして、尊氏を討つため、西国を長駆し、二年という歳月をかけて京に攻め上った。
長い長い旅だった。
その始まりは、戦をもたらす者を殺そうと決めた童の誓いだ。その誓いが、直冬を奮い立たせ、生き延びさせてきた。そして、誓いを果たす力をもたらしたのは、平穏を願い続けた足利直義だった。平穏をあまねく世に広げるため、戦を望む武士の王を殺そうとし、そして死んでいった。
東寺で別れた直義の顔が見えた。微笑んでいた。
不意に、全ての記憶が消え去った。目の前には、尊氏だけがいる。
天から降ってくる尊氏の刀が、はっきりと見えた。刀の背で受け、払い飛ばした。尊氏が目を細めた。その頬に笑みが浮かぶ。すれ違いざま直冬は、尊氏の鎧の隙間を斬りつけた。尊氏の背を貫いた時、刀が鈍い音を立てて砕けた。
尊氏とすれ違った時、戦場の音が戻った。
喊声が響く中、直冬はゆっくりと馬首を反転させた。尊氏もまた、馬首を返した。苦悶の表情を浮かべる尊氏が、背をまさぐり、呻き声を洩らした。尊氏が手にしたのは、血に濡れた折れた刀の切っ先だった。
「まさか、これで終わりではあるまいな」
苦悶を浮かべながらも、笑みを崩さぬ尊氏に、直冬はゆっくりと首を左右に振った。
「その切っ先には、附子の毒が塗られています」
尊氏の目が微かに広がり、笑みが消えた。
「戦場に立った王が毒で斃れるとでも?」
震える声だった。哀れに思う気持ちが、少しだけ湧きかけ、直冬は振り払うように手を挙げた。東寺から、激しい鼓の音が響き始める。尊氏の身体が、ふらりと揺れた。
「武士の王は、ここで終いでございます」
次の瞬間、派手な音を立てて馬上からその身体が落ちた。
空を見上げる尊氏の虚ろな瞳を見下ろし、直冬は息を吐いた。
父を殺した尊氏を、その望み通り戦場で殺してやる義理など無い。戦場に立てぬ武士など、もはや王に値しないのだ。王を殺すという父の望みは、果たした。
「残り僅かな命。父の作ろうとした平穏を見て、死んでゆけ」
直冬を見上げる尊氏の身体から、力が抜けた。気を失ったのだろう。
苦笑する霞を見て、直冬は幼いころから心の中にあった鬱屈が全て消え去っていることに気づいた。心が軽い。今ならば、どこまでも飛べそうな気がした。
直貞、ようやく終わったぞ。
友への言葉を心の中で呟き、直冬は戦場を見渡した。
「さて」
仁木、細川を相手に斯波も桃井も善戦している。ただ、敵の数は倍に近い。無策で逃げ出せば、かなりの数が討たれるだろう。
肩の骨を鳴らし、直冬は新たな刀を霞から受け取った。
「肥後国まで落ち延びた時、加瀬川の河原で父を討つと決めた」
「そうでございましたね」
「その時から、決めていたことがある」
殺伐とした灰色の戦場の中で、霞が身にまとう茜色の小袖は、朝焼けを思わせるほど、あまりにも色鮮やかだった。
「老いて、遠く冬霞を見ながら、お前と温かな茶を飲みたい」
心の底から、笑えた。
「逃げようか」
「逃げましょうか」
霞が微笑んだ時、戦場の右手から、一万に近い新手がぶつかってきた。戦の直前、宇治の山間に埋伏させていた益田兼見の軍勢だった。凄まじい勢いで細川軍を食い破っていく。
義冬率いる鴉軍が、直冬と霞を護るように囲んだ。騎乗した盛宗の姿もあった。
刀を抜き、直冬は切っ先を天に突きあげた。
「戦は終わりだ」
突き上げた刀には、刃毀れ一つない。ようやく、終わるのだ。
「全軍、帰るぞ!」
叫び声と共に、直冬は強く馬腹を蹴った。