八 直冬
貞和四年(西暦一三四八)八月一日──
夏の日差しが、草の匂いを強く漂わせている。
濃い緑の草原を駆ける黒馬を、まとわりつくような風が包み込んだ。
大和国の五条から、紀伊国に向けて南西に真っ直ぐ駆けている。すぐ後ろを駆ける鴉軍二百騎をちらりと振り返り、直冬は馬腹を締めた。馬の脚が、一気に速くなる。一糸乱れぬ鴉軍の先頭を駆けると、己が巨大な獣になったような気がした。
「岩城まで戻るぞ」
直冬の号令に、鴉軍二百騎が一斉に、西へと馬首を変えた。
直義に命じられたことは、紀伊国の南朝方の武士を討ち、平定することだった。
だが、尊氏に認められるためにも、紀伊国に逃げたとされる南朝方の廷臣たちの首も取りたかった。自分が直義の想像を超える武功を上げて尊氏に認められれば、直義も尊氏と争うことを諦めるかもしれない。民のために己を殺して働き続ける直義を見て、出会った当初は警戒しかしていなかったが、死んでほしくないという思いもまた出てきていた。
紀伊国の攻略を始めてから二か月。
落とした城郭はすでに二十を超え、平地にある南朝方の拠点のほとんどを制圧していた。一つの城郭に、三日もかけていない。さすが大樹の子と、麾下の武士たちの称賛の声は日に日に大きくなっていたが、直冬にとって嬉しいことでもなかった。
尊氏の子として、その程度は当たり前でなければならない。
むしろ、この二か月、吉野を脱出した南朝の帝や廷臣たちの姿を捉えられず、日に日に焦りだけが募っていた。
だが、感じていた焦りも、もう数日のうちに終わる。
阿瀬川城に南朝あり──。
十日前、紀伊国南部の山間を探らせていた忍びから、同じ報せが三つ届いていた。守っている兵は、千ほど。兵の数はこちらよりも少ないが、知らされた場所が厄介だった。
阿瀬川城は、五つの支城を持ち、そのさらに外側にも大小の砦を持っている。南朝方が本腰を入れて城の改修を始めれば、吉野以上に難攻不落の地となりかねなかった。もしも、ここに五千でも兵が籠れば、落とすためには十倍近くの兵がいる。
敵兵の集結を防ぎながら落とすには、奇襲しかない。そう考えた直冬は、すぐに紀伊国に散らばっている全軍を八月一日に岩城に集結するよう命じ、直冬自身は岩城不在を装うため、大和国に攻め入り、南朝方の武士と派手に戦ってきた。
南朝の廷臣たちは、直冬が大和国の攻略に本腰を入れ始めたと思っているはずだ。
大和国から岩城までの道は、一人二頭の馬を曳き、馬が疲れれば乗り換えながら駆けてきた。たとえ、南朝方の忍びに見つかっていたとしても、駆ける速さは、南朝の廷臣の想定をはるかに超えているはずだ。
岩城の姿が見えたのは、陽が西の地平に落ちる少し前だった。
いくつもの炊煙が、茜色の空に向かって、ゆっくりと立ち昇っている。南に流れる紀ノ川を天然の水堀として、北の平地に広がる城郭の背は低く広い。守りには向いていないが、五千の大軍を編成しなおすには丁度良かった。
五千のうち、二千は城内に入れ、三千の兵は城外での調練を繰り返している。
城外の兵は、山での調練から帰ってきたばかりなのだろう。城外の陣地に近づくと、三千の兵は、草の上に大の字になっている者が多かった。
「直貞、猟師から購った猪は、あと何頭いる」
鴉軍の中でただ一騎、白装束を頑なに身に着け続ける直貞が、神妙な面持ちで指をゆっくりと折り、両手を使って八つまで数えた。
「二十七頭でございますかな」
「その指は何だったんだ」
舌打ちして、直冬はため息を吐いた。
「全て兵に食わせろ。夜更けまで休養を取らせよ」
「ほう、兵のご機嫌取りですか。全てを食いつぶせば、明後日以降、兵たちの食う楽しみがなくなりますがよろしいので?」
「明日が終われば、京へ凱旋するまで、休む暇はないと思え」
「兵たるものは、将が苛烈だと苦労しますな」
「苦労するのは、お前もだ」
直貞が舌を出した。
「すでに、三条殿の命じられた紀伊国の平定は終わっていると思うのですがねえ」
「阿瀬川城がまだ残っている」
「少し前にも申し上げましたが、やはりそれは、蛇足かと」
「禍根となりうるものは、全て取り除いておきたい。少なくとも、阿瀬川城あたりの城郭は、全て破壊しておきたい」
「まあ、私は殿がやりたいようにやってもらうことが務めゆえ、殿が決められたならば従いますが」
険しい顔をした直貞が、大げさにため息をついた。
「苦労は構いませぬが、徒労は避けたいところですなあ」
図々しくもこちらを測るような視線を送ってきた直貞に、直冬は鼻を鳴らした。
「南朝方の目を盗んで俺が間道を塞ぎ、阿瀬川城を孤立させる。直貞、お前は仁科の爺さんとともに、後から攻めてこい。お前は北から。爺さんは西からだな」
「殿、私の進む経路は、道がなく山しかございませぬが」
「俺が決めたことには従うのだろう。それは、なんとかせよ」
なおも話しかけてくる直貞を無視して、直冬は城門へ駆けた。
背後から兵たちの歓声が聞こえてきたのは、城門を潜った時だった。
夜更け、五千の軍を三つに分けて出陣させた。直貞率いる二千を大和国に向かって駆けさせ、仁科盛宗率いる千を紀伊国の南に向かって進ませる。直冬は残る二千と鴉軍二百騎を率い、暗闇の中、直貞の後を追うように大和国への道を進んだ。
南朝の廷臣から見れば、追撃を防ぎつつ、大和国へ全軍を移動させているように見えるだろう。
五里(約二十キロメートル)進み、高野山金剛峯寺の寺領である九度山の麓についた時、直冬は夜営を命じた。直貞率いる二千は、四方一里に展開し、忍びの入り込む隙間もなくなっているはずだ。無理だなんだと不平を言っていたが、その手のことを任せれば、直貞の右に出るものはいない。
夜営の備えが終わった直後、全てをそのままにして、二千二百の兵と共に山に入った。
山を歩く術は、鎌倉東勝寺にいた頃、知り合った行者から教えられた。すぐに月明かりも届かない暗闇へと変わり、兵たちの固唾を呑む気配が伝わってきた。直冬は、じっと木の根元の苔を見ていた。苔は、日の当たらない北側にこびりつくことが多い。
三日間、息を殺すようにして山の中を進んだ。
深い森が途切れることはなく、渓谷を下り、登ることを繰り返した。
四日目の明け方、物憂げさを感じさせる郭公の鳴き声が、頭上から響き渡った時、直冬は頬が吊り上がるのを感じた。
森が途切れている。強い東日が木立の隙間から差し込み、樹海を照らし出していた。日差しの中に、黒い影が一つうずくまっている。直貞が使っている忍びだ。
それは、ここが目標としていた場所であることを意味していた。
全軍に待機を命じ、直冬は五人の従者とともに森の切れ目まで歩いた。一際大きい杉の木の根元で、全身を黒装束に包む忍びが、顔を伏せて跪いていた。忍びの背後に広がる山並みを見ると、そこには五つの城郭に囲まれた阿瀬川城の姿があった。
模様は見えないが、無数の旗が風にたなびいている。
「直貞は?」
「殿の命通り、兵を率い、一日遅れで進んでおります。ただ……」
「何があった」
「殿の動きが、楠木一族の忍びに感づかれたやもしれませぬ。殿にそうお伝えせよと」
「ほう。楠木が、いるか」
楠木一族の当主であった楠木正行は、その弟である正時とともに、四條畷の戦いで自害している。高師直は南朝の本拠である吉野まで攻め込んだが、末の弟である楠木正儀を取り逃していた。それどころか、正儀率いるわずか四百の兵に奇襲され、師直麾下の武将が討ち取られるほどの敗北を喫している。
そこから半年、楠木正儀は、師直の弟である高師泰の軍勢と、河内国全域を戦場として、互角以上の戦を繰り広げてきた。十六歳になったばかりというが、すでに南朝方の総大将として認められ始めている。一月ほど前に河内国を出て、紀伊国に入ったことは掴んでいた。
おそらく、帝の傍にいるのだろう。
正儀の守る阿瀬川城を落とせば、尊氏は自分を認めてくれるかもしれない。一度とはいえ、尊氏の腹心である師直を後退させた男に勝利することは、自分にとって意味のあることのように思えた。
「あの白粉は、他には何か言っていたか?」
そう言うと、顔を隠しているにもかかわらず、忍びから戸惑いが伝わってきた。
「気にするな、言え」
「気取られたとはいえ、十六歳の若僧ごときに、よもや敗けますまいなと」
忍びの肩を二度叩き、直冬は杉の木にもたれかかった。
「直貞に伝えろ。八日の暁、仁科の爺様とともに総攻撃をかけよ。四半刻でも遅れれば、白粉を剥ぐ」
「それは、それがしも見たく存じます」
直冬が笑うと、忍びが立ち上がり、木立の中に溶け込むようにして消えた。
すぐに率いていた二千の兵から千五百を割き、阿瀬川城と五つの支城を繋ぐ道の封鎖を命じた。南朝の帝や廷臣らは、一人たりとも逃すつもりはない。
残る五百と鴉軍二百騎を率い、直冬は阿瀬川城のすぐ目の前の丘に布陣した。
城の大手門までは四町(約四百三十六メートル)で、城内の人の動きまで見える距離だ。菊の旗は掲げられていないが、明らかに武士ではない者が多い。城郭の広さを考えれば、城内にいる兵は千に届かないだろう。現れた直冬軍を見て、驚きつつも、慌てている気配はない。七百ごときには敗けぬとでも思っているのだろうか。
「驚く顔が見てみたいが」
呟き、直冬は欠伸を噛み殺した。夜を徹して山道を歩いてきたのだ。
睨みあいを続ける中、直貞と盛宗が戦場に到着したのは、示し合わせた通り、八日の暁の頃だった。阿瀬川城と五つの支城は狼煙で連絡を取り合っているようで、今朝はその数が一際多い。別々の場所から、空に立ち昇る九本の煙を見て、直冬はふんと笑った。
「白粉を剥ぐことはできないか」
五つの支城のうち二つを包囲したと、直貞と盛宗から伝令が届いた。
「阿瀬川城は俺が包囲する。時をかけていい。一人も逃すなと二人に伝えよ」
鴉軍に騎乗を命じたのは、八月の終わりだった。
五つの支城のうち、四つまでの攻略が終わり、城郭は徹底的に破壊させた。捕らえた兵も四つの支城をあわせて千を超えていた。残る一つは直貞が包囲している。
阿瀬川城の包囲に仁科盛宗率いる千五百が加わった夕暮れ時、大手の城門が静かに開け放たれた。
「これは、帝はもうおわさぬかもしれませぬのう」
城門からあふれ出てきた数百ほどの兵の気勢を見て、盛宗が目を細めて呟いた。
「あまりに士気が高すぎますな。空元気と言うには、見事すぎる闘志じゃ」
盛宗の言葉の意味は、直冬にも分かった。
大手門からこちらを見つめる武士がいた。
まだ若い。兵を指揮している姿を見れば、あれが楠木正儀なのかもしれない。朱色の鎧を身につけ、人の丈ほどの短槍を手挟んでいる。その姿は、見覚えがあった。四條畷で刀を交えた楠木正行に、よく似ていた。率いるのは五十騎ほどの騎馬武者と、残り数百は徒士だ。
正儀が直冬を見つめ、笑っていた。
後村上帝は、すでに阿瀬川城にはいない。おそらく、奇襲した時点で、正儀は帝を逃がしていたのだろう。この一月、正儀が阿瀬川城に籠城していたのは、帝を逃す時を稼ぐためだ。
「ここは儂が」
無駄なことをしたと言わんばかりの正儀の笑みを見て、直冬は盛宗の制止を振り切るように騎乗した。南朝の廷臣を取り逃がしたとしても、阿瀬川城を破壊できれば、それでいい。心の中で口ずさみ、直冬は先頭で駆けだした。
正儀もまた、示し合わせたように真っ直ぐに駆けてくる。
目と目があった。強い瞳だと思った。父を討たれ、兄二人を失った直後に元服し、数々の英雄を討ち取ってきた高師直と戦い抜いてきたのだ。並の将であるはずがない。もう十歩の距離もない。槍を振り上げた正儀が、吠えた。
すれ違いざま、振り切った刀から、肉を斬り裂く感触が伝わってきた。槍の穂先が、直冬の頬をかすめていく。
殺したかどうかを確かめる間もなく、前に駆け抜けた。反転し、正儀を追う南朝方の徒士を蹂躙した。正儀は、まだ騎馬の先頭にいるが、馬首を抱くように駆けていた。直冬を突破したとしても、盛宗の千五百が展開している。視線の先で、盛宗が弓を構えた。
四條畷では正行に当てなかったのじゃ。そう言うように、盛宗が笑った。
「盛宗、さがれ!」
咄嗟に、馬腹を蹴った。盛宗の背後の山を覆う木立が、かすかに揺れていた。小鳥が、飛び立ってゆく。
盛宗が背後を向いた。
その直後、木立の中から兵が飛び出してきた。数百ほどもいるだろうか。いや、途切れずに進んでくる軍列を見れば、それ以上の兵がいるかもしれない。身につけるものはまちまちで、鎧を着ている者もいれば、裸に近い格好の者もいる。
高師泰と戦い続けた楠木正儀の麾下に、野伏のような者たちがいたという報せが、頭をよぎった。このあたりの野伏は、南朝に見捨てられて死んだ大塔宮への忠義が厚い。
「……霞か」
四条畷で水の中に放り込んだ大塔宮の娘の名を呟いた。
殺し合うべき相手だ。そう思っていたが、突き出された刀をよけた時、身体が勝手に霞の身体を抱き上げていた。左右から高師直と佐々木道誉が迫り、背後からは高一族の忍び黒草衆が迫っていた。冬の湖だ。助かるかどうかは賭けだったが、野伏が動いたということは、生きているのだろう。
思わず、頬が吊り上がった。
野伏の一団が、盛宗軍に背後から襲い掛かった。そう見えた瞬間、弾けるように野伏が三人、後ろに弾け飛んだ。盛宗の強弓。矢が、野伏の身体を貫いていた。
「盛宗、ここはもういい。城を落とせ」
敵の狙いは、正儀を守ることのように見えた。いなせば、逃げていく。盛宗軍と野伏を分断するように駆けた。直冬の予想通り、こちらに向かってくる力はほとんどない。盛宗が門の開け放たれた阿瀬川城に向かって駆け始めると、敵が守りを固めるように後退した。
鴉軍二百騎と、睨み合うような形になった。
すでに、正儀は野伏の軍の中に囲まれ、遠くなっている。落ち着いて見れば、野伏の数は千ほどだ。鍛え上げた鴉軍で仕掛けて勝てないこともないとは思ったが、正儀を討てるかは五分だろう。無駄な犠牲は避けるべきだった。
撤退。そう呟こうとした時、野伏が左右に割れ、その中央に女が一人残った。薄紅の小袖と、籠目文様の灰色の裳袴。出会った時の姿そのままの霞だった。何も言わず、直冬をじっと見つめている。京にいる時の微妙な関係とは違う。はっきりと敵になった。疼くような胸の痛みを感じた。
先に視線を外したのは、霞だった。頭を下げた。それが合図だったのだろう。野伏が霞を包み込むように動き、すぐに見えなくなった。背後で、陽が落ちたのが分かった。空が急激に暗くなり、木立の先が見えなくなる。
阿瀬川城から、勝鬨が響いた。
振り返ると、石垣の上に立つ盛宗が、空に向かって弓を放つのが見えた。鏑矢だ。糸を引くような甲高い音が鳴り響き、やがて消えた。
正面を向いた時、野伏の後ろ姿が、木立の中に消えるところだった。
京に戻った直冬を、朝陽の差す東寺で迎えたのは、養父である直義だった。
鴉軍を境内の外に待機させ、盛宗、直貞を従えて直冬は境内に入った。五百年も前の僧侶である弘法大師空海が建立したという五重塔の下、仁王立ちで腕を組む直義の目の下には、相変わらず濃いくまがあった。
「息災だったか」
出陣前に、同じ言葉を聞いたと思い出した。言葉は同じだが、直義の表情は違うように感じた。南朝との戦が落ち着いたからなのだろう。穏やかな微笑みが滲んでいる。
「直貞と盛宗に助けられました」
直義が直貞に頷き、そして盛宗へ身体を向けた。
「仁科殿、お久しゅうございます。こうしてお目にかかるのは、手越河原で敵として戦った時以来ですね。信濃の鬼と呼ばれる由縁を、身をもって知りました」
盛宗が、もともと南朝の武士であることは知っていたが、直義と戦ったことは初めて聞いた。盛宗が呵々と笑った。
「あの時の儂は、血の気が多かったですからのう」
「此度の戦ぶりを聞く限り、今もお変わりはないようで安堵しました。直冬をお頼み申す」
頭を下げた直義に、盛宗が束の間驚いたような表情をして、すぐに大笑した。
「若君の傍にいれば、退屈しなくてすみそうですからな。それに、三条殿の頼みじゃ。地の果てまでお供しましょうぞ」
盛宗の大笑が微笑みに変わり、直冬を見つめていた。孫を見るような目だと思い、直冬は思わず目を逸らした。
「父上。此度の戦、時をかけたうえ、阿瀬川城からは、南朝の廷臣たちを逃してしまいました」
頭を上げた直義が、呆気にとられたように笑った。
「何を言う。直冬。紀伊国の平定は、これまで幕府が成せなかった大業。二十余の城を二月余りで落としきることなど、他の誰にできるというのだ。伏見の調練の折から感じてはおったが、やはりお主には戦の才がある」
「そうでしょうか」
「誇るがよい。直貞は阿瀬川城を攻めずともいいと言ったようだが、あの地を固められれば、南朝方の討伐にはもっと時がかかったはず。お主の決断は間違っておらぬ」
水が沁みるような声音だった。
出会った当初は警戒していたが、直義の執務を見るうちに、徐々に警戒は畏敬に変わっていった。国を背負った男に認められたことが、心の中に温かなものを広げたような気がした。
「大樹も待っておる。行こうか」
直義の言葉に、直冬は思わず小さく拳を握った。勝って帰れば、尊氏に謁見できるかもしれないとは思っていた。京に来て四年、一度も近くで会うことはなかった。出陣の折も、教書が届けられただけで、その中に激励の言葉はなかった。
それでいいと思っていた。
自分は直義の腹を探るため、自ら望んでここにいるのだ。直義が尊氏を裏切るようならば、自分が直義を討つと心に決めていた。それを直義に気取られぬためにも実の父である尊氏とは、近づかない方が良い。そう自分に言い聞かせてきたが、いざ父に会うことができるとなると、嬉しいような怖いような気がした。
「行こうか」
もう一度、直義が呟き、歩き始めた。
二条万里小路にある尊氏の屋敷までは、鴉軍を従え、騎乗で進んだ。先頭には直貞と盛宗が横並びに進み、直冬はその後についた。直義は、直冬の後ろから、輿に乗って進んでいる。
大路には香木が焚き込められ、沿道は京中の者たちが集っているのではないかというほど、人で溢れかえっていた。
不意に、直冬の行列の行く手で歓声が起きた。
大酒を喰らったのであろう壮年の男が、手拭いを頭につけ、妙な踊りを始めていた。そのすぐ横では、十歳にも届いていないような童たちが、男の滑稽な踊りに無邪気な笑い声をあげている。
自分の勝利を喜び、そして心から安堵している。南朝の軍が京を焼くかもしれないと怯えていた民が、笑ってくれている。
母が死んだ時、戦をもたらす者を滅ぼすことを、そして決して逃げぬことを決めた。
彼らの歓声を耳にするたび、直冬は感じていた緊張がほどけていくような気がした。
三条通を過ぎたあたりから民の姿が少なくなり、うってかわって武士の姿が多くなっていった。どの顔も直冬を見ることはなく、無表情で持ち場を守る姿勢を崩さない。尊氏の屋敷に近づくにつれ、手練れと思うような武士が増えた。
直貞と盛宗が左右に分かれ、止まった。
開け放たれた両開きの門が、直冬の視界の正面に飛び込んできた。門の内側には、池を備えた広壮な屋敷が広がっている。朱色の櫓を備えた門の両脇には、篝火が二つ。鎧を着た武士が、門の左右に並び、直冬を見つめていた。好意的な目ではないなと思った。
直貞たちに倣って下馬した直冬は、直義が輿から降りるのを待って、屋敷へと進んだ。
屋敷の中の空気が、刺々しいと感じたのは、直冬だけではないのだろう。いつもは軽口ばかり叩く直貞でさえ、白粉を丁寧に塗ったこめかみに、汗を滲ませている。鎮まっていた緊張が、再び胸中に広がりだした。
通された主殿の襖が左右に開いた時、直冬は思わず口を結んだ。
目が、直冬に集中していた。奥の上段の間には、黄絹の褥が置かれ、主の姿はまだない。下段の間の左右には、直冬を見る武士が並んでいた。
右に五人、左に六人。いずれも顔に見覚えのある幕府の宿将たちだ。細川顕氏や山名時氏、仁木頼章、土岐頼康らが並び、その先には四條畷の戦で勝利の立役者となった入道姿の佐々木道誉が、頬杖をついて直冬を眺めている。烏帽子では隠しきれない赤銅色に焼けた頭皮は、刀すらいとも容易く跳ね返しそうだと思った時、道誉がにやりと頬を吊り上げた。
「楠木の三男坊にいいように遊ばれて、帝を逃したにしては、良い表情をしておるではないか。恥というものを知らぬのかのう」
道誉の言葉に、並ぶ土岐や仁木が嘲るような笑みを浮かべた。
想像していたものとはかけ離れた言葉に、直冬が絶句した時、直義が一歩前に出た。
「ふむ。十年余にわたり、紀伊を平定できた武将は、ここにはただ一人、直冬しかおらぬようだが」
冷徹よりももっと凍るような、蔑みに満ちた直義の声音に、空気が張り詰めた。
直義の視線が、左列の奥に座る男に向けられた。墨染の直垂を身に着け、まるで、直冬が入ってきたことなど気にも留めていないように瞑目している。高師直。四條畷の戦で、いいように使われたことを思い出し、身体が熱くなった。
直義がふっと前に進んだ。そのまま空席となっていた高師直の向かい側に座り、胡坐をかいた。直義がこちらを一瞥し、頷く。
五歩、前に進み畳の上に座った。背後で、直貞と盛宗が座る音が聞こえた。
襖が、閉まる音が響き、徐々に室内の空気が鎮まっていく。高師直は相変わらず瞑目し、佐々木道誉はふて腐れた表情を隠そうともせず直冬を睨みつけている。紀伊平定の功を、直冬に取られたとでも思っているのかもしれない。
目を閉じ、息を吐きだした。
誰に何を思われようと構わない。高師直や佐々木道誉の武功は嫌になるほど聞いてきた。だが、それはもはや過去の話だ。その時、戦場に自分はいなかった。それを、尊氏も分かってくれているはずだ。そう心の中で呟いた時、遠くから微かな衣擦れの音が聞こえ始めた。ひたりひたりと鳴る足音が徐々に近づき、左右に並ぶ武士が機を見計らったかのように平伏した。両拳を畳に突き、直冬も頭を下げた。
足音が止まり、再び動き出す。
正面で、止まった。
足音の主が、すぐ傍にいる。
「つまらぬのう」
そう言葉が降ってきた直後、直冬は左肩に鈍い痛みを感じた。何が起きたのかを考えるよりも早く、両肩を鷲掴みにされ、身体を起こされた。すぐ目の前に、人の顔がある。
蛇のような双眸が、直冬を見つめていた。
「期待させおって」
身じろぎ一つできなかった。薄い唇に貼り付けられた冷笑と、切れ長の目に滲む蔑みが、直冬の身体を縛り付けるようにも思った。深緑の直垂には、足利家の家紋である二つ引きの紋。その右手には、先ほど直冬を打ち据えたのであろう鉄の扇が握られている。
初めて聞く実の父、尊氏の声は、直冬の心を刺し貫くような冷たさを持っていた。
「楠木殿の子倅どもは期待外れも良いところだったな。親父殿とは、まさに命の取り合いだった。向かい合えばいつ殺されるかもわからぬ。戦場の姿は、まさに余の敵として相応しい」
尊氏が身体を引き、直冬を見下ろした。
「倅どもは話にならなかった。そして、それに敗れる者もくだらぬ」
父と見つめ合う格好になった。だが、その瞳には温かさの欠片もない。
「元服したばかりの三男坊を取り逃がすようなうつけが、なぜここに平然と座っておる」
直冬を見つめたまま、尊氏が呟いた。尊氏の身体の陰から、衣擦れの音が鳴った。
「兄上。足利の名をもって、直冬は紀伊を平定いたしました」
いつも落ち着いている直義の言葉に、慌てたような響きがある。
尊氏が首を左右に振り、胸を反らした。尊氏の背後に、威圧するような気配が立ち昇った。
「直義よ。足利の名は、それほど安くはあるまい」
居並ぶ武士たちの頭が、押さえつけられたように下がっていく。右腕が、小刻みに震えていた。父の顔が、不意にぼやけた。気のせいではない。涙が、頬を伝っている。
見下ろす父が、腰を落とした。
「母は」
思わず口に出た言葉の続きを、必死で探した。
「母は、父上を信じて、お待ち申し上げておりました」
父が興味深げに直冬を見つめている。
「いずれ、父上が迎えに来てくれると。天下を鎮めるのは父上であると信じておりました」
尊氏の口が大きく横に広がり、笑った。
「新熊野よ。お主の父がどこの馬の骨かなど知らぬ」
笑みを収めた父が、声を落とした。
「お主が伏見の調練で細川を破った時、殺し甲斐のある者が現れたと期待した。それは、確かだ、新熊野」
父が目を閉じ、そして開いた。
「使える狗にもなれぬ。儂を楽しませる敵にもなれぬ。新熊野、儂は今、深く後悔しておる。期待を裏切られてこれほど苛立つならば、お前が京に現れた時、直義の言葉を無視してでも、お前を殺しておくべきだった」
右の視界に、歯を食いしばる直義の顔が映った。直冬を見つめ、そして項垂れた。
「京から出て行くがよい。二度と、儂の前に姿を見せるな」
吐き捨てるように呟き、父が立ち上がった。
「直義」
尊氏の言葉が、広間に響いた。
「鎌倉の北条が滅び、後醍醐帝もまたいなくなった。期待した楠木の倅も死んだ。直義よ。次は、お主が儂を愉しませてくれるのか?」
不気味な声が、冷たい風のように広間を吹き抜けた。
足音が徐々に遠ざかっていく。小さくなっていく尊氏の背中を見つめながら、直冬は体から力が抜けていくのを感じた。
母を殺したのは、他の誰でもない。
無邪気に戦を求めた尊氏だったのだ。握りしめた拳から流れた血が、畳を赤く染めていた。