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 一町ほどの距離に近づいた時、こちらを誰何する声が聞こえた。黒衣の十一騎だ。晴天の下では良く目立つ。六百ほどの兵が、警戒するように左右に広がり、徐々に左右両翼が直冬たちを囲むように動いた。

 刀を抜いている者はまだいないが、幾人かが弓を左手に持ち直したのが見えた。直冬の顔を知っている者は、さすがにいないはずだ。左右の山を見渡し、直冬は向かい合う軍勢を見据えた。

「貴公らは、長門探題たる俺の道を遮るつもりか」

 直冬の身につける二つ引紋の入った直垂に、一人の大鎧の武士が目を細めた。

 この軍の指揮官だ。右手で何か合図をした。刹那、大鎧の武士の左側で、弓を構えようとした兵が雷に打たれたかのように、身体を跳ねあがらせ、倒れた。

「酔っていても、変わらずか」

 倒れた兵の頭に、矢が突き立っていた。恐怖に顔を歪ませた大鎧の武士が、いきなり刀を抜き放ち、直冬へその切っ先を向けた。

 刹那、大鎧の武士の二の腕に矢が突き立った。

 馬腹を締めあげると、すぐに疾駆へと変わった。黒衣の十騎は、ぴたりと後ろについている。遮ろうとして来た兵を撥ね飛ばし、ほんの一息で腕を押さえる大鎧の武士を見下ろし、勢いのまま刀を払う。

 信じられないものを見たかのように目を見開いたままの首が、宙を舞った。

 動けずにいる敵の中心で、直冬が馬を止めた時、左翼の五十ほどの兵が、ひと塊となって直冬の方に動き出した。その直後、地響きと共に現れた鴉軍によって、五十ほどの兵が、瞬く間に突き崩された。先頭を駆ける盛宗が、三尺(約九〇センチメートル)ほどもある大太刀を振るうたびに、首が宙を舞った。

 敵を断ち割った鴉軍が反転し、盛宗の大笑が戦場にこだました時、直冬の周囲にいた者たちが我先にと逃げ出した。

「追いますか?」

 すぐ傍の麾下の言葉に首を左右に振り、直冬は盛宗に合図を出し、駆け出した。すぐに、盛宗率いる鴉軍が背後につき、背後から響く馬蹄の音が全身を包んだ。

 はっきりと、敵であることが分かった。立ち塞がるならば、容赦はしない。

 敵が進む場所は、直貞の放った斥候によって、逐一届けられている。時折聞こえてくる鳥の鳴き声のような笛の音は、止まらずとも報せを届けるために使っているものだった。直貞と盛宗、そして直冬のみがその音の意味を知っている。

 二日かけて、残る六つの軍勢を蹴散らした。最初にぶつかった敵が、この地域で最も力を持っていたのだろう。六つの軍勢は、どれも鴉軍と同じほどの数で、正面からぶつかっただけで勝敗は決した。鴉軍の犠牲は、わずかに二騎だけだった。討った敵の骸の数は、三百を超える。

 医王寺に帰還した頃には、夜半を過ぎていた。縄張りされた陣地には篝火が煌々と焚かれている。鴉軍の馬蹄が聞こえたのだろう。胴丸を脱ぎ捨て、傷だらけの兵たちが左右に列を作って直冬たちを迎え入れた。

 兵たちの顔は、勝利で綻んでいる。あちこちから、直冬を寿ぐ声が聞こえてきた。皆、嬉しそうに、腕を突き上げて叫んでいる。兵たちの顔を見た途端、直冬は肩の力が抜けるのを感じた。

「酒を、兵に」

 すぐ傍に白い狩衣姿の直貞がいるのは分かった。

 麾下の喧騒をよそに、勝ったことによる高揚感は、微塵もなかった。敵として向かって来たがゆえに、戦い、そして勝利した。武士として、当たり前のことをしただけだ。にもかかわらず、こうも索漠とした気分に包まれているのは、取り返しのつかないことをしてしまったと思っているからなのだろうか。初めて親に反抗した童が、所在なげに立ち尽くしている様子を思い出した。

 崩れ落ちるように下馬した直冬を、直貞が受け止めた。

「大将が、悔やむような顔をなされるな」

 耳元で囁かれた直貞の言葉を聞いた時、頷きながら直冬は気を失った。

 束の間のまどろみだった。目を開けると、空はまだ暗く、星が燦然と瞬いているのが見えた。身体を上半身だけ起き上がらせると、幔幕の内側に運び込まれたのだろうことが分かった。四隅の一つに、小さな篝火があり、白い幔幕を茜色に染めている。その横に敷かれた獣の皮の上には、直冬の身に着けていた胴丸が綺麗に並べられていた。鴉軍では、動きにくいことから大鎧を身につける者は一人もいない。

 息を吐きだした時、咄嗟に直冬は身体のすぐ傍にあった刀を手に取った。

「誰だ」

 それまで気づかなかったことに、ぞっとした。並べられた鎧のすぐ横で、跪いて動かぬ人影があった。じっとこちらを見つめ、敵意どころか気配すらも感じられない。気を抜くと、見失ってしまいそうなほど、面妖な男だった。

 灰色の直垂には、藤の紋が染め抜かれている。歳は二十代のようにも、四十代のようにも見え、身体つきは華奢だが、いくら斬りかかっても風のように躱されそうな予感がした。つかみどころがまるでない、鵺のような男だと思った。

 男が軽く頭を下げ、拳を地面につけた。敵意はないという意思表示だろう。

「足利左兵衛佐殿でございますな」

「お主は」

「益田兼見と申す者にございます」

「益田といえば、石見国(現在の島根県)の武士ではないか」

 西国に下向するにあたって、山陰道、山陽道の主要な武士の名は頭に入れていた。益田一族は、時の実力者を見極めながら、裏切りを繰り返して生き延びてきた強かな一族だ。南北朝の動乱でも、どちらの勢力ともつかず離れずを保っている。

「俺の寝所に忍び込んで、斬られる覚悟はあるのだろうな」

 強がるように発した言葉に、兼見が首を左右に振った。

「左兵衛佐殿に、その暇はありませぬ。すぐに、お逃げなされ」

 嫌な予感がした。

 跪く兼見を無視するように幔幕を飛び出した直冬の視界に入ったのは、二昼夜の戦で疲れ切って、泥のように眠る鴉軍の姿だった。盛宗すら篝火のすぐ傍で、酒の入った壺を抱えていびきをかいている。三十名程度は、警戒のために起きているが、疲れを隠しきれていない。

 陣の北側、医王寺側の森の前に座る兵が、幔幕から出てきた直冬を見て、酔った顔に笑みを浮かべた。森から吹く風の中に、衣擦れの音が交じったような気がした。その瞬間、笑ったままの兵の首元に、鏃が飛び出してきた。

「全軍、起きろ!」

 叫んだ直冬が森の方に駆け始めた時、木立の中を縫うように人影が溢れ出した。少なくとも百から数百ほどいる。闇の溶け込むような衣を身につけ、その肩には潤朱の肩布を付けている。高師直麾下の忍び黒草衆だ。波のような黒草衆に呑み込まれた鴉軍の兵が、次々に殺されてゆく。敵は、声一つあげていない。

 無音の殺戮に悔しさが燃え上がり、駆ける足で地面を割りそうにも思えた。

 師直の策は、もう一段階残っていたのだ。帰陣して気を失った自分を、心の中で罵倒した。目の前の惨状は、尊氏の兵を手にかけたかもしれぬという恐れに、耐えられなかった自分のせいだ。

 背後で、寝ている兵を叩き起こす音が聞こえてくる。自分より前では、これ以上一人も死なせない。敵まで、残り二十歩の距離。刀を抜き放った時、不意に直冬の横から白い影がするすると前に出た。

 白い狩衣に、赤鞘の刀。

 直貞か。そう思った瞬間、ちらりとこちらを見た直貞がにやりとして、直冬を後方に突き飛ばした。倒れそうになる身体を、なんとか捻り、踏みとどまる。刹那、赤鞘から閃いた光が、黒草衆の兵を撫で、血飛沫が舞った。黒草衆の兵たちが群がり、すぐに直貞の姿が見えなくなった。

 左右から、十人ほどの鴉軍の兵が、直貞を追って敵の中に駆け込んでいく。

 凄まじい乱戦になったが、そちらを見る余裕もなく、直冬は目の前にゆらりと現れた大柄な武士に刀を構えた。速さを重視する黒草衆の兵たちは、鎧といえるほどの防具を付けてはいない。だが、ただ一人、現れた男だけは鎧兜を身に着けている。草摺の木瓜紋は、高一族の武士がつけるものだ。そして、男の顔を印象付けているのは、目元から顎まで伸びる大きな頬傷だ。

「お久しゅうございますな」

 記憶の中で、何度も聞いた声。あの時よりも老いて、顔には深い皺がある。だが、見間違えるはずもない。童だった直冬の目の前で、母を殺した武士だ。

 握りしめた刀がひどく重く感じた。

「新熊野殿。鎌倉を出てはならぬと申し上げたはずです」

「お前は」

 大柄の武者が左右を見たことで、直冬も周囲を確かめる余裕ができた。練達の鴉軍の兵たちが、黒草衆に討たれ続けている。黒草衆の兵は、一対一では戦っていない。鴉軍の兵一人に対し、少なくとも三人がかりで戦うことを徹底しているようだった。断末魔の叫びが、そこかしこから聞こえていた。

 直冬の焦りを見透かしたように、向かい合う武者が微笑んだ。

「南宗継でございます。刀を抜くこともままならなかった新熊野殿が、信濃の鬼に勝るほどの力をつけ、率いる軍は精強無比。僅かな時で、紀伊国を平定するほどの将になったことは、嬉しゅうございます」

 楽しげに喋っているが、宗継の目は笑っていない。隙を見せれば、一瞬で命を取られる。背中に汗が伝うのを感じた。南宗継といえば、高一族の中でも、師直と師泰の兄弟に次いで、尊氏の信頼が厚いとされる武士だ。決して表には出ず、裏側から足利家の覇業を支えてきたという。これまで、京では一度も見かけたことはなかった。

「嬉しいなどと、戯言を」

「阿鼻叫喚の鎌倉の街で、それがしを圧倒するほどの気迫。長じれば、武士の王に迫るやもしれぬと慄いたのでございます。それがしの目は間違ってはおらなんだ。鎌倉から出るなという言葉も、間違いではなかったのだと思っております」

 宗継が苦笑し、刀を抜いた。

「黒草衆に、左兵衛佐殿の追討を命じたのは、大樹でございます。淡い期待は、捨てられよ。大樹にとって、貴公は路傍の小石に過ぎぬ」

「尊氏は、何を考えている」

 自分の声を聞いて、怒りに満ちていることを悟った。自然と口をついた実の父の名に、宗継が目を細めた。

「気にされることはございませぬ。貴殿が大樹の道を見ることは、もはやありませぬ」

 そう言うと、刀を天に向かって突き上げた。

 息ができないほどの威圧だった。頬だけではない。手の甲までが無数の古傷に覆われている。鎧の弦走韋に施された不動明王の文様も、あちこちが裂けているのが目に入った。

 刀を握り直した刹那、宗継の身体が、すぐ目の前に近づいてきた。斬り上げた刀に手応えはなく、脇腹を何かが通り過ぎていく。すれ違い、位置が入れ替わる。振り向いた直冬を、宗継が刀を構えなおし待っていた。脇腹からは血が滴るのを感じた。

 直貞や盛宗がどうなっているのかは分からない。万全の態勢であれば。雑念に支配されそうになる直冬に、宗継が哀れむような目を向けてきた。身体にまとわりついた屈辱をふり払うように、前に出た。

 異様な風の音が聞こえた。宗継の刀が、見えない。いつの間にか、宗継が刀を後ろ手に隠すように構えていた。見極めようと凝視した直冬の目に、左右から同時に迫る剣閃が見えた。違う。あまりに、速すぎるのだ。息を止め、飛び退った直冬に、宗継がぴたりと付いてくる。

 蹴り上げた足を捌かれた。左肩を激痛が貫いた。すぐ目の前の宗継の瞳に、自分の姿が映っている。刀に貫かれ、顔を苦悶に歪ませている。

 膝が、地面につくのを感じた。身体から力が抜けていく。

「辞世は」

 宗継が、静かに呟いた。刹那──

「……下郎が」

 身の毛がよだつほどの怒りに満ちた言葉が、宗継の背後から聞こえた。宗継が転がるように右に倒れ込み、二度回転してから、飛びあがるように立ち上がった。宗継の刀は、直冬の肩に突き立ったままだ。宗継が、小刀を咄嗟に抜き放った。

「誰に、刀を向けておる」

 正面からぬらりと現れた真っ赤な姿に、直冬は息を呑んだ。

 白い狩衣は赤く染まり、白い布地はほとんどなかった。全身を切り裂かれ血を流しているうえに、それ以上の返り血を浴びたのだ。阿修羅のような形相をした直貞の背後には、黒草衆の亡骸が無数に倒れていた。

「直貞」

「立たれませ。御老公が退路を切り開きます」

 白粉が返り血でところどころ落ちかかっている。いつもの眠たげな目には、見たことがないほど、強い殺意がある。

「南宗継だな。下郎の分際で殿に刀を向けるなど、百年経とうと赦されぬ」

 直貞が細身の刀を地面と水平に構えた。

 医王寺の斜面から溢れてくる黒草衆はまだ尽きない。鴉軍の兵も、十人ほどでひと塊となり善戦しているが、すでに半数以上は討たれていそうだった。

「背を討たれて、死ねるものか」

 足に力を入れて立ち上がると、肩から全身に痛みが広がった。突き立った刃を掴み、強引に引き抜く。血が噴き出し、不意に視界が揺れたように感じた。

 宗継を睨みつけながら、直貞がにやりとした。

「実の父に、今川の家を追放されて絶望していた時、三条殿に拾われました」

 息絶え絶えに呟く直貞が、刀を握る拳に力を込めた。

「殿がどこまで高く翔べるか。それを見ることが、私の望みでしてね」

 不意に、暗闇の中から黒草衆の忍びが、直貞に斬りかかった。直冬は、咄嗟に当て身を食らわせ、忍びを斬り斃した。直貞と背をあわせて刀を構えるような格好になった。周囲には、黒草衆の忍びによって分厚い包囲が出来上がっていた。宗継の姿は、すでに隠れて見えない。

「死地というほどのものではございませぬなあ」

「死地などと言えば、お前は怒るな」

「よくご存じで」

 背中がかすかに揺れた。笑ったのだろう。

「これしき、我らにとってはそよ風も同然にございましょう」

 直貞がそう嘯いた時、殺せという宗継の言葉だけが、闇夜に響いた。

 慌てて飛び掛かってくるような者はいない。じりじりと包囲を狭め、確実に直冬たちを殺そうとしている。手から落ちそうになった刀を握り直した。

 不意に、強い風が吹いた。砂ぼこりが立ち、黒草衆の忍びがわずかに乱れた。

 風の中に、笛の音が紛れていた。

 あまりにも場違いな音に耳がおかしくなったのかとも思ったが、困惑する黒草衆の表情を見れば、聞き間違いではなかった。

 徐々に大きくなる笛の音の方に目を向けた時、直冬は全身が震えるのを感じた。

 百歩ほど左手。薄茜の小袖と、紺色の裳袴に身を包み、篝火の淡い明かりに照らされた姿は、天女のようにも見えた。目を閉じて奏でる音色は、激しく秋霜を感じさせる。誰も動けぬまま、笛の音が徐々に弱くなり止まった。

 霞が、静かに目を開いた。

 刹那、黒草衆の忍びがばたばたと矢に射たれて倒れ始めた。霞の周囲に、全身黒く日焼けした兵たちが溢れ、黒草衆に突っ込んでいく。何が起きているのか理解できぬまま、不意に、背中から直貞の感触が消えた。地面に倒れる音がした。

 黒草衆の中から、十人ほどが直貞に止めを刺そうと突っ込んできた。僅かな力を振り絞り、斬り倒す。息の荒さで、戦場の喧騒が曖昧だった。どれほど刀を振るったのか。不意に、周囲から敵が消えた。

「これで、逃げられますな」

 傍で刀の血を払ったのは、ひょろりと立つ益田兼見だった。頬についた返り血を舐め、顔をしかめている。

 刀が、手から零れ落ちた。

 霞が現れたということは、新たに現れた者たちは、南朝の手の者なのだろう。直冬にとっては、殺し合うべき敵だ。だが、腕にはもう力が入りそうにはなかった。

 地面に前から崩れ落ちた。落ち葉が、口に入った。

「直冬殿」

 頭上から聞こえてきた言葉に、直冬はなぜか心が躍るような気がした。これから殺されるというのに、何を考えているのだ。討たれるならば、せめて正面から。

 痛みをこらえて身体を動かすと、薄明りに包まれた空が見えた。東側が、白み始めている。

 綺麗な顔が、視界に映り込んだ。

 出会った時と同じ姿形だ。大徳寺の境内で、寺の僧たちに折檻されていた時、直冬を救おうとした。自分に重なるような身の上が、自分の心を惹きつけているのだと思い込もうとしてきた。敵の王家に連なる血筋。決して相容れることはないと。

 こちらを見下ろす霞の顔を見て、直冬は苦く笑った。

 ただ、この女に惚れている。一人、天下を敵に回すほどの気概を持った霞に、ただ惚れているのだ。声を聴いて心が躍ったのも、そのせいだ。惚れた女に殺されるならば、悪くはない。そう口を開こうとした時、霞の微笑みが目に入った。

「間に合いました」

 安堵するような霞の声を聞いた時、直冬はゆっくりと目を閉じた。

 

 母のぬくもりを、なぜか感じた。それが夢であることも分かっている。母は、十七年も前に殺されたのだ。生きている間も、優しく抱きしめられたことなど一度もない。ならばなぜ、こうも心が温かいのか。

 聞こえてきたのは穏やかな波の音だった。

 柔らかな日差しを、瞼の向こうに感じる。物憂げさを覚えつつも、ゆっくりと瞼を開いた直冬は、茜色の空に流れる雲が、後方へと流れていくことに気づいた。船の上なのだろう。帆を操る威勢のいい声が、聞こえてきた。

「目覚められましたか」

 ふと聞こえてきた声には、喜色が滲んでいる。視線を上に向けると、流れるような黒髪が御簾のようにこぼれ、その中で笑う霞がいた。頭の後ろが柔らかい。それが霞の膝だということに気づいた時、いきなり恥ずかしさが込み上げてきた。

 上半身を起こそうとして、肩の痛みに呻き声を上げた。

「まだ、動かれないでください。思いのほか、肩の傷は深うございます」

「なぜ」

 助けたのだ。口にしかけた言葉を止めたのは、霞の優しげな笑みだった。言葉にするほどのことでもない。言葉にせずとも分かるでしょうと、言われている気になった。

「もうじき、この船は西海道の肥後国河尻へと着きます」

「西海道か」

 呟き、直冬は頭の中に地図を思い浮かべた。この国の中では、北朝と南朝の武士たちが最も激しく争っている地だ。尊氏の腹心である一色道猷が九州探題として大友家や少弐家ら名族を束ね、菊池家を率いる征西将軍宮(懐良親王)と激しく争っている。

 長門探題として、いずれ下向することもあるかもしれないと、直貞が忍びを送り込み、逐一その情勢を報せていた。そう思った時、赤く染まった直貞の姿を思い出した。

「直貞は」

 勢い込んで言った言葉に、霞が口元を隠して笑い声をあげた。

「主従揃って、似たように申されるのですね」

 その言葉の意味を理解した時、身体から力が抜けるように感じた。

「直貞は、なんと?」

「言伝を預かっております。先陣を切ろうとするなと、何度言えばわかるのですかと。今は別の船で寝ておられますが、目を覚ますなり、直冬殿の名を呼び、そう申されておりました」

「四条畷でも、おなじことを言われたな」

「私も、聞きました」

 霞が悪戯げな表情で笑った。

「満身創痍の重傷でございましたが、命は繋いでおります。意識を失っているにもかかわらず、白粉を取ろうとすると必死で抵抗しましたので、四人がかりで羽交い絞めにして落とさせていただきました。今であれば素顔をご覧になれますが、どうされますか?」

 面白がるような霞の言葉に、直冬は息を吐きだし、首を左右に振った。

「どんな顔をしていた?」

「白粉を塗っていることがもったいないほど、綺麗な顔立ちでございましたよ」

 霞の言葉に、微かな妬心を感じて、直冬は笑った。

「いずれ、あいつが死ぬ時でいい」

 霞が、小さく頷いた。

「しばし、お眠りください。握り飯を作って、お待ちしております」

 霞が手ずからつくる朝餉。炊煙の中、腕まくりする霞の姿を思い浮かべ、直冬は頬が緩むのを感じた。

「私は、ここにおります」

 霞の声が耳に響いた時、全身を包み込んだ眠気に、直冬は身を任せた。

 戦を望む者が誰なのか。

 母を殺した戦乱の元凶がなにものなのかを探して生きてきた。東勝寺の無惨な仕打ちに耐えたのは、自らの心を鍛えるためだった。鎌倉を出て、六年。矜持だけしかなかった童の頃と比べれば、多くのものを手に入れたはずだ。戦を望む者と、戦うだけの力と、覚悟はすでにある。

 探し求めていた答えは、もう見つかった。

 

(つづく)