京、錦小路の屋敷の周りには、胴丸に身を包んだ武士が、一定の間隔で立っていた。京のどの屋敷よりも厳しく警戒されている。櫓門から霞を見下ろす武士の険しい視線は、童や女にも同様に向けられるのだろう。
麾下の姿は、仕える主の性格をよく映すと思った。
直冬麾下の武士たちは、品がありながら、どこか陽気さを感じさせる。出会ったばかりの頃の直冬は、それこそ世を拗ねているような雰囲気を纏っていたが、養父のもとで過ごす中で、徐々に本来の明るさが出てきたように感じる。紀伊征伐、四條畷の戦と続き、九州を制した直冬は、武士としての自信すら漂わせ始めていた。誰であろうとも認めようとする直冬の気質が、今川直貞や仁科盛宗など一癖も二癖もある武士たちに、その才気を伸び伸びと発揮させている。
翻って自分の麾下はと思い返し、益田兼見や河尻幸俊を思い浮かべ嘆息した。得体のしれない武士が多いのは、決して己のせいではないと言い聞かせるように、右斜め後ろに従う兼見を見た。足利直義がいるとされる錦小路の屋敷を見据え、猿楽の面のような無表情だ。
「錦小路殿(足利直義)は、随分と細かなお人のようですな」
呟いた兼見も、似たようなことを考えていたのかもしれない。
短く頷き返し、霞は屋敷の門を潜り抜けた。訪れることは、直冬からの報せが入っているはずだ。門をくぐり、広大な寝殿に目を奪われていた霞の視界の中に、腰を曲げて咳き込む男がいた。広庇を降り、艶のある黒の足下(下駄)を履いている。
深緑の直垂に身を包み、頭には大さびの烏帽子。男のすぐ後ろには、猛虎のように荒々しい気配を漂わせる髯面の武士が一人従っている。咳き込んでいた男が、ようやく息を整えて背を伸ばした。かなり上背がある。隈を張り付けた両目を瞬かせ、男が頭を下げた。
「お会いした時、謝罪すべきか、謝意を伝えるべきか。直冬より書簡が届いて以来、三日の間ずっと迷っておりました」
伏せられた頭から聞こえてきた言葉に、霞は短く息を呑んだ。
「綴連王。私が、足利直義でございます」
伏した頭が起こされ、直義の目がまっすぐ霞へ向けられた。懊悩が深く刻み込まれているような顔だった。歳は四十五のはずだが、それよりも老けて見える。全てを抱え込んでしまう男の顔つきだと思った。
かつて、戦を嫌いながらも、南朝を背負って戦場に立った楠木正行も同じ顔をしていた。
だが、何よりも驚いたのは、直義の虚ろな目に、一かけらの生気すら見いだせないことだった。不意に、直義の口角がかすかに吊り上がった。
「この国の平穏まで、あと一息というところまで来ました。鎌倉の幕府を討ち、後醍醐帝と争い、そして戦を望む武士の王はもはやいない。南北に分かれた王家も、戦に倦んでいる。ようやくでございます。ようやく、和議を結ぶ話し合いができる」
一息に言葉にした直義が、また咳き込んだ。覆った指の隙間から、赤い血が滲んだ。
「殿」
背後に控えていた虎を思わせる男が朱色の手巾を渡し、直義がそれで口を拭った。
「済まぬな、桃井。霞殿が私を害することはない。少しばかり、離れていてもらえるか?」
桃井と呼ばれた武士が、じろりと霞へ視線を向け、そのまま下がっていく。だが、三歩で止まった。霞が刀を抜けば、身代わりになれる距離だ。直義が苦笑した。
「申し訳ない、霞殿。見た目は恐ろしい男だが、根は清らかな男だ」
「……いえ。私と錦小路殿の間柄を思えば、当然のことでございましょう」
父を殺された者と、それを命じた者なのだ。こうして相まみえることなどあるはずもないと思っていた。直義麾下にあって、無二の忠誠を知られる桃井直常が、霞の動きを気にすることも当然だ。
直義が握りしめる手巾に目をやり、霞は口を開いた。
「お身体が?」
直義が左右に首を振る。
「血を喀くようになったのは、ここ十年ほどでしょうか。天下という、人の手には余る巨大なものをなんとかしようと思い始めた頃からでございます」
「それほどに、重きものにございますか?」
「生き残った者の定めでございましょうな。数えきれないほどの者たちの想いが、私の中にございます。天下を差配してきた北条得宗家の想い。共に戦い、そして命を取り合った新田の小太郎や強敵だった北畠卿、楠木殿、高一族、それらすべての武士たちが望んだものは、みな同じ。いかにして辿り着くか、その道だけが違ったのでございます」
目を細めた直義が息を吸い込み、手巾で口元を覆った。三度、咳込んだ。すぐ後ろに立つ桃井や、遠巻きに囲んでいる直義麾下の武士たちが、心配そうに拳を握っている。
近づくなという直義の命を、頑なに守っているようだった。
息を整えた直義が、手巾を懐にしまった。
「やはり、謝るべきではないのでしょうな」
そう口にして、直義がまっすぐに霞を見つめてきた。
「私も、霞殿の父君も、見ていたものは同じ。この国をいかにして平穏たらしめるか。己の道を行かんとしただけでございます」
「父を殺したことも、仕方ないことだと?」
胸の内にわだかまった怒りが、ついに言葉となって口から洩れた。だが、直義に怒っているわけではないことは、分かっていた。直義に怒りを向けたとしても、意味はないのだ。
父が命を落としたのは、それが戦の世であったがゆえ。だが、それでも折り合いのつけられぬ想いがあるからこそ、どちらかが滅びることを覚悟して戦おうと決めた。育ての親である楠木正行も、その想いを胸に、四條畷の戦で死んでいった。
直義が、頷いた。
「ただ、一つ、知っていただきたい。私も、そしておそらく霞殿の父君も、憎しみ合い殺し合うのは、我らだけでいいと思って戦ってきた。孫子の代までは、決して戦を長引かせない。敵であった者たちとも手を取り合うことのできる世を作りたいと願っていた」
「その願いゆえ、父を、母を奪われたとしても、得心せよと申されるのですか」
「我らが恨まれれば、それでいい。誠に至難であることは分かっています。されど、子供たち同士で恨みをぶつけ合う必要はない。咎ゆえに、我らは殺されても良いと、そう覚悟してきました」
滔滔と言葉を重ねる直義の身体が、なぜか何倍にも大きく見えた。
名乗った時の生気の無さは、嘘のように無くなっていた。だが、それは死の前触れのようにも感じた。命が尽きる前の炎の瞬きに近い。不吉な予感を抱いた時、直義がはっきり笑った。
「ゆえに、直冬と霞殿が手を取り合ったことを聞いた時、私は兄と友を討つのを決めることができたのでございます。私の道は、ようやく最後まで辿り着いたのだと、そう思えた」
直義が横目で何かを合図すると、塀の傍に控えていた従者が、両手で捧げるようにして二通の書簡を持ってきた。
「南北の和議は進み始めておりますが、いまだ終わってはおりませぬ。大塔宮に連なる綴連王がいらしたことで、南朝方において戦を望む一部の公卿たちの心が変わればよいのでございますが」
直義の祈るような言葉に、霞は静かに息を吐きだした。
わだかまりは、やはり消えない。心に刺さった小さな棘は、棘のままだ。生涯、消えることがないであろうと、直義と話してみて分かった。だが、その痛みがあるからこそ、相手の痛みも分かるのかもしれない。
「さすれば、南朝の公卿たちは、私が説き伏せましょう」
霞がそう口にした時、直義の目が、一瞬だけ輝いた。直後、喜色を隠すように、直義が視線を遠くに向けた。
「これは楠木殿に宛てたものでございます。南北の合一にあたって、互いが折り合いをつけるべきことが記してございます」
「もう一つは?」
「それは、直冬に。大したこともしてやれず、心が引き裂かれたまま、九州に送り出してしまいました。直冬の心情を考えれば、辛いものだったと思います。それでも、直冬が戦い抜いたことで、ようやく平穏が見えてきた。それを、認めてやりたい」
気づけば、直義は西の方を見ていた。その姿からは天下の宰相ではなく、人の父としての気配だけが漂っていた。実子が死んだにもかかわらず、その痛みを欠片も見せようとしない。それを霞に見せてしまえば、直冬がいつか傷つくとでも思っているのかもしれない。そう考えるのは、行き過ぎだろうか。
直義の言葉からは、その不器用さだけが伝わってきた。
「錦小路殿は、直冬殿を大切に思われているのでございますね」
思わず口をついた言葉に、直義が遠くを見たまま頷いた。
「我が子でございますから」
「直冬殿も、父君の、錦小路殿の身を案じておられました」
「左様ですか」
ぽつりと呟いた直義の言葉に、安堵が混じっていることに気づき、霞は心がじわりと温かくなるのを感じた。直冬は、直義に愛されているのだ。今すぐにでも、直冬に伝えたい。そう思いながら、もしも父、護良親王が生きていれば、戦ってきた霞を褒めてくれるのか、少しだけ寂しい気持ちにもなった。
いつのまにか、直義が霞をじっと見つめていた。
「直冬が九州をわずかの間に制したのは、霞殿が整えた戦船によって、神出鬼没の戦ができたからでございます。交易の道によって、直冬の軍が飢えることもなかった。比翼の鳥のように、天下平穏への道には、間違いなく霞殿の力もございました」
どこか、こちらの心を見透かすような瞳だった。口を挟めないまま見つめ返した霞に、直義が深く頭を下げた。
「平穏を望んだ大塔宮も、霞殿を認めておられましょう」
伏したまま、上げることのない直義の烏帽子を見つめ、霞は歯を食いしばった。
もう戦うことを終えても良い。父もそれを認めている。そう言われた気がした。熱くなる目尻を隠すように、霞は直義に背を向けて歩き出した。
観応二年(西暦一三五一)五月二日──
石見国へと向かう益田兼見を見送った霞は、楠木正儀から送られてきた忍びの者たちを従者として京を発った。直義と南朝方の間では、すでに和議に向けた話し合いが進んでおり、霞の役目は、なお北朝方への戦を望む者を説き伏せることだった。
南朝方の兵を束ねる楠木正儀も、和議を強く望んでいるという。
父や兄たちを殺されながらも、彼らが望んだ平穏を目指し、若い正儀は動いている。
摂津の湊に集まっていた民の笑顔が、頭に浮かんでは消えた。南北朝の戦が終わると信じ、平穏への兆しを喜んでいる。一日でも早く。そう思うほどに、土を蹴る足は強くなった。
山中に入り、霞は慣れた景色を飛ぶように駆けた。童の頃、正儀の兄たちとともに駆けた場所だった。日が落ちても駆け続け、夜が明ければ、後村上帝の行宮となっている賀名生に辿り着くところまで来た時、霞は小さな湧水の傍に腰を下ろした。
深い森の中で、わずかな星明かりが木々の隙間から差し込んでいる。
正儀麾下の十人の忍びのうち、四人を先行して送り出し、霞は焚火を命じた。
夜が明ければ、久しぶりに正儀に会うことができる。姉弟のようにして共に日々を送ってきた正儀に会える嬉しさと、頑なな公卿たちとの話し合いが終われば、九州に帰ることができる嬉しさを感じて、霞は思わず焚火に向かって口元が緩んだ。
九州が帰る地だと思ってしまったのは、そこに直冬がいるからだ。
肥後国を出立して二カ月ほど。たまらなく直冬に会いたくなっている感情をどうにか抑えつけようと、焚火に乾いた枝を放り込んだ。
刹那、霞の目の前に立っていた忍びの胸に、矢が深々と突き立った。
声を上げる間もなく、前に斃れる忍びの身体を見て、咄嗟に焚火から飛びすさった。直後、霞が座っていた場所に、次々に矢が突き立っていく。
「お逃げください」
背後から響いた言葉に振り返った時、肉を貫く鈍い音が響いた。
木立の中、刀に貫かれて宙に浮いた忍びから、血が流れ落ちている。半身となり、刀の柄に右手を添えた霞は、闇の中から徐々に湧き出してくる者たちの肩を見て、拳を握りしめた。潤朱の肩布。高師直麾下だった南宗継が率いる黒草衆だ。その数は十をはるかに超えている。
これほどの数に囲まれていることは、いつもであれば気づいたはずだ。柄を強く握り、霞はわずかに腰を落とした。見えていた平穏に、浮かれていた。苦い思いと共に、刀を鞘から抜く。斬り抜けられるか。
夢想していた直冬との日々が砕け散るように感じ、感じたことのない焦りが、心の底から湧き上がってきた。
動かぬ黒草衆の中から、一人、大柄の男が前に出てきた。南宗継ではない。剃髪した頭は、暗闇の中でも赤銅色に焼けていると分かる。黒と赤の派手な直垂を着込み、こちらを睨む細い目には、残酷な光があった。
「まだ、終わってはおらぬのですよ。綴連王」
まだ、終わっていないという言葉に、全身の肌が粟立った。
「お前は」
「死出の餞にもなり申さぬが、それがしは佐々木道誉と申す者でございます」
高師直と共に、足利尊氏の腹心として知られる男だ。隠棲した尊氏と距離をとり、近江国に戻っているはずの男がなぜ、ここにいるのか。
「足利尊氏という武士の王が、寝覚めが悪うございましてなあ。かつて、後醍醐帝に牙を剥いた折も、王として戦場に立つまで随分時がかかったものでございます。此度、高師直が死して、ようやく本気になろうとしております。それを止めるのは、野暮と言うものでございましょう」
道誉が刀を抜き、その切っ先を霞に向けた。
「すぐに、新熊野もお送りしましょう」
道誉の高笑いが響いた直後、津波のように、黒草衆が木立から飛び出してきた。