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十二 直冬

 

 この国が大乱に包まれた時、決まって九州という洲は動乱の契機となってきた。

 遡れば太古、倭国大乱によって日本全土が荒廃した時には、邪馬台国を束ねた卑弥呼が天下を平静へと導き、神武帝によって始まった東征も日向国(現在の宮崎県)を契機とした。時を下れば、源氏と平家が武士の王の座をかけて争った大戦でも天下分け目の地となり、近く、後醍醐帝に敗れた足利尊氏もまた、九州で蓄えた力を使い天下を手中にした。

 空から見下ろせば、天に火を吹く阿蘇山が中央に聳え、その麓に広がる肥沃な平野は、多くの命を支えうる豊かさに満ちている。

 政の中心である京からは距離があり、北の海を越えればすぐに別の国がある。海の外の敵に備え続けてきた民の心には、頼ることのできる者は己のみという心根があるのだろう。

 独立不羈を唱える者たちがひしめき合い、己の信じるものに命を懸けている。

 筑後国博多には、足利尊氏の腹心である一色道猷とその嫡子直氏が九州探題として、西海道の統一を目指している。肥後国では、南朝方の征西将軍宮の懐良親王と名将菊池武光が猛威を振るっている。そして、鎌倉以来の名家として、筑後では少弐頼尚が、豊後では大友氏時が、薩摩では島津貞久が、一族の生き残りをかけて最後に勝つ者を探していた。

 貞和五年(西暦一三四九)、足利直義を失脚させた足利尊氏によって、足利直冬を討伐せよとの御教書が彼らのもとに届けられたのは十二月のこと。

 鞆を逃れた足利直冬が九州に上陸したのは、それらの勢力が、今にもぶつかり合わんとし、かつてない熾烈な大乱に包まれる前夜のことであった──

 

 観応元年(西暦一三五〇)二月──

 遮るもののない肥後の平原を、黒衣の騎馬隊が北へと疾駆していた。

 楔の形で駆ける一団の先頭で、足利直冬は、一騎飛び出すように駆けていた。

 野には黄色い菜の花が咲き乱れ、風の中に柔らかな甘さを満たしている。遥か東の空には残雪の雄大な阿蘇の連峰が広がり、直冬が思わず声を上げそうになった時、右手から一騎、土煙を上げながら駆けあがってきた。

 白い狩衣姿。十日ほど前から、赤鞘の刀も携え始めている今川直貞だった。白粉を塗った横顔は、汗一つかいておらず、それどころか余裕さえ感じさせる。

「殿、鴉軍と離れすぎでございます!」

 やかましく叫ぶ直貞に、直冬は苦笑して馬足を緩めた。

「とはいっても、緩め過ぎても、新兵の調練にはならぬだろう」

 そう口にしながら肩越しに背後を振り返ると、二百騎の騎兵の半数ほどが苦しげな表情をしていた。二百騎のうち、百七人が新たに加えた兵だった。

 元通りになるには、しばらくかかる。そう心の中で呟き、直冬は正面を向いた。

 半年前、南宗継率いる黒草衆の急襲によって、鴉軍は死者と重傷者を除き、九十三名にまで減っていた。二年もの間、寝食を共にしてきた者たちだった。埋葬すらできず、戦場に残してきた亡骸を思い出すと、今も血が煮えたぎる。隣を駆ける直貞が、半年前に全身を切り刻まれたとは思えないほどの回復ぶりを見せたことは、数少ない救いだった。未だ、左腕は動かしづらいようだが、鴉軍の兵にも気づかれないように振舞っていた。

「直貞、この先にある蒲池庄で陣を張る。それまでの辛抱だと伝えよ」

 肥後と肥前の境目にある蒲池庄までは、まだ三里(十二キロメートル)ほどはある。直貞が人の悪い笑みを浮かべ、肩を竦めた。

 縦横無尽に水路が張り巡らされた柳川に差し掛かったのは、陽が落ち始めた頃だった。馬ではかなり駆けにくく、ここに城をつくれば、難攻不落の城になるだろうと思った。朱色の夕陽を受けて、煌めく平原に目を細め、直冬は馬を止めた。平原の中に、左右に十町(約一・一キロメートル)ほど広がる村があった。木の柵で囲まれただけの粗末な村だ。

 直貞麾下の忍びの者たちによって、周囲十里に幕府の目がないことは確かめていた。九州探題である一色道猷も、まさかこれほど寂れた村で、天下を揺るがす密談が行われるとは思いはしまい。

「さて、鬼が出るか、蛇が出るか」

「どちらであろうと、口説き落とさねば、殿の道は険しくなりましょう。何があろうと、礼を失われませぬよう」

「俺を何歳だと思っているのだ」

 直冬の言葉を無視して、直貞が村の門の方へ視線を向けた。

「あそこにおわすのが、蒲池久憲殿でございますな」

 西日を手で遮りながら、直貞が呟いた。村の門を見ると、まだ十歳も超えていないような童が茜色の水干に身を包み、霞に手を引かれて立っていた。肥前国にあって、南朝の懐良親王に忠誠を尽くす一族だ。幼い久憲の父兄弟もみな、南朝方として戦い、散っていったという。

 戦を望む者を斃すと決めた今、直冬の敵は天下人である足利尊氏だ。北朝方の一色道猷と相対するためにも、南朝方とぶつかることは避けたかった。

 久憲の背後には、軽装の兵が百ほど並んでいる。直冬の姿を見つけたのだろう。霞が、微かに頭を下げたようだ。

「殿、頬」

 緩んだ顔を麾下の兵に見られないよう、直冬は思わず馬を一歩進めた。

 頬を引き締めた直後、西の方から土煙が上がっていることに気づいた。旗に染め抜かれているのは、太陽とその光芒を象った十二日足紋。

 肥前国の有力な国人である龍造寺一族のものだった。

「龍造寺家平が、自ら来たかな」

「どうでしょうか。天下に歯向かわんとする向こう見ずな若僧を見物したい者は多いでしょうが。されど、肥前でも名うての戦人。刀の名手とも聞きます。血気盛んな仁科の御老公と揉めなければよいのですがねえ」

 鴉軍の最後尾で、兵を叱咤している盛宗を振り返ってみると、龍造寺の旗を見る盛宗の顔には喜色が滲んでいるように思えた。

 顔を合わせた途端に噛みつく気がして、直冬は嘆息した。

「どうして、俺の許に集まる武士はこうも血の気が多いかな」

「同じ匂いを感じるのでしょうな。殿が九州についた途端、膠着しかけていた北朝方と南朝方の戦は、不穏な気配を帯び始めております」

「それは否定しないが」

 霞の手によって救い出され、そのまま肥後国河尻庄に辿り着いた直冬は、すぐに軍の編成を始めていた。全土の武士を率いる足利尊氏と対決するためには、強力な軍がいる。その点で、九州は格好の地だった。

 北朝方である一色道猷と南朝方の懐良親王、そのどちらもが相手を圧倒できないことで、戦に倦み始めた武士たちが多くいた。懐良親王も、幕府も頼りにならぬ。そう思い始めていた彼らにとって、尊氏討伐を唱える直冬は、戦乱を終わらせうる新たな寄る辺にも見えているようだった。

 阿蘇の阿蘇惟時や天草の志岐隆弘などは、催促状を出した二十日後には兵をまとめて直冬の許に帰参している。各地から兵が集まり続け、すでに七千の兵の編成が終わっていることも、その証だろう。

「昨年の暮れ、大樹が殿の討伐を命じられたことも、皮肉なことではございますが、我らに利しておりますな」

 征夷大将軍足利尊氏の名で、足利直冬討伐を命じる御教書が西国の武士たちに届けられたのは、昨年の十二月のことだった。養父である直義が隠棲し、南朝が衰退したことで、尊氏の視界に残る邪魔な武士は直冬だけになっていた。

 西国に御教書を送れば、容易に始末がつくと、尊氏は考えていたはずだ。

 皮肉げな直貞の表情に肩を竦め、直冬は下馬した。村の門までは五町ほど。歩いて向かえば、龍造寺の軍勢の到着と同じころに着くだろう。背後から、鴉軍の兵が地面に降り立つ音が聞こえた。直貞が早足になって直冬の横についた。

「戦乱を収めえぬ大樹を、九州の武士たちは見放しておりました。大樹が殿の討伐を命じたことで、かえって九州の武士たちは、殿を討幕の旗になりうると見てとったのでしょう」

「どうだかな。河尻幸俊や益田兼見などは、もっと大それたことを考えているように見える」

 鞆で黒草衆に襲撃される直前、気配もなく陣幕の中に現れた益田兼見を思い出した。

 河尻と益田の二人は、霞が南朝の血を引く貴人であることを知っている。にもかかわらず、北朝方とも南朝方とも一定の距離を取り続けている彼らの思惑は、討幕や南朝の復権などではないような気がしていた。誰からの支配も受けないという意志が、透けて見える。特に、九州上陸と同時に、幕府と南朝の影響が薄い山陰で勢力を養うことを勧めてきた兼見は、北朝と南朝の双方から独立したがっているようにも見えた。

 顔の表情が見えるほどの距離になった時、直貞が声を落とした。

「まさかとは思いますが、饗応の膳に、霞殿は関わっておりますまいな。成るべき盟約も成りませぬぞ」

 微かに怯えの滲んだ直貞の言葉に、直冬は慌てて舌打ちした。

「やめろ。声が大きい」

 九州に落ち延びたその日、直冬たちは霞が手ずから作った膳を振舞われていた。直貞の顔が歪み、河尻幸俊と益田兼見が顔を俯かせて食べる中、直冬は肉とは思えぬ噛み応えの獣肉を呑み込み、辛すぎる握り飯を水と共に流し込んだ。申し訳なさそうな霞の表情に、直冬がなんとか笑みを浮かべた時、不味いと低く言い放ったのが、白髪を逆立てた盛宗だった。

 まさに、目にも留まらぬ速さだった。

 風を切り裂く音が聞こえたかと思った直後、盛宗の背後にある床の間に、小刀が突き立った。目を見開いておののく盛宗と、にこりと笑う霞を見て、直貞が慌てて顔を俯けた光景は、いまも瞼の裏に焼き付いている。

「案ずるな。饗応の膳は、幸俊自ら用意すると言っていた」

「河尻殿は、荒武者のように見えても、そのあたりは抜かりないですからな。であれば問題ないでしょう」

 それきり直貞が口を閉ざし、直冬もまた妙な緊張に包まれたような気がして黙々と歩いた。村の門まで近づいた時、霞が久憲の手を離した。

「お待ち申し上げておりました。征西将軍宮は、すでに奥の屋敷に」

 微笑みながら言う霞に、直冬は一度頭を下げた。直貞との会話は、聞こえてはいないようだ。安堵の息を鼻から吐き出し、直冬は村の奥へと並ぶ兵の列を見た。兵たちの肩衣には、南朝を示す墨染めの十六弁菊紋が、誇らしげについている。懐良親王を傍で守る菊池家の軍勢だ。彼らの表情が、どこかこちらを蔑むように見えるのは、気のせいではないのだろう。

 直冬のことを、幕府から追放された足利の子倅ぐらいに思っているはずだ。なにより、菊池家は後醍醐帝の御代より、足利尊氏と激しく争ってきた一族でもある。足利の血筋を、微塵も畏れてはいない。

「征西将軍宮は、後醍醐帝の智勇を最も色濃く継いでいるお人でございます。ゆめゆめ、油断なさいませぬよう」

 村の門を潜り抜け、奥に進み始めた直冬の右側を歩く霞の表情は、少しばかり強張っている。一瞥し、その華奢な肩に手を回すか迷い、直貞たちの視線があることに内心で舌打ちした。

 整えた交易路を使う蒲池一族を仲立ちとする形で、霞は南朝方である征西府との会談の機を作っていた。南朝方のため一族のほとんどが討ち死にしている蒲池の頼みを、懐良親王も断ることはできなかった。懐良親王の出してきた条件は、霞の作り上げてきた大陸との交易路を、征西府も利用すること。もとより征西府は大陸と交易をしているというが、その規模を拡大させることが懐良親王の望みだという。

 後醍醐帝の第八王子である懐良親王は、霞にとっては叔父にあたる。戦だけではなく、政にも長けた親王とは聞いていた。

「いかなるお人柄なのか聞いても?」

「夢を語り、人を自らの夢に巻き込む術に長けているように思えます。もとは敵として向かい合っていたとしても、気づけば魅了され、征西将軍宮の夢を成すために命を惜しまなくなっています」

「人を操るではなく、巻き込む術か。より怖いな」

 自然と、口からそうこぼれた。

 操られている者は、いずれ夢から醒める時が来る。だが、自らの意思で巻き込まれた者は、決して醒めることはない。自らをその夢の一部と見なして、夢のために死ぬことを厭わない。

 ふと、霞の視線を感じた。呆れたような目だ。

「その目はなんなんだ」

「いえ、己のこととなると人は者が見えなくなるとは言いますが、真のことなのだなと。直冬殿にも、多かれ少なかれ似たようなところはおありでしょう」

「俺に?」

「白粉殿や仁科殿は、血筋やこれまでの功を考えれば、幕府から一国の守護に任じられていてもおかしくはない方々です。にもかかわらず、足利尊氏との対決を決心した直冬殿に、黙してついてきているのでしょう。なにより、京の街では、民の間でずいぶんと評判だったではありませんか」

 わずかに怒気が滲んでいるような声音に聞こえた。

「京の街の話は知らぬが、たしかに、御老公は戦好きさえなければ信濃国の守護となっていてもおかしくはないな。直貞がどうかは分からんが」

 霞が、小さく頷いた。

「たしかに、白粉殿を出したのは間違いでした」

 背後から直貞の足下の音がひときわ大きくなったことに気づいたが、無視して歩き続ける。霞も、気にする風はなかった。

 

(つづく)